覚悟
その夜。海斗の部屋。
私は海斗のベッドに腰掛けていた。窓の外には夜景が広がっている。ビルの明かりが点々と瞬いて、遠い車のライトが細い線になって流れていく。けれど、その景色は目に入ってこなかった。
頭の中は、お母さんのことで埋め尽くされている。
冷たい目。言葉。息が詰まるような空気。その全部が、今も胸の奥に刺さったままだ。
「蓮」
海斗が隣に座った。ベッドが少し沈む。布団の上に、彼の温度が増える。
「ん?」
「大丈夫か?」
心配そうな声。
「うん……」
小さく返す。けれど大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃない。
「蓮」
海斗が私の手を握る。指先まで、ちゃんと温かい。
「無理するな」
「ごめんね……」
涙が溢れそうになる。喉の奥が熱い。
「海斗に、迷惑ばかりかけて」
「迷惑じゃない」
海斗の声が強くなる。言い聞かせるように、でも揺れない。
「何度も言うけど、俺は蓮の味方だ」
その言葉で、堪えていたものが崩れた。涙が溢れる。
「ありがとう……」
私は海斗の胸に顔を埋めた。シャツの匂いがする。落ち着く匂い。
しばらく、海斗が抱きしめてくれていた。背中を撫でる手が、ゆっくりと呼吸を整えてくれる。
やがて私は顔を上げた。目の周りが熱い。
「海斗」
「ん?」
「私……決めた」
声に少しだけ芯が入る。自分でも分かる。
「何を?」
「お母さんと、ちゃんと話す」
私の言葉に、海斗の表情が変わった。驚きと、安堵と、心配が混ざった顔。
「蓮……」
「今まで、逃げてた」
声が震える。でも、止めない。
「お母さんが怖くて、何も言えなかった」
私はシーツを握りしめる。指先に力が入る。自分を繋ぎ止めるみたいに。
「でも、もう逃げたくない」
私は海斗を見つめた。
「ちゃんとお母さんに伝えたい。私の気持ちを」
海斗は少し考え、ゆっくり頷いた。
「分かった」
声が優しい。
「でも、一人で行くのか?」
「うん……最初は」
私は頷く。怖い。でも、最初は逃げずに立ちたい。
「まず私が一人でお母さんと話す」
「そうか……」
海斗が頭を撫でる。指が髪を梳く感触が、心を落ち着かせる。
「でも、海斗にも、後で来てほしい」
少しだけ甘える。頼ることを許す。
「私だけじゃ、きっと……お母さんを説得できない」
涙がまた溢れる。
「だから、海斗の力も借りたい」
「ああ」
海斗が抱きしめてくれる。
「もちろんだ」
声が力強い。
「蓮と一緒に、お母さんと向き合う」
胸が温かくなる。
「ありがとう……」
私は海斗の胸で泣いた。
※ ※ ※
【海斗視点】
翌日。七月二十日。土曜日。
朝、蓮と一緒に起きた。
蓮の表情がいつもと違う。迷いが少ない。顔色はまだ万全じゃないのに、目だけが前を向いている。
「海斗」
「ん?」
「今日、お母さんと話してくる」
声がはっきりしている。
「ああ」
俺は頷く。
「俺も一緒に行く」
「ううん」
蓮が首を横に振る。視線は逸らさない。
「最初は、私一人で」
覚悟だ。
「でも、後で来てほしい」
「分かった」
俺は蓮の手を握った。
「何時頃がいい?」
「お昼過ぎかな……一時くらい」
「分かった。一時に蓮の家に行く」
「ありがとう」
蓮は微笑んだ。けれど、その笑顔の裏に不安が透ける。唇が少し硬い。
朝食を済ませて、母に挨拶した。
「行ってらっしゃい、蓮ちゃん」
母が蓮を抱きしめる。背中を軽く叩いて、送り出す抱擁だ。
「頑張ってね」
「はい」
蓮が小さく頷く。
玄関で蓮を見送った。
「蓮、無理するなよ」
「うん」
蓮が振り返る。
「でも、やるしかないから」
目が決意に満ちている。
「一時に、待ってるね」
「ああ」
俺は蓮にキスをした。軽く、優しく。
「頑張れ」
「うん」
蓮が歩き出す。その背中を見送りながら、俺は祈った。
どうか、蓮が折れませんように。
※ ※ ※
【蓮視点】
お昼前。私は自分のマンションの前に立っていた。
