初めての強敵
目が、合った。
その瞬間、私は、悟ってしまった。
ホブゴブリンの、あの濁った黄色い目に浮かんでいる光。
それは、獲物を見る肉食獣のそれとは、まったく違っていた。
もっと、ねっとりとした、粘着質な何か。私の頭のてっぺんから、足の爪先までを、一本一本、舐めるように嬲る、醜悪な欲望の色。
――グルルッ。
ホブゴブリンが、下品な唸り声を上げる。
そして、その口元が、まるで笑ったかのように、歪んだ。
「…………っ!」
全身の血が、急速に冷えていくのを感じる。
――捕まったら、終わりだ。
殺されるよりも、もっと、ずっと、最悪の結末が待っている。
考えるより先に、体が動いていた。
私は、身を翻し、一階へと続く階段を、全力で駆け下りる。
背後で、玉座代わりのレジ台がひっくり返る、派手な破壊音がした。
「グオオオオオオッ!!」
獣の咆哮。
巨体が、床を踏み抜くような、重い足音が、すぐ後ろから迫ってくる。
速い!
まずい、追いつかれる!
私は、階段の踊り場にあった、プラスチック製の観葉植物の鉢を、振り返りもせずに『マインド・バレット』で射出した。
ドンッ! という鈍い音と、ホブゴブリンの短い呻き声が聞こえる。
直撃はしなかっただろう。でも、それでいい。
ほんの、一秒。
ほんの一瞬でも、時間が稼げれば!
私は、一階の食料品売り場へと、転がり込むようにしてたどり着いた。
棚と棚の間が、迷路のように入り組んでいる、この場所。
開けた二階より、ずっと戦いやすい。
私は、近くの棚から手頃な大きさのサバ缶を二つ、掴み取る。
心臓が、破裂しそうなほどうるさい。
指先が、恐怖で震えている。
でも、その震えを、無理やり、ねじ伏せた。
――殺す。
絶対に、あいつだけは、ここで、殺す。
私の意思に呼応するように、二つのサバ缶が、ふわりと、宙に浮いた。
そして、通路の角から、緑色の巨体が姿を現したその瞬間。
私は、それを解き放った。
通路の角から姿を現したホブゴブリン。
その醜悪な顔面に、二つのサバ缶が、寸分違わず吸い込まれていった。
ガンッ! ガンッ!
鈍い音が二つ響き、ホブゴブリンが、たたらを踏む。
「グ……ギィッ!」
だが、致命傷には程遠い。
奴は、顔面にめり込んだ缶詰を、巨大な手で乱暴に引き剥がすと、真っ赤に充血した目で、私を睨みつけた。
額から、緑色の、粘り気のある血が流れている。
それが、奴の怒りの導火線に、完全に火をつけたらしい。
「グオオオオオオッ!!」
再びの咆哮。
ホブゴブリンは、手にした錆びた斧を振り上げ、通路脇の棚へと、力任せに叩きつけた。
ガッシャアアアン!!
凄まじい破壊音と共に、金属製の棚が、めちゃくちゃにひしゃげる。棚に並んでいた瓶詰や缶詰が、床に散乱した。
「……っ!」
なんて、パワーだ。
あんなものに殴られたら、私の貧弱なステータスなんて、一撃でミンチにされてしまう。
私は、後ずさりながら、床に散らばった瓶を、次々と『マインド・バレット』で射出する。
だが、ホブゴブリンも、ただの馬鹿じゃない。
今度は、ひしゃげた棚の一部を、まるで盾のように構え、瓶の弾丸を防ぎ始めた。
キン! カン! と、ガラスが砕ける甲高い音だけが、虚しく響く。
「まずい……!」
じりじりと、距離を詰められていく。
奴のリーチに入ったら、終わりだ。
私は、ファンネルのように、複数の瓶を、盾の隙間を縫うように、様々な角度から撃ち込む。
しかし、奴は、的確にそれを叩き落とし、あるいは、分厚い腕で受け止めて、着実に、前進してくる。
その時だった。
ホブゴブリンが、盾にしていた棚を、私に向かって、投げつけてきた。
「――!?」
巨大な金属の塊が、風を唸らせて飛んでくる。
咄嗟に、横っ飛びに回避する。
棚は、私のすぐ横の床に激突し、火花を散らした。その破片の一つが、私の左腕を深く切り裂く。
「いっ……つぅ……!」
焼けるような、鋭い痛み。
見ると、腕から、だらだらと、赤い血が流れていた。
視界の端で、HPがごっそりと削られるのが見える。
HP: 45/45 -> 21/45
これが、ダメージ。
ゲームじゃない。死んだら、そこで、本当におしまいなんだ。
「グフフ……」
ホブゴブリンが、下卑た笑い声を上げる。
私の怪我を見て、私の恐怖を感じて喜んでいる。
もう、ジリ貧だ。
缶詰や瓶のような、軽い弾丸じゃ、奴に致命傷は与えられない。
――やるしかない。
私の脳裏に、あの、ずしりと重い、鉄の塊が浮かんだ。
私が、このスーパーに入ってくる前に、従業員用の通用口の近くに、わざわざ置いてきた、切り札。
鉄パイプ。
でも、そのためには、この通路を抜けて、一度、開けた場所に出なければならない。
ホブゴブリンの目の前を、突っ切らなければならない。
「……一か八か、だ」
私は、床に散らばる、ありったけの瓶や、缶詰や、商品のプラスチックケースを、十数個、同時に浮かび上がらせた。
MPゲージが、ぐん、と減る。
これが、今の私に出せる、全力の目眩まし。
「――いっけえええっ!!」
私の叫びと共に、大小様々な物体が、弾丸の雨となってホブゴブリンへと降り注いだ。
ガッシャアアアン!!
