第193話 『期待させるだけさせといて最後に地の底に突き落とす理論』とは
店を出て、駅に戻ると、俺たちは発車間際の電車に駆け込み、あいている席に座った。
座席は横並びのクロスシートで、前後を逆にすると向かい合った四人がけになるという、田舎では一般的なあれだ。
乗客もそれほどいなかったし、このタイプの席なら飲食してもそれほど迷惑にならないだろうと判断したので、ここでようやく俺たちは、細谷からもらったサンドイッチを、いただくことにする。
「それで、そろそろ説明をしてくれるかにゃ? 指輪の箱だけを買った理由を」
識さんが、サンドイッチを差し出しながらも聞く。
俺はサンドイッチを受け取りつつも答える。
「ああ。なんていうか、色々考えたんだ。くるみを、連れ戻す方法を」
「方法?」
「だってそうだろ? くるみは、実の兄である俺に、兄のことをセックスしたいほどに愛しているっていうのを知られちゃったから、家にいられなくなって、家出したんだろ? だったら、ただくるみのところにいって、無理やり引っ張ってくるだけじゃ、解決にならない」
「うにゃ。確かに。家にいられにゃくにゃった根本原因を解消してやらにゃきゃ、また家出をするか、強いストレスにさらされて、部屋から出てこにゃくにゃるか、そのどっちかだにゃ」
「でもでも……」
肩をすくめた一華が、手に持ったサンドイッチに目を落としつつも言う。
「ど……どうやって? 原因の……解消」
「一番いいのは、もちろんなかったことにすることだ。でもそれは不可能だ。時間は戻らないし、一度放った言葉は、決して返ってこないから。じゃあどうするか? 俺の答えはこうだ」
一瞬、言葉を切る。あまり言いたくない、あるいはきつい、そんな言葉だったから。
「くるみに嫌われるんだ。ただ嫌われるじゃない。徹底的に、嫌悪するぐらいに」
「ど……どういうこと?」
「つまり、分かりやすく言うと……」
正面に座る一華と識さんに、ここだけの話……というように顔を寄せる。
「『実は私はお兄ちゃんのことを、セックスしたいと思うほどに愛しています』っていうのが、俺に知られてしまっている状態で、同じ屋根の下で暮らすっていうのが、耐えられないってことだろ? だったらくるみの俺に対する気持ちを、『お兄ちゃんのこと超嫌いだし。セックス? 頭わいてんじゃないの? バカなの? 死ぬの?』に変えて、同じく俺に知られている状態にすれば、まあ多少は気まずさは残るかもしれないけど、耐えられないほどではなくなるだろ?」
「そ、その言い方だと……」
ぼそりと一華がなにかを言おうとする。
「え? なんだって?」
「なんでもない!」
言い方? どこかにまずい表現でもあったかな? まあいいか。
「にゃるほど分かったにゃ。でも……」
識さんの尻切れトンボな物言いに、俺が続きを促す。
「でも?」
「五十点……って、ところだにゃ」
「五十……結構低いね。どうして?」
「今回の解決方法としては、それしかにゃいと思うにゃ。でもそれだと、結局は京矢が犠牲ににゃるってことにゃんだよね? いいのかにゃ? それで」
「背に腹は変えられない。妹の……くるみの人生が最優先だ。俺のことは、俺が我慢をすれば済むだけの話だ」
「もう一つ」
猫の手をしてから、人差し指をしゅっと立てる。
「妹さんの気持ちはどうにゃるのかにゃ? 京矢に対する気持ちは本物で、それもにゃかったことにしていいのかにゃ?」
「それは……」
口の奥で歯を噛みしめる。
「くるみの気の迷いだから。大人になってから恥ずかしくなるような、そういう類の感情だから」
「ふにゃ」
サンドイッチを置くと、識さんは腕を組んで、窓の外に流れる風景に目を向ける。
「両想いにゃのに、嘘で一方的に嫌わせて、にゃかったことにするにゃんて、にゃんだか寂しいんだにゃ」
「…………」
考えたさ。考えまくったさ。
くるみの気持ちを、俺の感情を生かしつつも、またあの家で、日常に戻る方法を。
でもそんな、皆が幸せになれる都合のいい方法は、なにもなかったんだ。なにも思い浮かばなかったんだ。
だったら……誰かが犠牲になるしかないじゃないか。
誰が犠牲になるか……そんなの、お兄ちゃんである、俺しかいないだろ。
……つか両想いってなんだ。それじゃあまるで、俺もセックスしたいほどに妹のことが好きみたいじゃないか。
ヤ・メ・ロ!