夏の空気は湿っているのに、指先だけが冷たい。心臓が激しく鳴る。鼓動のせいで、胸元が小さく揺れるのが分かる。
でも、行かなきゃ。
私は深呼吸をした。ひとつ、ふたつ、みっつ。
エレベーターに乗る。階数ボタンを押す。機械の音と一緒に、身体が上へ引っ張られる感覚がする。
自分の階に着いた。ドアが開く。廊下の明かりは白くて冷たい。
一歩一歩、歩く。床が硬い。足音が響く。
自分の部屋のドアが見えてくる。
鍵を取り出した。手が震える。
でも鍵穴に入れる。カチャリと音がする。音が大きく感じて、肩が跳ねる。
ドアを開ける。
「ただいま……」
声が震える。
リビングから声が返ってくる。
「おかえり」
冷たい声。いつもの温度。
私はリビングへ向かった。
お母さんがソファに座っていた。今日はスーツじゃなく普段着だ。けれど雰囲気は変わらない。資料がテーブルに揃えられ、部屋の空気が仕事の匂いをしている。
「お母さん」
私が声をかける。
「何?」
顔を上げる。視線がまっすぐ刺さる。
「話が、あります」
震える。でも、はっきり言う。
「話?」
眉がひそめられる。
「また、あの男のこと?」
「それも、あります」
私はお母さんの前に立った。逃げ場がない位置。立つだけで、膝が震える。
「でも、それだけじゃなくて」
手を握りしめる。爪が掌に食い込む。
「私のことも、話したい」
「あなたのこと?」
お母さんが立ち上がる。圧が増す。
「何を話すの?」
「私の……気持ちを」
声が震える。
お母さんは私を見下ろす。その目は冷たいまま。
「いいわ。聞いてあげる」
ソファに座り直す。
「話しなさい」
私は立ったまま深呼吸をした。肺が痛い。けれど止めない。
そして、話し始めた。
「お母さん、私、ずっと苦しかった」
声が震える。
「小さい頃から、ずっと」
涙が溢れそうになる。でも堪える。ここで崩れたら終わる気がした。
「お母さんは、いつも私に『お母さんみたいになれ』って言った」
「『優秀になれ』『完璧になれ』って」
手が震える。
「でも、私は……お母さんみたいになれなかった」
涙が溢れた。
「何をやっても、お母さんには及ばない」
息が苦しい。
「勉強も、スポーツも、何もかも」
涙が頬を伝って落ちる。
「だから、お母さんは私を認めてくれなかった」
声が震える。
「『お前は期待外れだ』『お前は私の娘として恥ずかしい』って」
涙が止まらない。
「そんな言葉を、何度も何度も言われた」
身体が震える。
「私、どうすればよかったの?」
声が思わず強くなる。
「どうすれば、お母さんに認めてもらえたの?」
涙が床に落ちる。
「私、頑張ったよ。ずっと、ずっと頑張った。生徒会長にもなった。文化祭も成功させた」
私はお母さんを見つめる。
「でも、お母さんは『そんなもの、何の意味がある』って言った」
涙が止まらない。
「私の努力を、全部否定した」
声が震える。
「私、悲しかった。すごく、悲しかった」
肩が揺れる。
「お母さんに、認めてもらいたかった」
「『よく頑張ったね』って、言ってもらいたかった」
声が切ない。
「でも、お母さんは……一度も、言ってくれなかった」
私はお母さんの前に膝をついた。床が冷たい。膝が痛い。
「お願い、お母さん」
懇願する声になる。
「私を、認めて」
涙が止まらない。
「私は、お母さんみたいにはなれないかもしれない」
「でも、私は私なりに、頑張ってる」
見上げる。
「それを、認めてほしい」
言葉がリビングに残る。空気が動かない。
お母さんは黙っていた。表情は変わらない。冷たいまま。
長い沈黙。
やがて、お母さんが口を開いた。
「蓮」
いつもより、少しだけ柔らかい声。
「あなた、本当にそう思ってたの?」
「はい……」
声が小さい。
「私が……あなたを認めてないと」
「はい」
涙が溢れる。
お母さんが、ため息をついた。
「そう……」
お母さんの声が、少し変わった。
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