第170話 真夜中のカーニバル2-15
「――ひゃっ!」
ブラシの毛の部分を一華の頭に当てた瞬間、突然一華がエロ……驚いたような声を発する。
「わるい。痛かったか?」
「…………」
「一華?」
「ううん……つ、続けて」
「お、おう。では……」
俺は一華の頭にブラシを当てると、なでるように、できるだけ力を抜いて、上から下へと髪をとかす。
「どうだ? こんな感じか?」
「ん……んっ……ん……んんっ……」
「一華?」
「んっ……ひゃ……あ……んっ……」
答えない。
だったらまあ、力かげんはこれぐらいでいいのだろう。
俺は構わずに続けることにする。
「あっ……んん……ひっ……うう……」
しゅっ……しゅっ……しゅっ……。
「あひっ……んっ……ん……あっ……」
「なあ一華、その声なんとかならないか?」
「はあ……はあ……だ、だってぇー……はあ……はあ……」
「だってなんだよ?」
「な、ななな、なんだか……」
神に祈るように前で手を組むと、一華は膝と膝をもじもじさせながらも言う。
「き、気持ちいいんだ……もん」
「気持ちいいって、ただブラシを入れているだけだぞ」
「わ、分かんない! でもでも……」
「でも?」
「た、多分……京矢……だから」
「なんだよそれ」
こんなん誰がやったって一緒だろ?
上から下にブラシを動かす、単純作業なんだから。
まあいいや。
じゃあ次は――
「トリートメントか?」
「ト、トリートメント?」
「ほら、よくドラッグストアとかに売っているだろ? 洗い流さないリンス的な」
「そ、そうなの?」
「僭越ながら私めが、ご意見いたしますにゃー」
一歩前に出た識さんが、小さくお辞儀をしてから、許可を得るためにも、上田さんへと顔を向ける。
上田さんは識さんからの視線を受けて、まるで『よかろう』とでも言うように、手を差し向けて応える。
「京矢の言う通りなのにゃー。ブラッシングのあとにはしっかりとトリートメントを馴染ませてあげることが大事なのにゃー。保湿をしてあげることにより、髪に潤いと艶が出るのにゃー」
「そうなんだ。でもトリートメントなんかないよな」
「ここにありますにゃー」
エプロンのポケットから透明なケースに入ったトリートメントを取り出すと、そっと前に差し出す。
「さっき上田様のお部屋にブラシを取りにいった際に、もしかしたら必要になるかもと思い、一応持ってきていたのだにゃー」
「そ、そうなんだ……。ありがとう」
というか上田様?
「上田さん、これ、少し使ってもいい?」
「もちろんだ。なんなら少しと言わず、体中に塗りたくっても構わんぞ」
この白い液体を、一華の体中に塗りたくるって……。
――はっ!
いかんいかん!
今ちょっとだけ、やけに肌色色の多いイメージを、思い浮かべそうになってしまった!
「…………」
ふと気づくと、肩越しに一華が、俺の方をじとーっとした目で見ている。
……ええと、なにかな?
