束の間の安らぎ
翌朝。朝六時。
俺は蓮の寝息で目が覚めた。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。柔らかな光が部屋をオレンジ色に染めていた。
蓮はまだ俺の腕の中で眠っていた。寝顔は穏やかで、眉間にしわもない。口元がわずかに緩んでいる。昨夜、ようやく安心して眠れたのだろう。
枕に広がった髪を、俺はそっと撫でた。指先にサラサラとした感触が伝わる。触れているだけで呼吸が落ち着く気がした。
蓮の目がゆっくり開く。最初はぼんやりしていたが、やがて焦点が合ってくる。
「おはよう……」
眠そうで、少し掠れた声。
「おはよう」
俺が微笑むと、蓮も小さく笑った。昨日までとは違う。ほんの少しだけ明るい。
「よく眠れた?」
「うん……すごく」
蓮は俺の胸に顔を埋めた。頬が温かい。肩の力が抜けていくのが分かる。
「海斗の腕の中だと、安心して眠れる」
くぐもった声が胸に響く。
「よかった」
俺は蓮を抱きしめた。小さく柔らかい身体が腕の中に収まる。
しばらくそうしていた。静かな朝だった。窓の外から鳥の鳴き声が聞こえる。遠くの車の音も小さい。空気が澄んでいた。
階下から物音がした。台所の方だ。鍋のふたが触れる音、食器の重なる音。母が朝食を作っているのだろう。
「海斗」
蓮が顔を上げる。
「ん?」
「お母さん、起きてるみたい」
「ああ。朝食の準備してるんだろ」
蓮は少し不安そうな表情を浮かべた。指先がシーツをつまむ。
「大丈夫かな……お邪魔しすぎてないかな」
「大丈夫だ」
俺は蓮の頭を撫でた。
「母は蓮のこと気に入ってるから」
「本当に?」
目がまだ揺れている。
「ああ。昨夜も言ってただろ」
蓮は少し安心したように微笑んだ。
「うん……」
二人でベッドから起き上がった。
※ ※ ※
【蓮視点】
海斗の部屋で着替えを済ませた。昨日の服だけど仕方ない。
鏡を見ると目の下のくまが少し薄い気がした。頬の色も、ほんの少し戻っている。眠れたからだろう。
髪を整える。海斗に借りたブラシで、ゆっくり梳かす。毛先まで丁寧に。単純な動作なのに、心が少し落ち着く。
ドアをノックする音がした。
「蓮、準備できた?」
海斗の声。
「うん」
ドアを開けると海斗が立っていた。いつもの顔なのに、それだけで安心する。
「じゃあ、降りよう」
海斗が手を握ってくれる。温かい。
階段を降りる。一段ごとに心臓が少し早く鳴る。怖さが消えたわけじゃない。それでも昨日よりは楽だった。
リビングに入ると桜子さんが振り返った。
「おはよう、蓮ちゃん」
明るい声。
「お、おはようございます」
私は深く頭を下げた。
「よく眠れた?」
「はい、とてもよく」
桜子さんは嬉しそうに微笑んだ。
「よかったわ」
テーブルには朝食が並んでいた。ご飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き、漬物。湯気が立っていて、部屋に香りが広がっている。
シンプルなのに、温かい。家庭の匂いがする。
「さあ、座って」
勧められて、私は海斗の隣に座った。三人でテーブルを囲む。
この光景が、私の家にはない。
私の家の朝食は一人だ。広いテーブルも、白い皿も、静かすぎる部屋も。全部が冷たい。
でも、ここは違う。
「いただきます」
三人で声を揃える。
味噌汁を一口飲む。出汁の香りが鼻をくすぐって、身体の奥が温まる。焼き魚は身がほろりと崩れ、塩加減がちょうどいい。卵焼きはふわふわで、少し甘い。
一つ一つが手作りの温もりを感じさせた。
「美味しい……」
思わず声が漏れた。
「よかったわ」
桜子さんが微笑む。
「蓮ちゃん、ちゃんと朝ごはん食べてる?」
私は目を伏せた。
「えっと……あまり」
声が小さくなる。
「一人暮らしだから、朝は簡単に済ませちゃって」
「そうなの……」
桜子さんの表情が心配そうに曇る。
「それじゃダメよ。朝ごはんはちゃんと食べないと」
叱るんじゃなく、諭すような声だった。
「はい……」
私は小さく頷いた。
「これから、いつでもここに来ていいのよ」
その言葉に顔を上げる。
「え?」
「朝ごはんでも夕ごはんでも。蓮ちゃんが来たいときは、いつでも」
桜子さんの目が優しい。
「お母さんがいない時は、私が蓮ちゃんのお母さんになるわ」
胸がいっぱいになって、涙が溢れた。
「桜子さん……」
声が震える。
「ありがとうございます……」
桜子さんが手を握ってくれた。温かい。親の手って、こういう温度なんだと思った。
私は涙を拭う。
「すみません……またすぐ泣いちゃって」
「いいのよ」
桜子さんが優しく笑う。
「泣きたい時は泣いていい」
海斗も肩を抱いてくれる。
「蓮、大丈夫だ」
優しい声。
三人で朝食を続けた。ご飯の音、箸の音、湯気。全部が温かくて幸せだった。
※ ※ ※
【海斗視点】
朝食後、母が俺を台所に呼んだ。
蓮はリビングで少し休んでいる。窓の外を見つめながら、湯呑みに手を添えていた。
