第171話 真夜中のカーニバル2-16
椅子にだらりともたれかかった一華は、なぜかは分からないが身体をぴくぴくとさせている。
識さんのように光の消えた目は、まるで当てもなく漂うオーブのように、中空をふらふらと彷徨っている。
なんですか、これ?
一華とは長い付き合いだけれど、こんな一華、初めて見たな。
「僭越ながらも申し上げますにゃー」と識さん。
もちろんその後に上田様へと視線を送り、発言することへの許可を求める。
だがしかし、今回はなぜか許可が下りなかった。
なぜだろう。
おいら、今一体どういう状況なのか、こんなにも知りたいというのに。
ただ、誤解しないでいただきたい。
俺が一華にしたのは、耳についてしまったトリートメントを、炎症が生じる前に、ただ拭った……それだけということを。
「――ト、トイレ!」
叫ぶように言うと、一華ががばっと立ち上がる。
「わ、わわわ、私……トイレいってくる!」
「お、おう。でも……大丈夫か? 脚がぷるぷるしているけれど」
「だ、大丈夫!」
「一緒にいこうか?」
「一緒に!?」
俺に対して背を向けると、首をすくめて、前でスカートをぎゅっと握る。
「い、いい! こ、こないで!」
「でも……お前……」
「いいって言ってる!」
一華は俺の手を振り払うと、まるで逃げるように、トイレへと走り出す。
そんな一華の背中を見つめながらも、俺は隣に佇む上田さんへと聞く。
「なあ上田さん。なんか腹痛の薬みたいなのってある?」
「いや、ないな。我々上田家は、あまり薬を好かんからなあ」
なぜだ? というように、その後に上田さんが小首を傾げる。
「いや、一華……もしかしたら腹が痛いのかなと思って。ほら、ちょっとクーラーで冷えていたみたいだし」
「夏木京屋は優しいのだな」
そうかな? 普通だと思うけれど。
「でもバカだな」
おい! どういう意味だ!
トイレから戻ってくると、一華はどこかそわそわした様子で、俺の隣に腰を下ろす。
そしてちらりと俺へと視線を送り、焦ったように顔をそらしてから、ソファの上を探るようにして、指先、指、手のひらという順で、俺の手に手を重ねる。
……一華?
一華だけに聞こえるように、俺は耳元で囁く。
…………。
しかし一華は応えない。
一華は耳を真っ赤にして、もう片方の手を股の間に挟んで、もじもじと、小さく体を動かしている。
――一華は、頑張っている。
恋人同士になってからまだ数十分。
それでも勇気を出して、歩み寄ろうとしてくれている。
だったら俺も、一華に負けないぐらいに、頑張らないと。
俺は重ねられた一華の手を一度どけると、まさぐるように、一華の指に、俺の指を絡ませてゆく。
きょ……京矢?
声に出さずに、口だけで言うと、一華が戸惑ったように俺の目を見る。
手をつなぐ時は、こうな。
声に出さずに、微笑で言うと、俺は一華の緊張をほぐすように、優しく慎重に、恋人つなぎにした手に力を込める。
ひんやりとした一華の手に、じわーっと汗がにじむのが分かる。
全身にも汗が浮かんだのか、ほのかに香る女の子特有の甘い匂いの向こう側に、一華の汗の匂いを感じる。
……京矢。
なんだ?
…………。
返事として、一華が俺の肩に首を預ける。
返事として、俺は一華の肩に腕を回して、そっと頭を撫でる。
こんな時間がずっと続けばいい。
ずっとずっと続けばいい。
ずっとずっと、永遠に……。
俺は強い強い思いを神に伝えるように、なにより一番伝えたい相手に伝えるために、今度は口に出して、はっきりと言う。
「一華……大好きだぞ」
「きょ……京矢……」
感情が高ぶったのか、一華は俺にがばっと抱きつくと、胸に顔を埋めたままで、恥ずかしそうに呟く。
「わ、わたしも……す、すきぃ……」
「一華……」
「京矢……」
ふと顔を上げると、そんな俺たちを見つめる、にんまりとした上田さんの姿が目に入る。
手は、なにか数字を示しているのか、左手をパーに、そして右手をピースにしている。
……なな?
