【3話】節制の第一歩は君主から
メガラニカ帝国の帝都ヴィシュテルは、ドワーフ族が丘陵を土台に造り上げた城郭都市だ。
皇帝の住む帝城は円形に広がる都の中心、全景を見渡せる山巓に建てられた。山頂に聳え立つことから、帝都の人々は帝嶺宮城と呼ぶ。
宮廷には皇帝が住み、三皇后と王妃および公妃が共に暮らしている。皇帝は女官が輔弼し、妃の世話は側女が行う。
メガラニカ帝国の皇帝は祭礼が第一の仕事である。皇帝が息災であれば、国家に災禍は降りかからず、天の恩寵を得る。
事実、皇帝ファルレーゼ聖誕後の十六年は豊穣が続き、痩せ細った国土に恵みがもたらされた。
宮廷の実権を握る三皇后は、皇帝から国政を預かり、国家の健全な運営に努める。妃は皇帝を支え、賜った天恵を人民に分配する。
立法および行政を照覧する宰相妃、軍務を統帥する元帥妃、祭祀を司る神官長妃。三人の皇后は、皇帝の正妻であり、国政における強大な特権を持つ。
皇后に次いで王妃、公妃。さらに妃に仕える側女となる。側女は身の回りの世話をする側近であるが、実務上は直参の秘書官だ。側女は自身の政務を代行できる才女が望ましい。
帝嶺宮城は皇帝ファルレーゼを除き男子禁制。三代前、始皇帝の時代は去勢された宦官だけ例外的に出入を許した。しかし、二代前の聖大帝が宦官制度を廃し、女人以外の侵入を禁制としている。
聖大帝と妃達は宮中の隔離を至上とした。聖大帝の統治下、後宮に入内した女は、二度と外界に出てこなかったと伝え聞く。
(理想はそうなのでしょうとも。しかし、現実問題、政務の都合上、妃が外出を禁ずるのは不可能です。少なくとも現状の体制では差し障りがあります)
帝国宰相妃は実権を握る百官の長。行政を統括する要職である。皇帝の威厳に万民がひれ伏していた時代とは違う。命じた内容通りに官吏が働いているか、自身の目で確認しなければならない。
この日、私は城下に赴き、帝都の救貧院を視察した。役人に冬の備えを念押してから宮中に帰った。
大神殿の神官達は、私が現場に出向くのを不浄だと疎んでいる。祭祀や儀礼で、古来の伝統を重んずるのは結構。しかし、国を富ませたいのなら、理に即した行動が必要である。
「宰相閣下。ご機嫌麗しゅう」
宮中の廊下で擦れ違った公妃は深々と頭を下げた。
華奢な体躯の美少女は微笑みを崩さない。彼女の名はリアラ。軍楽隊を監督する歌姫で、皇帝陛下にたいそう気に入られている。
「お待ちなさい。その格好は何なのですか?」
「格好? 私の姿が何か?」
白々しい反応だ。私が何を問うているかは分かりきっているはず。
「リアナ公妃。そのお召し物は何を意図した仮装なのか。ぜひ私に教えていただけますか?」
私とて女だ。夫が他の妃に入れ込んでいれば嫉妬くらいはする。しかし、嫉みで寵姫を引き留め、いびったりはしない。
私がリアナ公妃に訊ねたのは、後宮にそぐわない貧相な男装をしていたからだ。高級な化粧で顔を彩っているくせに、衣服は下男の労働着。地位の低い側女であろうと、もっと上品な服を着ている。
「妾は常日頃から華美な装いをさせていただいております」
無論、承知している。むしろ絢爛豪華な装束を着こなしてもらわねば困る。
リアナ公妃は軍務省所属の准将。所管の音楽隊は、国賓への栄誉礼を担当する特殊な役職である。
音楽隊はメガラニカ帝国の国威を示すため、選りすぐりの美女で構成されている。美形揃いの宮中で、上澄みを掬い取った頂点に君臨する麗人。それがリアナ公妃であった。
着飾るべき別嬪の歌姫が、みすぼらしい衣で出歩く珍事。見逃せるはずがなかった。
「しかしながら、城下での噂は宮中にも届いております。民を慮る慈悲深き陛下は心を痛め、節制に努めておられるのです。陛下に仕える妃が奢侈な生活をしては、示しがつきません」
「……噂とはどのような?」
「大変恐れながら、国家の財政を危ぶむ声でございます。此の度、宰相閣下は広域堤防の整備を提言された。完成までに五〇〇年以上の時間が掛かる大事業。着工にあたり、巨額の建設国債を発行したと耳にしております」
