月と赤
一歩。また一歩。
流れる水の感触を掴むように、海底の砂の柔らかさを確かめるように海の中へと進む。
深い深い海の底に沈んでいるのは、すべてを失った絶望だろうか。それとも、果てしなく広がる自由だろうか。
どちらでもいい。
ここではないどこかに行けるのなら。
上手く息ができない世界を生きるより、息ができないことが当たり前の世界に行きたい。
水面はゆうに膝を越えて、波の動きに合わせて体が不安定に揺れる。
時折り足をとられて後退りながら、何度も何度も水を蹴る。
ふと、視界に何かが入ったような気がして、私は足を止めた。
首から上だけで周りをくるりと見渡すと、その正体はすぐに明らかになった。
少女だ。
たぶん、私と同じくらいの。
彼女もまた、海の中にいた。
けれど彼女は、それ以上進むことも戻ることもせず、ただ、じっと海の中の一点を見つめていた。
その横顔からは、何の感情も読み取れなかった。
悲しんでいるようにも見えたし、飄々としているようにも見えた。
あるいは、絶望しているようにも見えたし、微笑んでいるようにも見えた。
そのどれもが違うように見えたし、すべてが入り混じっているようにも見えた。
ひとつ、彼女がとても綺麗な顔立ちをしていることだけは確かだった。
しばらくして、伏せられていた長い睫毛が上がり、顔が気怠げにこちらを向いた。
大きな瞳は、私の姿を捉えても、それ以上見開かれることはなかった。
思わず見惚れてしまうような美しさだった。
作りもののように均整のとれた顔立ちにあどけなさが同居していて、腰ほどまである長い髪は、ゆるやかなウェーブを描いている。
お人形さんみたい、とは、きっと彼女のことをいうのだろう。
人形と違うのは、ただひとつだけ。
真っ白な肌に赤黒い模様が、絵の具を飛ばしたように散らばっていた。
華奢な肩から伸びるしなやかな腕の先を見やると、彼女の手には、それと同じ色を纏ったナイフが握られていた。
惹かれる、という言葉の意味を、私はこの時までほんとうには知らなかったのだと思った。
目を、逸らすことができなかった。
あるいは、息をするのも忘れていたかも知れない。
恐怖で身体が動かない。
ーーいや、違う。
僅かでも動けば、彼女は消えてしまう。
なんの根拠もなく、けれど自然に、そう思った。
透き通るような白い肌に、白いワンピース。夜の闇に溶け出してしまいそうな、ともすると幽霊を彷彿とさせるような儚さが、私にそう思わせたのかも知れない。
瞬きのひとつさえも、憚られた。