崩壊する日常
七月十日。文化祭から五日が経った。
梅雨の雨が窓ガラスを叩き続けている。灰色の空から降り注ぐ雨粒が教室の窓を濡らしていく。その音が単調で重苦しい。
教室で俺は蓮の隣に座っていた。蓮はノートに何かを書いているように見えるが、よく見るとペンの先が紙の上で止まっている。同じ場所を何度も何度もなぞっているだけだ。
「蓮、大丈夫か?」
俺ができるだけ優しく小声で聞いた。
「うん……大丈夫」
蓮の声が空気に溶けてしまいそうなほど力がない。その表情にはいつもの柔らかな笑顔がない。目の下にはうっすらとクマができている。唇の端がわずかに下がっている。
文化祭が終わってから蓮の様子がおかしい。最初は文化祭の疲れだと思っていた。でも日を追うごとに、その変化は明らかになっていった。笑顔が減った。俺の目を見ることが少なくなった。ぼんやりとしていることが増えた。授業中も窓の外を見つめていることが多い。何か大きな心配事でもあるのだろうか。
蓮の手を見るとペンを握る指がわずかに震えている。その震えが俺の胸を締め付ける。
チャイムが鳴り昼休みになった。
「蓮、屋上行こう」
俺がいつものように誘った。
蓮は少し考えるような仕草をして、それから申し訳なさそうな表情で首を横に振った。
「ごめん……今日はちょっと生徒会室で仕事があるから」
蓮の声がどこか遠い。まるで俺と蓮の間に透明な壁があるような感覚だ。
「そうか。じゃあ、また後で」
「うん」
蓮は机から立ち上がった。その動作がいつもより重そうだ。肩が少し丸まっている。
蓮が教室を出ていく。その背中が小さく頼りなく見える。
俺はしばらくその背中を見送っていた。胸の奥に重い何かが沈んでいく感覚。
一人で屋上に向かった。雨が降っているが屋根のある場所で弁当を広げる。でも食欲が湧かない。
蓮のことが頭から離れない。何かあったのだろうか。聞いても「大丈夫」としか言わない。でもあの表情は明らかに大丈夫ではない。
スマホが振動した。凛音からのメッセージだ。
『海斗くん、蓮ちゃんの様子、おかしくない?』
凛音も気づいていたのか。蓮の親友である凛音が気づくくらいだから、やはり相当なのだろう。
『ああ。気になってる』
すぐに返信が来た。
『昨日、蓮ちゃんと話したんだけど、元気なかった。何かあったのかな』
『分からない。聞いても、教えてくれない』
『そっか……心配だね。私も、もう少し様子見てみる』
『ああ。頼む』
凛音との会話を終えて俺は空を見上げた。雨が降り続けている。その雨が今の俺の気持ちのようだ。
※ ※ ※
【蓮視点】
生徒会室に入ると誰もいなかった。
机に座って資料を広げる。でも文字が頭に入ってこない。文字がただの記号に見える。
お母さんの顔が頭に浮かぶ。
この前の夜。また突然帰ってきたお母さん。玄関のドアが開いた瞬間、空気が凍りついたような感覚があった。
お母さんはスーツを着ていた。黒いスーツ。その姿が威圧的だった。髪を後ろでまとめている。メイクは完璧で一切の隙がない。
「ただいま」
お母さんの声が冷たかった。挨拶というより事務的な報告のようだった。
「お、おかえりなさい」
私は驚いて答えた。心臓が激しく鳴っている。
「あなた、文化祭があったそうね」
お母さんがリビングに入ってきた。バッグを置いてソファに座る。
「う、うん」
「生徒会長として、どうだったの?」
お母さんの目が私を見つめる。その目が冷たい。
「無事に終わりました」
「そう」
お母さんは小さく鼻で笑った。その笑いが私の心を凍らせる。
「生徒会長ね……」
お母さんが立ち上がった。私に近づいてくる。
「お母さんがあなたの年齢の時、もっと大きなことをしてたわ」
