恋人からの言葉
リビングに重い空気が流れていた。
窓の外の喧騒は微かに届くのに、この部屋だけが別世界みたいに静かだ。時計の秒針だけが規則正しく音を刻む。
鈴波美咲さんが俺を見つめている。まだ警戒はある。値踏みする視線も感じる。けれど以前みたいな氷の冷たさは薄れていた。蓮と話した直後だからだろう。目の奥には疲れと、何かを確かめたい光が残っている。
隣の蓮は背筋を伸ばして座っていた。膝の上で指先が小さく震え、スカートの布を掴んでいる。俺はそっとその手を握った。冷たい。温度がそのまま緊張を語っていた。
蓮が小さく俺を見る。不安と期待が同居した目だ。俺は頷いた。大丈夫だ。
「春川くん」
美咲さんの声はいつもより柔らかい。それでも試す響きが残っている。
「はい」
俺は背筋を伸ばし、正面から視線を受け止めた。
「あなた、蓮のことを愛してると言ったわね」
真剣な声だった。逃がさない意志がある。
「はい。蓮を愛してます」
言い切ると、言葉が部屋の静けさに吸い込まれていく。
美咲さんが目を細める。こちらの芯を測っている。
「では聞くわ。あなたは蓮を幸せにできるの?」
想定していた質問だ。いつか必ず来ると分かっていた。
俺は深呼吸した。胸の奥まで空気を入れて、ゆっくり吐く。心を整える。
「はい。俺は蓮を幸せにします」
眉がわずかに動く。
「根拠は?」
鋭い。弁護士の声だ。相手の足場を崩すための問い方。
「あなた、成績は中の上。大学の目標もまだない。そんなあなたがどうやって蓮を幸せにするの?」
疑いが視線に残っている。
蓮が俺の手を強く握った。震えが伝わる。心配させたくない。
俺はもう一度息を吸った。逃げずに返す。
「美咲さん。俺の成績が中の上なのは事実です。大学の目標も、まだはっきりしてません」
否定しない。受け止めた上で進む。
「でも、それが何ですか」
声に力が入る。
「成績や大学が、人の価値を決めるんですか」
美咲さんの目がわずかに見開かれた。
「人を幸せにする力は、成績や学歴で測れるものじゃない」
ここからは譲れない。
「美咲さん、あなたは優秀な弁護士です。社会的な地位もある。お金もある」
事実を並べる。相手が誇りにしてきた土俵をあえて踏む。
「東大を出て、司法試験にも一発合格した。誰もが認める優秀な人です」
一拍置く。
「でも、それで蓮は幸せでしたか」
美咲さんが息を呑んだ。空気がさらに重くなる。
「蓮はずっと苦しんでました。あなたに認めてもらえなくて苦しんでました」
言葉を丁寧に置く。責めるためじゃない。事実を突きつけるためだ。
「選挙の時、蓮は倒れました。プレッシャーに押しつぶされそうになって倒れた」
あの場面が蘇る。胸の奥が痛む。
「なぜだと思いますか」
美咲さんは答えられない。
「蓮はあなたに認めてもらいたかったんです。『お母さんに認めてもらえるような人間になりたい』って、ずっと」
美咲さんの頬に涙が落ちた。
「でも、認めてもらえなかった。どれだけ頑張っても」
俺は言い方を抑えた。刺すためじゃなく届かせるために。
「蓮が欲しかったのは、お金でも地位でもない。温もりです。愛です」
俺の声が少し柔らかくなる。
「『よく頑張ったね』『偉いね』『すごいね』。そんな簡単な言葉です」
簡単なのに、蓮にとっては遠かった言葉。
「でも、美咲さんは一度も言わなかった」
美咲さんの肩が震える。膝の上で手が固く握られている。
「俺は蓮にそれを渡せます。蓮の努力も頑張りも、全部認めます」
握った手に力を込める。
蓮が小さく嗚咽を漏らした。胸が締め付けられる。
「生徒会長になった時、俺は心の底から誇りに思いました」
言葉に温度を乗せる。
「選挙で勝った時、泣きながら喜んでた姿を覚えています。文化祭を成功させた時、全校の前で挨拶した姿にも感動した」