「そ、それで……どうやって嫌われる?」
サンドイッチをはむはむしながらも、一華がちらりと俺を見て聞く。
「ふっふっふ。一華よ、よくぞ聞いてくれた」
厨二病みたいに、手を綺羅星にする。
「にゃ、そういうのいいんだにゃ」
「もちろん……策はあるさ。くるみに嫌われる、とっておきの策がな」
「もったいぶらにゃいで、早く言うんだにゃ」
「一華!」
一華の名を呼ぶと、俺は迫るように、両手でがしっと一華の肩をつかむ。
「脱いでくれ!」
「ふえ?」
瞠目すると、一華は手に持っていたサンドイッチをぽろりと落とす。
すかさず識さんが、スカートの上に落ちる前に、素早い手つきで落下を防ぐ。
「な、ななな、なな、なななな、なに言ってるの!?」
一華は顔を紅潮させると、手をグーにして、ポコポコと俺を叩いてくる。
「京矢の変態! エッチ! スケベ! 変態! あとあと……エッチ! ワンタン麺!」
「痛い痛い! 違うそうじゃない! 話を最後まで聞いてくれ! あとワンタン麺ってなんだよ!?」
「あ……う、うん。そだね……」
自分の早とちりに反省をしたのか、一華は肩をすくめてしゅんとする。
「そ、それで……?」
「いつものあれだ。女装だよ。実の兄に女装癖があるって、気持ち悪いだろ? その気持ち悪いっていう類の嫌悪感が、年頃の女の子には強烈なんだ。例えば腹の出た、皮脂で髪がベトベトな、いかにも臭そうなおっさん。例えば、いつもうじうじしている、陰気で根暗なオタク。そこら辺がどうして女子から嫌われるか分かるか? それは全て、気持ちが悪いからだ」
「にゃるほどにゃ」
猫の手を口にあてて、識さんがこくりこくりと頷く。
「確かに最近は、ジェンダーフリーの流れで、男の人が女装するのが許容される節も、あるといえばあるんだにゃ。でもそれは建前で、本心はまだまだそこまで寛容ではにゃいんだにゃ。京矢の妹さんは今中学生だよね? そにょ年齢で、しかも実の兄が男にょ娘とにゃると、気持ち悪っ! って思わせるにょには、間違いにゃく、強烈にゃ方法だと思うんだにゃ」
「だろ?」
でも、と言い、識さんがちらりと俺へと視線を送る。
「京矢が女装するっていうのは、もうすでに妹さんにはバレてるし、それでも気持ちが変わらにゃかったからこそ、今の状況に陥っているんじゃあにゃいの?」
「うん。そこでだ。さらに気持ち悪さが倍増するだろう、ある言葉を足す」
「それは?」
「つまりこう言うんだ」
すっと息を吸うと、俺は気合を入れて言う。
「俺は一華に女装をして! 身も心も一華になりきり! 一華のことを想像しながら! オナニーするのが大好きなんだ! やめられないんだあああああ! ……って言うの」
「うっにゃー……。それはガチで気っ持ち悪いにゃ~……」
ガチでドン引きしたような顔をする識さん。
一華はというと、目に涙を浮かべて識さんに抱きつき、ガタガタと体を震わせている。
「ぐすん……ひっく……わ、わたし……犯された。精神的に……犯された」
「いやいや! 嘘だから! そういう設定だから!」
訴えられたくなかったので、俺は全力で否定する。
「たまにあるだろ?『女装してオナニーしてみた』みたいなエロ動画。あれ超気持ち悪いじゃん? それを実の兄がやっていると知れたら、絶対に嫌悪されると思うんだ」
「そ、そういうページ……見てるんだ」
うっ……語るに落ちてしまった。
でも言い訳させてほしい! 普通の男子高校生は──男は! 絶対にそういうところ見てるから! ほら色々あるだろ? なんちゃらハブとか、エフなんちゃら動画とか、しこしこなんちゃらとか。あ、最後のはまだあるのか? 知らんけど。
「と、とにかく! くるみの前で、自信満々にそうやって宣言するんだ。絶対に嫌われるし、嫌悪される」
「一華の服を、一華が嫌がっているにもかかわらず、無理やり脱がせようとした件については分かったにゃ。ようは京矢が、一華に女装をするため」
言い方っ!
