母と娘の対話
【蓮視点】
お母さんが深くため息をついた。長くて重い息だった。その一息に、積み重なった年月が沈んでいるように感じた。
「そう……」
声の温度が変わった。いつもの氷が、わずかにゆるむ。溶けるというより、ひびが入った程度。それでも私には大きかった。
お母さんはソファに深く座り直す。背もたれに身体を預け、肩の力が少し抜ける。膝の上で組んだ指が、かすかに震えていた。
「蓮、座りなさい」
指差しは命令というより、落ち着かせるための合図に近かった。
「はい……」
私は頬を拭いながら向かいのソファに座った。涙は止まらない。拭っても拭っても、じわりと滲む。
テーブルを挟んだ距離は変わらない。なのに、今までより近く感じる。お母さんの顔を、こんなふうに正面から見るのはいつぶりだろう。
目尻に細いしわがある。口元にも影がある。完璧に見えた輪郭に、疲れが混じっている。
――お母さんも年を取ったんだ。
そんな当たり前の事実が、胸の奥に静かに落ちた。
沈黙がリビングを満たす。秒針の音が規則正しく響く。外では車の走る音が遠くに流れ、どこかで笑い声が弾んでいた。日常の音だけが、薄い膜みたいにこの部屋を包む。
私の心臓はうるさいほど鳴っている。呼吸が浅くなるのを、必死に抑えた。
お母さんは私を見ていた。責める目ではない。測るような目でもない。ただ、何かを整理するみたいに静かだった。
「蓮、私があなたに厳しくしてきたのは……」
声に感情が混じる。わずかに震えている。私は息を飲んだ。
「あなたに幸せになってほしかったからよ」
言葉の意味が、すぐには脳に入らなかった。耳だけが拾って、遅れて心が追いつく。
「……え?」
思わず声が漏れる。信じられない。お母さんが、私の幸せを口にするなんて。
「この世界は厳しいの」
お母さんの視線が窓の外に向く。見ているのは外じゃない。もっと遠い過去だ。
「女性が社会で生きていくのは、本当に大変。私はそれを知ってる。身をもって経験してきた」
膝の上の手が強く握られる。指が白くなるほど。
「私が弁護士になるまで、どれだけ苦労したか。男性ばかりの場所で認められるために、どれだけ努力したか」
お母さんの声が揺れる。きっと、記憶を噛みしめている。
「何度も馬鹿にされた。何度も見下された。『女のくせに』『女には無理だ』……そういう言葉を、何度聞いたか」
涙が一筋、頬を伝って落ちた。お母さんが泣いている。その事実だけで、視界がぐらついた。
「だから、あなたには……私以上に強くなってほしかった。私みたいに苦労してほしくなかった。悔しい思いをしてほしくなかった」
言葉が小さくなる。けれど重さは増していく。
「だから厳しくした。あなたを強くするために厳しくした」
頭が真っ白になる。心配? 幸せ? そんな言葉は、私が欲しかった“認める言葉”とは違うはずなのに、胸の奥が痛くて仕方なかった。
私は唇を噛んだ。泣き声にしたくなくて、必死に息を整える。
「でも、お母さん……」
喉が詰まって、声がかすれる。
「私、認めてもらえないことが一番つらかった。『頑張ったね』って言ってほしかった。『よくできたね』って褒めてほしかった。『誇りに思う』って……言ってほしかった」
涙が落ちる。顎から、膝へ。止まらない。
「なのに、お母さんはいつも否定した。『期待外れだ』『恥ずかしい』『娘として失格だ』って……私の努力を全部、切り捨てた」
お母さんの顔が歪む。苦しそうに眉間が寄る。目から涙が止まらなくなっている。
「私は……」
震える声がこぼれる。
「褒め方を知らなかったの」
胸が跳ねた。そんな理由があるのか、と。
「私の母も、私を褒めなかった。どれだけ頑張っても『これくらい当然』『もっと頑張れ』そればかり。だから私も……どうやって子供を褒めればいいのか分からなかった。どうやって愛を伝えればいいのか……分からなかった」
お母さんの涙は、もう隠せていない。私は初めて見た。お母さんが、こんなに泣くところを。
「蓮」
濡れた目で、私を見る。
「私は、あなたを愛してる」
胸が跳ねる。言葉が、耳の奥で反響する。
「本当よ。ずっと、ずっと愛してた。あなたが生まれた時、初めて抱いた時……小さくて温かくて。『この子を幸せにしたい』そう思った」
声が優しい。今まで聞いたことのない優しさだった。
「でも、愛し方が分からなかった。厳しくすることしかできなかった。否定することしかできなかった」
お母さんは顔を覆い、肩を大きく震わせる。
「ごめんなさい、蓮。本当にごめんなさい」
深く頭を下げる。その姿が、信じられなくて、私はしばらく動けなかった。
けれど、身体が勝手に立ち上がる。足が震える。それでも一歩ずつ近づく。
「私も……ごめんなさい」
声が震える。
「お母さんの気持ち、分かろうとしなくて。苦しんでたのに……」
