破滅の寸前-母親の脅威-
放課後。生徒会室。
蓮と俺は他のメンバーより少し早く来ていた。部屋は静かで、開けた窓から風が入ってくる。夕日が机の端を薄く照らし、長い影が床に伸びていた。
「海斗」
蓮が小さく呟く。視線は机の一点に落ちたまま。
「ん?」
「みんなに、何て説明すればいいかな」
不安そうな声だった。指先が机の端をなぞる。触れているだけなのに、落ち着こうとしているのが分かる。
「正直に話さなくていい」
俺は蓮の肩に手を置いた。熱はない。けれど、骨の奥が冷えているみたいに細い。
「体調が悪かったって、それだけでいい」
「でも……嘘になっちゃう」
蓮が俺を見る。罪悪感が滲んだ目だった。
「嘘じゃない」
俺は言い切った。
「心の体調が悪かった。それは事実だろ」
蓮は少し考えてから、ゆっくり頷く。
「そうだね……」
その時、ドアがノックされた。
「失礼します」
神崎の声。ドアが開き、神崎、藤崎、野村が入ってくる。三人の目が、まず蓮に向いた。
心配そうな表情。とくに神崎は足を止めるようにして蓮を見た。
「鈴波会長」
神崎が近づいてくる。
「大丈夫ですか? 心配してました」
「ごめんなさい、神崎くん」
蓮が深く頭を下げる。その動きが、いつもより慎重で弱い。
「心配かけて」
「いえ、大丈夫です」
神崎が首を横に振る。
「体調、よくなりましたか?」
「うん……少しだけ」
蓮の声は小さい。言い終わった後に、息を一つ飲み込むのが見えた。
「無理しないでくださいね」
藤崎も静かに言う。野村も頷いた。
「はい」
蓮は微笑もうとする。形は笑顔なのに、目元が追いついていない。俺だけがそれに気づく。
「それでは、ミーティングを始めましょう」
蓮が全員を見渡す。
生徒会長としての蓮。背筋を伸ばした姿が戻ってきている。
でも分かる。無理をして立っているだけだ。
※ ※ ※
【蓮視点】
ミーティングが進んでいく。
夏休みの計画、新入生のフォロー、次のイベントの準備。項目を一つずつ確認していく。資料をめくる音が静かな部屋に響く。
神崎くんの報告、藤崎さんの報告、野村さんの報告。みんなが自分の役割を迷いなくこなしている。
「ありがとう、みんな」
私は頭を下げた。
「私が休んでる間も進めてくれて」
「当然ですよ」
神崎くんが微笑む。
「僕たち、チームですから」
胸の奥が少し温かくなる。だけど同時に、申し訳なさも湧く。支えられているのに、私はまだ震えている。
ミーティングが終わり、メンバーたちが帰っていく。
「鈴波会長、また明日」
「うん、また明日」
ドアが閉まる。空気が一段静かになって、時計の針の音が目立った。
部屋には海斗と私だけが残る。
「お疲れ様」
海斗が隣に座る。椅子がきしむ小さな音がした。
「うん……」
私は座ったまま息を吐いた。肩の力が抜ける。
「疲れた?」
「少しだけ」
正直に答える。
「でも大丈夫。みんなの顔を見たら少し元気が出た」
「そうか」
海斗が頭を撫でてくれる。指先の温度が優しい。
「蓮、今夜も俺の家に来るんだろ?」
「うん」
頷くと安心が増える。でもすぐに、別の感情が喉の奥に引っかかった。
「でも、その前に……」
声が小さくなる。
「家に荷物を取りに帰らなきゃ」
その瞬間、海斗の表情が変わった。優しさの奥に、警戒が立ち上がる。
「一緒に行く」
「でも……」
「いいから」
声が強い。拒めない強さ。
「お母さんがいるかもしれないだろ」
心臓が跳ねた。頭の中に、冷たい声が蘇る。
怖い。
「大丈夫だ」
海斗が手を握ってくれる。
「俺がそばにいる」
その温もりが、私の呼吸を少しだけ整えてくれた。
「うん……ありがとう」
二人で学校を出た。
※ ※ ※
【海斗視点】
夕方。蓮のマンション。
エレベーターに乗る。箱の中に閉じ込められたみたいな静けさ。上がっていく振動が、蓮の不安を増幅させているようだった。
蓮の手が震えている。俺はその手を強く握る。逃げ場を作るためじゃない。ここにいていいと伝えるためだ。
「大丈夫だ」
蓮は小さく頷く。でも顔色が青い。唇の色が薄い。
エレベーターが止まり、ドアが開く。廊下は冷房が効きすぎたみたいに冷たい。蓮の足取りが重い。靴音がいつもより小さく聞こえる。
部屋のドアに着く。蓮が鍵を取り出す。指が震えて鍵穴を探す。
鍵が入らず、カチャカチャと乾いた音が続く。
「蓮」
俺は蓮の手を包んだ。
「落ち着いて」
「うん……」
蓮は深呼吸をする。肩が上下して、少しずつ震えが収まる。
やがて鍵が入る。カチャリ。
ドアを開ける。
玄関に母親の靴はない。胸の奥が少し緩んだ。
蓮も力が抜ける。
「よかった……お母さん、いない」
声が安堵で揺れる。
「ああ」
二人でリビングに入る。整いすぎている部屋。綺麗なのに、温度がない。空気が硬い。
蓮が自室へ向かう。俺も続く。
甘い匂いのする部屋。でも今日は違う。香りの奥に、息苦しさが混じっている。
蓮がバッグに荷物を詰め始める。制服、下着、化粧品。丁寧なのに、どこか急いでいる。指先が滑ってファスナーが噛む。
「これで、いいかな」
蓮がバッグを持ち上げる。