私が放った、ありったけのガラクタの弾丸が、ホブゴブリンの巨体に降り注ぐ。
そのほとんどは、分厚い皮膚と筋肉に阻まれて、たいしたダメージにはなっていない。
でも、それでいい。
奴が、その嵐のような攻撃に、一瞬でも、ほんの一瞬でも、怯んでくれれば!
「グ……オオッ!?」
ホブゴブリンが、鬱陶しそうに腕を振り回す。
――今だ!
私は、全力で、その脇を駆け抜けた。
心臓が、喉から飛び出しそうだ。
ホブゴブリンが、私に気づいて、腕を伸ばしてくるのが、スローモーションのように見えた。
その、醜悪な指先が、私の髪を数本引き千切っていく。
でも、私は止まらない。
そのまま、数メートル先の通用口のそばまで駆け抜ける。
あった。
私が立てかけておいた、無骨な鉄の塊。
「……私の、勝ちだッ!」
私は、振り返り様に、その鉄パイプを『マインド・バレット』の力で、掌握した。
MPゲージが、もうほとんど残っていない。
これが、最後の一撃。
これを外したら、私に次はない。
「グオオオオオオッ!!」
騙されたことに気づいたホブゴブリンが、怒りの咆哮を上げながら、私に向かって、猛然と突進してくる。
床が、揺れる。
全てを叩き潰さんと、その手斧が、大きく、振り上げられる。
――でも、遅い。
私の意識は、極限まで研ぎ澄まされていた。
「――死ねええええええええええっ!!」
生まれて初めて、心の底から叫んだ、純粋な殺意。
私の意思に応え、鉄パイプは、撃ち出された。
それは、もう、ただの鉄の棒じゃない。
一筋の銀閃。
それは、振り下ろされる斧の軌跡よりも、遥かに速く。
ホブゴブリンの、右目に吸い込まれていった。
――ズドンッ。
今までとはまったく違う重い音。
ホブゴブリンの巨体が、その場で、ぴたり、と動きを止める。
振り上げていた斧が、手から滑り落ち、床に、ガランと甲高い音を立てた。
ゆっくりと、その巨体が、後ろへと、倒れていく。
ドッッッッシイイイイイン!!!!
「…………はっ……ぁ……っ、はぁ……っ」
静寂が、戻る。
私は、その場に、へたり込んだ。
腕が痛い。足も、ガクガク震えて、力が入らない。
MPが空っぽになったせいか、頭が、割れるように痛かった。
でも、それ以上に。
「……う……っ、ぇ……」
こみ上げてくる、吐き気。
私の脳内に、けたたましいほどのアナウンスが、鳴り響いた。
【膨大な経験値を獲得しました】
【レベルが上がりました! Lv.6 -> Lv.7】
【レベルが上がりました! Lv.7 -> Lv.8】
【レベルが上がりました! Lv.8 -> Lv.9】
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汐見 凪
Lv. 9 (+3)
HP: 65/65 (+20)
MP: 1600/1600 (+200)
筋力: 12 (+2)
体力: 16 (+4)
敏捷: 20 (+5)
器用: 26 (+7)
幸運: 180
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レベルアップと同時に、体の痛みと疲労が、嘘のように消え去っていく。
……これが、レベルアップの、恩恵。
ホブゴブリンが消滅した後の床に、何か小さな革袋が落ちているのが見えた。
……あれが、ドロップアイテム?
私は、その革袋を拾い上げる気力も、今はなかった。
ただ、静かに座り込む。
勝った。
生き延びた。
今はただ、その事実だけを噛み締めていた。