忙しさの中で
六月十五日。文化祭まで、あと三週間を切った。
校舎の空気が、もう普段じゃない。
廊下には各クラスのポスターが並び、昼休みにはどこかで段ボールを切る音、ガムテープを引きちぎる音がしている。
学校全体が、じわじわと“当日”に向かって熱を上げていた。
三年B組の教室も例外じゃない。
段ボールの看板にペンキで絵を描く生徒。テーブルクロスを縫う生徒。メニュー表をPCで整える生徒。
カフェの準備が、役割ごとに回り始めている。
俺は生徒会の資料を確認しつつ、空いた手で看板の端を押さえたり、備品リストをクラス委員に渡したりしていた。
ふと、教室の隅が気になった。
蓮がスマホを握ったまま、画面を睨むように見ている。通知が、止まらない。
顔色が、薄い。
「蓮、大丈夫か」
声をかけると、蓮は少し遅れて顔を上げた。
「うん……大丈夫」
その返事が、“大丈夫”じゃないと分かる声音だった。
「昨日、寝たか」
「……五時間くらい」
少なすぎる。
しかも、五時間“寝た”じゃなく、“横になった”の可能性が高い。
「今日は、放課後を短く切ろう。終わらせ方を先に決める」
「でも……」
「無理して長引かせると、明日も潰れる」
蓮は唇を噛んで、それから小さく頷いた。
「……うん」
※ ※ ※
昼休み。生徒会室。
扉を開けた瞬間に空気が重いと分かった。
緊急ミーティング――そういう空気だ。
神崎が、資料を握ったまま立っていた。顔が硬い。
「問題が起きました」
神崎の声に、室内が静まる。
「一年D組と二年C組が、同じ時間に体育館を使いたいと言ってます。両方、演劇です」
神崎がスケジュール表を開いて見せる。
赤丸が二つ、同じ枠に重なっていた。
蓮の顔から血の気が引く。
「……そんな……」
神崎が深く頭を下げた。
「スケジュール管理のミスです。すみません」
蓮が反射で首を振る。
「違う。神崎くんのせいじゃない。最終確認は私が――」
「蓮」
俺は言葉を切った。責任の押し付け合いを始めると、解決が遅れる。
「今は原因じゃなくて、リカバリだ。選択肢、出そう」
蓮は一拍置いて、頷いた。
スケジュール表に視線を落とし、指で枠を追う。
「一年D組を午前、二年C組を午後に――」
藤崎が助け舟を出す。
神崎がすぐに返す。
「午後は三年A組が体育館使用です。枠が埋まってます」
蓮が顔を上げた。迷いが消える。
「じゃあ、三年A組と交渉。優先順位は“当日の混乱を最小化”。A組は準備量が多いから、代替枠を提示して納得してもらう」
「僕が連絡します」
神崎がスマホを取り出した。
こういう時、神崎は速い。余計な言い訳を挟まない。
数分後、神崎が画面を見たまま言う。
「三年A組、調整してくれるそうです。午前の別枠に移動できます」
蓮の肩が、目に見えて落ちた。
「……よかった」
「決定ね」
蓮はスケジュール表に修正を入れ、最後に赤ペンで太く書いた。
『体育館:演劇枠 確定版(本日中に全クラス配布)』
「同じ事故を二度起こさない。今日中に“確定版”として配る。口頭じゃなく、文書で」
「はい」
藤崎が頷く。
野村も、いつの間にか印刷手配のメモを取っていた。
問題は一つ片付いた。
けど、蓮の表情は明るくならない。――むしろ、抜けた分だけ疲れが露出した。
※ ※ ※
放課後。生徒会室は、また戦場だった。
各クラスからの質問が、途切れない。
予算調整。来賓案内状。掲示物の文言チェック。安全運用ルール(改訂)の読み合わせ。
タスクが同時並行で増えると、人は“頑張り”で誤魔化しがちになる。蓮は今、まさにそこに踏み込みかけていた。
「鈴波会長」
野村が資料を差し出す。
「予算の最終確認、お願いします」
「うん……」
蓮の目が数字を追う。追えている。でも、速度が落ちてる。
承認印を押した指先が、少し震えた。
「ありがとう。野村さん、発注締切は前倒しで。納期遅れが一番怖いから」
「承知しました」
今度は藤崎が来る。
「会長、ポスター最終版です」
印刷された紙を見た瞬間だけ、蓮の目が微かに輝いた。
「……綺麗。これ、すごくいい」
その一言に、藤崎の表情が救われる。
