新しい寝床と、新しいスキル
ガチャリと背後で会議室のドアが閉められる。
その無機質な音を合図に私は張り詰めていた糸がぷつりと切れるのを感じた。
「……はぁー……つかれた……」
私はその場にへなへなと座り込む。
床は冷たくて硬い。でもそんなことどうでもよかった。
一人だ。
やっと一人になれた。
誰の視線もない。
誰の声も聞こえない。
この絶対的な安堵感。なんて素晴らしいんだろう。
私はしばらくそうして床に座り込んだままぼーっとしていた。
今日の出来事を頭の中で反芻する。
武器を作って忘れ物を取りに行って、そしたら待ち伏せされてて、化け物が出てきて、それを倒したら、なんか話の流れでここまで連れてこられて……。
「……どうしてこうなった」
私の孤独で静かで快適なサバイバル生活はどこへ行ってしまったんだろう。
ふと部屋の隅にあったキャビネットのガラス扉に自分の姿が映っているのが見えた。
フードを脱いだ私。
隈がひどくて髪もボサボサ。顔色も悪い。
……タツヤとかいう男「美人」とか言ってたけど。どこをどう見たらそうなるんだか。
ただの寝不足の引きこもりじゃんこれ。
「……今はそれどころじゃない」
私は頭をぶんぶんと振る。
感傷に浸っている暇はない。
私にはやるべきことがあった。
私はアイテムボックスからあの戦利品を取り出す。
きらきらと複雑な模様が内部でまたたくガラス玉。
『スキルオーブ:空間把握』。
「これを使えばスキルを覚えられる……」
私はごくりと喉を鳴らす。
どうやって使うんだろう。飲む? 食べる?
いやゲームだとこういうのはだいたいこうだ。
私はそのオーブを両手でぎゅっと握りしめた。
そして強く念じる。
――この力を私に。
その瞬間。
パリンとガラスが砕けるような軽い音がして。
オーブは私の手の中で無数の光の粒子と化した。
光は私の手のひらの皮膚をすり抜けて体の中へと吸い込まれていく。
ひんやりとした不思議な感覚。
痛みも何もない。
そして。
【スキル『空間把握 Lv.1』を取得しました】
頭の中にアナウンスが響いたのとほぼ同時。
私の世界が変わった。
「なんだ、これ」
目を閉じているのに。
見える。
いや見えるんじゃない。「分かる」んだ。
この部屋の形。机と椅子の配置。天井の高さ。壁の厚み。
その全てがまるで頭の中に直接設計図を流し込まれたみたいに完璧に理解できる。
私は恐る恐るその新しい「感覚」を部屋の外へと伸ばしてみる。
壁をすり抜けて。
廊下の形。床の材質。
さっき私を案内してくれた修一さんが角を曲がって階段を上っていくその人の「気配」。
階下のロビーにいるたくさんの人々のざわめき。
誰かが咳をした音。
子供が笑った声。
その全てが。
私の頭の中に一つの立体的な情報となって流れ込んでくる。
「……すごい」
なんだこの神様みたいな視界は。
これがあればもう物陰に隠れた敵に不意打ちされることもない。
誰かと角で鉢合わせすることもない。
コミュ障にとってこれ以上ない最高のスキルだった。
神様みたいな新しい「眼」を手に入れて。
私はしばらくその不思議な感覚に夢中になっていた。
目を閉じたまま部屋の中を歩いてみる。ぶつからない。
壁の向こうの廊下を歩く人の数を数えてみる。三人。一人は足を引きずっている。
……すごい。すごすぎる。
これさえあればもうモンスターや人間との不意の遭遇に怯えなくて済む。
私が一人でそのとんでもないスキルの性能実験に興奮していたその時。
コンコンと部屋のドアがノックされた。
「――っ!?」
咄嗟に身構える。
『空間把握』でドアの向こうに一人の人間の気配があるのは分かっている。修一さんだ。
でも分かっていても心臓が跳ねる。
「ナギ。俺だ、修一だ。……入らないから少しだけいいか?」
ドアの向こうからの穏やかな声。
私は唾を飲み込みか細い声で答えた。
「……はい」
「疲れているところすまない。一つ提案なんだが。……シャワー浴びないか? お湯沸かしてある」
「…………え?」
シャワー?