「ああ」
俺は頷いた。
その時、玄関のドアが開く音がした。
蓮の顔色が一気に抜ける。
「お母さん……」
震えた声。
ヒールの音が近づく。規則的で、無駄がない。足音だけで威圧がある。
「蓮?」
冷たい声。
次の瞬間、部屋のドアが開いた。
母親が立っている。スーツ姿。視線が真っ直ぐで、感情の温度がない。
「何してるの?」
目がバッグに落ちる。
「荷物をまとめて……」
蓮の声が小さい。
「どこに行くつもり?」
鋭い声。
「友達の家に……」
「友達?」
視線が俺に刺さる。
「また、その男の家?」
侮蔑が混じった言い方。言葉そのものが刃だ。
「はい……」
蓮の声が震える。
「馬鹿なことを」
一歩前に出て、蓮を見下ろす。
「お前、そんなことして何になるの?」
蓮の肩がすくむ。息が浅くなるのが分かる。
「私……」
「その男の家に入り浸って勉強はどうするの。将来はどうするの」
容赦がない。言葉が止まらない。相手を黙らせる勢いで畳みかける。
「お前、本当に考えが甘いわね」
蓮の目が潤む。
「お母さん……」
「黙りなさい」
一刀で切る声。
「お前は私の娘なのよ。もっと、しっかりしなさい」
そして俺を見る。
「あなたも、いい加減にしなさい」
鋭い視線。
「蓮を甘やかすのはやめなさい」
「甘やかしてません」
俺は落ち着いた声を選んだ。怒りを見せたら、蓮が縮む。
「俺は蓮を支えてるだけです」
「支える?」
冷たく笑う。
「あなたみたいな男に何ができるの?」
俺を侮辱しながら、蓮を刺している。蓮の表情がさらに弱くなる。
俺は一度、息を吸った。ここで引いたら、蓮はまた一人になる。
「俺は、蓮を愛してます」
静かに言い切る。
「そして守ります」
「愛?」
鼻で笑う。
「そんなもの、何の役にも立たないわ」
背を向ける。
「勝手にしなさい。でも後悔しても知らないわよ」
言い捨てて出ていく。遠ざかる足音が廊下に吸い込まれていく。
残ったのは沈黙だけだった。
蓮が崩れ落ちる。
「海斗……」
泣き声が小さく、震えている。
「もう、嫌だ……」
涙が止まらない。
「お母さんに何を言っても……無駄なの」
身体が震えている。冷えていくみたいに。
「蓮」
俺は抱きしめた。背中に手を回し、呼吸のリズムを合わせる。
「大丈夫だ」
蓮は俺の胸で泣く。
「ごめんね……また、海斗に……」
「謝るな」
頭を撫でる。髪が少し湿っている。汗なのか涙なのか分からない。
「俺は蓮の味方だ」
その言葉で、蓮は声を上げて泣いた。肩が小刻みに揺れる。
しばらく抱きしめ続けた。壊れないように、でも逃げないように。
やがて泣き声が小さくなった。呼吸が少しずつ整う。
「行こう」
俺は蓮を立たせる。
「うん……」
蓮はバッグを持った。
二人でマンションを出た。
※ ※ ※
【蓮視点】
海斗の家に着いた時、私はもうボロボロだった。足が鉛みたいで、玄関の段差がやけに高く感じる。
桜子さんが出迎えてくれた。
「蓮ちゃん……」
私の顔を見た瞬間、表情が変わる。心配が一気に滲む。
「どうしたの? 泣いてたの?」
桜子さんが抱きしめてくれる。エプロンの匂い。温かい家の匂い。
「桜子さん……」
私はまた泣き出した。
「お母さんが……また……」
声が震えて、言葉が途切れる。
「大丈夫よ」
桜子さんの声が優しい。
「ここは蓮ちゃんの家でもあるのよ」
その言葉で涙が増えた。胸の奥がほどけるのに、痛みも一緒に出てくる。
「いつでも、ここに来ていい」
背中を撫でられる。ゆっくりと、落ち着く速さで。
「ありがとうございます……」
私は桜子さんの胸で泣き続けた。
海斗も肩を抱いてくれる。二人の温もりが、私の身体の冷たさを少しずつ溶かしていく。
リビングに入ると夕食が用意されていた。湯気が立っている。温かい色の料理が並んでいる。
「さあ、食べましょう」
桜子さんが微笑む。
三人でテーブルを囲む。
でも食欲がない。箸を持っても手が止まる。口に運んでも味が遠い。
「蓮ちゃん、少しでいいから食べて」
桜子さんが優しく言う。
「はい……」
私は少しだけ口に運んだ。
温かい味。優しい味。なのに、頭の中に別の声が響く。
『お前、本当に考えが甘いわね』
『そんなもの、何の役にも立たないわ』
心が何度も刺される。
「蓮ちゃん」
桜子さんが私の手を握る。
「お母さんのこと、考えてるの?」
私は目を伏せる。
「はい……」
「お母さんの言うこと、気にしなくていいのよ」
桜子さんの声が静かに染みる。
「蓮ちゃんは十分頑張ってる」
まっすぐな目で見てくれる。
「私は、蓮ちゃんを誇りに思うわ」
涙が溢れた。
「桜子さん……」
声が震える。
「ありがとうございます……」
桜子さんが抱きしめてくれる。海斗も肩を抱く。二人の温もりが、私の心を少しずつ癒していく。
それでも心の奥底には、まだお母さんの言葉が残っている。
消えない影みたいに、私を苦しめ続ける。
どうすれば、この苦しみから解放されるのだろう。
答えは、まだ見えない。
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