運命の君 5
ヴィンセント王国は、水源が豊富で比較的寒冷な気候の北部と、青々とした山地が続く南部、大きく二つに分けられる。
国内にある主要な神殿は三つ。王都に近い場所にある戦女神ジルフィアラの神殿、境となる地域には主神アンブロシアスの神殿、山地の奥深くに竜神エヴルセムの神殿だ。
土地の者が利用する分だけ開かれた道を進んでしばらくすると、景色が劇的に変化する。
それまで高く茂っていたはずの木々をまるで巨人が根こそぎなぎ倒したかのような荒野が広がっていた。
慎ましい低木に覆われた大地に、苔むした大岩が転がり、山地の風がすべて集ったような強風が吹く。馬車に乗っていると大きく揺れる程度で済むが、馬上の護衛たちは進むのに難儀しているようだった。外套が後ろに引っ張られ、それを防ぐために身を低くして全身に風を受けないようにしていても、少しでも風の流れが変わるとそちらに引っ張られて落馬してしまいそうになっている。
「エマリア様、大丈夫ですか?」
しかし旅慣れていないエマリアには揺れるだけでも苦痛になる。ひどい車酔いに見舞われて青い顔をしながら「大丈夫よ」と微笑むエマリアだが、呼びかけるカンナの顔色も青く、サアラなどは正直に「気持ち悪い……」と口を押さえて呻いていた。シルヴィアだけがいつも通りで心苦しい。
(どうすれば彼女たちが楽になるだろう……会話をすると酔わないらしいと話していたが、いまはそのような状況でもないし……)
狭い車中ではできる行動も限られる。考えた末に、シルヴィアはこの場で最も弱っているエマリアの手に自らの手を重ね合わせた。
するとエマリアの色のない唇がかすかに弧を描いて「ありがとう」と囁いた。このささやかな行動が間違いではなかったことにシルヴィアの方が安堵の息を吐く。
どこまでも続くように思われた風の道は、あるとき唐突に終わりを告げた。
耳を澄ませていたシルヴィアははっきりと大気の流れが変わったのを察知すると同時に、ざらりと肌を撫でる神の力にぞくりと寒気を覚えた。
「……来たのね」
それを告げたのはうっすらと目を開けたエマリアだ。シルヴィアの手の中で彼女の白い手が硬く握り締められる。その中に秘めた強い思いが感じられるようだった。
馬車が停まり、護衛の者たちが沈黙の中を迅速に動き回る気配がする。そうして待つことしばらく、馬車の扉を開けたのは、レオンだった。
「姉上」
エマリアが呼びかけに頷くと、何もかも理解したようにサアラとカンナが速やかに馬車を降りていく。シルヴィアもその後に続き、最後にレオンが差し伸べた手を取ってエマリアが降り立った。
びゅうっと風が吹く中、峻険な地の神殿に磨かれたような出立ちの聖職者たちが待ち構えていた。
活力を秘めた聖職者たちを前にしたエマリアは、顔色は悪く厚着ではあったが、王太子に手を引かれる姿は優美で、聖職者たちの挨拶を聞く間も笑みを絶やさず、返す言葉は堂々として威厳に溢れていた。
「皆様とともに竜神に祈る機会を得られたことを、心から嬉しく思います。風と大地の力の恵みとともに在って絶えず祈る方々の信仰心に及ばないとは存じておりますが、どうぞエヴルセムの御心に届きますよう、わたくしをお導きくださいませ」
神殿内に招かれるエマリアとレオンの後に続いたシルヴィアは、初めてこの国の竜神殿を目にすることになった。
人の世における神々の在所、そして人間の祈りのための聖域は、それがいつどの時代に建立されたものかによって様式が異なる。ヴィンセント王国の竜神殿はその中で歴史の古い神殿に位置するようだ。石の柱を並べて回廊を作り、見上げるほどの高さに天井がある。広々とした祈りの場は柱廊が生み出す光と影に満ち、秘められた奥の小室には見上げるほど大きな竜の像が安置されていた。
竜神エヴルセム。彫像は石の白だが、実際は黒銀の翼と金の瞳を持つ竜族の長。時の流れと仲間を見送り、世界の変化とともに魔神に降った同胞と戦い続け、主神により神の一柱に列せられた古き者の一体だ。
像の足元には供物があった。竜族は光り輝くものを好むため、宝冠、金貨、宝石をあしらった剣に金銀の杯、美しく輝くものが捧げられている。
エマリアはレオンに支えられながら像の前に跪いて祈りを捧げると、聖職者たちと待機していた女官や護衛たちに付き添われて去っていった。彼女の体調を見越して、最低限の振る舞いで済ませるようだ。
彼女に付き添うべきだったシルヴィアはしかし、エヴルセムの像に引き寄せられてその足元に立った。
