引きこもり、詰む
人間、ネット環境を失うと、三日でダメになる。
どこかの誰かが言っていた言葉が、今になって骨身に染みていた。ソースは、言うまでもなく私だ。
「……ラスト・めし……」
年季の入ったちゃぶ台の上、小さな土鍋から頼りない湯気が立ち上っている。
中身は、炊飯器の釜にこびりついた米粒を執念で集め、冷蔵庫の奥から発掘した最後の卵を割り入れ、カチカチの味噌を溶かしただけのおじや。これが、この家にある最後の食料。もはや笑えてくる。
木のスプーンで、ふうふうと息を吹きかけながら一口すする。
熱く、しょっぱい味が、空っぽの胃にじわじわと染み渡っていく。ああ、生き返る。このじんわりと熱が広がる感覚、どんなご馳走にも勝るんじゃないかな。……まあ、これが最後の晩餐だなんて、絶対に認めたくないけど。
私の仕事は、しがない小説家。まあ、ラノベ作家だけど。家に籠もってポチポチ文字を打つ、そんな稼業だ。
この古い平屋は、数年前に亡くなった祖父母から譲り受けたもの。壁は黄ばみ、床板は歩くたびにみしみし鳴る。夏は地獄で冬は極寒。
それでも、周囲に民家がないという一点において、ここは最高の執筆環境……いや、最高の引きこもり環境だった。
その楽園が崩壊したのは、もう一か月ほども前。
ネットが死んだ。
最初は山奥あるあるだと軽く考えていた。ルーターを百度くらい再起動し、最終的には業者に電話した。「ああ、その地域、なんか障害出てるみたいですねー。近日中には……」電話の向こうの担当者は、いかにもやる気なさそうな声でそう言った。絶対ソシャゲの周回でもしながら電話してたに違いない。
そして、その「近日中」が、永遠に来ることはなかった。
数日後にはスマホも圏外。私のライフラインは完全に断たれた。
担当編集への「進捗ダメです」という生存報告も、無限に見てられた通販サイトも、義務と化していたソシャゲのログインボーナスも、全てが過去のものになった。
締め切りという名の首輪が外れた駄犬は、それはもう見事に堕落した。
「今日は休憩」が「昨日も休んだし今日も」に変わり、いつの間にか「今日も一日、頑張らない!」が座右の銘になっていた。
生活のリズムは崩壊し、部屋はどんどん汚くなっていく。
床には漫画やラノベの地層が形成され、空のカップ麺容器が危ういバランスで積み上がっている。
たまに姿見の前に立つと、本気で「誰?」って声が出そうになる。目の下のクマは居座り、髪はバサバサ。血色? なにそれ美味しいの?
「……まあ、いっか。誰に見せるわけでもないし」
社交性のステータスなんぞ、とうの昔に捨てていた。
やがて、小鍋の底がつるりとした肌を見せる。
ああ、終わってしまう。名残惜しく、最後の一粒まできれいに平らげた。
ごちそうさま。誰に言うでもなく呟いて、私は空になった土鍋を、静かにちゃぶ台へ置いた。
***
さて、と。
空になった土鍋を、シンクまで持っていく。蛇口をひねると、勢いよく水が飛び出した。テレビは砂嵐だし、ネットも電話もダメだけど、電気や水道は普通に来ている。本当に、中途半端なインフラ障害だった。
その冷たい水をコップに一杯注ぎ、ごくりと喉を鳴らす。胃の中で、さっきのおじやがずしりと重みを増した気がした。これが、最後の満腹感。……次はない。
ぼんやりと、キッチン脇の窓の外を眺めた。
鬱蒼と茂る木々の緑。その遥か向こう。靄がかかったように霞んで見えるのが、麓の町のビル群だ。あそこまで行けば、コンビニも、スーパーもあるはずだ。煌々と明かりが灯り、人々が行き交い、商品は棚にぎっしりと並べられている。……そう、私の知らないところで、世界はいつも通りのはずなのだ。
そうなると、もうやることは一つしかない。
この安全な殻に閉じこもるのをやめて、麓の町へ行き、食料を確保する。
……頭では、分かっている。分かってはいるけれど。
「はぁ…………なんで、私が……」
一か月ぶりの外出。人に会うかもしれない。会話を、しなければならないかもしれない。
スーパーのレジで、「袋、ご利用ですか?」……うぅ、あの定型文が、なんであんなにラスボス前のセリフみたいに聞こえるんだろう。
考えただけで、胃のあたりが、きゅうっと締め付けられるように痛む。
でも、このコミュ障特有の苦痛と、じわじわと、しかし確実に迫ってくる餓死の恐怖。天秤にかけるまでもない。飢えて死ぬのは、さすがに「詰み」だ。そんな間抜けなゲームオーバーはごめんだった。
「行くか……麓の町へ……」
誰に聞かせるでもない決意を、独りごちる。
重い、重い腰を上げ、クローゼットの奥からよれよれのジーンズを引っ張り出した。うわ、一か月ぶりの、ジャージ以外の感触。ごわごわして、窮屈だ。やっぱりジャージは最高だった……。
Tシャツの上に、いつも通りパーカーを羽織る。フードを目深にかぶれば、少しはマシなはずだ。気休めにしかならないけど。
食料調達。ただの用事。
世界がこうなる前は、ネット通販のボタン一つで終わっていた単純なタスク。
それが今の私には、とてつもなく高い壁のように感じられた。まるで、魔王城にでも乗り込む気分だ。
いや、よそう。そんな大袈裟なものじゃない。
ただ、麓の町まで下りて、スーパーで買い物をして、帰ってくる。
それだけだ。
それだけのことが、ひどく、おっくうだった。
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