……ええと、なんだっけ。
まあいいや。
今はただ、この温かい気持ちに、身を委ねていたい……それだけ。
「いちゃいちゃしている二人には悪いが、そろそろ再開してもいいだろうか」
「再開?」
なにもすっとぼけたわけではない。本当に忘れていたのだ。
愛による幸福感は、リアルから、悩みや不安、ともすれば絶望さえも、一瞬にして拭い去ってくれる。
俺は今日この時この場所で、愛の偉大さを知った。
愛最高!
愛は地球を救う!
最後に愛は勝つ!
「で、なんだっけ?」
「映画の続きだ」
ああ……そうか、今俺たちはホラー映画の鑑賞会をしていたんだ。
「あ、ああ。もちろん。なんか、わるい」
「ではゆくぞ。識日和メイドよ。再生だ!」
「はいですにゃ~」
***
ハルの姿が焼却炉の中に消えると、男は拘束された体をがたがたと揺らして、絶叫した。
絶叫して、絶叫して、絶叫しまくると、最後に男はゲロを吐き、それから死んだように静かになった。
『ふむ。ようやく静かになったか。まったく子どもみたいなやつだのう』。白人メイドは言うと、なんらかの薬剤の入った注射器を片手に持ち、まるで見せびらかすように、少しだけ押して液を宙に噴出させる。
『安心するのだ。これは強い強い睡眠薬だ。これから脳を取り出すが、痛みはない。もちろん絶望も。眠っているうちに逝ける。最高の死に方だとは、思わんかね?』
男は答えない。
男は虚ろな眼差しをただただくすんだ天井に向けて、重度のうつ病患者がするルーティンのように、かすかな凹凸によりできた小さな影を、一つひとつ数えている。
迫る注射器、迫る死……。
薬剤を体内に注入されてしまっては、もう本当にどうしようもない状態に陥ってしまう。
男は、白人メイドが持つ注射器の針が、自分の腕に刺さるか刺さらないかのタイミングで、彼女の首につかみかかった。
――そう、先ほど暴れた際に、好都合にも、手につけられていた拘束具が外れたのだ。好都合にも!
床に仰向けになる白人メイドと、馬乗りになり、思いっきり首を絞める男。
ばたばたと腕や脚を動かして抵抗しようとしたが、必死の抵抗虚しく、白人メイドはそのまま息絶えてしまう。
***
「うわあああ。なぜなのだあああ!」
顔を向けると、そこにはわざとらしく頭を抱えた、上田さんの姿があった。
ええと……この人は一体なにをしているんだろう。
俺は心の中にあった言葉を、そのまま上田さんに伝える。
「ええと、上田さんは一体なにをしているの?」
「なにをしているって、決まっておろう、恐怖に、絶叫しているのだ。う・わ・あ・あ・あ、とな」
恐怖に絶叫している人が、そんな冷静に説明しない!
「なんだその胡乱な眼差しは」
「い、いや、別に……」
「まるで我が、面白そうだから自分もくじに参加したくて、わざと叫んだとでも言いたげな表情であるな」
「そ、そんなことないよ?」
というか今全部自分の口で説明しましたよね?
「とにかくくじを引くぞ。言い出した我がルールをやぶるなど言語道断であるのはもちろんのこと、なにより今までくじを引き罰ゲームを行ってきた者に対して、申しわけが立たないからな」
ものも言いようだな。
政治家に向いているのではないですか?
おすすめしますよ。●●党。
上田さんはくじの袋を手に取ると、箸を持った手を突っ込み、一つくじを引く。
小さく折りたたまれた紙を開くと、そこには次のようにあった。
――あーん
久しぶりに君の名は観たら鳥肌立った。映画館で観た時は特になにも思わなかったのに。