青銀の蕾 8
彼女たちが滞在している客棟の近くまで来て、乳母は改めて「本当にありがとうございました」とシルヴィアに頭を下げた。
「助けになれたのなら何よりだ。では私はこれで」
「待って」
呼び止めたミシェリアがやけに真剣な目をしているので、シルヴィアは振り返るだけでなく正面から彼女と向き合った。
「あなたは、祝宴に出席するの?」
即位式後に行われる宴のことだろう。王妃候補として名乗りを上げる者は出席するようレオンが公布したという。
出席したいと思ったならそうする。普段ならそう答えただろうが、恐らく彼女が求める答えにはならない。
ミシェリアの青い瞳がシルヴィアを見つめて揺れていた。不安、期待、恐れ。渦巻く感情を言い表す術を知らないでいる迷える者の眼差し。
だがシルヴィアも似たようなものだろう。この疑問と戸惑いを正確に表すことができないでいる。
(何故、そのようなことを聞くのか)
瞬時に愚問だと判断して答えを出す。
(ミシェリアはレオンを恋い慕っている)
エマリアとエルヴィールのように、寄り添い、支え合い、ともに生きることを望んでいるからだ。
そう思えば、自らの優位を示す言動はそれを阻む可能性のある人間を警戒してのものだと理解できる。
それはシルヴィアに対しても例外ではないのだ。
人ならざる者の本質はともかくシルヴィアは見かけは美しい女性として創られる。ミシェリアは年相応以上に可憐に生まれついているが『美しい容姿』を設定された【戦乙女】には及ばない。
勝てないのなら、排除したい。願いを成就し勝利を手に入れようとする者には当然の思考だ。だからシルヴィアに祝宴の出欠を確認したのだった。
(もし祝宴に出るなら、私はどのような格好をするべきなのだろう)
即位式のために仕立てる儀礼服か。
それとも常識に則ってドレスなのか。
(いや違う、いま考えるべきは服装についてではない)
最も重んじるべきは、自分がどうしたいのか。
私が何を願い、望み、そのために行動するのか。
他人の事情や、思いと比較する必要はない。何故なら【戦乙女】は、私は、誰にも強制されないからだ。
思考から浮上したシルヴィアの視線を受けて、ミシェリアはわずかに怯んだように身体を震わせると、ぐっと胸を張るようにしてこちらを睨む。
負けないと気負う青い瞳に対して、シルヴィアの黒い瞳は月影の海のように冷たく凪いでいた。
「……君がもし、レオンの伴侶となることを望むのなら」
当然でしょうと言うつもりだったのだろう。口を開くミシェリアに向かって手を押し出して言葉を封じる。
「レオンの妃になったとき、君は彼に何ができる? 何を、与えられる?」
「もちろん、殿下をお支えするわ。妃の務めだもの」
「具体的には?」
「え?」
ミシェリアは果実のような唇をぽかんと開く。
「『支える』とは何を意味する? ルヴィックのように政の補佐をするのか。タイタンのように騎士や隊士を取りまとめるのか。オリエのようにレオンの命令を即時遂行するために人を遣うのか。それとも剣となり盾となり万難から守るのか。エマリアのように家族として彼を見守り、必要なときに命を投げ出す覚悟で側に在るのか」
人にはそれぞれ役割がある。生まれ持つこともあれば、生きていく上で立場にふさわしいそれを得ることもある。
「ミシェリア。もしレオンの妃となったときの君は、どのようにして彼を『支える』つもりだ?」
顔色を失ったミシェリアの青い瞳がぐらぐらと揺れた。そんなことを尋ねられるなど思いもしなかったようだった。
「き、妃の務めは、殿下をお支えして……苦しいときや悲しいときにお話を聞いて、お慰めして……よ、世継ぎを、産んで……」
「ミシェリア・ジェイス」
その瞬間の、燃え上がり、冷え固まり、棘のようでいて真綿のような感情を、シルヴィアは永久に解き明かすことができない。
しかし思いに突き動かされて口にした言葉の鋭さは、永遠に忘れることはないだろう。
「それは、傾聴を知り、出産能力を有する女性であれば、君でなくてもいい」
ミシェリアは茫然自失となり、乳母は真っ白になった顔を瞬時に赤く染めた。それぞれの渦巻く怒りが破裂する直前、近付いてきていた足音の主の声が朗々とそれを吹き払った。
「お見事。なかなか興味深い議論だったわ」
はっとなった乳母は頭を下げて一歩後ろに控え、ミシェリアもまた反射的にドレスの裾を摘んで頭を垂れた。
「ゼイン女公爵様」
老いた者が得られる信念の積み重ねが鍛える威厳と勇敢さ、彼女自身の魅力である凛とした美しさと力強さ、それらすべてを内包した青い瞳が冷たく見返すシルヴィアに笑いかけた。しかし決して油断してはならないと思わせる覇気に溢れた意味ありげなものだ。
そして笑う目は優しくも恐ろしい気配を漂わせてミシェリアを見た。
「ミシェリア。先ほどのやりとりを聞いていると、どうやらあなたには自覚が足りないようね。王太子妃、ひいては王妃とはどういうものなのか」
「っ、レイア様、でも」
「確かに間違ってはいない。けれどそれを他人の言葉を借りて口にするのではありません」
