海斗の部屋で
その夜。蓮のマンションを出た後。
俺と蓮はマンションの外に立っていた。夜風が頬を撫でる。雨上がりの匂いがまだ残っていて、空気は少し冷たい。
蓮は肩をすぼめていた。街灯の光に照らされた横顔が、どこか頼りなく見える。
「蓮」
「ん?」
「今夜、俺の家に来ないか?」
俺の提案に、蓮は驚いた表情を浮かべた。
「え? 海斗の家?」
「ああ。ここにいるよりいいだろ」
蓮は少し考えた。視線が足元に落ちて、指先が自分の袖をつまむ。
「でも……お母さん、いるでしょ?」
「ああ」
俺の母は優しい。蓮のことも受け入れてくれるはずだ。
「大丈夫だ。母は理解してくれる」
「でも……迷惑じゃない?」
蓮の声が不安そうに揺れる。
「迷惑じゃない」
俺は蓮の手を握った。冷たい。指先が少し震えている。
「母も蓮に会いたいって言ってたんだ」
その言葉に、蓮の目が少しだけ明るくなった。
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ……お邪魔してもいい?」
「ああ、もちろん」
蓮は小さく微笑んだ。その笑顔はまだ弱いけれど、さっきよりずっと生きていた。
※ ※ ※
【蓮視点】
海斗の家。初めて行く。
電車に乗って最寄り駅へ向かう。揺れに合わせて吊り革が小さく軋む。海斗の手の温かさだけが、現実に引き戻してくれる。
駅を降りると住宅街が広がっていた。高い建物は少なく、道も広すぎない。遠くで犬の鳴き声がして、玄関先の鉢植えから土の匂いがした。私のマンションとはまるで違う落ち着いた空気。
「こっちだ」
海斗が私の手を引いてくれる。
歩く途中、窓から漏れる明かりが点々と続く。夕飯の匂い。テレビの音。笑い声。どの家にも生活があって、温度がある。
私の家には、ない温もり。
海斗の家に着いた。二階建ての一軒家。こぢんまりとしているのに、玄関灯の色が柔らかくて安心する。
「着いた」
海斗が玄関のドアを開けた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
家の中から女性の声が返ってくる。丸い、優しい声。
玄関に海斗のお母さんが出てきた。エプロン姿で、髪は後ろにまとめられている。包丁を置いて急いで出てきたみたいに、少しだけ頬が赤い。
私のお母さんとは全く違う。
「あら、蓮ちゃんね」
海斗のお母さんが微笑んだ。
「は、はい。初めまして。鈴波蓮です」
私は深く頭を下げた。
「初めまして。海斗の母、春川桜子です」
桜子さんは優しく頭を下げ返してくれる。
「海斗からよく聞いてるわ。いらっしゃい」
「お、お邪魔します」
靴を脱ぐと、廊下の床がほんのり温かかった。家の中の匂いがする。洗剤と、煮込みの香りと、どこか懐かしい匂い。
玄関から見えるリビングにはテレビとソファ、テーブル。生活の跡がそのまま残っている。それが不思議なくらい落ち着く。
私の家は高級で整っている。でも冷たい。ここは質素なのに温かい。
「蓮ちゃん、今日は泊まっていくの?」
桜子さんが柔らかく聞いた。
「え、えっと……」
私は海斗を見た。
「ああ。今夜、泊めてやってくれないか」
海斗が頼む。
「もちろん。海斗の部屋でいいわね」
桜子さんが少しだけ困ったように笑う。けれど目は優しい。
「ああ」
海斗が答える。
「蓮ちゃん、夕飯まだでしょ。よかったら一緒に食べましょう」
その一言で胸が詰まった。誰かに当たり前みたいに迎えられるのが、こんなに苦しいなんて。
「あ、ありがとうございます」
私はまた頭を下げた。
※ ※ ※
リビングのテーブルに料理が並ぶ。
カレー、サラダ、味噌汁。豪華じゃない。でも湯気が立っている。皿を置く音まで温かい。
