街に降りてみました
覚悟を決めた、とは言ったものの。
ひっくり返った軽トラックの横を通り過ぎる足は、生まれたての小鹿みたいに、頼りなく震えていた。金属が焼けたような、油のような、嗅いだことのない匂いが鼻をつく。今すぐ踵を返して、あの汚いけど安全な我が家へ逃げ帰りたい。
「……何が『スキル』だ、バカ」
私は自分に悪態をつく。
あんな、得体の知れない力が手に入ったからって、何だっていうんだ。
そもそも、どうやって出すんだよ、アレ。さっきのは完全にまぐれだ。もう一度やれって言われても、絶対に無理。現に、あの後いくら念じても小石の一つも動かなかったじゃないか。
私は、諦めきれずにもう一度、さっき小石を弾き飛ばした時みたいに、前方の手頃な木に向かって人差し指を突きつけてみた。
心の中で、知っている限りのそれっぽい単語を叫ぶ。
『出ろ!』とか『撃て!』とか。『ファイアボール!』とか『サンダー!』とか。
……シーン。
やっぱり、ダメか。
うーん、どうなってんだろ。MPは有り余ってるはずだし、条件が違う?
もしかして「対象を強く認識する」とか? 「殺意」みたいなのがトリガーだったり……? いやいや、私にそんな物騒なものはない。
「……あ、そっか。ステータス」
忘れてた。これもコマンド入力式だった。
そう呟くと、視界にあの青いウィンドウが律儀に表示される。うん、やっぱり便利だ。
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汐見 凪
Lv. 2
HP: 30/30
MP: 1250/1250
筋力: 7
耐久: 9
敏捷: 12
器用: 16
幸運: 180
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幸運180。これが高いのか低いのか、相変わらず分からないけど、ミミズの一件を考えると、たぶん、かなり高い部類なんだろう。いわゆる幸運ビルドってやつか。他のステータスは軒並みゴミだけど。
「スキル、一覧」
今度は、そう呟いてみる。
すると、ステータス画面の横に、もう一つウィンドウが追加された。お、ちゃんと表示されるじゃん。
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スキル
・マインド・バレット Lv.1
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やっぱり。
でも、これだけ。説明書なし。不親切設計もいいとこだ。
まあ、いいや。今は、このスキルが「ある」ってことと、私の幸運がやたら高いってことだけ分かっていれば。
とにかく、今は町へ向かうのが最優先だ。
腹が減っては戦はできぬ、って言うし。……いや、戦なんてしたくないんだけど。
私はウィンドウを閉じ、改めて、麓の町へと続く山道を、一歩、また一歩と進み始めた。
***
自分のステータスとスキルを(一応)把握したからといって、もちろん何かが劇的に変わるわけじゃない。
相変わらず体力はないし、山道は歩きにくいし、何より、一人きりという心細さはまったくもって解消されない。……いや、むしろ、さっきまでより悪化しているかもしれない。
「はぁ……はぁ……っ、つかれた……」
さっきまでの妙な興奮が冷めてくると、どっと疲れが押し寄せてきた。運動不足にもほどがある。私は道の脇にあった、苔むした岩に、どっかりと腰を下ろした。
「……うん?」
ふと、視界の隅に、奇妙なものが映った。
私が腰かけている岩。そこに生えている苔が、ぼんやりと、青白く光っている。まるで、ゲームでよく見るレア素材アイテムみたいに。
「うわ、なにこれ、発光する苔? 初めて見た」
恐る恐る指で触れてみる。ひんやりとしていて、普通の苔と感触は変わらない。
……って、冷静に考えなくても、苔が光ってるっておかしいだろ。
そういえば、さっきから道の脇に生えている木々も、どこか異様だ。幹が、ありえない角度にねじ曲がっていたり、枝が不自然に絡み合っていたり。
「この山、なんか変だ」
私の身に起きたことだけじゃない。この山全体が、何かおかしなことになっている。
軽トラックの事故(?)、巨大ミミズ、そしてこの発光ゴケ。
でも、それはあくまで、この山の中だけの話かもしれない。麓の街は、きっと……。
「そうだよ、町は大丈夫に決まってる」
私は自分に言い聞かせるように呟く。
町には人がたくさんいるんだ。こんな異常事態が起きたら、とっくに警察や自衛隊が出動して、大騒ぎになってるはず。私が知らなかったのは、家にテレビも新聞もなくて、ネットも死んでたからだ。うん、きっとそう。
そう思うと、少しだけ、気分が軽くなった。
私は立ち上がり、再び歩き始める。幸い、道は下り坂だ。このまま進めば、いずれは町に着く。
