戦乙女の恋 3
――誰かが泣いている。
(あの夢だ)
白い世界、泣き声、そこに立つ何者か。まるで不意打ちのような夢の訪れだった。
目覚めなければと思いながら棒立ちになって嗚咽の主を見る。それは以前と変わらず闇色の衣の黒髪の男だったが、瞬くように視界が揺れて元に戻った瞬間、シルヴィアは驚きに目を見張った。
『泣かないで』
いつの間にか現れた見知らぬ人物が、顔を覆って泣き濡れる男に、甘やかす優しい声と白い手を差し伸べている。
『どうか、泣かないで。もう、一人で戦わなくてもいいのだから』
緩やかに波打つ豊かな黒髪と青い瞳の、空や風や水を思わせる清らかそのものの乙女だった。
手を外せば彼はその微笑みを見ることができるだろう。しかし嘆きは深く、悲しみに囚われて差し伸べられた手を取ることができない。
『こんなはずでは……なかったんだ……』
『ええ』
『私はただ、あの人の願いを叶えたいと……』
『ええ。わかっている。きっとその人も、わかっているわ』
独り言のような悲しみを一つも聞き逃さずに乙女が答える。だがその声は恐らく嘆きの主には届いてはいない。それでも水底に語りかけるようなものと諦めることなく、彼女は言葉を紡ぐ。暗く冷たいそこに、光の糸を垂らす。
『母の料理が家族の健やかさを願うように。武具を鍛える職人がそれを扱う者の無事を祈るように。作られるものと生まれるもの(ばんぶつ)が幸せであるようにと、女神様は祝福を与えられた』
乙女は寄り添う。自らの存在が、生ける者の温もりが、目の前の凍える心を温めてくれるように。
『だから私もあなたも幸せになっていいのよ。幸福になることこそ、女神様の願いなんだから』
神に祈るように、遠き者へ願い、語りかける。
その姿は誰かに似ている。彼女だけではない、男の方も何故か見覚えがあるような。
だが何らかの力が働いているのがシルヴィアにそれ以上の思考を許さない。
(誰だ、どうしてこんな夢を見せる。いったい私に何をしろというんだ?)
声を発することができなかったはずなのに。
乙女がこちらを見ている。青い瞳とシルヴィアの黒い瞳の視線が交差する。
慈愛と理知と勇気に溢れ、悲しみも喜びを知る、青い、青い瞳がシルヴィアを映して、少しだけ、笑った。
『――だからあなたも、忘れないでいて』
真実の響きがこだまする祈りを贈られて、シルヴィアは目を覚ます。
「――……シルヴィア?」
現実に送り返されたシルヴィアはぎくりとして振り返り、それが紛れもなくエマリアだと理解してほっと肩の力を抜いた。そして内心でその心の動きに首を傾げた。
(私は、誰に呼びかけられた気がしたんだ……?)
星々の瞬く暮れなずむ世界で秋の花が揺れている。
新王即位の祝鐘を聞いて王城へ戻ったシルヴィアは支度をするべくエマリアの離宮に向かったのだ。火照った頬に夕暮れの風が心地よくて何とはなしに目を閉じたときに、あの夢に捕まってしまったらしかった。
「シルヴィア? 遅かったから心配していたのだけれど、体調が優れないのなら無理はしないで」
「いや、大丈夫だ。少しぼんやりしていた」
自分の支度があるだろうにわざわざ庭にまで出てきたエマリアに、夢を見ていてしばらく庭に立ち尽くしていただけだ、などと言えばますます心配をかけそうだ。あの夢の白い場所とは似ても似つかない夜の世界にようやく目が慣れてくると、やっとエマリアが美しく装っていることに気が付くことができた。
秋薔薇の蕾のような色のドレスだ。薄布を重ねた裾は、いまにも花の香りが漂ってくるのではないかと思うほどにさらりさらりと風を含んで揺れ動く。真珠の粒の輝きは彼女の高貴さを損ねることなくとろりとした光を放ち、首と耳には同じく真珠の飾りがあった。黒髪は後毛を残して緩やかにまとめられ、王女の証である小さくも繊細な宝冠を戴いている。
「エマリア……今夜の君は、素晴らしく綺麗だ……」
「まあ……」と束の間絶句したエマリアは、やがてくすくすと笑い始めた。
「ありがとう。まるで騎士様から賛美されたようだわ。でも今夜最も美しいのはあなたよ。さあ、中に入って。女神になる支度を始めましょう!」
そうして離宮へと誘われたシルヴィアはそこで初めて『支度』とはただ着替えるだけではないのだと知った。
浴室へと追い込まれて女官たちによって洗い上げられ、髪と肌の手入れをし、爪を磨き上げられる。呆然としているうちに身体の線を整える下着で締め上げられそうになって「これは……」「必要ないわね……」「羨ましい……!」とドレスに合わせたものを着せられた。
そこへいつの間にかやってきたサアラとカンナがシルヴィアにドレスを着付けていく。「よし、ぴったり!」「間に合ってよかったわ」と満足そうに頷く二人と入れ替わりに、別の女官が化粧筆を手にしながらシルヴィアに着席するように促す。
「あまり装う必要はないと思いますが、念のため」ときらきらしたものを含んだ粉を首元に叩かれ、唇には保湿剤を塗られる。その間に別の者が髪を梳ってさらに艶を出そうとしている。
「……着飾るというのは大変だな」
「そのくらい大事なことがあるということね」
少し離れたところにある椅子から見守っていたエマリアが思わず漏らした呟きを拾って笑う。シルヴィアは大きく、深く、頷いた。
「君たちの戦装束だな」
おっとりと笑っている姿からは想像もつかないほど彼女たちの戦いは過酷なのだと思う。美しければ美しいほど、洗練されていればいるほど、立場が有利になるのだ。でなければこのように時間をかけて服を着ることはあるまい。
そして自分はいまからそこへ乗り込んでいかねばならないのだと思うと、心許ない初陣にため息が出る。
「エマリア。レオンは説得できたのか? この計画のことをどう言っていた?」
そこへ部屋に入ってきた女官が「姫様」とエマリアに耳打ちする。
「陛下もご支度を終えられたとのことです。じきに案内の者が参るかと……」
「わかったわ。こちらもすでに待機していると伝えて」
応えたエマリアの視線に誘われてそちらに目を向けた女官は、途端に絶句した。目を見開きながら両手で口元を押さえて、神様、と無意識に呼びかける様子にエマリアはは満足そうな顔をして「頼んだわね」と改めて彼女を送り出す。
「エマリア……」
「不安そうな顔をしなくても大丈夫よ。会場にはわたくしとエルヴィールもいるわ」
先ほどの女官は逃げ出したのか、それほどに人ならざる本性があらわになっているのではないかと疑ってしまうのは、素肌の肩や胸元、長い裾に覆われていても足がすうすうして落ち着かないせいもあるだろう。果実の皮を剥くように、己を剥き出しにして無防備にさせられている気がするのだ。
「後のことはレオンに任せて。あの子ならきっと、間違うことはないでしょう」