「さあ、召し上がれ」
桜子さんが微笑む。
「いただきます」
三人で声をそろえる。
カレーをひと口食べた瞬間、喉の奥が熱くなった。辛さじゃない。優しい味が、身体の奥まで染みてくる。
私の目から涙がこぼれた。
「蓮ちゃん? 大丈夫?」
桜子さんが心配そうに顔をのぞき込む。
「す、すみません……」
私は慌てて涙を拭いた。けれど止まらない。
「美味しくて……」
声が震える。
「こんなに優しい味、初めてで……」
涙があふれて視界が滲む。
「蓮ちゃん……」
桜子さんが私の手を握ってくれた。指があたたかい。逃げ道を塞ぐような強さじゃなく、支えるための強さ。
「大丈夫よ。ゆっくり食べて」
優しさが胸に刺さって、涙はさらに増えた。
海斗が肩を抱く。
「蓮……」
その声も、優しい。
私はしばらく泣き続けた。
やがて涙が少し落ち着く。
「ごめんなさい……」
私は桜子さんに謝った。
「謝らなくていいのよ」
桜子さんは微笑む。
「蓮ちゃん、何か辛いことがあったの?」
その問いに、私は目を伏せた。
「はい……」
声が小さい。
「海斗から少し聞いたわ」
桜子さんが静かに言う。
「お母さんのこと」
私は顔を上げた。
「海斗が……?」
「ええ。詳しくは聞いてないけど、蓮ちゃんが辛い状況にあるって」
桜子さんの目は真っすぐで、責める色がない。
「蓮ちゃん、一人で頑張りすぎてない?」
その言葉で、堪えていたものが決壊した。
「私……」
声が震える。
「お母さんに認めてもらえなくて……」
涙が止まらない。
「何をやっても、ダメで……」
桜子さんが私を抱きしめてくれた。エプロン越しの体温が、胸に直接届く。
「大丈夫よ。蓮ちゃんは十分頑張ってる」
温かい声。
「海斗から聞いたわ。蓮ちゃんが生徒会長として、どれだけ頑張ってたか」
背中を撫でる手がゆっくりで、呼吸が整っていく。
「蓮ちゃんは素晴らしい子よ」
その言葉が、私の中の固いところに染み込んだ。
「本当に……?」
「ええ、本当よ」
桜子さんは私を見つめた。
「お母さんが認めなくても、私は蓮ちゃんを認めるわ」
私は声を上げて泣いた。こんなふうに肯定されたのが、いつぶりか分からない。
海斗も抱きしめてくれる。
「蓮、大丈夫だ」
「俺たちが支える」
二人の温もりに包まれて、私はようやく息ができた。
※ ※ ※
【海斗視点】
夕飯の後、母と二人で台所に立った。
蓮はリビングでソファに座っている。肩にかけたブランケットを指先で握りしめていた。まだ落ち着かないんだろう。
「海斗」
母が小声で話しかける。
「ん?」
「蓮ちゃん、本当に辛そうね」
「ああ」
俺も声を落とす。
「お母さんがすごく厳しい人で」
「そう……」
母がため息をつく。洗い物の水音が静かに続く。
「親が子供を認めないなんて……」
母の声は悲しそうだった。
「蓮ちゃん、可哀想に」
「ああ」
胸が痛む。
「だから今夜は泊めてやってくれ」
「もちろんよ」
母が俺の肩を叩く。
「でも海斗」
声が少しだけ厳しくなる。
「変なことしちゃダメよ」
「分かってる」
俺は頷いた。
「蓮ちゃんを大切にしなさいね」
「ああ」
「ありがとう、お母さん」
「どういたしまして」
母は微笑んだ。
台所を出てリビングへ戻る。
蓮はソファに座っていた。目元は赤いけれど、表情は少し落ち着いている。
「蓮」
「ん?」
「お風呂、入るか?」
「うん」
蓮が立ち上がる。
母がタオルを用意した。
「蓮ちゃん、ゆっくり入ってね」
「ありがとうございます」
蓮は浴室へ向かった。
俺は母とリビングで話す。
「海斗、蓮ちゃんのお母さんってどんな人なの?」
母が聞く。
「すごく冷たい人だ」
俺は正直に答える。
「蓮を認めない。罵る」
「そんな……」