言葉がほどける。泣きながら、私はお母さんを抱きしめた。
最初は硬直する。背中の筋肉が固い。けれど少しずつ力が抜けていく。そして、お母さんも腕を回してくる。強く、強く。
――温かい。
心臓の音が伝わる。生きている音。人の音。
「蓮……」
背中を撫でる手が、何度も上下する。
「ごめんね……本当に、ごめんね……」
時間の感覚がなくなる。ただ、温もりだけが残る。壁が崩れていく感覚が、肌に近いところで分かる。
しばらくして、お母さんがゆっくり言った。
「蓮、あなたが生徒会長になったこと……本当は誇りに思ってたの」
私は思わず顔を上げた。
「……本当に?」
「ええ」
涙で赤い目が、優しく揺れる。
「あなたが壇上で挨拶してる姿、ニュースで見た。すごく立派だった。『私の娘が、こんなに立派になった』って思った」
頬を撫でる手が、少しだけ不器用で、それが逆に優しかった。
「文化祭も成功させたって聞いた。近所の人に『素晴らしい生徒会長ね』って言われた時、すごく嬉しかった」
頭を撫でられる。何度も。何度も。
「すごいわね、蓮」
胸の奥が満たされていく。ずっと欲しかった言葉が、ようやく届く。
「よく頑張ったわね。私の娘として、誇りよ」
私は声を上げて泣いた。嬉しくて、痛くて、息ができないくらいで。
「ありがとう……お母さん……」
泣きながら抱きつくと、お母さんの手がまた背中を撫でた。温もりが、ゆっくりと心をほどいていく。
しばらくして、私は涙を拭って顔を上げた。お母さんも泣いている。でも表情は柔らかい。
「お母さん」
「何?」
「海斗のこと……彼のことも話したい」
言った瞬間、お母さんの表情が少し曇る。やっぱり、と胸が痛む。
「あの男のこと……」
声に冷たさが戻りかける。
私は息を整えて続けた。今度は逃げない。
「海斗はすごくいい人なの。私をいつも支えてくれた。つらい時、そばにいてくれた。選挙の時も文化祭の時も……お母さんに認めてもらえなくて苦しかった時も」
言葉が熱を帯びる。胸の奥の本音が、こぼれていく。
「海斗は私を認めてくれた。『頑張ったね』『すごいね』『蓮は素晴らしい』って。だから私、頑張れた」
涙がまた滲む。
「だから……お母さんにも、海斗を認めてほしい」
お母さんは黙って聞いていた。表情は複雑だ。けれど拒絶ではない。
長い沈黙のあと、お母さんが口を開く。
「蓮、あの子があなたを支えてくれてるのは分かる。あなたの話で、分かった」
手が重なる。温かい。
「でも、まだ……完全には信用できない」
胸が痛む。けれど、ここで折れたくない。
「ごめんね、蓮。でも母親として、あなたの将来が心配なの。彼が本当にあなたを幸せにできるのか……それを確かめたい」
その言葉には、ちゃんと“私への愛”があった。冷たさじゃなくて、怖さでもなくて。
その時、インターホンが鳴った。
ピンポーン。
音がリビングに響く。時計を見ると午後一時。
――海斗だ。
心臓が跳ねる。
「誰?」
お母さんが聞く。
「海斗……今日、来る約束してたの」
私はお母さんの手を握った。
「お母さん、海斗と話してくれない? ちゃんと話を聞いてほしい。お願い」
お母さんは少し考えた。沈黙が落ちる。
そして小さく頷く。
「分かったわ。話を聞いてあげる」
胸の奥がほどけた。
「ありがとう、お母さん」
私は立ち上がって玄関へ向かった。足が震える。でも、今の震えは怖さだけじゃない。
モニターに海斗が映っている。私はドアを開けた。
海斗が心配そうに立っていた。
「蓮、大丈夫か?」
「うん」
私は微笑んだ。涙の跡を拭って、ちゃんと顔を上げる。
「お母さんと話せた」
海斗の表情が明るくなる。
「本当か?」
「うん。お母さん、少し変わった」
「よかった」
頭を撫でる手が優しい。
「海斗、お母さんが……海斗とも話したいって」
海斗の表情が引き締まる。
「分かった」
目が決意に満ちる。私はその手を握り返した。
「大丈夫。さっきより優しいから」
「ああ」
二人でリビングへ向かった。廊下を歩く間、手の温度が支えになる。
リビングに入ると、お母さんがソファに座っている。目が赤い。泣いた後の顔だ。
「お母さん、海斗です」
私が紹介する。
「初めまして……いえ、以前お会いしましたね」
海斗が丁寧に頭を下げる。動作が落ち着いている。礼儀もある。
「ええ。春川海斗くん」
お母さんの声は、前より柔らかい。
「座りなさい」
ソファを指す。
海斗が私の隣に座った。私はそっと手を握る。海斗の指が少し震えている。私も同じくらい緊張している。
ここからが本番だ。
お母さんと海斗が目を合わせる。海斗も逸らさない。
リビングに静寂が広がる。秒針の音だけが、規則正しく響いていた。
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