お湯の?
私は自分の耳を疑った。
図書館での生活は衛生面が最大の課題だった。体はホームセンターで手に入れた大量のウェットシートで毎日拭いていた。髪も水が不要なドライシャンプーでなんとかごまかしていた。
でもやっぱりちゃんとしたお風呂には入れない。
温かいお湯で汗を流すなんて、もうしばらくできないことなんだと諦めていた。
「……いいんですか?」
「ああ。本当は物資も燃料も貴重だからみんな二日に一回なんだが。……あんたは特別だ。初日だしな」
その修一さんの言葉に私のコミュ障としての警戒心と。
一人の女性としてのお風呂に入りたいという根源的な欲求が天秤の上で激しく戦った。
そして。
「………………お願いします」
勝ったのは後者だった。
その後私はタツヤの妹だという快活な少女に案内され、地下にある臨時のシャワールームへと向かった。
そこはもともと職員用の更衣室だったらしい。ドラム缶で沸かしたお湯をポンプで汲み上げて使う簡易的なシャワー。
でも今の私には世界で一番豪華なお風呂に見えた。
温かいお湯が頭からつま先までを流れ落ちていく。
ああ……。
声が漏れる。
体の汚れと一緒に心に溜まっていた澱みたいなものまで全部洗い流されていくようだった。
シャワーを終え借りたタオルで体を拭き鏡の前に立つ。
隈はまだ残っている。
でも泥と汗にまみれていた薄汚い女はもういない。
きちんと洗われた黒髪はサラサラと指の間をすり抜けていく。
「…………」
私はただ黙って鏡の中の自分を見つめていた。
自室に戻りドアを閉め鍵をかける。
ふぅと今日何度目か分からない安堵のため息が漏れた。
一人だ。
やっとまた一人になれた。
私は部屋の隅に用意されていた簡素な寝袋へと体を滑り込ませた。
清潔になった体と借り物の少しゴワゴワした服。
シャワーのおかげでさっぱりはした。さっぱりはしたんだけど……。
――ざわざわ……。
――……だから、あれは……。
――ウェーン、ウェーン……。
壁の向こうから隣の部屋から廊下から、絶えず人の気配が音が流れ込んでくる。
話し声、咳払い、子供の泣き声。
私の完璧な静寂に満ちていた図書館の城とは大違いだ。
「……静かにしてほしいとまでは言わないけど。もうちょっとボリュームを下げてくれないだろうか……」
私の切実な願いはもちろん誰にも届かない。
これじゃ気になって眠れそうにない。
私はうんざりしながら目を閉じた。
そしてさっき手に入れたばかりの新しい「眼」――『空間把握』のスキルを起動させてみる。
途端に。
私の頭の中にこの市役所の立体的なマップが広がった。
音や気配がただのカオスな情報じゃなく、位置と人数を持ったアイコンのように認識できる。
下の階のロビーに十数人。
上の階の廊下を規則正しく往復している二つの気配。……あれが見張りか。
隣の部屋では母親らしい気配が泣いている赤ん坊をあやしている。
その無数の人の営み。
それはうるさくて鬱陶しくて私のプライバシーをガンガン侵害してくる不快なもののはずだった。
……はずなんだけど。
どうしてだろう。
図書館で一人きり完璧な静寂の中で眠っていた時よりも。
私の心は不思議と穏やかだった。
私は遠くで泣いている赤ん坊の声を子守唄代わりにしながら。
いつの間にか深い深い眠りへと落ちていった。