あの声の震え。最後まで話し切った背中。
「その時、俺は思った。『この人と一緒にいられて幸せだ』って」
蓮がまた泣いた。俺は視線を美咲さんに戻す。
「蓮が泣く時、俺はそばにいました。選挙の時も、家で傷つけられて帰ってきた時も」
声が少し震える。
「それが俺にできることです」
そして、言うべき問いを置く。
「美咲さん。あなたは蓮に、それができましたか」
美咲さんの顔が歪む。返せない。
俺は立ち上がった。視線の高さが変わって、蓮が小さく息を呑む。
「美咲さん、あなたは間違ってました」
断言する。ここは曖昧にしない。
「幸せは成績や地位で決まらない。幸せは、愛する人がそばにいることです」
言葉が静かな部屋に響く。
「支え合うこと、認め合うこと、励まし合うこと。手を繋ぐこと、抱きしめること、『愛してる』と言えること」
美咲さんの目が揺れる。
「蓮はそれを求めてた。なのに、与えられなかった」
俺は息を整えて続けた。
「否定し続けた。『期待外れ』『恥ずかしい』『失格だ』って」
美咲さんが顔を覆う。嗚咽が漏れた。
「蓮は毎晩泣いていました。『お母さんに認めてもらえない』って」
俺の目からも涙が落ちる。
「『私、何をすればいいの』って聞いてきた。俺はその度に抱きしめて、『大丈夫だ』って言った」
でも、蓮は信じ切れなかった。
「『認められない私は価値がない』って思い込んでた。そこまで追い詰められてた」
美咲さんが声を上げて泣いた。
「ごめんなさい……」
その声が震える。
俺は立ったまま、言葉を落とすように続けた。
「だから誓います。俺は蓮を否定しない。失敗しても支える。泣いたら抱きしめる。笑ったら一緒に笑う」
胸に手を当てる。
「それが俺の愛です。俺は蓮を幸せにします。学歴じゃない。愛で幸せにします」
美咲さんが泣き崩れそうになる。
それでも最後に、もう一つだけ。
「美咲さん。あなたも変わってください」
真正面から言う。
「蓮を認めてあげてください。抱きしめてあげてください」
声が懇願に近づく。でも弱くはしない。
「『よく頑張ったね』『お母さんは誇りに思う』って。蓮は待ってるんです。十七年間ずっと」
美咲さんは泣き続けた。肩が大きく震えている。
「私が間違ってた……全部、間違ってた……」
そして蓮を見る。
「蓮、本当にごめんなさい」
「お母さん……」
蓮が立ち上がって駆け寄った。美咲さんが強く抱きしめる。何度も背中を撫でる。そこには確かに温度があった。
「愛し方を間違えてた。……本当は誇りに思ってたの」
蓮が泣きながら頷く。
俺はその光景を見つめた。胸が熱い。涙が止まらない。
美咲さんが蓮を抱きしめたまま、俺を見る。目に感謝が宿っている。
「春川くん」
「はい」
俺は袖で涙を拭いた。
「ありがとう。あなたの言葉で目が覚めた」
美咲さんが息を整えながら言う。
「私は母親として何もできてなかった。娘を傷つけるだけだった」
そして深く頷いた。
「でも、これからちゃんと母親になる。蓮を愛する母親になる」
蓮が嬉しそうに泣いた。
美咲さんが俺をまっすぐ見る。今度は弁護士の目じゃない。母親の目だ。
「春川くん。あなたに蓮を託します。幸せにしてあげてください」
「はい。必ず幸せにします。約束します」
美咲さんが微笑んだ。ようやく見た、本物の笑顔だった。
「それじゃ、三人で夕飯を食べましょう。私が作るわ」
蓮の目が輝く。
「本当に?」
「ええ。母親として、娘に料理を作ってあげたいの」
蓮が泣きながら抱きつく。
「ありがとう、お母さん」
俺はその隣で、まだ涙の残る顔のまま笑った。
やっと家族が、家族になろうとしている。
俺は深く息を吸った。ここから先は、守るだけじゃない。育てていく時間だ。