「なるほど。それで節制の生活に入られたと……?」
あの男はなぜ妙なところで思い切りが良いのかと後頭部を殴りつけたくなる。不敬ではあるが、内心に止めるなら許される範疇であろう。
「さようにございます。陛下は生活を改められました。私を含め、幾人かの妃は恭順し、陛下に習っております。宮中の貴人が揃って節制すれば、諸侯も贅沢を慎むでしょう」
「……状況は理解しました」
次の政務は何を予定していたかと秘書の側女に問う寸前、リアナ公妃はつぶやいた。
「――皇帝陛下は御苑に。先ほど別れたばかりでございます。女官と戯れておられるでしょうね」
リアナ公妃はにやりと意味深に薄笑いを浮かべた。そして、用件が終わると足早に立ち去った。
「…………」
そもそも軍務省の美技が宰相府の近くを彷徨いているのはおかしい。帝宮御苑にいた者がこの廊下を通る理由は一つ。親しい間柄ではないが、リアナ公妃の性格を私は知っている。
秘書の側女は「次の政務は国防会議の予算審議です。開催時間まで二時間近く余裕があります」と耳打ちした。そうなるとリオナ公妃は、多忙極まる宰相妃の政務日程を把握したうえで、待ち構えていたに違いない。
「はぁ……。帝宮の御苑に向かいましょう」
◇ ◇ ◇
ファルレーゼ陛下は多芸多才な皇帝だ。特に芸術品に対する造詣が深かった。
才能は本物らしく、お手製の陶器が信じられない値段で売れる。作者不詳で値が付くほどだ。皇帝の作品と知られれば、価値が数倍に跳ね上がるだろう。
芸術に思い入れの深い皇帝だ。御苑の手入れは事細かく口を挟み、自ら手を動かすことも多かった。
「すごいだろう。盆栽というらしい。黄金大陸ジャハニヤの和文化だ。親しくしてる商人に教えてもらった。海外文化はいいな。メガラニカ帝国はもっと海外文化を取り入れるべきだ」
親しくしている御用商人に、新しい玩具をもらったらしい。
「私には植木鉢に矮小な松が生えているようにしか見えません」
「奥深いぜ。なにせ生きている植物だ。完成がない。実は女官に愛好がいて、助言をもらっている」
「庭師の格好をされているのも助言ですか?」
「おお、これか? 似合っているだろ。実際、皇帝より庭師の下男あたりが相応の人生だったかもなぁ」
「……陛下」
「民の生活が苦しいと噂を聞いたぜ。俺だけ美女に囲まれて贅沢三昧は心苦しい。それと、あれだ。『節制の第一歩は君主から』と昔から言うだろう?」
「そんな格言は聞いた覚えがありません。どなたの言葉ですか?」
「俺が今、適当に考えた」
「…………」
「おかしいな。昔の偉い人間が、偉そうに言い触らしてそうな言葉だが……。案外、見栄っ張りが多いのか?」
「陛下の人民を労る心はご立派です。しかしながら、臣下として申し上げねばなりません。このような振る舞いはおやめください」
「なぜだ? 俺にしては殊勝な心がけだろ? そもそも宮廷費を無駄遣いするなと口煩く言ってきたのはお前だろうに」
「先ほどリアナ公妃と会いました」
「珍しく慎ましい姿をしていただろう? 金糸を織り込んだ絹ばかり着せては僻まれる。偶には貧乏を経験せねばな」
「お言葉ですが、陛下は貧しさをご存知ないでしょう」
ファルレーゼ陛下は裕福な商家で生まれた。そこらの田舎貴族よりも経済的に恵まれた出自だった。
「飢えと寒さの恐ろしさを経験されていない。違いますか?」
「……まあ、それはそうだ」
「恥じる必要はございません。貴族生まれの私もそうです。だからこそ、申し上げます。本物の貧困と無縁の者が襤褸を着たところで、それは児戯です。いざとなれば陛下の毛皮の外套を羽織れるのですから」
「遊んでいる気はないぜ……?」
「当人がそのつもりでも、周囲はそう考えません。陛下の人柄を誰もが理解しているわけではないのです」
後宮の者達はファルレーゼ陛下の性格を知っている。特に親しくしている妃や女官はそうだ。