「い、今京矢……思い浮かべた」
「え? な、ななな、なにを?」
「だ、だから……私の体に…………る、ところぉ……をぉ……」
「え? 思い浮かべてないよ? ほんとだよ?」
「う、うそ! うそうそうそ!」
中腰になった一華が、ぽかぽかと俺を叩く。
全然痛くない。
ああ、俺が守ってやらないとなとか、そんなことを思うではなく思う。
「まあとにかく座れって」
「う、うん」
真っ赤な顔をした一華が、はあはあと息を荒らげながらも、へたりと椅子に腰を下ろす。
「じゃあトリートメントを馴染ませていくぞ」
「う、うん。……お願い」
蓋を開けると、俺は指先にトリートメントの白い液体をのせて、ワックスを手に広げる要領で、手のひらに薄く伸ばす。
そしてまずは髪の表面にトリートメントを塗るためにも、ぽんぽんと、手を当てたり当てなかったりを繰り返しながらも、優しく撫でる。
「じゃあ次は中にいくぞ」
「う、うん。さ、さきっちょだけね」
「さきっちょ?」
「髪のさきっちょ。ね、根本だと、頭皮についちゃう……から。わ、私……あんまり肌強くない。だから……」
「なるほど。分かった。じゃあ肌につかないように、気をつけるから」
俺はトリートメントを手の上に足すと、一華の髪の真ん中ぐらいに手を入れて、ゆっくりと引くように、液を馴染ませてゆく。
おお……結構いい感じだ。
さらっとしているのに、明らかに髪に艶が出た。
今までのつけが回っているのか、確かにさらさら黒髪ロングとまではいかないけれど、さっきまでのぼさぼさと比べると、雲泥の差だ。
「じゃあ、最後に横髪いくぞ」
背後からではやりにくかったので、俺は一華の正面に回り、中腰になって、ぐっと顔を近づける。
目が合い、気恥ずかしそうに顔をそらす一華。
俺はというと、同じように気恥ずかしくはあったが、作業を進めないといつまでたっても終わらないので、高ぶる感情を抑えつつも、一華の横髪を手に取る。
「あっ、ごめん」
妙な緊張により手元が狂ったのか、誤って一華の耳にトリートメントの白い液をつけてしまう。
「すぐに取るから」
俺はテーブルの上にのっていたティッシュを一枚取ると、くしゃくしゃっと適当なサイズに丸めて、優しく優しく、まるで鳥の羽で繊細なガラス細工についた埃でも払うように、一華の耳をなでる。
「――あっ、ああん!!」
「…………」
なんすか今の声。ていうか、なんすか。
「ふ……ふぇ……はあ……はあ……」
「ええと……大丈夫?」
「はあ……はあ……」
「もう一回いくよ?」
早く肌についたトリートメントを取らねば。
一華の雪のように白い肌に、炎症でも起こったら大変だ。
先ほどと同様に、俺は一華の耳にティッシュを当てる。
「はううううっ! あっ……うう……」
「どうした!? 痛むのか!?」
「ちっ……ちがっ……」
強く目をつむり、頬を染めた一華が、ふるふると首を横に振る。
「じゃあ一体……」
「く、くすぐったいっていうか……き、ききき、気持ちいいっていうか……」
目を開けると、上目遣いで俺を見る。
股に手を挟んで、脚をもじもじと動かしながらも。
「な、なんだか……変な感じ……する……うう……」
「でもお前肌弱いんだろ? すぐに取らないと」
俺は無理やりにでも、されどどこまでも優しく、ティッシュを一華の耳に当てると、何度かこすって、ついてしまったトリートメントを拭ってゆく。
こするたびに一華は、「あっ」とか、「うう……」とか、「ひゃあ」とか、そんな嬌声とも言える声を、俺の腕にすがりつきながらも発する。
「はあ……はあ……きょ、きょうやー……取れた?」
「ちょっと待て。少しでも残っていたら大変だ」
念には念を入れて、俺はさらに顔を近づけて、一華の耳の中をのぞく。
トリートメントの液がたれて、耳の中にまで及んでいたら、後悔してもしきれない。
「――ちょっ! きょ、きょうや!?」
声を上げた一華が、俺の服をぎゅっとつかむ。
「い、息が……耳に……」
「もう少しの辛抱な。完全に拭き取るから」
耳の中だと、もはやティッシュが邪魔だったので、俺は生で、一華の耳の穴に、指を突っ込む。
「あんっ! ひゃううう……あっ……」
やっぱり少しついている。
あぶないところだった。
「んっ……んんん……きょ、きょうやー……だ、だめぇ……はあ……はあ……」
こう、指の腹で、トリートメントをすくうようにして……すくうようにして……。
「いやっ……も……もう……やっ……んんっ」
あとは耳の輪郭に沿って、こうくるりと拭えば……。
「だ……ら……らめえええぇぇぇぇ…………っ! あ」
「よし一華終わったぞ。これで一華の耳は炎症の危機から救われた……って、一華?」
夏は好きでした。