探索、時々、駄菓子
ママチャリのペダルは、私の体重のせいか、ギィ、ギィ、と情けない音を立てた。
あんぱん一つと水で、とりあえず空腹と喉の渇きはマシになったけど、焼け石に水ってやつだ。根本的な問題は何一つ解決していない。
「……さて、どうしたものか」
自転車を漕ぎながら、私は静まり返った町を観察する。
改めて見ると、本当に奇妙な光景だった。
私がたまに通っていたラーメン屋は、壁が崩れ落ちて、蔦がびっしりと絡みついている。まるで、何百年も前からそこにあった古代遺跡のようだ。
「うわ、あのラーメン屋、遺跡になってる……」
なのに、その向かいにある建設途中だったはずのコンビニは、なぜかピカピカの新品みたいに真新しい。ガラスなんて、指紋一つ付いていないんじゃないかってくらいに。
「で、こっちは新品、と。なんだこのチグハグな感じ。世界の再構築でもバグったのかな」
何が起きたら、こんなことになるんだろう。作家としての好奇心が少しだけ頭をもたげたけど、すぐに生存本能がそれを黙らせた。今は、そんな悠長なことを考えている場合じゃない。
目標は、まず食料と拠点。
私は、自転車を漕ぎながら、開いている店がないかを探す。
スーパーもコンビニも、予想通り、ガラスが割られて中は荒らされ放題だった。まあ、そうなるよね。私みたいな考えの人間が、他にもいるってことだ。
「となると、狙い目は……」
私の視線が、一軒の古びた店先に止まった。
小学生の頃、たまに寄り道した、小さな駄菓子屋だ。
こういう、いかにも儲かってなさそうな個人商店。案外、見過ごされてるんじゃないだろうか。
私は自転車を止め、抜き足差し足、猫みたいに店へと近づく。
ガラスの引き戸は、鍵が開いていた。ラッキー。……いや、幸運が仕事したのか。
店内は、外からの光が届なくて薄暗い。でも、荒らされた形跡はなかった。棚には、懐かしいパッケージのお菓子やジュースが、一か月分の埃をかぶって、行儀よく並んでいる。
「……あった」
私は、自分のリュックに、保存が利きそうなチョコレートや、カロリーの高そうなスナック菓子を詰め込んでいく。瓶ラムネも見つけた。最高かよ。
これで、少なくとも二、三日は飢え死にすることはないだろう。
勝手に持ち去るのも申し訳ないので、一応カウンターに3千円ほど置いておいた。
よし。食料の次は、拠点だ。ちゃんと屋根があって、夜にモンスターが乱入してこないような、安全な場所。
私は再び自転車に跨り、今度は建物を意識しながら町を巡る。
頑丈で、出入り口が少なくて、できれば二階以上。そんな都合のいい物件が……。
そう思いながら、商店街を抜けて、大きな通りに出た瞬間。
私は、思わずペダルを漕ぐ足を止めた。
目の前に、それはあった。
三階建ての、重厚なコンクリート造りの建物。
私が子供の頃、夏休みのたびに入り浸っていた場所。
「……市立図書館」
町の中心部に立つ、地域のランドマーク。
静かで、頑丈で、そして何より、本がたくさんある。
あそこなら……。
私は、ごくりと喉を鳴らす。
今日の寝床は、あそこに決まりだ。
***
目的地が決まれば、話は早い。
私は、市立図書館へと続く、だだっ広いアスファルトの道を進んでいく。
駄菓子屋でのささやかな成功体験が、少しだけ私を大胆にさせていた。もしかしたら、この世界、私の「幸運」があれば、案外イージーモードなんじゃないか、なんて。
……まあ、そういうフラグを立てたがるのが、私の悪い癖なんだけど。
図書館の正面入り口に、自転車を止める。
重厚なガラスの自動ドアは、ピクリとも動かない。当然だ、電気なんて通ってないんだから。
けれど、よく見ると、ドアの脇にある職員用の通用口が、ほんの少しだけ、開いていた。
「……お邪魔します」
誰に言うでもなく呟いて、私はその隙間に、するりと体を滑り込ませた。
中は、シン、と静まり返っていた。
高い天井まで届く巨大な本棚、ずらりと並んだ閲覧席。私が知っている図書館のままだ。ただ、そこに、人の気配だけが、すっぽりと抜け落ちている。
外からの光が届きにくい館内は、昼間だというのに薄暗かった。
「さて、と。まずは、安全確認……」
ここを拠点にするなら、少なくとも一階に危険がないかくらいは、調べておかないと。
私はリュックから、さっき駄菓子屋で見つけて、ついでに拝借してきた小さな懐中電灯を取り出した。スイッチを入れると、頼りない光の円が、前方の闇を照らし出す。
貸し出しカウンターの裏、閉架書庫へと続く通路。職員しか入れない、薄暗い空間だ。
なんとなく、嫌な予感がする。こういう場所って、お約束だと何かが出る。
――カサリ。
「!」
奥の暗闇から、何かが動く音。
懐中電灯の光を、音のした方へと向けると、光の円の中にソレはいた。
大きさは、中型犬くらい。
全身が、ぬらりとした粘液に覆われていて、色は、熟したトマトみたいな、不気味な赤色。目も、鼻も、口もない、不定形の塊。
……スライム、だ。
異世界ファンタジーの代表格。最弱モンスターの代名詞。
でも、本物は、ぜんぜん可愛くなんてなかった。
地面をずるずると這いながら、ゆっくりと、しかし確実に、こちらへ向かってくる。
心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
「……やるしか、ない」
ここで逃げたら、この図書館は拠点にできない。
私は懐中電灯を床に置き、震える手で、足元に転がっていたハードカバーの本を拾い上げた。これが、私の弾丸。
右手を、スライムへと突きつける。
『マインド・バレット』。
出せる。出せるはずだ。さっきは、できたんだから。
あの、小石が浮き上がって、弾け飛んだ時の感覚を、頭の中で必死にリプレイする。
スライムとの距離が、あと、五メートル。
焦りと、恐怖で、指先が冷たくなっていく。
「……落ち着け。対象を、強く、認識する……!」
そうだ。あの時と違うのは、目の前に、明確な「敵」がいること。
潰れたミミズの気持ち悪さ。軽トラックに空いた、ありえない穴。そして今、目の前で、私に向かってくる、赤い怪物。
その全てが、私の脳内で一つの像を結ぶ。
――いける。
ふわり、と。
私の手に持ったハードカバーの本が、宙に浮いた。
来た……!