弾かれたように顔を上げて反論を試みたミシェリアを、ゼイン女公爵は柔らかくも厳しく圧倒する。
「あなたにしかできないことで自らの存在を誇示なさい。でなければ殿下は決してあなたを選ぶことはない。わたくしも、我が国に必要な存在であると思えない者の後ろ盾をする気はありません」
部外者であるシルヴィアにもその物言いは容赦のないものだと感じられた。悔しさに歪む顔を伏せたミシェリアに、ゼイン女公爵は表情を和らげる。
「あなたはまだ幼い。どのような人間になるかはこれからの行動次第であることを幸いに思いなさい。よく学ぶことです。それが許される限り」
飴と鞭、という言葉を思い起こさせる態度でミシェリアを鼓舞した女公爵だが、冷ややかな目をして観察しているシルヴィアには、微笑みの合間から隠した狡猾な牙を覗かせた。
「さすがは【戦乙女】。人の世を学ぶ最中と聞いていましたが、優れた見識をお持ちだわ。国を思う心をご存知ね」
反論するか、迷った。レオンが扱いに注意を払い、エマリアが油断ならない人物だと評し、ミシェリアがありのままの自分を抑え込まざるを得ない、それがこのゼイン女公爵だと知っていたからだ。
「それは、思い違いだ」
「……ほう?」
だが、気付いたときには口を開いていた。
ゼイン女公爵が面白そうに眉を上げ、開いた扇の下で笑う。ここで言葉を飲み込むのは敗北に等しいと、シルヴィアは彼女に挑む覚悟を決めた。
「私が知るのは『国』などという曖昧なものではない。言葉を交わし、同じ時間を過ごした人々と、その思いの欠片だ。私はそれらに触れた上で、『こうであったらいい』という望みを口にしたに過ぎない」
だから、そう、敢えて言葉にするのなら。
「彼らが、幸せであるように。この国が幾久しく光に溢れた花咲ける地であらんことを」
言葉にすれば容易く、美しい。だがこのように安直な方法でなければ伝わらない。軽々しく感じられようとも言葉にして伝えなければならないときがあり、いまがそうなのだと思う。
この国の王族としての奮戦や葛藤を誰にも明かさないレオンを理解しているであろう女公爵に『私は味方だ』と示すために。
しばらくして、羽根のような扇に秘された唇から、くつりと愉快そうな声がした。
「――【戦乙女】の祝福を賜るとは、王太子殿下は運が良い」
ぱちん、と扇子の閉じる音が目覚めの合図だった。瞬きの後のゼイン女公爵の微笑みは先ほどのおかしみが嘘のように仮面めいたものに覆われてしまっていた。
「その思いがこの国を良き未来へと導くものであることを心から願います」
シルヴィアはわずかに眉をひそめた。
老いた女公爵の言の葉に、いつかこの願いが打ち破られるだろうという予言めいたものを感じ取ったのだ。
「さあ、ミシェリア。そろそろ行きましょう。成長のためには学ばねばならないことがたくさんあります」
「待て」
ミシェリアと乳母を促したゼイン女公爵を呼び止め、答えを聞かぬまま尋ねる。
「私が、この国に悪徳をもたらすと?」
「わたくしは何も申しておりません」
隊士たちでも焦る険しい気配は老獪な微笑でいなされる。
「ですが遠からず命数尽きる者として伝えるのならば、あなたは大いなる祝福を与えると同時に、数多の不幸すら呼び寄せることも可能だということ」
「どういう意味だ?」
「ご自分の胸にお聞き遊ばせ。心当たりがなければそれでいい」
それではご機嫌よう、と今度こそミシェリアたちを連れて去っていくゼイン女公爵を見送る。道半ばでミシェリアがこちらを気にしたが、女公爵を前に留まることなどできるはずがなかった。
引き潮のように平穏な静寂が勢いよく戻ってきた。廊下の中央で立ち尽くすシルヴィアは息を吐いて眉間に集まっていた皺を解く。最後の最後に老熟した人間に敗北を喫したことを悟らざるを得なかった。
(私が、誰かを不幸にすると?)
力を持つ者の自覚と責任は常に持つよう心がけてきた。だが女公爵の口ぶりは、シルヴィアには心当たりがあるだろうと指摘するものだった。彼女には見えていてシルヴィア自身には見えていない事柄があるとも。
(心当たり? そんなもの)
あるはずがない、と思考が吐き捨てるその間際。
陽光を受けて輝くレオンの横顔が浮かび、解いたばかりの眉間の皺が再び深くなった。
この国のどこよりも空に近しい場所。翼を持つ生き物の集う塔の上。
あまねく溢れる光を浴びたレオンの、美しい世界を羨望する眼差し。愛おしむ微笑み。
雄大な美景に心を飛ばし、どこまでも遥か遠くを見渡そうとする、そんな望みを置いて、私を振り向き、呼ぶ。笑う。
『シルヴィア』
それをいつまでも見ていたいと、聞いていたいと望んでも。
永遠は存在しない。愚かな願いが叶うことはない。
(誰よりも何よりも強い願いであっても叶わないものがある。アンブロシアスですら、冥界に降った女神セシアを呼び戻すことが叶わなかったのだから)
この世と人について学び、いつか神の国へ帰る。
それが【戦乙女】の運命。決して覆ることのないさだめ。
だからシルヴィアは瞑目する。いつか必ず訪れるそのときまで、彼らとともに在れる日々を守る決意を確かめて。