「で、さっき買った指輪の箱は、一体にゃんにゃんだにゃ?」
「これは」
ズボンのポケットから、指輪の箱を取り出す。四角くて硬い、空の箱を。
「女装オナニー宣言が上手くいかなかった時のための、保険だ。リーサルウェポンと言ってもいいかもしれない」
保険? と聞くように、一華と識さんが俺の目を見つめる。
「上田さんが言っただろ? おそらくくるみはあの結婚式ごっこのことを大切な思い出として、今も心の引き出しにしまってあるだろうみたいなことを。だったらその時にした、『あとから結婚指輪を渡すよ』という約束は、くるみにとってはとても重要な、果たされたら嬉しい、そんな人生の節目とでもいうべき、できごとのはずだ。その人生の節目……ようは分かれ道を、『期待させるだけさせといて最後に地の底に突き落とす理論』を使って、軌道のポイントを絶望コースに切り替える」
「うっ……なんだか、怖い……」
頭を伏せて、長い髪で顔を隠して、一華が呟く。
「口で説明するよりも、実際にやった方が早いし、きっと分かりやすい」
俺は席を立ち、一度通路に出ると、そこで片膝をつき、一華へと向かい、閉められた指輪の箱を差し出す。
「一華」
「ふえ? う……うん」
「昔……俺と一華がまだ幼かった頃、互いの気持ちを確かめ合い、そして結婚式をしたよな」
「けっ、けっこん!?」
「覚えているか? あの約束を」
「う、うん。覚えてる」
「これが、今の俺の気持ちだ。受け取ってくれ」
「京矢の……気持ち……。う、嬉しい」
頬を朱色に染めた一華は、俺の手から指輪の箱を受け取ると、一度俺の目をきらきらとした瞳で見つめてから、ゆっくりと、小さく震える手で、ふたを開ける。
しかしそこにはなにもない。黒い、ヴェルヴェット調の台座が、不穏にもあり続けるだけだ。
「え? え? え? 指輪……ない。ど、どういうこと?」
「それが俺の今の気持ちだ。指輪は渡せない。つまりそういうことだ」
「そ……そんな……ひどいよ……ひどい……ふえええええん……ぐすん」
ぼろぼろと、ジブリ泣きを始める一華。手で拭っても拭っても涙は溢れ出して、スカートを湿らせてゆく。
「おい一華? もういいぞ? 演技だろ? 真に迫りすぎだろ」
「京矢はひどいやつにゃんだにゃ」
一華を抱きしめて、なでなでする識さんが、じとーっとした半眼で俺を見下す。
「一華、すごく傷ついてるにゃ」
えええええええええー……。んなばかな。俺試しにって言ったよね??
「で、でもまあ、これで分かっただろ? 効果はてきめんってことが。なんだってそうさ。初っ端からだめだったら、人はそんなに落ち込まない。まあこんなもんだろで、意外とあっさり切り替えることができる。でもいいところまでいって、期待させるだけさせといて、最後でだめってなると、人は落ち込む。場合によっては世界を憎み、テロリストになるか、ショックから精神病に罹り、引きこもりのニートになるか、そのどちらかだ」
「うにゃー。それは分かるかもしれにゃいにゃ」
人差し指を立てて、天井を仰ぎ、識さんなりの例を出す。
「好きな人がいて、勇気を出してラインの交換をして、にゃんとかデートにこぎつけて、にゃん度目かのデートで告白をしたら、振られるってにょが、一番堪えるにゃ。にゃったら一番初めのにゃん階で断れにゃって感じで」
そもそも例えがリア充すぎてよく分からんが、プロ漫画家を志す上田さんの場合はこうだろう。
手応えのある読み切り短編を完成させて、出版社の新人賞に投稿して、長い長い選考の末に、なんと最終選考までいって、『03』の固定電話から電話がかかってくるのを今か今かと待ちわびた結果、なにも連絡がないままで選考結果発表の日を迎えて、それでも最後の希望を託して発表ページを見にいくと、そこに自分の名前がない……そんな感じだ。
多分世界に対して罵倒の限りを尽くして、とりあえず壁を殴って、その後にのたうち回って、遺書を書いたのちに、最後に出版社を爆破する方法はないかと、グーグル先生に問いかけ始める。間違いない。きっとそうだ。そうに違いない。
つまるところ上げるだけ上げて落とす──それが、『期待させるだけさせといて最後に地の底に突き落とす理論』だ。
「これだったらもう、諦めざるを得ないだろ? というか多分俺を殺したくなるはずだ。殺したくなる、イコール、ヘイトだ。目的は、達成される」
「ふにゃ。嫌われる、大体の計画は分かったにゃ」
真っ赤な一華の目を拭い、ペットボトルのお茶を差し出しつつも、識さんが言う。
「とにゃるとあとは、温泉街で妹さんを見つけにゃれるかと、純をどうするかだにゃ。特に後者、純については、どういう行動に出てくるか、想像もつかにゃいのだにゃ」
確かに。よく考えたら未成年の女の子を連れ回すとかって、結構犯罪ギリギリの行為だよな。あれ? でも純も未成年だし、未成年同士なら問題にならないのか? 未成年同士ならエッチいことをしても犯罪にならないように。
まあいい。とにかく今の純は、そんな犯罪ギリギリとも思えるようなことをしでかしてしまうほどに、思い悩んだ心理状態ということだ。下手をしたらホテルに火を放って心中なんてこともあり得る。その時は……その時は俺が…………。
黙考を始めた俺にしびれを切らしたのか、識さんが話を進める。
「まあ、純については、その時ににゃんとかするしかにゃいんだにゃ。それよりはまず、妹さんを見つけ出すことが最優先にゃんだにゃ」
「そうだな。近くまでいけても、結局見つけられなかったじゃ、なんの意味もないしな。言うなれば、これからが最大の山場だ」