母の表情が曇る。
「蓮ちゃん、よく耐えてきたわね」
「ああ」
胸が痛む。
「だから俺が守る」
俺の言葉に、母は小さく笑った。
「そうね。海斗ならできるわ」
母が俺の頭を撫でる。
「お母さんは海斗を信じてるわ」
「ありがとう」
俺も微笑んだ。
※ ※ ※
【蓮視点】
お風呂から上がってリビングに戻った。
桜子さんがパジャマを貸してくれた。少し大きいけれど、その分だけ安心する。袖の中に指先が隠れて、子供みたいだ。
「蓮ちゃん、海斗の部屋でゆっくり休んでね」
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
「海斗、蓮ちゃんを案内してあげて」
「ああ」
海斗が手を引いてくれる。
階段を上ると、二階は少しだけ空気が違う。家族の気配が薄くて静かだ。廊下の照明が柔らかい。
ドアを開けると海斗の部屋。
シンプルな部屋。ベッド、机、本棚。必要なものが必要なだけ置かれている。散らかってはいないけど、生活の跡がある。
壁には部活の写真やポスター。机の上には教科書。鉛筆の削りカスが少しだけ残っていて、海斗がここで勉強しているのが分かる。
「ここが俺の部屋」
海斗が少し照れくさそうに言った。
「初めて見る」
私は部屋を見回す。
机の端に、写真立てがあった。修学旅行の写真。清水寺で撮った私と海斗。
「これ……」
私が写真を手に取る。
「ああ。清水寺で撮ったやつ」
海斗が微笑む。
「大切にしてるんだ」
胸が温かくなる。
「海斗……」
私は海斗を抱きしめた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
しばらく抱き合う。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「海斗の部屋、すごく海斗らしいね」
声が少し弾む。
「ああ」
「私の部屋とは全然違う」
言いながら、胸が少し痛んだ。
「私の部屋には温もりがない」
涙がこぼれる。
「お母さんもお父さんも、私を見てくれない」
声が震える。
「私、ずっと一人ぼっちだった」
海斗が強く抱きしめる。
「もう一人じゃない」
力強い声。
「俺がいる。母もいる」
その言葉が心に染みる。
「蓮はもう一人じゃない」
「海斗……」
私は胸に顔を埋めた。
「ありがとう」
涙が海斗のシャツを濡らす。
「愛してる、海斗」
「俺も愛してる。蓮」
海斗がキスをしてくれる。深く、優しく。
キスが終わると、私はまた胸に顔を埋めた。
「今夜、ずっと一緒にいて」
「ああ」
二人でベッドに座る。
海斗の腕の中は温かい。息をするたびに胸が少しずつ軽くなる。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「海斗の家、すごく温かいね」
「ああ」
「私の家とは全然違う」
声が少し寂しくなる。
海斗が頭を撫でる。
「蓮はいつでもここに来ていい」
その言葉に涙が溢れる。
「本当に……?」
「ああ。お母さんもそう言ってた」
「ありがとう……」
私は海斗の胸で泣いた。
しばらく抱きしめられて、涙が落ち着く。
「海斗」
「ん?」
「もう眠くなってきた」
「じゃあ寝よう」
海斗が横になって、私も隣に入る。
腕の中が温かい。心臓の音が近い。怖さが少しずつ溶けていく。
「おやすみ、蓮」
「おやすみ、海斗」
私は少しずつ眠りについた。
海斗の部屋。海斗の家。桜子さんの優しさ。
全部が私の心を癒してくれる。
こんなに幸せな夜は久しぶりだった。
海斗の腕の中で、私は安らかに眠った。
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