お母さんの声が刺さる。
「全国模試で一位。弁論大会で優勝。生徒会長なんて当たり前だった」
私の胸が痛い。
「それに比べて、あなたは……」
お母さんの目が私を見下ろす。
「生徒会長になっただけで満足してるの?」
「私……頑張ったよ」
私の声が震える。
「頑張った?」
お母さんが冷たく笑う。
「その程度のこと、頑張ったうちに入らないわ」
お母さんの言葉が私の心を切り裂く。
「あなた、本当に私の娘なの?」
その言葉が私の心を粉々にした。
「私は……」
「黙りなさい」
お母さんの声が厳しい。
「私はあなたに期待してた。私のように優秀になってほしかった」
お母さんがため息をつく。
「でも、あなたは……期待外れね」
私の目から涙が溢れそうになる。でもこらえる。お母さんの前で泣いたら負けだ。
「恥ずかしいわ。あなたが私の娘だなんて」
お母さんの言葉が最後の一撃だった。
私の心が砕け散った。
※ ※ ※
資料を見ているふりをしているが文字が滲んで見える。涙が溢れそうになる。
でも泣けない。誰かが来るかもしれない。
私は深呼吸をする。一回。二回。三回。
落ち着かない。心臓が早鐘を打っている。
海斗の顔が浮かぶ。
海斗に話すべきだろうか。でも話したら海斗を巻き込んでしまう。海斗にこんな重い話をしていいのだろうか。
私は机に突っ伏した。
どうすればいい? 私はどうすればお母さんに認めてもらえる?
答えが出ない。
※ ※ ※
【海斗視点】
放課後。生徒会室。
蓮は机に向かって資料を見ていた。でもその目は完全に焦点が合っていない。虚ろな目。どこか遠くを見つめている。まるで魂が抜けてしまったような表情だ。
「蓮」
俺ができるだけ優しく声をかけた。
「ん?」
蓮がゆっくりと顔を上げた。その動作がまるでスローモーションのようだ。目が疲れている。いや、疲れているというより何かに押しつぶされそうになっている。
「大丈夫か? 最近本当に元気ないぞ」
「大丈夫……ちょっと疲れてるだけ」
蓮の声が震えている。その声の裏に隠しきれない何かがある。
「何かあったのか?」
俺の問いに蓮は少し考えるような仕草をした。唇がわずかに開きかけて、でもすぐに閉じられる。何か言いたいことがあるのに言えない。そんな葛藤が表情に表れている。
そして蓮は首を横に振った。その動作があまりにも弱々しい。
「何もないよ」
蓮の言葉が明らかに嘘だ。目が俺を見ていない。視線がどこか別の場所に向いている。
「そうか……無理するなよ」
「うん」
蓮は小さく微笑んだ。でもその笑顔が崩れかけている。笑顔の形を作っているだけで目が全く笑っていない。その笑顔を見て俺の胸が痛んだ。
神崎が生徒会室に入ってきた。いつもの明るい表情が蓮を見た瞬間に曇る。
「鈴波会長、春川さん、こんにちは」
「こんにちは」
蓮が小さく答える。
神崎が蓮に近づいてきた。その表情が心配そうだ。
「鈴波会長、大丈夫ですか? 顔色、すごく悪いですよ」
神崎の言葉に蓮は少し驚いたような表情を浮かべた。まるで自分の状態に気づいていなかったかのような反応だ。
「え? そう……かな」
「ええ。無理してませんか? 熱とかないですか?」
神崎の声が本当に心配そうだ。
「大丈夫です。心配かけてごめんなさい」
蓮はまた笑顔を作った。でもその笑顔が痛々しい。無理に作られた笑顔。その笑顔を見て俺の胸がさらに痛んだ。
その日のミーティングは異様に静かだった。いつもなら活発に意見を出す蓮がほとんど話さない。他のメンバーの報告を聞いているだけ。時々小さく頷くだけ。
神崎が蓮の様子を気にしてミーティングを早めに終わらせた。
「じゃあ、今日はここまで」
