スライムの親玉
病院についての知識が乏しいので、もし間違っている部分があれば申し訳ないです。
ブーツの底でガラスの破片が、ジャリっと音を立てる。
うわ、うるさ。
こんなしんと静まり返った場所だと、自分の足音ですら心臓に悪いんですけど。
それにしても……綺麗すぎる、ここ。
非常灯の緑がかった明かりが、やけに清潔な床を照らしてる。スーパーで見たような、荒らされたり腐ったりした跡が全然ない。床には埃一つなく、薬品の匂いだけが空気に染み付いている。
受付カウンターの上には書類が散らばっていて、待合室の長椅子には読みかけの雑誌がぽつんと一冊。
まるでさっきまでここで人が普通に生活していて、その人々だけが忽然と消えちゃったみたいだ。
(……うん。これはかなり、趣味が悪い場所だな)
いっそのこと派手に血痕とか、何かの巣になってた方がまだ心の準備ができた。
この整然とした静寂は、ホラー映画でよくある「この後、絶対何かが角から出てくる」っていう一番嫌な静けさだ。
私の周りを五本の『マインドジャベリン』が、ゆっくりと旋回してる。
左腕のヨツバも、きゅうっときつく私に絡みついてきた。うんうん、君もこの雰囲気嫌いだよね。分かるよ。
(まずは情報収集。こういう時の鉄則だ)
受付カウンターの近くに、院内のフロアマップがあった。ラッキー。
埃をかぶったアクリル板を、指でそっと拭う。
「一階が受付と外来診察室。二階と三階が入院病棟で……薬局は、と」
以前、医療ミステリーを書いていた頃を思い出す。プロットに行き詰まっていた私に、担当編集者が「現場を知らないからですよ」なんて言うものだから、私はむきになってドラッグストアでアルバイトを始めたのだ。あの時、嫌々覚えた薬品の知識や病院の構造が、こんな形で役に立つなんて。
(確か、院内薬局は一階の外来会計の近くにあるはず……)
地図を見ると、やはり思った通りだった。一階の一番奥。西側の棟だ。
よし。今日の目標は、そこ一択。
最短ルートで行って、必要なものを確保したら即撤退。長居は無用だ。
私は薬局のある西棟へと続く、薄暗い廊下へと足を踏み出した。
自分の足音が、ひた、ひたと響く。
両脇には診察室のドアがいくつも固く閉ざされていて、なんだか気味が悪い。
って思ってたら。
床に何か、奇妙な「跡」が続いてるのを見つけちゃった。
(……なにこれ?)
血じゃない。
ほとんど無色透明で、ぬらりとした光沢がある。巨大なナメクジでも這った後みたいだ。
しかもこの跡、私が目指している西棟の奥へとまっすぐ続いてるんですけど。
……嫌な予感しかしない。
「鑑定」
【名称:???の粘液】【状態:新鮮】【備考:微弱な魔力反応あり。進行方向に注意】
(「新鮮」ってことは、まだこの近くにいるってことじゃん!)
しかも、この粘液の主は間違いなくモンスター。
行き先は私と、同じ。
……やっぱり目的地の近くには、何かがいるってのがこの世界の定番らしい。
廊下の突き当り。
そこを曲がれば薬局は、もうすぐそこだ。
角からそっと、奥を窺う。
「おくすり」と書かれた窓口が見えた。
そしてその手前の床に、粘液の跡が水まりのように広がっている。
――ピチャ……ピチャ……。
微かな水音が聞こえる。
天井からだ。
見上げると、そこには換気口。
その格子状になった鉄の蓋の隙間から、さっきの粘液がゆっくりと滴り落ちていた。
そして、その奥。
闇の中で、何かが蠢いている。
……うわ、出た。ホラーで一番やっちゃいけないやつ。天井にいるタイプだ。
(……やるしかない、か)
後退りしたい気持ちを、ぐっと堪える。
ここで逃げてもどうせ、この先でまた出会うことになる。だったら先手が打てる、今の方がずっとマシだ。
私は左腕のヨツバに、そっと意識を向けた。
(ヨツバ、準備して。何か落ちてきたら、防いで)
私の意思に応えて、腕に絡んでいた蔓がするりと硬質化する。
よし。これで最低限の防御はできた。
次に攻撃だ。
私は旋回させていた五本の『マインドジャベリン』のうち一本を、ゆっくりと換気口の真下へと移動させる。
そしてその先端を、真上へと向けた。
(まずはご挨拶。これで出てきてくれると、ありがたいんだけど)
ヒュンッ、という短い飛翔音。
ジャベリンは垂直に、一直線に換気口の鉄格子へと突き刺さった。
ガランッ!と、けたたましい金属音。
――ブチュルルルルッ!
次の瞬間。
破壊された鉄格子から、濁った半透明の巨大な塊が、滝のように床へと流れ落ちてきた。
スライムだ。
でも図書館で会ったあの赤いスライムとは、比べ物にならないくらい大きい。しかも。
そいつが着地した床が、ジュウウウッと音を立てて溶けていく。
「鑑定」
【名称:アシッド・スライム】【レベル:18】【備考:強力な酸性の体液を持つ。物理攻撃はほとんど効果がない】
(レベル18!? しかも物理が効かない!?)
まずい。これはかなり、相性が悪い。
私のジャベリンは純粋な物理攻撃だ。
酸で溶かされてしまうかもしれない。
アシッド・スライムは、その不定形の体をうねらせる。
そしてその体の一部が鞭のようにしなり、私に向かって酸の体液を飛ばしてきた。
「――っ!」
私は咄嗟に横へ飛んで、それを回避する。
酸の雫が私のすぐ横の壁に着弾し、白い煙を上げて壁紙を溶かしていく。
(……やっかいすぎる!)
