第191話 さよならなのだ!
電車の時間が迫っている。
俺たちは、誰からではなく歩き出すと、一度公園の中に入り、駅へと向かう。
朝の早い時間なので、車はそれほど走っていないが、それと相反するように、散歩をする人は結構いる。犬を散歩する者。ジョギングをする壮年の男性。ウォーキングをする主婦と思しき二人組。意識高げな、芝生の上でヨガをする、若者の集団。ざっと見る限りでは、十代は俺たちだけだろうか。当たり前だ。十代の若い世代が、こんな朝早くから活動するわけがない。大方の普通の小中高生は、昼過ぎまで寝ているのが普通だ。
木々の生い茂る小道を抜けて、広大な芝生の広場を抜けて、噴水を抜けて、太極拳を嗜む小母様集団の脇を抜けて、時計台を抜けた先に、ようやく駅の出札所が見えてくる。
そこには俺たちを待つ、三人の姿があった。
一人は先ほど上田さんから聞いた、山崎さんだ。
山崎さんは、夏用と思しきレース生地のゴシックドレスを身にまとっており、手には日傘を、まるでステッキのように持っている。
次に俺たちの情報ハッカー、細谷だ。
細谷の格好はオス悲しきかな……チノパン、ティーシャツ、半袖のシャツ以上。
最後に我らが生徒会会長、一ノ瀬さん。
言わずもがな一ノ瀬さんは、学校指定の冬の制服を着用しており、夏の日差しに、その泣きぼくろのついた美麗なる切れ長な目を、わずかに細めている。
「ど、どどど、どんな格好をしていやがるのですか!」
ぷるぷると震える手で、識さんを指さしながらも、山崎さんが吠える。
──あっ、そうだよな。それが普通の反応だよな。もう慣れちゃって、識さんの猫耳メイド姿が、俺の中では完全に普通になってたわ。
「ゴシック調は、ボクのアイデンティティなのです! 盗むななのです!」
なに言ってんだこのちんちくりん先輩わ。早くなんとかしないと。
「それで、細谷はなんでここにいるんだ?」
俺の質問に、細谷は手に持った袋を差し出しつつも答える。
「結局あのあと、バイトの連中とオールしたんだよね。で、バイト先の余り物持ってきたから、渡そうと思って」
「余り物?」
「消費期限近いやつで作ったアメリカンクラブハウスサンド。電車の中で食べてくれ」
「細谷……お前いいやつだな」
マジでいいやつだ。これからは学校でも仲良くしよう。うん。それがいい。
……あれ? もしかして俺って、嫌なやつ?? こういうのを俗に、『現金なやつ』って、そう言うんじゃあないのか?
「でもどうしてこの時間、この場所って、分かったんだ?」
「ああそれは、識さんからラインで聞いたから」
「え? 識さんのライン知ってるの?」
「いや、クラスのライングループにいたから、そっから個人に連絡を取って」
なん……だと……だと……だと……だと……だと……だと…………。
「ちょっと待て。ライングループって、まさか俺たち三組のか?」
「ああ。というか夏木入ってないよな。なんで?」
なんで? じゃねええええええ! 裏切り者! 裏切り者!! 細谷はオタクだから、絶対に入ってないと思ったのにいいいいいいっ!!
こんなやつは知らん! もう学校でも無視だ! 無視!
ぷいっと顔をそらして、残る一人、一ノ瀬さんへと視線を送る。
「それで、一ノ瀬さんは? どうして俺たちがこの時間に、電車に乗るって知ってるの?」
「決まっているじゃない。私と一華さんは、固い絆でつながっているから」
「いや、そうじゃなくて……」
「他になにか理由でもあるっていうの?」
質問を質問で返された。
なんか怖い。
「と、ところで、昨夜の電話は……あれは一体なにかしら?」
しゅっしゅっしゅっと、不自然にも髪を払いながらも、一ノ瀬さんが聞く。
「ほら、一華さんが、キスをするとかなんとか。も、もちろん冗談よね?」
「いや、冗談じゃないぞ。確かにした」
「誰と!?」
ぐっと俺に顔を近づける。なんという眼力だろうか。怖すぎ。
「見た方が早いと思う。識さん……お願い」
「はいですにゃ~」
「なにが『にゃ~』なのですか。気持ち悪い」
山崎さんが、ボソリと言う。
うっ……この流れは……またもやキャットファイトか!?
