魔法のナイフと愛の呪い
「人魚姫は王子様を刺しちゃダメだって、誰が決めたんだろうね」
自分の心臓の音が響くだけの世界に降りてきたのは、はっきりとしたアルトの声だった。
言葉の内容を理解するよりも先に、美しい声とはこういうものなのだな、と若干ズレた感想を抱いた。
「魔法のナイフはきっとさ、使わなかったんじゃなくて使わせてもらえなかったんだよ」
私に向かって話しているような文脈なのに、独り言のように会話の続きを期待していない。
諦めなのか拒絶なのか。あるいは、彼女から漂う孤独の匂いが、私にそう錯覚させているのか。
彼女の瞳は遠い海を見つめていた。見えるはずのない水平線を探すように目を細め、ふっと小さく、けれど確かに、彼女は笑った。
そして、手に持っていたナイフを海の彼方へと勢いよく投げた。
月明かりに照らされた刃が、鈍く光った。
「アンデルセン童話?」
ナイフが音もなく海に呑まれたのを見届けたあと、声を発したのは私だった。
「そう、人魚姫」
「『魔法のナイフを使わせてもらえなかった』って」
「ん?そのまんま。本当は王子様を刺そうとしたんじゃないかな」
こちらに水を蹴り飛ばして歩きながら、彼女は言う。
「だって、そうすればヒレも声も返ってくるわけだし」
「それは、王子様を愛してたからでしょう?」
「海で溺れた上に命の恩人の顔を見間違えるような男だよ? むしろどこを愛せばいいのか聞きたいくらい」
「ふふっ」
思わず噴き出してしまう。彼女の言葉があまりに辛辣で、あまりにもその通りだったから。
「ふはっ、ふっ、ひひっ、ひっ」
「え、ちょっと…ねぇ大丈夫?」
笑い過ぎると過呼吸を起こしたように見えるのは、私の昔からの癖だ。
大丈夫、と言って安心させてあげなければと思うのに、冷静になる方法を身体が忘れてしまっている。
明らかに戸惑いをみせる彼女に構わず、そのまま海の中に足を進める。足裏にあった砂の感触がふっとなくなり、そのまま海に沈む。
やがて届いた地面を蹴って水面から顔を出すと、こちらに一歩踏み出そうとしてそのまま彫刻にされてしまったような少女と目が合った。
色素の薄い澄んだ瞳で呆然とこちらを凝視する彼女に、おそらく海水で充血した目の私が言う。
「ねぇ、少し歩かない?」