蓮が全員に声をかけた。その声がか細い。
「お疲れ様でした」
メンバーたちが心配そうに蓮を見ながら帰っていく。
生徒会室には俺と蓮だけが残された。
静寂が部屋を満たす。時計の秒針の音だけが規則正しく響いている。
「蓮」
「ん?」
「今日、俺の家に来ないか? 夕飯、一緒に食べよう」
俺の提案に蓮は少し考えた。その沈黙が長い。
「ごめん……今日は帰らなきゃ」
「そうか」
蓮の言葉に俺は強い違和感を覚えた。いつもなら喜んで来てくれる蓮が断る。それだけで何かが普通ではないことが分かる。
「じゃあ送っていくよ」
「ううん、大丈夫。一人で帰れるから」
蓮は荷物をまとめ始めた。その動作がいつもより急いでいる。まるで俺から逃げるように。
「蓮」
「ん?」
「本当に大丈夫か?」
俺の問いに蓮は少し目を伏せた。長い睫毛が影を落とす。
「大丈夫……ちょっと家のことで……」
蓮の声が震えている。その震えが俺の不安を掻き立てる。
「家のこと?」
「うん……でも大丈夫だから」
蓮は笑顔を作った。でもその笑顔が今にも崩れそうだ。涙をこらえているような表情。
「心配しないで」
蓮は生徒会室を出ていった。
俺はその後ろ姿を見送った。廊下を歩く蓮の背中が小さく弱々しい。肩が震えているように見えた。
胸騒ぎがどんどん大きくなっていく。
※ ※ ※
その夜、俺は自分の部屋でベッドに横になっていた。でも眠れない。
天井を見つめる。白い天井。その白さが目に痛い。
蓮のことが頭から離れない。あの表情。あの震える声。あの弱々しい背中。
何かが起きている。確実に。
俺はスマホを取り出した。画面の明かりが暗い部屋を照らす。
蓮にメッセージを打つ。
『蓮、大丈夫か? 何かあったら、いつでも連絡してくれ。俺は、いつでも蓮の味方だから』
送信ボタンを押す。
すぐに既読がつく。蓮もスマホを見ているのだろう。
でも返信は来ない。
時間が過ぎていく。十分。二十分。三十分。
時計の秒針の音だけが静かな部屋に響いている。
まだ返信は来ない。
俺は不安になった。蓮に何か起きているのではないか。深刻な何かが。
その時スマホが振動した。心臓が跳ねる。
蓮からのメッセージだ。
『ありがとう。心配かけてごめんね。大丈夫だから』
短いメッセージ。たった二行。
でもその文面から蓮の本当の気持ちが全く伝わってこない。機械的な文章。感情のない言葉。
『無理するなよ。俺は、いつでも蓮の味方だから』
メッセージを送った。既読がつく。でも返信は来なかった。
俺は再び天井を見つめた。
蓮が何かを隠している。大きな重い何かを。
その確信が俺の胸を締め付けた。
※ ※ ※
七月十五日。
梅雨が続いている。雨が止まない。窓の外は灰色の世界だ。
教室で蓮は相変わらずぼんやりとしていた。授業中もノートを取る手が止まっている。教科書のページも開いたままになっている。先生の話を全く聞いていない。
蓮の目は窓の外を見つめている。その目が空虚だ。何も見ていない。ただ視線が外に向いているだけ。
昼休み。俺は決意した。このままでは蓮が壊れてしまう。
「蓮、屋上行こう」
「ごめん……今日も、ちょっと……」
蓮がいつものように断ろうとする。
「いいから来い」
俺は蓮の手を掴んだ。その手が冷たい。氷のように冷たい。
蓮は抵抗しなかった。まるで抵抗する気力もないかのように。
俺は蓮の手を引いて教室を出た。廊下を歩く。階段を上る。屋上へのドアを開ける。
屋上には雨が降っていた。でも屋根のある場所がある。そこに二人で座った。
雨音が屋上に響いている。その音が二人の沈黙を埋める。
「蓮、何があった?」
俺が真剣な声で聞いた。もう遠回しには聞けない。
