第179話 真夜中のカーニバル2-24
もちろん音はしなかった。
吸うとかではなくて、触れ合ったらすぐに、一華の方から退いたから。
「お、おおお、おしまいっ!」
「……?」
「キ、キキキ、キス! したから!」
意外とあっさりだったな。
まあキスをする罰ゲームで女の子同士が当たった場合は、こんなものなのかな。
「ふむ……全然だめだ!」
「ふえ!?」
ん?
「こんなのはキスではない! こんなのは子供がお母さんにする『ちゅー』と、なんら変わりないではないか!」
「へ? え? え? え?」
理解が追いつかないのか、一華はまるで壊れたレコードのように疑問符を繰り返しながらも、とにかく上田さんから離れようと、半歩、足を下げる。
「教えてやろう! 本当のキスが、いかなるものかを!」
一華の肩に、腕を回す。
「ふえ!? へ!? え!?」
「こうするのだ!」
そしてぎゅっと一華を抱きしめると、上田さんは一華の唇に自分の唇を強く押し当てて、まさぐるように、舌を入れる。
……って、舌を入れる!?
びくっと、体を強張らせる一華。
上田さんは時折顔の向きを変えたりしながらも、貪るように一華の舌に自分の舌を絡める。
「んっ……ん……ん」
「はあ……んっ……ん」
「ん……はう……んっ」
「はあ……んん……ん」
リビングには、二人の口の音が響いている。
粘液と粘液が絡み合う、くちゅくちゅという、マウスサンドが。
「ふえ……し、しおん……も、もう……やめ……んっ」
有無を言わさずに、一華の口を口で塞ぐ上田さん。
汗なのか涙なのか、一華の頬に、つーっと一筋の雫が伝う。
「ん……んん……んっ」
「はあ……はあ……ん」
「し、しおん……やめ……やめ」
「やめてと言う割には、しっかりと我のワンピースをつかんでいるのは、なぜだ」
「そ、それは……うう」
「もう一回だ」
「ふえ!?」
「しっかりと前頭葉に焼き付けないとな」
前頭葉って……タイムリープでもするんすか?
「ん……んんっ……はあ……ん」
「はあ……はあ……んっ」
この時、口からこぼれたつばが、あごにたれて、糸を引いて床に落ちた。
ほう。
俺がA∨監督だったなら、床にではなくて、どこか体の一部に落ちるように演技指導をするが……まあ現実、そんなうまくはいかないか。
いや俺なに言ってんだ?
アホか。
俺が気持ち悪いことを考えているうちにも、呼吸が苦しくなったのか、ここで一旦上田さんが、一華の口から口を離す。
一華はというと、泣きそうな顔で俺を見ると、今にも途切れそうな吐息まじりの声で、助けを求める。
「きょ……京矢……たす……助けて……うう……」
すまん一華。
正直最高っすわ。
シチュエーション、雰囲気、色、音、表情……それら全てが。
初めて百合を……否! レ○を、芸術だと思いました!
「最後にもう一つ」
呼吸を整えた上田さんが、一華の額に自分の額を当てる。
「ふえ!? ま、ままま、まだ……あるの?」
「ああ。ある」
「な、なに……?」
頬を真っ赤に染めて、どこかとろんとした目を足元に落としながらも、一華が聞く。
「それはな」
「う……うん」
「こうするのだ」
抱きしめていた腕を解くと、上田さんは一華の両手を取り、肩の辺りで恋人つなぎにする。
そしてそのまま壁際まで追いやると、背中をドンと、一華を壁ドン状態にする。
恋人つなぎで壁ドン――略して恋ドンだ。
「し……しおん……?」
怯えた一華が、潤んだ瞳で、すぐ目の前にある上田さんの目を見る。
「逃げられぬであろう」
「へ? え? ……そ、それって……」
「両手は使えず、背後は壁。まさしく極限状態だ」
「きょ、極限……ひいっ」
自分の状態に気づいて、声を上げようとする一華。
上田さんはそんな一華の口を塞ぐように、再び一華の口に自分の唇を重ねる。
「ん……んんっ……しおん……も、もう……やめ……んっ」
「はあ……はあ……もう少々、小笠原一華が、我に対して積極的になったら、やめてやってもいいぞ」
「んん……せっきょくって……うう……」
「何度も言わせるな。あくまでもこれは、貴様の罰ゲームなのだからな」
言いつつも、もう何度目かのキス。
「ん……ん……しおん……おねがい……やめ……ふえっ……へう……」
「はあ……はあ……ん……」
一華は脚を、まるで生まれたての子鹿のようにぷるぷるとさせている。
一華は恋人つなぎにした手を、同じく小さく震わせながらも、思いとは裏腹に、強く強く握っている。
暑いのだろうか。いや、おそらくは冷や汗だろう。
まだまだ新しい夏の制服は、全身にかいた一華の汗により、若干だが湿ってしまっているように見える。
……つかこれ、撮影してティックトックとかにアップしたら、バズるんじゃね?
いやいやしないけれどね。
他の誰かに見せるなんて、もったいないし。
……ん?
撮影?
自分の言葉に、なんとなく引っかかった俺は、とっさに識さんを振り向く。
するとそこには、スマホを構えて、一華と上田さんのあれやこれやをつぶさに記録する、彼女の姿があった。
「ええと……識さん。なにしてるの?」
「とうさ……記念だにゃ」
「盗撮だよね。いや、もはや盗撮でもないか……盗撮か?」
「記念だにゃ」
ほぼ会話が成立せずに、自分でも一体なにを言っているのかよく分からなくなってきたが、それでもなお、はっきりしたことが一つだけある。
それは、なにがどう変わっても、識さんが識さんであること。
レイプ目で、ネコ耳メイド服姿で、自我や自意識が完全に崩壊してしまった今この時でも、根底にある識さんの性質は、なにも損なわれていないこと。
識さんのアイデンティティ……それは盗聴・盗撮にこそある。
普段の面影が皆無であろうが、語尾に「にゃあ」とかつこうが、反射的に盗聴・盗撮をしてしまうその衝動があり続ける限りは、識さんが損なわれて、別のなにかになってしまうことは、決してない。
そう、決してないのだ。
だから、一つだけ言わせてほしい。
そのデータ、あとで俺のスマホに送っといてね……と。
「はあ……はあ……はあ……はあ……」
一華の息遣いが、この手狭なリビングにこだまする。
一華は疲れたような、どこかとろんとした表情で、なんとかその場に立っている。
「ゆる……して。はあ……はあ……。罰ゲーム……もう、終わり……」
「まだだ」
肩で頬の汗を拭うと、上田さんは不敵な笑みを一華へと向ける。