わずかに頭を垂れて目を伏せる。
(竜神エヴルセム、あなたの聖域に足を踏み入れることをお許し願いたい。私は戦女神ジルフィアラの【戦乙女】の一人。縁あってこの者たちに助力している。どうかその知恵と力を彼らに与えたまえ)
願う気持ちが、自然と深い拝礼になっていた。
そうして呼びかけを終えて振り返ると、レオンと帽子を被った高位の聖職者と思しき老爺が熱心なくらいにじっとこちらを見つめていたので、シルヴィアは思わずたじろいだ。
「……なんだ?」
「これほど絵になる光景もないと思ってな」
何を言っているのだと思ったが、シルヴィアだけが理解していないらしい。老爺の方は感極まったように、胸に下げていた牙を模した象徴の首飾りを掲げて竜神に感謝を唱えている。
「本当に、王太子殿下の仰る通りでございます。この神殿に【戦乙女】がご降臨される日が来ようとは。長生きはするものです」
レオンは彼を「神殿長のグイヴだ」と紹介した。小柄ながら高位の証である帽子と肩ひれがしっくり馴染んでいる様子のグイヴは、シルヴィアが挨拶に差し出した手を推し抱くようにして握り返した。
「私は今代の【戦乙女】だ。未熟ゆえにこのような幼い姿をしている。期待はずれで申し訳ないが、よろしく頼む」
「期待外れなど、滅相もございません。お会いできて光栄に存じます。噂に違わずお美しい。ご成長が楽しみでございますな」
「そうだな」
最後の台詞を向けられたレオンが笑って答えるのがシルヴィアには不可解だ。
「……楽しみなのか? 私ではなく、君が?」
「ああ。なんだ、いけないか?」
「別に、いけなくはないが」と落ち着かない曖昧な物言いをすると、レオンは笑みを深くした。それが何とも癪に触ってシルヴィアはむっとなって目を背けた。そうしてすぐに後悔する。
(また、嫌な態度を取ってしまった……)
「竜の剣とその使い手についてお尋ねと伺いました。お望みのことをお聞かせできるかはわかりませんが、知りうる限りのことをお話しいたしましょう」
「頼む。俺たちには手に入れられる情報は限られているので、有識者の話は非常にありがたい」
落ち着ける部屋に案内するというグイヴと従者の役目を持つ聖職者がレオンを先導する。
「シルヴィア、行くぞ」と先ほどの態度を何とも思っていない様子のレオンに呼ばれ、その席にシルヴィアも同座することとなった。
回廊沿いに敷地の奥に進んでいくと聖職者たちが普段過ごす建物があった。こちらは比較的新しい様式で、石を積み、木材を用いて補強して風雨に耐えうるように瓦屋根になっている。
グイヴとすれ違うと聖職者たちが軽く膝を折る。レオンとシルヴィアにも会釈をする礼儀正しい者ばかりだ。賑やかさとは無縁で、話し声はひっそりとしていてどこも整然とした静けさに満ちている。
(心地いい場所だ)
「今年は例年に比べて寒い日が続いていて、我が神殿自慢の『時計花』をお目にかけられず誠に残念です。ご覧になったことはございますか? シルヴィア様」
グイヴに尋ねられて知識を取り出す。
『時計花』。花と呼ぶが実際は蔓植物の一種。雌雄性の器官が時計の針のように見え、文字盤のような放射状の花弁の模様も相まって時計に例えられる。果実が採取できる種は、花を薬効として利用する。
その見た目から『時間』を象徴するものとして、人の間では竜族を描写する際に頻繁に用いられる。薬としても利用できるとあってこの竜神殿にも植えられているのだろう。
そこまで考えて、いや、と首を振った。
「どのようなものか知識はあるが、実際に見たことはない」
「左様ですか。では是非、花の咲く季節にまたお越しください」
ふと思い出した言葉があった。
「……花と緑が、華やかな夏」
どうやらそれには立ち会えなかったらしいから、想像する。
この神殿と、咲き溢れる白と青の時計花。静かに勤めを果たす聖職者たちと、彼らを見つめるエヴルセムの像。
「ありがとう。楽しみにしている」
相好を崩した笑みで歓迎する竜神殿の長に、シルヴィアはいつか訪れるであろう日に思いを馳せた微笑みで応えた。それをレオンが穏やかに見つめているとは思わないまま。
グイヴの部屋は彼らの宿舎の一階にあった。「階段の上り下りが辛うございまして」と気恥ずかしそうにしながら、執務机と応接椅子と机以外のものがない慎ましい一室に案内される。
付き添いの聖職者が出してくれた香草茶を飲んで一息つく間を置き、さて、とグイヴがレオンとシルヴィアを見た。