でも、弱点がないわけじゃない。
どんなスライムにも「核」があるはずだ。
鑑定の備考欄には書いていなかった。ってことは体の外からじゃ、見えない場所にある。
……つまり、内部だ。
やることは一つ。
あのぶよぶよした体をこじ開けて、中の核を直接叩く。
私は残りの四本のジャベリンを、扇状に展開させた。
そしてその全てを、スライムの別々の場所めがけて同時に撃ち込む。
ブチュッ!ブチュッ!
ジャベリンはいとも容易く、スライムの体を貫通した。
だが、手応えがない。
まるで水飴に箸を突き刺したみたいだ。ダメージはほとんど入っていない。
――でも、これでいい。
スライムの巨体に、四本の黒い杭が突き刺さっている。
その光景は、まるで標本みたいだ。
(見つけた)
ジャベリンが体を貫通した、その一瞬。
半透明の体のその奥、中心部。
ほんのり赤く発光する、小さな塊が見えた。
あれが、核だ。
私は最初に換気口に撃ち込んだ最後の一本のジャベリンを、手元へと呼び戻す。
そしてその先端に、私の全ての意識を集中させた。
――一点突破。
狙うは四本のジャベリンが突き刺さった、その中心点。
「――そこだっ!!」
私の叫びと共に、最後の一本が閃光のように撃ち出された。
それは他の四本がこじ開けた傷口へと、寸分違わず吸い込まれていく。
そして。
――パリン。
何か硬いものが砕ける小さな音がした。
途端に。
アシッド・スライムの巨体は、まるで風船が萎むように急速にその体積を失っていく。
そして数秒後には、床に酸性のぬるぬるとした水たまりだけを残して、完全に消滅した。
ふぅ、と大きく息を吐く。
勝った。
勝ったけど精神的な消耗が結構あるな。
私が突き刺さったままのジャベリンを回収していると、頭の中にあのアナウンスが響いた。
【経験値を獲得しました】
【モンスターのレアドロップを確認しました】
(お、レアドロップ。やっぱり私の幸運仕事するなあ)
アシッド・スライムが完全に消滅した後のぬるぬるとした水たまり。その中心に、拳くらいの大きさのゼリー状の塊が青白く明滅しているのが見えた。
私はそれをおそるおそる、ハンカチで包んで拾い上げる。
【名称:腐食のスライムコア】【等級:レア】【備考:強力な酸性を秘めた魔石。武具に合成することで『酸』属性を付与したり、強力な薬品の材料になる】
(うわ、すごい。レア等級のアイテム、初めて拾ったかも)
酸属性の付与?
つまりこれを使えば、私のジャベリンを敵の装甲を溶かす対戦車ライフルみたいに強化できるってこと?
私はその貴重な素材を、大事にアイテムボックスへとしまう。
さて。
邪魔者もいなくなったことだし、いよいよ今日の本来の目的を果たさせてもらおうか。
私は薬局の窓口へと向かう。
「おくすり」と書かれたプレートの下、職員が中に入るためのドアは案の定、固く施錠されていた。
(まあ、そうだよな。でも今の私に鍵なんてあってないようなものだ)
私は左腕のヨツバに、意識を向ける。
(ヨツバ、お願い。ドアの下の隙間から中に入って、鍵を開けてくれる?)
私の意思に応え、ヨツバはするりと私の腕から離れた。
そしてまるで液体のようになったかのように、ドアのほんの数ミリの隙間から音もなく中へと侵入していく。
数秒後。
ドアの向こう側で、カチャリと鍵が開く小さな音がした。
(よくやった!こうして見ると結構頭良いのかもしれないな…)
私は自分の相棒のあまりの有能さに
感動すら覚えていた。
ドアを開けると、そこはまさに宝の山だった。
棚にぎっしりと、整然と並べられた無数の薬品。
(やった……! 大当たりだ!)
「これだけの薬、ロックされているのも当然か……」
まずは何より、広範囲に効く抗生物質。怪我からの感染症が一番怖い。……あった。「レボフロキサシン」に「アジスロマイシン」。
次に痛み止め。ただの鎮痛剤じゃなく、医療用の強力なやつ。それから、消毒液、滅菌ガーゼ、縫合セット……。
「これで深い傷を負っても、感染症の心配なく治療ができる」
これから治癒系のスキルが手に入ったらいらなくなるかもしれないが、こういった物資は取っておいて損はない。
今日の目標、完全達成だ。
とりあえず、ある程度の医薬品は取り終わった。
この不気味な病院に、これ以上長居する理由はない。
私は意気揚々と、病院を後にした。
帰り道は嘘みたいに、静かだった。
『隠密』と『空間把握』のおかげで他のモンスターに遭遇することもなく、私は夕暮れ時のオレンジ色に染まる町を、ゆっくりと自分の城へと帰っていく。
図書館の通用口を内側から閂で、固く閉ざす。
私はカウンターの裏の広いスペースに、今日の戦利品を全てぶちまけた。
山と積まれた医薬品の箱。
そして、青白く輝く腐食のスライムコア。
それを眺めながら、私はこの数日間の自分の変化を改めて感じていた。
ほんの少し前まで、小説のネタ集めに四苦八苦していた、引きこもりのしがない小説家だったのに。
今では格上のモンスターを倒し、危険な場所を攻略して、こうして戦利品を手にしている。
食料よし。
道具よし。
武器よし。
そして、医薬品よし。
(……うん。私の完璧な引きこもり要塞がまた一歩、完成に近づいたな)
私は満足のため息をつき、今日の夕食の準備を始めるのだった。