「海斗」
母が小声で言う。
「ん?」
「蓮ちゃん、本当に一人暮らしなの?」
心配そうな声。
「ああ」
俺も声を落とした。
「母親も父親も、ほとんど家にいない」
「そう……」
母がため息をつく。水の音が静かに続く。
「可哀想に」
母の声が沈む。
「あんなにいい子なのに」
「ああ」
胸が痛む。
「だから俺が蓮を支える」
「そうね」
母が俺の肩を叩いた。
「海斗、蓮ちゃんを大切にしてあげて」
「ああ」
「あの子、本当に辛そうだから」
母の目が真剣だった。
「分かってる」
俺は頷く。
「俺も蓮を守りたい」
「そう。それでいいわ」
母が微笑む。
「お母さんも協力するから」
「ありがとう」
俺も微笑んだ。
台所を出てリビングに戻る。
蓮がソファに座っていた。窓の外を見つめている。横顔が少し寂しそうで、でも昨日よりは穏やかだ。
「蓮」
声をかけると、蓮が振り向いた。
「ん?」
「そろそろ学校行く準備しないと」
「うん」
蓮は立ち上がる。
「海斗」
「ん?」
「今朝、すごく幸せだった」
温かい声。
「ありがとう」
「どういたしまして」
俺は蓮の頭を撫でた。
二人で母に挨拶して、家を出た。
※ ※ ※
【蓮視点】
海斗と一緒に学校へ向かった。
電車の中で窓の外を見る。通勤する人たち、朝の街。景色はいつもと同じなのに、心は少しだけ軽い。
海斗の家での一夜。桜子さんの優しさ。全部がまだ胸に残っている。
でも、家に帰らなければならない。お母さんがいる家。怖さは消えない。
「蓮」
海斗が手を握ってくれる。
「ん?」
「大丈夫か?」
「うん……」
小さく頷く。
「少しだけ元気になった」
海斗が微笑んだ。
「よかった」
握る力が少し強くなる。
「今日も一緒にいるから」
「うん」
私は海斗の肩に頭を預けた。
学校に着いて教室へ向かう。
教室に入ると、凛音ちゃんが駆け寄ってきた。
「蓮ちゃん!」
心配そうな声。
「昨日、連絡したけど返事なかったから心配してた」
「ごめんね、凛音ちゃん」
私は謝った。
「昨日、海斗の家に泊まってて」
「そうなんだ」
凛音ちゃんが少し安心した顔になる。
「でも大丈夫? 最近、元気なかったけど」
「うん……少しだけ元気になった」
「よかった」
凛音ちゃんが私の手を握る。
「何かあったら、いつでも言ってね」
「ありがとう、凛音ちゃん」
私は握り返した。
授業が始まる。
先生の話を聞きながらノートを取る。昨日まで止まっていた手が、今日は少しだけ動く。
海斗の家の温もりが、まだ心に残っている。
それでも頭の中で、お母さんの言葉が蘇る。
『お前は、私の娘として、恥ずかしい』
胸が痛む。
私はペンを握る手に力を込めた。
負けない。お母さんに負けない。
海斗がいる。桜子さんもいる。凛音ちゃんもいる。
私は一人じゃない。
そう思いながら、授業を受け続けた。
※ ※ ※
【海斗視点】
昼休み。屋上。
俺と蓮は二人で弁当を食べていた。
今日の蓮は昨日より食べている。箸がちゃんと動いているだけで、胸が少し軽くなる。
「美味しい」
蓮が小さく呟く。
「よかった」
俺も弁当を食べる。
「海斗」
「ん?」
「今日、放課後、生徒会の仕事出られる?」
不安そうな声。
「ああ、もちろん」
俺はすぐに答えた。
「蓮が大丈夫なら、俺も大丈夫だ」
「ありがとう」
蓮が微笑む。
「神崎くんたちにも心配かけちゃったから」
「大丈夫だ。みんな理解してる」
蓮は安心したように頷いた。
二人で弁当を食べ続ける。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「今夜、また……海斗の家に行ってもいい?」
甘えるような声。
「ああ、もちろん」
俺が答えると、蓮は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
「母にも連絡しておく」
俺はスマホを取り出す。
『今夜も、蓮を泊めてやってくれないか』
送ると、すぐ返信が来た。
『もちろん。いつでもいいわよ』
画面を見て、俺はほっとした。
「母もオッケーだって」
「よかった……」
蓮の表情がほどける。
「桜子さん、本当に優しいね」
「ああ」
俺は頷く。
「母は蓮のこと本当に心配してる」
「嬉しい……」
蓮の目に涙が溜まる。
「私、桜子さんみたいなお母さんが欲しかった」
切ない声。
「蓮」
俺は蓮の手を握った。
「俺の母は、蓮の母親でもある」
その瞬間、蓮の涙が溢れた。
「海斗……」
蓮は俺の胸に顔を埋める。
「ありがとう」
俺は抱きしめ返した。
少しずつ蓮の心は癒えていく。けれど、まだ完全じゃない。
蓮のお母さん。その冷たさと残酷さ。
それとどう戦っていくか。
俺にも答えは見えない。
でも諦めない。蓮を守る。
その決意を胸に、俺は蓮を抱きしめ続けた。
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