水滸伝•溺死
3
耐え難い息苦しさを覚え、咳き込んだ。あたりは一面雪景色であった。絶えず流動する河川が僕を中心に楕円を描いていた。目先に生い茂る幾本もの桜の木は、一種の森の様相を呈し、僕は今にも覆い潰されそうだった。
桃色の小舟に乗った海兵隊員達は、息を揃えて海に飛び降りた。小舟は間も無く、ボトムを天高く掲げ、誇らしげに川底へと沈んで行った。
口一杯に傾れ込んだ水は、行き場を失ったまま慌ただしく流動を続け、いつしか奈落に漂着した。
そんな景色を眺めていると、再び溺れそうな息苦しさに襲われて、深い眠りについた。
4
空気が流れ込んできた。目が覚めると、あたりは一面白のカーテンで覆われていた。
水の入った金魚鉢には、蛍光灯の光が反射していた。
止め処なく溢れ出る唾液を飲むうちに、やがて耐え難い息苦しさの正体は、半端に千切られた舌のせいだと解った。
カーテンを開けて立ち上がり、建て付けの悪い窓を動かした。
外には大きな桜の木が幾本か聳え立っており、所々に紙切れのようなものが乗っていた。
引き戸が開き、若い看護師が入ってきた。
鼻筋の通った色白の顔つきで、何処か涼しさを感じる表情をしていた。ほっそりとした腕に、健康的な腰つき、大きく張った胸は、サイズの合っていない白衣により一層強調されていた。
胸ポケットの下には燻んだネームプレートが提げてあったが、名前は掠れていて読めなかった。
「里次郎さん、体調は如何ですか?無理せずにベッドでお話ししましょうか」
彼女は僕の手を取って、ベッドに座らせた。
「改めて、体調は如何ですか?」
【息が苦しい、今にも溺れ死にそうだ。】
「ああ、そうでした、少し待っていてください」
彼女は慌てた様子で紙とペンを取り出し、何やら筆を走らせていた。その顔には、皮肉めいた微笑が浮かんでいた。
「あなたは舌を千切り取られているので、会話ができないんでしたね。これからは紙を使ってやり取りをしていきますね」
彼女は『普通•悪い•最悪』と書かれた紙を僕に見せた。
僕は何度か彼女を口汚く罵ってやろうとしたが、唾液が溢れるばかりで母音さえ出せなかった。
「どうしたんです?あなたはもう喋ることができないんですから、さあどれかに印をつけてください」
僕は唾液を拭いながら必死に涙を堪え、彼女の胸ポケットに手を突っ込み、ペンを取り出した。
「まあ、大胆な方ですね。ペンはそこに置いてあるのに」
彼女の指さす先には、インクの切れかかったペンが一本、置かれていた。
僕は大雑把に丸を描き、机に紙をそっと添えた。
「あら、これじゃどれだかわかりません。あなた、まだ目は見えているでしょう?」
彼女の言葉に違和感を覚えながらも、『最悪』を丸で囲んだ。
「ショックでしょうが、仕方がないんです。だってあなたは月を見たでしょう?」
僕は彼女の言っている意味がわからなかった。
【いったいどういうことなんだ、それは?月を見たからなんだっていうんだ】
唾液が滴り落ちる。顎を伝い、胸元を濡らした。
「何を言ってるのか、さっぱりわかりませんわ。だってあなたには舌がないもの。この紙とペンをあげるので、言いたいことはここに書いて見せてください」
彼女は机に紙の束とペンを置くと、僕の目をじっと覗き込み、やがて去っていった。去り行く彼女の後ろ姿からは、訝しげな足取りが見てとれた。