「陛下、よくお聞きください。奢侈とは必要以上の贅沢を言うのです。君主が絹を着るのは当然です。君主の見栄えは国家の威厳。みすぼらしい姿をなさってはなりません」
「しかし、国は貧しいのだろ? 虚勢を張ってどうする?」
「私は国政を預かっております。民の中には富める者、貧しい者がおります。しかし、それは私のあずかり知らぬことです」
「お前……、さらっとすごいこと言ってないか?」
「帝国宰相妃は行政の長です。富める者が金の力で貧しい者を虐げているのならば、私の責任でしょう。貧しい者が困窮し、飢えて死んでいるのなら、私の責任となります。能力があるにも関わらず、その才能を活かせず、搾取され続け、窮乏しているのなら、責められるべきは私です」
どのような社会制度であれ、貧富の差は生じる。格差の存在しない国があるとすれば、それは経済が破綻し、国民全員が破産している終末国家だ。
「富める者に人道と道徳を遵守させる。貧しき者には最低限の生活保障と成り上がる機会を与える。社会の環境を整えるのが宰相の役目でございます。自分より富める者を妬み、自身の貧しさを嘆く。そのような浅ましい者の声を取り上げる必要はありません」
「しかしだな。体裁もあるだろう。俺やお前、妃や女官の暮らしは民の血税だ。税金泥棒の皇帝と嫌われるのは嫌だぞ。俺は」
「責務を果たせばよろしいのです。何ら役割を果たさぬ者が高給取りなら、誹られる謂われはございます。しかしながら、職責を全うする者には、相応の報酬があって当然です。陛下には絹を着てもらいます。それだけの責任を果たさねばならぬからです」
「……言わんとすることは分かる気がする。足りない頭で、分かろうとしているつもりだ」
「陛下だけではございません。妃であれ、女官であれ、国府の官吏に私は責任を求めます。貧乏な者がいるから、自身も貧相な暮らしをして、何の益体がございましょう?」
「それで児戯だと?」
「まさしく戯れです。それで批判を躱した気になっている者、その程度で批判を止める者も……。気晴らしの遊びでしょう。陛下、私は必要なだけの宮廷費は割いております。無論、与えた分、陛下にはお務めを果たしていただきます」
私は側女に用意させた礼服をファルレーゼ陛下に押し付けた。いつまでも遊んでもらっては困るのだ。
「理解はしたよ。だが、一つ聞かせてくれ。うちの国はとんでもない借金があると聞いたぞ。大丈夫なのか? 数百年かけても返せない額らしいじゃないか?」
「事実です。ですから、数百年かけて返済すれば良いだけです。国家に寿命はありません。一千年の栄華を見せてほしいと、陛下は私に頼まれた。お忘れですか?」
「覚えているさ。美しい女仙に囲まれて一千年のハーレム。是非とも頑張ってもらいたい」
「で、あれば、私の諫言に従ってください。何卒、よろしくお願い申し上げます」
「ああ、悪かったよ。皇帝は皇帝らしく振る舞えってことだろ。はぁ。リオナに後で謝っておかないとな」
「……無用です。あの公妃には言わずとも。私などよりも利巧な女です」
「なんかさ。ガルネットはリオナに態度がきついよな。ん? もしかして嫉妬してないか?」
「妬んではおりません。……僻んでいるのです」
「それ、同じだろ?」
「同じではありません。ご自身で陛下を諫められるくせに、愚者を装って他人に押し付ける。要領の良さに辟易しているのです。今回もそうですが、本当に……はぁ……」
私とて好きな相手を叱りつけたくはない。だが、私はそういう役回りを引き受けてしまっている。
「軍務省と国防会議があります。これで失礼いたします」
「苦労をかけて悪いな。お務め、ご苦労さん。今日の夜、ちゃんとした格好で待ってるよ。職責を果たす者には報償が必要だもんな」
「……期待しております。陛下」
帝国宰相妃には正妻の役得がある。苦労と恩賞、上手い具合に半々なのだと思う。
紅潮した頬を見られたくないので、私は早足で御苑を後にした。