新しい日々
七月二十五日。お母さんと和解してから、五日が経った。
朝、目が覚めるとリビングからいい匂いが漂ってきた。
ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。夏の朝日が差し込み、部屋の隅々まで眩しく照らした。
部屋を出て、リビングへ向かう。
そこにはお母さんがいた。エプロンをつけ、手際よく朝食を作っている。その背中を見た瞬間、胸の奥がじんわり温かくなる。
この光景を、ここ数日、毎朝見ている。
なのに、まだ信じられない。夢みたいだ。
「おはよう、蓮」
お母さんが振り返って微笑む。
「おはよう、お母さん」
私も笑って返す。
「朝ごはん、もうすぐできるわ」
「ありがとう」
テーブルに座ると、次々と料理が並べられていく。ご飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き、サラダ。
お母さんが作った朝食。
この五日間、毎朝そうだった。
「いただきます」
二人で声を揃える。
味噌汁を一口。出汁の香りがふわりと広がり、優しい味が喉を通る。焼き魚も塩加減がちょうどいい。
「美味しい」
そう言うと、お母さんが嬉しそうに目を細めた。
「よかった」
テレビのニュースが流れているけれど、私たちはほとんど見ていない。食卓の会話が、それ以上に大事だった。
「今日、学校で何かあるの?」
「うーん、生徒会の仕事があるくらいかな」
「そう。無理しないでね」
「うん」
心配してくれる。気にかけてくれる。
それが、当たり前みたいに続いていることが、まだ不思議だった。
朝食を終えると、お母さんが私の髪を梳かしてくれた。
鏡の前に座る私の後ろにお母さんが立ち、ブラシをゆっくり通していく。引っかかりを避けるみたいに、丁寧で優しい手つきだ。
「蓮の髪、綺麗ね」
「ありがとう」
鏡越しに、お母さんの顔が見える。やっぱり優しい表情だ。
「お母さん」
「何?」
「今日、遅くなるかも」
「分かったわ。夕飯、作って待ってるから」
「ありがとう」
梳かし終えた髪に手を置いて、お母さんが私の肩を抱く。
「行ってらっしゃい、蓮」
「行ってきます」
私は鞄を持ち、家を出た。
※ ※ ※
学校に着くと、凛音ちゃんが駆け寄ってきた。
「蓮ちゃん、おはよう!」
明るい声が、夏の朝に弾む。
「おはよう、凛音ちゃん」
「ねえねえ、蓮ちゃん」
凛音ちゃんが私の腕を掴む。
「最近、すごく明るいね」
言われて、少しだけ照れくさくなった。
「そうかな?」
「うん。前は、すごく元気なかったもん」
凛音ちゃんが私の顔を覗き込む。
「今は、すごく幸せそう」
私は小さく息を吸ってから、頷いた。
「うん……実はね」
この五日間のことを話した。お母さんと和解したこと。お母さんが変わったこと。朝ごはんを作ってくれること。髪を梳かしてくれること。
凛音ちゃんは目を輝かせながら聞いて、最後に勢いよく抱きしめてくれた。
「よかったね、蓮ちゃん! 本当に、よかった!」
「ありがとう、凛音ちゃん」
私も抱きしめ返す。胸の奥が、あたたかい。
教室に入ると、海斗がもう来ていた。私を見るなり、ふっと表情が緩む。
「おはよう、蓮」
「おはよう、海斗」
隣の席に座ると、海斗が少し身を乗り出した。
「今朝も、お母さんが朝ごはん作ってくれた?」
「うん」
「よかったな」
海斗の手が、軽く私の頭を撫でる。
「毎朝作ってくれるの。夕飯も作ってくれる」
言葉にした途端、目の奥がじんと熱くなる。
「夢みたい」
海斗が私の手を握った。
「夢じゃない。現実だよ」
優しい声が、まっすぐ胸に入ってくる。
「蓮が頑張ったからだ」
「海斗がいてくれたから」
私は握り返した。
「ありがとう」
「どういたしまして」
チャイムが鳴って、授業が始まった。
※ ※ ※
【海斗視点】
昼休み。屋上。
俺と蓮は二人で弁当を広げていた。今日は、蓮の母親が初めて作ってくれたらしい。
「見て、海斗」
蓮が弁当箱の蓋を開けて見せる。
卵焼き、唐揚げ、野菜の煮物、ミニトマト。色も配置も丁寧で、作った人の気持ちがそのまま詰まっているみたいだった。
「お母さんが、初めて作ってくれたの」
蓮の声が、少しだけ震える。
「すごいな」
俺も自然と笑っていた。
「美味しそうだ」
「うん」
蓮は卵焼きを一口食べて、顔をほころばせた。
「美味しい……」
次の瞬間、蓮の目から涙がこぼれる。
「蓮?」
声をかけると、蓮は慌てて涙を拭いた。
「大丈夫。嬉しくて」
言葉が追いつかないみたいに、息が少し揺れる。
「お母さんが、私のために作ってくれたのが……嬉しくて」
俺は蓮の肩を抱いた。
「よかったな」
「うん」
蓮が俺の肩に頭を預ける。
「海斗、ありがとう」
「どういたしまして」
しばらく、二人で弁当を食べ続けた。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「昨日、お父さんから電話があったの」