しかし俺の心配は、奇跡的にも杞憂に終わる。
「ふっふっふー。鈴お嬢様も、ご奉仕してほしいのかにゃ~?」
「……ひ、日和……気が、おかしくなったのですか?」
マジで心配になったのか、口に手を当てて、目を見開く。
「よく見ると、目に光がないのですよ。レイプ目なのです。……一体、なにが……」
「そんなことはどうだっていいのよ!」
腕で遮るようにして、一ノ瀬さんが、識さんと山崎さんの間に入る。
「識さん、一体私になにを見せてくれるっていうのかしら?」
「動画だにゃ。一華と上田お嬢様が、キスをしている動画だにゃ」
「う、上田さんと……」
ふらふらと倒れそうだったので、俺はとっさに支える。しかし一ノ瀬さんは俺の手を叩くと、「男の分際で気安く触らないで。汚染されるわ」と言い、ポケットから出したウェットティッシュで、アルコール除菌を行う。
「じゃあ再生するにゃ。一回しか流さないから、しっかり観るんだにゃ」
「わ、分かったわ。お願い。あと識さん……あなたとてもかわいいわね。メイド服……とても似合っているわ」
動画が流れ始める。なぜか最大音量で。
『教えてやろう! 本当のキスが、いかなるものかを!』
『ふえ!? へ!? え!?』
『こうするのだ!』
『んっ……ん……ん』
『はあ……んっ……ん』
『ん……はう……んっ』
『はあ……んん……ん』
──ペチャペチャ、クチュクチュ。
『ふえ……し、しおん……も、もう……やめ……んっ』
『ん……んん……んっ』
『はあ……はあ……ん』
『し、しおん……やめ……やめ』
『やめてという割には、しっかりと我のワンピースをつかんでいるのは、なぜだ』
『そ、それは……うう』
『もう一回だ』
『ふえ!?』
『しっかりと前頭葉に焼き付けないとな』
『ん……んんっ……はあ……ん』
『はあ……はあ……んっ』
──ペチャペチャ、クチュクチュ、クチュクチュ、ペチャペチャ。
『きょ……京矢……たす……助けて……うう……』
「くうう! これは……」
ぎりりと歯を噛み締めながらも、一ノ瀬さんが脇腹付近で、小さくガッツポーズをニ、三度する。
「芸術よ! くやしいけれども、これは芸術に他ならないわ!」
動画は続く。
『ん……んんっ……しおん……も、もう……やめ……んっ』
──ペチャペチャ、クチュクチュ。
『はあ……はあ……もう少々、小笠原一華が、我に対して積極的になったら、やめてやってもいいぞ』
『んん……せっきょくって……うう……』
『何度も言わせるな。あくまでもこれは、貴様の罰ゲームなのだからな』
『ん……ん……しおん……おねがい……やめ……ふえっ……へう……』
『はあ……はあ……ん……』
改札前に響き渡る、なんだか妙にエロい一華の音声。
駅を利用する、社会人と思しき何人かが、ちらりとこちらを見てから、気まずそうに去ってゆく。
あるいは、朝から堂々と、AVでも観ていると、そう思われているのかもしれない。
俺なら間違いなくそう思う。そして心の中で呪う。あのクソガキ、美少女複数人とAV鑑賞なんかしやがって。爆発しろ! 木っ端微塵に砕け散れ! と。
「も、もうやめて!」
恥ずかしさに我慢できなくなったのか、ぷるぷると肩を震わせる一華が、目をばってんにして、識さんからスマホを奪い取る。
そしてあろうことか、素早い手つきで、動画を削除してしまう。
「「ああああああああああああ! なんてことをっ!」してしまうのかしら!」
俺の声と一ノ瀬さんの声がかぶる。大変不本意にも。
もったいねえ! もったいねえ! この世から、至高の映像作品が、また一つ消滅した! これは人類の大いなる損失である! おそらくは、人類の英知への到達が、千五百年は、遅れることになるだろう!