「何も……」
「嘘だ」
俺の言葉が強く出た。蓮がびくりと身体を震わせる。
「蓮、俺は蓮の恋人だ。何でも話してくれ」
俺の言葉に蓮の目から涙が溢れた。堰を切ったように。
「海斗……」
蓮の声が震えている。全身が震えている。
「実は……お母さんが帰ってきたの」
蓮の言葉に俺は驚いた。
「お母さん……まさか」
俺の脳裏に体育祭で蓮が吐露した母親の単語が過ぎった。確かにあの時、蓮は母について話してくれた。でも少しだけ、氷山の一角の一部程度くらいにしか教えてもらえなかった。
「うん……三日前に突然」
蓮の声が小さい。蚊の鳴くような声。
「お母さんは弁護士で……すごく忙しい人なの」
蓮の目が遠くを見つめる。その目に恐怖が宿っている。
「普段はほとんど家にいない。だから私、一人暮らしなの」
蓮の言葉が続く。その言葉の一つ一つが重い。
「でも三日前に突然帰ってきて……」
蓮の声が震える。身体全体が震えている。
「私のこと、罵ったの」
蓮の涙が頬を伝って落ちる。その涙が雨のように。
「『お前は、私が同じ年齢の時と比べて、何もできていない』って」
蓮の声が苦しそうだ。息をするのも苦しそうだ。
「『生徒会長? そんなもの、何の意味がある』って」
蓮の目から涙が止まらない。その涙が服を濡らす。
「『お前は、私の娘として、恥ずかしい』って……」
蓮は声を上げて泣き出した。その泣き声が雨音に混じって消えていく。
「そんな……」
俺は蓮を抱きしめた。その身体があまりにも小さく弱々しい。
「蓮はすごく頑張ってる」
「でも……お母さんは認めてくれない」
蓮の声が絶望に満ちている。その絶望が俺の胸に伝わってくる。
「私、何をやっても、お母さんには認めてもらえない」
蓮の身体が俺の腕の中で震えている。まるで壊れそうな人形のように。
「ずっと、そうだった。小さい頃から……」
蓮の言葉が途切れ途切れに続く。
「お母さんは私が生まれた時から私に期待してた。『私みたいになれ』って」
蓮の声が苦しそうだ。呼吸が乱れている。
「でも私は、お母さんみたいになれない」
蓮の涙が俺のシャツを濡らす。その涙が温かい。
「私はお母さんより劣ってる。お母さんはそう言う」
蓮の言葉に俺の胸が締め付けられる。その痛みが胸全体に広がっていく。
「お父さんも私のことを見放してる。『お前は期待外れだ』って」
蓮の声が震える。全身が震えている。
「だから私、一人で頑張ってきた」
蓮が顔を上げた。その目が赤く腫れている。涙で顔がぐしゃぐしゃになっている。
「でも……もう疲れた」
蓮の声が弱々しい。今にも消えてしまいそうな声。
「頑張っても頑張っても認めてもらえない」
蓮の涙が止まらない。その涙を見て俺の目も潤んでくる。
「私、もう……どうすればいいか分からない」
蓮は俺の胸で泣き続けた。その泣き声が雨音に混じる。
俺は蓮を抱きしめ続けた。言葉が出てこない。何を言えばいいのか分からない。
蓮がこんなに苦しんでいたなんて。
蓮の家庭環境。その過酷さ。その残酷さ。初めて知った。
俺の胸が怒りで熱くなる。蓮のお母さん。蓮のお父さん。どうしてこんなに素晴らしい娘を認めてやれないのか。
俺は決意した。蓮を守る。蓮のお母さんと戦う。蓮をこの苦しみから救い出す。
その決意を胸に俺は蓮を抱きしめ続けた。
雨が降り続けている。その雨音だけが屋上に響いていた。
俺と蓮。二人だけの世界。その世界で蓮は泣き続けた。
どれくらい、そうしていただろうか。
やがて蓮の泣き声が小さくなっていった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