目の前の赤いスライムは、私が謎の浮遊物体を生み出したことなど気にも留めず、のそりのそりと距離を詰めてくる。もう、目と鼻の先だ。
でも、不思議と、もう怖くはなかった。
「いっけえええええっ!!」
私の絶叫と、本が射出されたのは、ほぼ同時だった。
風を切る、という生易しい音じゃない。空気が、破裂した。
放たれた本は、白い軌跡を描きながら、銃弾と見紛うほどの速度で赤いスライムの胴体(?)へと突き刺さる。
――ブヂュッ!
鈍い、水風船が破裂するような音。
スライムの体は、本の直撃を受けて、あっけなく四散した。赤い粘液が、床と本棚に、べちゃりと飛び散る。
残ったのは、原形を留めないほどに角が潰れ、ページが破れた本の残骸だけ。
「やっぱ強くない…?これ…」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
なんだこれ。強すぎないか、このスキル。
石ころや本でこれだ。もし、もっと硬くて鋭いもの……例えば、鉄パイプなんかを飛ばしたら、どうなるんだろう。
私が、そのとんでもない威力に呆然としていると、頭の中に、あの電子音が響いた。
【経験値を獲得しました】
【モンスターを討伐しました。称号『スライム・スレイヤー』を獲得】
【レベルが上がりました! Lv.2 -> Lv.3】
「お、レベルアップ。……ん? スライム・スレイヤー?」
新しいウィンドウが開いて、称号の説明が表示される。
【スライム系のモンスターに対し、与えるダメージがわずかに上昇します】
なるほど。倒した敵によって、こういうボーナスも貰えるのか。
【Lv.3に到達しました。ボーナススキルを一つ選択してください】
さらに、新しいメッセージが続く。
私の目の前に、三つの選択肢が浮かび上がった。
・鑑定 Lv.1
・隠密 Lv.1
・身体強化 Lv.1
「……うわ、ガチのやつだ」
これは、悩む。隠密や身体強化も、この貧弱な私には、喉から手が出るほど欲しいスキルだ。
でも……。
「……今は、情報が一番、大事」
この世界がどうなってしまったのか。食べられるものは、安全な場所はどこか。スキルやアイテムの効果は。
分からないことだらけのこの状況で、最も頼りになるのは、確かな情報だ。
私は、迷わず、一番上の選択肢に意識を集中した。
【スキル『鑑定』を取得しました】
よし。
私は、早速スキルを試してみることにした。
意識を集中させ、さっき倒したスライムの残骸を見る。
「鑑定」
【名前:レッドスライムの死骸】
【状態:魔素に還りつつある。食用不可】
【備考:特になし】
「……うん、まあ、こんなもんか」
思ったより、情報は少ない。
次に、自分が弾丸として使った本の残骸を鑑定する。
【名前:『世界文学全集⑱』の残骸】
【状態:破損。修復不可】
【備考:鈍器としてなら、まだ使えるかもしれない】
「ごめん、世界文学……」
なんとなく、申し訳ない気持ちになった。
でも、これで分かった。このスキルは、万能じゃない。本当に、基本的なことしか分からない。
でも、それでもいい。今の私にとっては、大きな一歩だ。
私は、スライムがいた暗闇の奥を、もう一度懐中電灯で照らす。
もう、動くものはいない。
よし。これで、この図書館は、私の拠点になった。
私は、職員用の通用口を内側からしっかりと施錠し、カウンターの裏にあった椅子に、深く、深く、体を沈めた。
どっと、疲労感が押し寄せてくる。
でも、それは、家で感じていた無気力な疲れとは、まったく違う種類のものだった。
「……さて、と」
私はリュックから、さっき手に入れたチョコレートを一つ取り出す。
「まずは、この図書館の探索から、だな」
甘いチョコレートをかじりながら、私は、この終末世界で、初めての「明日からの計画」を、立て始めていた。
称号はモンスター討伐時に極低確率で、レベルアップ時のボーナススキルも低確率で入手となっています。
あれ?確率……?