がっくりと肩を落とす俺に、音もなく歩み寄った識さんが、そっと耳打ちをする。
「大丈夫だにゃ。データはしっかりと、いくつかのクラウドに保存してあるんだにゃ」
──!?
「これも作戦のうちだにゃ。消した……データはもうにゃいと思わせておけば、今後ぐちぐちと言われにゃくにゃるんだにゃ」
素晴らしい! さすがは盗撮・秘密録音のスペシャリスト!
俺は皆から見えないように手を『b』にすると、がしっと識さんの手を取り、今度データをもらう約束を取りつけた。
「一華さん……一つ確認、いいかしら」
はあはあと、変態さんみたいに息を切らせながらも、一ノ瀬さんが聞く。
「…………」
「い、一華さん」
──ぷいっ。
「ありさ……嫌い。知らない」
「はうわ……」
なんか、一華と一ノ瀬さんの距離感が、前に戻ったな。
まあしょうがないよね。誰かのことが生理的に無理って、やっぱりあると思うし。
「じゃ、じゃあ上田さん」
「うむ。なんだ」
「さっきの動画は本当で、上田さんは一華さんと、キ、キスを、したのよね?」
「いかにも。最高であったぞ。舌を入れて、こうくちゅくちゅと」
いや、その表現生々しいから。
ほら細谷が前かがみになってる。
あっ……それは俺もか。
「ということは……今上田さんとキスをすれば……関節的に……一華さんとキスしたことに……はあはあ」
髪を噛んだ一ノ瀬さんが、ゆらゆらと、まるで貞子のように上田さんに近づく。そしてもう少しで上田さんに届くといったそんな位置で、上田さんがさっと後方にしりぞく。
「はっはっは。くれてやるものか! 小笠原一華のファーストキスは、永遠に我のものだ!」
「ううううう……うらめしや……うらめしや……」
なにこの茶番。
というかキスしろよ。
赤髪姫カットのハーフ美少女と、黒髪ロングの清楚系美少女のベロチューとか、最高だろうが。
「夏木夏木」
美少女たちの戯れを横目にしつつも、細谷が俺に話しかける。
「ああ。なんだ?」
「結局場所はどこだったんだ? 群馬の温泉ってのは聞いてるけど」
「ええと確か……『湯乃華温泉』? だったかな」
「それって北湯沢村の?」
「知ってるのか?」
「ああ。というか結構有名だろ? 知らなかったのか?」
「誰も」
つか普通高校生は温泉に興味なんかねえっつの。興味あるのは遊園地とか、海とかプールとか。誰が好き好んでじーっと湯につかるんだよ全く。
「湯乃華温泉か……だったら……」
探偵みたいにあごを指でつまんだ細谷が、意味深長な言葉を漏らす。
「……いけるかもしれない」
「いける? なんだ? 細谷もくるか?」
「いや、そういうことじゃなくて……。つか僕、今日も夕方からバイトあるから」
「じゃあなんだよ」
「いや、こっちのこと」
数瞬考えてから、眼鏡をくいっと持ち上げる。
「なにか分かったら、連絡するから」
「お、おう」
そうこうするうちにも、電車の時間が近づいてくる。
改札の向こうからは、俺たちが乗らなければいけない列車の到着を告げる、アナウンスが聞こえてくる。
「一ノ瀬さんはどうする? くる?」
「一華さんといきたいのは山々なのだけれど」
残念そうに肩を落とす。
「このあと学校にいかなければならないの。明日からの林間学校の件で、学年主人の内藤教諭と、あと風紀連の代表である内木一二三さんって生徒を交えて、最後の打ち合わせをしなければならないから」
