1 あなたを愛することはありませんわぁっ!
「お前を愛することは――」
「あなたを愛することはありませんわぁっ!」
キャロライン――今日からハーバート公爵夫人になった彼女の、いやに澄み切った美しい声が寝室に響いた。
そして今日から彼女の夫となるハロルド・ハーバート公爵は、大きな声に思わず顔をしかめる。歌を奏でるような綺麗な声ではあるが、キンキンと耳の奥まで突き刺してくるのだ。
「は……?」
数拍して、なんとか気を持ち直した彼はやっと言葉を発した。自分が言おうとしたセリフを妻に先に越されて、不服と疑問が混じって胸がモヤモヤしていた。
「ですから、あなたを愛することはないと申し上げましたの。旦那様」
対してキャロラインは、何の問題もないかのように、涼しい顔で繰り返して言う。
「わたくしたちは政略結婚。なので公爵夫人としての義務は果たします。ですが……」
――びしぃっ!
ヒラヒラしたネグリジェ姿の彼女は、どこに隠していたか分からない紫色の扇をすっと夫に突き付けて、
「わたくしがっ! あなたをっ! 愛することはっ! ありませんことよおぉっっっ!!」
広々とした公爵邸の隅々まで届きそうな大声で叫んだ。
「分かった! 分かった! 分かったから、声のボリュームを落とせっ!」
ハロルドは耳を塞ぎながらも、負けじと叫び返す。一日分の疲労が岩みたいな塊となって、にわかに己を襲った気がした。
義務的な結婚式を終えて、義務的な初夜は拒否して、今後の二人の関係を分からせてやるつもりだった。
でも、妻のほうから先に……正確には夫の言葉を遮って、言いやがった。
子供の頃から常識的な教育を受けてきた公爵にとって、それは青天の霹靂だった。
なので、言い返す前に一瞬だけ思考が停止してしまったのだ。そして、出遅れた。
「わたくしは……あなたを……愛することは……ございませんわ……!」
キャロラインは、今度は蚊の鳴くような声で言った。わざとらしく両手を口元に持ってきて、お茶目にバチンとウインクまでして。
(この女……マジで面倒だな)
ハロルドは本能的にそう感じた。同時に、これまでにない不穏な感情が心に広がりはじめる。
この結婚は王命であり、政治的にもメリットがあるので受けた契約だ。
彼女が社交界の噂通りの令嬢なら、金だけ与えて仮面夫婦を貫けば良かった。
しかし、眼前にいる妻は悪女どころではない……ような。
とにかく、得体の知れない恐ろしい者の気配がしたのだ。
背筋に悪寒が走った。
自分の選択は間違っていたのだろうかと、ここに来て初めて不安に思った。
「旦那様〜! 聞いていますの!?」
妻の言葉ではっと我に返る。
(そうだ、今はこの女に今後のことを伝えなければ)
ハロルドは気持ちを切り替えるようにコホンと咳払いをして、
「いいか。私はお前を愛することはない」
「えぇ。先程おっしゃっていましたものね」
「分かっていて遮ったのか!?」
「先攻を取るのは基本ですわ!」
「では、私の言わんとすることは分かっているな」
「もちろんですわ!」
理解の早い妻に、ハロルドは満足そうに頷く。なんだ、面倒くさそうな女と思っていたが、意外に分かってるじゃないか。
「我々は契約結婚だ。当然、そこに愛はない。私はお前を愛することはないし、お前も私を愛することはない」
「そうですわね」
「だが我々は貴族だ。最低限の義務は果たす」
「了解ですわ〜!」
「よし、解散!」
「お行きなさいっ!」
――びしぃっ!
キャロラインは再び扇を使って入口の扉を指さした。
「っ……」
なんだか命令されているようで癇に障ったハロルドだったが、ひとまず当初の目的は果たしたので部屋を出ることにした。
今の二人の距離を表すかのように、バタリと大きく音を立てて扉が閉まる。その重い音が、彼をさっさと追い出しているように感じて不快だった。
(これでいい……)
ハロルドは自分に言い聞かせるように頷く。最初から期待させないほうが賢明なのだ。政治的な思惑で結ばれた二人は、政治的な役割を果たすのみだ。
そんなことを考えながら自室へ向かっていると、
――ドン!
と、さっき彼が閉めたよりも大きな音を立てて、キャロラインの部屋の扉が勢いよく開いた。
そして、
「旦那様ぁ〜〜〜! 今夜の約束、決してお忘れになりませんことよぉ〜〜〜っ!!」
彼の妻は、馬鹿デカい声で言ってきた。
「なっ……!」
ハロルドは少しだけ放心状態になった後、はっと我に返ってドタドタと妻の元へ戻った。
「大声を出すなっ! もう深夜だぞっ!」
「念のための確認ですわ。わたくし、実は心配性ですの」
「うるせーっ!!」
バタンッ、と彼は叩き付けるように扉を閉める。板の向こうで「ぎゃんっ!」と声がした気がしたが、無視をした。
一刻も早くアレから離れたくて、早足で自室に戻る。
(くそっ!)
とんでもない女を呼び込んでしまったかもしれない。
冷静沈着で怜悧なハロルドは、生まれて初めて己の浅慮さを責めた。
(私は……選択を間違ったのかもしれない……)
これが、ハーバート公爵家の『家族』の始まりだった。
◇
「ふっ……ふふふっ……」
バタリと閉まった扉を眺めながら、キャロラインは口元に弧を描いて笑った。
強引に封印されてちょっと鼻が痛かったが、これからのことを妄想するとこれくらいへっちゃらだ。
「計画通りですわぁ〜っ!」
ニヤリ、と今度は口の端を歪ませて笑う。これまでの道のりを振り返ると、達成感で胸が熱くなった。
クソヴォケクズカス王太子――略してクソ太子の婚約破棄からここまで、短いようで長かった。耐えて耐えて我慢して、やっと自由への第一歩を手に入れたのだ。
キャロラインは悪女らしい黒紫色の扇を、勢いよく広げて宙に放り投げた。
「わたくしの、異世界☆キラキラお貴族ライフのはじまりですわぁっ!」
キャロライン・ハーバートは、転生者だった。