どれくらい歩いただろうか。
木々の隙間から、見慣れた景色が少しずつ見え始めてきた。
アスファルトの道路。ガードレール。そして、街の名前が書かれた古びた看板。
「……着いた……!」
思わず、安堵のため息が漏れた。
やっと、やっとここまで来た。長かった。人生で一番長く感じた一時間かもしれない。
看板の向こうは、もう町の入り口だ。スーパーは、ここから歩いて十分とかからないはず。
早く行こう。早く、人のいる場所へ。
私は、ほとんど駆け足で、最後の坂道を下りきった。
――ぴたっ。
足が、止まった。
目の前に広がる光景に、私は言葉を失う。
広い道路には、一台の車も走っていなかった。
道端に乗り捨てられた乗用車が、ドアを開けっぱなしにしている。遠くの交差点の信号機だけが、誰に見せるでもなく、虚しく青と赤の点滅を繰り返していた。
人の声が、しない。
子供のはしゃぐ声も、車のエンジン音も、商店街の喧騒も、何も聞こえない。
風が、どこかの店の破れたシャッターをカタカタと揺らす音だけが、やけに響いていた。
「あれ、これってもしかして……」
私の最後の希望が、音を立てて崩れていく。
ここは、私の知っている町じゃない。
まるで、そこに住む人々だけが、忽然と消えてしまったかのような。
ゴーストタウン。
そんな言葉が、頭の中に浮かんでいた。
「……マジか」
誰に言うでもなく、乾いた声が漏れた。
私の知ってる町が、死んでいる。あのスーパーも、本屋も、全部。
一瞬、膝から力が抜けそうになる。泣き叫んで、全部夢だってことにしてしまいたい。
……でも、それで食料が出てくるわけじゃない。
「……落ち着け、私」
私は自分の頬を軽く叩く。
まずい。これは、かなりまずい状況だ。
でも、絶望するのは後だ。まずは、情報収集と、現状で出来ることを考える。
目標は、三つ。
一、食料と水の確保。
二、今夜、安全に眠れる場所の確保。
三、他の生存者がいないかどうかの確認。
よし。
こうして目的を整理すると、少しだけ頭がスッキリした。
問題は、どこを探索するか、だ。
スーパーやコンビニみたいな分かりやすい場所は、もし他に生存者がいたとしたら、もう漁られた後かもしれない。あるいは、何かヤバいのが巣食ってる可能性だってある。ゲームのセオリーだと、そういうもんだ。
「……だとしたら、狙い目は、個人商店とか、自動販売機とか……?」
私は辺りを見回す。
人通りがなくなったせいで、今まで気にも留めなかったものが、やけに目に付いた。
駅前の、小さなタバコ屋。その店の前に置かれた、ジュースの自動販売機。
「……!」
私は、ほとんど駆け足で、その自販機に駆け寄った。
ディスプレイの明かりは消えている。まあ、そうだろうな。
ダメ元で、コイン投入口の隣にある、お釣りの返却レバーを、ガチャガチャと何度か上下させてみる。
――カラン。
乾いた音がして、取り出し口に、百円玉が一つ、転がり落ちた。
「……おお」
思わず、声が漏れる。
これが、幸運の効果なのかな。こういう地味なところで仕事するタイプか、君は。
私はその百円玉を握りしめ、もう一度、町を見渡した。
そうだ。まだ、全部が終わったわけじゃない。
この世界には、理不尽なモンスターもいるけど、レベルやスキルもある。そして私には、このよく分からないけど、たぶん凄い「幸運」がある。
失われたものは大きい。私の愛した日常は、もうどこにもないのかもしれない。
小説の続きだって、もう書けないかもしれない。溜めてたアニメも、ソシャゲも、全部。
……それは、絶対に、嫌だ。
そのために、私は、このクソみたいな状況をなんとかしないといけない。
その時だった。
私の視界の隅、乗り捨てられた自転車置き場で、何かがキラリと光った。
一台の、何の変哲もないママチャリ。その鍵穴に、鍵が、差しっぱなしになっていた。
そして、その前カゴの中に、買い物袋が一つ、残されている。
私は、吸い寄せられるように、その自転車に近づいた。
袋の中を覗き込む。
入っていたのは、一本のミネラルウォーターと、未開封のあんぱんが一つ。
「…………」
私は、天を仰いだ。
「……仕事しすぎだろ、幸運」
私は、震える手でペットボトルの蓋を開け、乾ききった喉へと、命の水を流し込んだ。
最高に、美味しかった。
絶望的な状況は、何も変わっていない。
でも。
「……もうちょっとだけ、足掻いてみるか」
あんぱんを一口かじりながら、私は呟いた。
私はその自転車に跨り、ペダルに足をかける。
どこへ行くのか、あてはない。
けれど、とにかく、ここに留まってはいけない。
この町を探索して、拠点と、もっと多くの物資を探す。
「絶対に生き残ってやるさ……」
私は、ゴーストタウンと化した街の中を、静かに、ペダルを漕ぎ出した。
適応力◎