風紀連? なんぞ? 風紀委員みたいなものか? ほらよくラブコメとかにある、あの。
俺が首を傾げると、気持ちを汲み取ったのか、一ノ瀬さんが補足を加えるようにして言う。
「ああ風紀連っていうのは、林間学校限定で発足した有志による組織で、正式には『林間学校風紀維持連盟』。ほら、何年か前に、先輩が林間学校で起こした、例の事件の……」
「そにょ話は、あとでしっかりと聞くんだにゃ」
一ノ瀬さんの話を遮るように、識さんが若干だが大きな声で、横槍を入れる。
「今京矢にとって重要にゃにょは、妹さんを見つける、連れ戻す、その一点に尽きるんだにゃ」
確かにそうね……と呟き、自己完結するように相槌を打つと、一ノ瀬さんは俺へと顔を向けて、軽く謝罪の言葉を述べてから、仕切り直す。
「とにかく、私はいけないわ。だから、お願いね。一華さんのこと」
「もちろん。というか『俺が』勝負をしにいくんだけどな」
「それは違うぞ」
両手を腰に当てた上田さんが、自信満々といった面持ちで言う。
「え? 違う?」
「確かにそれもある。だが勝負をするのは……」
びしっと、俺の隣に立つ一華へと指をさす。
「小笠原一華、貴様もだ」
「…………」
一華は、無言で頷く。
え? ええ? 一華が勝負? どういうこと?
「分かっているな」
上田さんは一華に歩み寄ると、手を頭にやり、ゆっくりと優しく、撫でる。
「『しっかりとけじめをつけて、前に進む』。罰ゲームは、絶対だ」
「わ……分かってる」
「よろしい。ではゆけ」
どんと、まるで鼓舞するように、上田さんが一華の背中を押す。
押された一華は、とてとてとニ、三歩前に進み、ばふんと、識さんの胸に受け止められる。
「識日和メイドよ。二人を頼んだぞ」
「はいですにゃー。不肖、猫耳メイドの私めが、お二人に徹底的にお仕えいたしますにゃー」
「ふっ。随分とメイドが板についてきたのう。学校でも、そのままでいいのではないか?」
「にゃにをおっしゃいますかにゃ。私には分からにゃいですにゃ」
「偽らない方が、いいのではないかということだ」
「…………」
──『間もなく、四番線に、快速、東京行きが参ります』
アナウンスが鳴り響く。
気がつけば、本当に本当に時間がない。
俺たちは各々財布を取り出して、ICカードをピッと当てて改札を抜けると、ホームへと向かい走り出す。
「皆! 本当にありがとう!」
皆の姿が見えなくなるぎりぎりのところで、俺は振り向き、大きな声で叫ぶ。
他の人がいるのなんて関係ない。
とにかく溢れ出す感情を、想いを、しっかりと言葉で伝えなければと、そう思ったから。
「無事に戻ったら、必ずお礼をするから! 本当にありがとう!」
「ああ。我々ができるのはここまでだ」
代表……というわけではないのだろうが、上田さんが、手を振りながらも応える。
「さよならなのだ!」
踵を返すと、俺はホームへと向かい、今度こそ走り出す。
残された時間は大体半日。
皆が作ってくれたチャンス。
俺は……そのチャンスを、絶対にいかさなければいけない。
無駄にしてしまうなんて、絶対にあってはならない。
だから……だから俺は……今日この時に、全てをかける!
……あと上田さん、『さよならなのだ!』って、お前は雪だるまか!
時は2月14日、ヴァーレンタインデイ。ロッカーから紙袋を取り出して、「こんなにもらってもなー。。」と言いつつも、手に持ったチョコを袋の中に放り込む人、人生で初めて見た。