その言葉に、俺は箸を止めた。
「お父さんから?」
「うん」
蓮が頷いた。
※ ※ ※
【蓮視点・回想】
昨日の夜。部屋で勉強していると、スマホが鳴った。
画面には「お父さん」。
心臓が跳ねた。
お父さんからの電話なんて、何年ぶりだろう。
震える手で通話に出る。
「もしもし……」
「蓮か」
低い声。でも、不思議と柔らかい。
「お、お父さん……」
「お母さんから聞いた。お前と、お母さんが和解したって」
「う、うん……」
「そうか……」
声が少し震えていた。
「お父さんも、お前に謝りたい」
その一言で、涙があふれた。
「お父さん……」
「お前のこと、見放して悪かった。……お前は期待外れなんかじゃない」
優しい声が続く。
「立派な娘だ」
私は泣いた。嬉しくて、息が詰まるほど。
「生徒会長、頑張ってるんだってな」
「うん……」
「すごいな、蓮」
誇らしげな声。
「お父さんは、お前を誇りに思う」
「ありがとう、お父さん……」
「来月、帰る。その時、ちゃんと話そう」
「うん」
「それと、お前の彼氏にも会いたい」
頬が熱くなる。
「お、お母さんから聞いたの……?」
「ああ。春川海斗くん、だっけ」
「うん」
「お母さんが『いい子よ』って言ってた。お父さんも会って話してみたい」
「分かった」
「じゃあ、また連絡する」
「うん」
「おやすみ、蓮」
「おやすみ、お父さん」
通話が切れた後もしばらく、私はスマホを握りしめたまま泣いていた。
嬉しくて、嬉しくて。
※ ※ ※
【海斗視点・現在】
「そうか……」
蓮の話を聞いて、俺は小さく息を吐いた。胸の奥が温かくなる。
「お父さんとも、和解できたんだな」
「うん。来月、会える」
蓮が笑う。その笑顔が、前よりずっと軽い。
「海斗にも会いたいって」
俺は少しだけ緊張した。
「そうか……」
「大丈夫。お母さんが、海斗のこと褒めてたって」
蓮が微笑む。
「お父さんも、きっと認めてくれる」
「ああ」
俺も頷いた。
弁当を食べ終えた頃、蓮がぽつりと言った。
「ねえ、海斗。……幸せだな」
温かい声だった。
「お母さんとも、お父さんとも和解できて。海斗もいてくれて」
蓮の手が、俺の手を握る。
「すごく、幸せ」
「俺も」
俺は蓮を抱き寄せた。
「蓮がいてくれて、幸せだ」
二人で、しばらく抱き合っていた。
※ ※ ※
【蓮視点】
放課後。生徒会室。
今日もミーティングがあった。神崎くん、藤崎さん、野村さん、そしてメンバーたちが揃っている。
「それでは、ミーティングを始めます」
全員を見渡して、私は言った。
夏休みの計画、新学期の準備。確認事項を一つずつ積み上げていく。
「夏休み中も、生徒会室は開けておきます。何かあれば、いつでも来てください」
「はい」
全員が頷く。
報告もスムーズだった。神崎くんは丁寧に要点をまとめ、藤崎さんは広報の進捗をはきはき伝え、野村さんは予算を落ち着いて説明する。
頼もしい。
今の私は、ちゃんとそう思える。
「みんな、ありがとう。これからもよろしくね」
「はい!」
笑顔で返ってくる声が、心に沁みた。
ミーティングが終わり、メンバーが帰っていく。
「鈴波会長、また明日」
「うん、また明日」
ドアが閉まり、室内には海斗と私だけが残った。
「お疲れ様」
海斗が隣に座る。
「うん」
私はそのまま伸びをした。
「最近、生徒会の仕事も楽しい」
言う自分に、少し驚く。
「前はプレッシャーばかりだったけど、今は……みんなと一緒に作り上げていくのが楽しい」
「いいことだ」
海斗が微笑む。
「海斗のおかげだよ」
私は海斗の手を握った。
「いつも支えてくれたから」
「どういたしまして」
頭を撫でられて、胸がほどける。
「これから、もっと楽しくなるぞ」
「うん」
窓の外は夕焼けで、空がオレンジ色に染まっていた。
「そろそろ帰ろうか」
「うん」
二人で生徒会室を出た。
※ ※ ※
駅までの道を、手を繋いで歩く。夏の夕暮れの空気が、少しだけ湿って温かい。
「海斗」
「ん?」
「今夜、お母さんがハンバーグ作ってくれるって」
言うと、海斗が笑った。
「海斗も食べに来ない?」
「いいのか?」
「うん。お母さんも、海斗に来てほしいって」
「じゃあ、お邪魔するよ」
「やった」
私は海斗の腕にしがみついた。
駅に着き、電車に乗る。車内で私は海斗の肩に頭を預けた。
「幸せだな」
声が自然と小さくなる。
「家族がいて、海斗がいて、友達もいて……すごく幸せ」
海斗が、頭を撫でてくれる。
「ああ。これからも、ずっと一緒だ」
「うん」
新しい日々が始まっている。
家族が家族らしくなって、海斗がいて、友達がいて。
人生が、少しずつ光を取り戻していくのが分かる。
その実感を胸に抱いて、私は海斗と一緒に家へ向かった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
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