第180話 真夜中のカーニバル2-25
「まだ小笠原一華は、我に対して積極的になっておらぬ」
「うう……」
「一発だ。我の口に一発、積極的に突っ込めば、それでおしまいだ」
言い方っ!
「どうする? うじうじと、いつまでも中途半端な態度を取り続けても、無用に罰ゲームを長引かせるだけだぞ」
「うう……ひっく」
鼻をすすると、一華は口をふにゃふにゃにしてから、恋人つなぎの手を何度かにぎにぎする。
「わ……分かった。す、する……」
「ほう。ようやく決心がついたか。では……こい」
上田さんは、手を引いて一華を壁から離れさせると、まるで舞踏会のダンスのようにくるりと半周回って、今度は自分自身を恋ドン状態にする。
目の前に広がるのは、肌が雪のように白い、引っ込み思案の制服美少女が、まるで女神のような碧眼ハーフ美少女に、キスを迫るというまるでファンタジーのような光景。
ああ……この時なんだ。今この時が、相対的に見ても、宇宙で最も美しい行為が行われる、その瞬間なんだ。
「はあ……はあ……い、いく……よ?」
聞いてから、一華は恥ずかしそうに視線を逸らす。
「あ……ああ。さあ……くるがよい」
小さく頷いてから、一華は目を伏せて、ゆっくりと、ゆっくりとゆっくりと、どこまでもゆっくりと、上田さんへと顔を近づける。
顔と顔の距離は徐々に狭まってゆく。
――三十センチ。
「はあ……はあ……」
――二十センチ。
「はあ……はあ……」
――十センチ。
「はあ……はあ……」
――五センチ。
「はあ……はあ……」
――一センチ!
「はあ……はあ……」
「っ……」
とここで、戸惑うように一華が、動きを止める。
一体どうしたのか。
上田さんが閉じていた目を開ける。
交差する瞳と瞳。
互いが互いの唇を湿らせる、吐き出される吐息。
そしてその奇跡のような静止の果てに、決心がついたのか、ようやく一華が上田さんの唇に自分の唇を重ねる。
全ての見え方が、スローになった。
故に、全ての物事の移り変わりが、事細かに見ることができた。
一華の表情の変化。
一華の体の運び。
一華の息遣い。
一華の……。
唇が中途半端に乾いているのか、初めは二人の唇が引っつき、離す度に伸びたりした。
しかしそれもつかの間、次の瞬間にはすでに湿り、つるつると、二人の皮膚の摩擦は限りなくゼロになった。
一華のキスは、言葉で表現するなら、『ソフト』だろうか。
見ているだけなので感触とかは分からないが、力が抜けており、柔らかくて、優しい印象を受ける。
上田さんのキスが男っぽい、偏見かもしれないがアメリカーっ! という感じのキスだったので、その対比からも、あながち間違いではないだろう。
初めてかもしれない。キスが美味しそうだと思ったのは。
今までは、キスとか汚えし、虫歯菌とか入りそうだし、正直そんなにしたくないよなとか、そう思っていた。
だが、そんな価値観は、一華のキスを見ることにより、完全に崩壊してしまった。
初めてかもしれない。
俺は今……キスがしたい。他でもない……一華と。
初めてかもしれない。
ハグでもない。デコピタでもない。さらに言えば、本番でもない。
とにかくとにかく、キスがしたいんだ。
「……京矢」
囁くように、識さんが言う。
「手……汗で湿っているんだにゃ」
……手?
……汗?
ああそうか。
今俺は識さんと、手をつなぐ罰ゲームの最中なんだ。
「覚えているかにゃ?」
なにを?
「前、教室で、私とキスしたのを」
うん。
覚えている。
「なんというか……」
うん。
「やり直すかにゃ?」
やり直す?
どうして?
「だってあの時は、とっさだったから、あまりにも淡白だったというか……」
ちらりと、ねっとりとしたキスを行う、一華と上田さんの方へと視線を送る。
「上書き保存……みたいな?」
『伝播』……だと思った。
一華と上田さんから醸し出される淫靡な雰囲気、体温、感情が、このリビングにいる全ての生物に、伝播して、感情を刺激しているんだと思った。
多分床の下ではネズミが、屋根裏ではコウモリが、人間よろしく刺激的な愛撫を、そろそろ始めた頃合いだろう。
ヤバい……かなりヤバい。
このままでは、いくところまでいってしまう。
乱交だ!
多分こういう空気、本能による圧倒的な衝動で、性犯罪とかが起こるんだ。
俺は今……試されている!
言うなれば、天使と悪魔の戦争だ。
ただの戦争ではない。
槍だけを持った一人の天使と、ルシファー率いる魔王護衛軍による、天使が圧倒的に劣勢な、プラトーン、もしくはスリーハンドレッドみたいな戦争だ。
「ねえ……京矢」
俺の肩にあごをのせると、識さんは猫のようなすがる目で、俺を見つめる。
「し……識さん?」
取り囲まれる天使――絶対絶命!
「京矢……」
ルシファーの振り上げた剣が、天使を襲う。
「し、識さん」
振り下ろされた剣が、天使の喉元にとど――
「『あんた、求めてたっしょ?』」
え?
「『まぐわるの』」
だめだ。
「『……うん。私もそう。もしかして』だにゃ」
キンと鳴り、ルシファーの剣を跳ね返す。
ルシファーの胸元には、錆びた、貧弱そうに見える、一本の槍が突き立てられている。
勝った!
勝ったのだ!
たった一人の天使が、王の首を取ったのだ!
○ンピースでも言っていたじゃないか。
腹にくくった一本の槍に、敵わないこともあるって。
まさしくそれだ!
「識さん……だめだ。だめだよ」
レイプ目のままで、小首を傾げる。
「俺たちは高校生なんだ。セックスは愛だとか言って、ただヤりたいだけの自分の気持ちを、無理やりにでも肯定する、下衆で汚い大人じゃあないんだ」
「じゃあ」
ベロチュウを続ける一華と上田さんを一瞥する。
「あの二人は?」
「一華と上田さんはいいんだ」
「どうしてだにゃ?」
「それは……」
「それは?」
「美しいからだ」
そう、美しいんだ。
美しいは、なにをおいても肯定される。
「かわいいは正義。そして美しいは無実なんだ。これは歴史が証明している」
「なるほどにゃ。京矢は色々と考えているんだにゃ」
「もちろんさ」
あ、あと、こんな状態でもなお撮影をし続けているそのデータ、あとで俺のスマホに送っといてね。色々使うからぐへへ。
「お……おしまぃ……はぁ……はぁ……」
積極的接吻を終えたのか、一華は上田さんから顔を離すと、恥ずかしそうに細めた目で、上田さんを見たり見なかったりを繰り返す。
上田さんはというと、はあはあと息を切らしながらも、驚いたような顔で、そんな一華を見つめている。
「も……もういい?」
「……小笠原一華」
「ふえ?」
「貴様……」
「う、うん……」
「最高だったぞ」
名残惜しそうに手を離すと、上田さんは最後にがばっと一華を抱きしめて、頭をすりすりする。
「ふえ!? し、しおん……?」
「なるほど」
「く、苦しいよぉ……は、恥ずかしい……よぉ……」
「なるほどな」
まるで自分自身に言うように、上田さんが囁く。
「会長の気持ち……少し分かったような気がする。これは我にとって、なかなかの前進だ」
上田さんは一華から手を離すと、まるで興味を失った猫のように、一切振り向くことなく、もとの場所へと戻った。
支えを失った一華は、そのまま床へと崩れ落ちて、放心したように天井を仰いでから、ずずずと鼻をすすって、泣き始めた。