蓮は周りをちゃんと見ている。見ているから、疲れる。
「印刷、進めていい?」
「うん。お願い」
次、また次。
蓮は受けて、判断して、返していく。
――でも、受ける速度と返す速度が、少しずつずれていく。
午後七時。ようやく区切りがついた。
「みんな、お疲れ様。明日もよろしくね」
声は出てる。けど、芯が薄い。
メンバーが帰り、生徒会室に静けさが戻る。
蓮は椅子に沈むように座って、机に突っ伏した。
「……蓮」
返事がない。
「蓮?」
肩に触れると、蓮がゆっくり顔を上げた。
目が、焦点を合わせるのに時間がかかっている。
「ごめん……ちょっと、眠くて」
「眠いんじゃない。限界だ」
蓮が反論しかけて、言葉を飲み込む。
「でも……やることが……」
「ある。だからこそ、今日は切る。今の蓮に“追加作業”を渡したら、明日が死ぬ」
俺は蓮の手を引いた。
「帰る」
「……うん」
蓮は、観念したみたいに頷いた。
※ ※ ※
駅までの道。
蓮は俺の腕にしがみついて歩いた。重い。体重じゃなく、疲労が。
「海斗……」
「ん?」
「私……ちゃんとできてるかな」
声が、幼く聞こえた。
会長の声じゃない。鈴波蓮の、素の声だ。
「できてる」
俺は即答した。
「今日の体育館の件、蓮の判断がなかったら揉めてた。ちゃんと止血できた」
「でも……怖いの」
蓮の目が揺れる。
「失敗したら、みんなに迷惑かける。文化祭って……取り返しがつかない気がして」
それは正しい恐怖だ。
イベント運営の失敗は、“当日”に爆発する。後から取り戻せない。
「失敗してもいい、とは言わない」
俺は正面から言った。
「でも、失敗しないための方法はある。“一人で抱えない”ことだ」
蓮が黙る。
「蓮が全部抱えたら、判断が遅れて事故る。判断が遅れるのが、一番危ない」
蓮の唇が震えた。
「でも、生徒会長は私だから……私がちゃんとしないと……」
「ちゃんとするってのは、“全部やる”じゃない。“仕組みにする”だ」
俺は立ち止まって、蓮の目を見た。
「神崎も藤崎も野村もいる。頼っていい。頼らない方が、リスクだ」
蓮の目から涙が落ちた。
「……ごめん。弱音、吐いちゃった」
「吐け。今吐かないと、当日崩れる」
俺は蓮を抱きしめた。
蓮の涙が、シャツを湿らせる。
「ありがとう……海斗……」
しばらくして、蓮の呼吸が落ち着く。
「落ち着いた?」
「……うん」
「今日は早く寝る。最低でも七時間。スマホは、寝る前に俺が預かるでもいい」
蓮が小さく笑った。
「……それ、ちょっと恥ずかしい」
「恥ずかしがってる場合じゃない」
駅に着き、改札の前で立ち止まる。
「また明日」
「ああ。約束。今日は寝ろ」
「うん……」
蓮が電車に乗る。
その背中が小さく見えて、胸が締まった。
――選挙の時みたいに、また倒れる。
そんな予感が、嫌にリアルだった。
※ ※ ※
その夜。俺は神崎に電話をかけた。
「もしもし、春川さん?」
「神崎。蓮のことなんだが」
「……やっぱり、しんどそうですか」
神崎の声が沈む。
「ああ。限界が近い」
俺は今日の状況を簡潔に共有した。
体育館の調整、放課後の処理量、帰り道の涙。――事実だけを並べる。
少し沈黙の後、神崎が言った。
「僕も、薄々感じてました。会長、最近ずっと“背負い方”が危ない」
「どうする」
神崎の返事は速かった。
「分担を、形式にします」
「形式?」
「はい。口頭の“手伝います”じゃなくて、タスクを一覧化して、担当を固定します。会長が全部受けるのを止める」
いい。正しい。
運営は気合じゃなく、配分だ。
「明日、藤崎さんと野村さんにも話します。僕が段取り切ります」
「頼む」
「それと……」
神崎が少し言い淀んでから、続けた。
「会長に“休め”って言う役目、春川さんがやってください。僕が言っても、会長は気を遣って無理します」
「……分かった」
電話を切った後、俺は天井を見つめた。
蓮を守る。
支える。
“頑張らせる”じゃなく、“壊れない運営”にする。
その決意が、胸の奥で固まった。
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