第153話 総括とこれから
手の甲で口を拭う俺。
なにが起こったのかとっさに理解できずに、どうしてこいついきなり吐いてんだと目を皿にする識さんと一華。
俺はそんな二人へと、びしっと親指を立てて大丈夫であることを伝えると、ふらふらとした足取りで元の席へと着席する。
『ん? 今なんか変な音しなかった? なんかがこぼれるような』
「――あっ、うん。あれ。あれあれ」
『あれって?』
「そううんこ! 飼ってる犬がうんこもらした!」
……識さん、相当動揺しているみたいだな。
突然嘘が超下手になった。
『マジか……大丈夫か?』
「う、うん! 別に大丈夫だし。超いつものことだし」
『いつもなんだ。なんていうか、犬飼うって大変なんだな』
「まあね? 超大変だし」
ここで、先ほどからかちゃかちゃとパソコンをいじっていた上田さんが、識さんの太ももを指でつつき、画面を見るように促す。
識さんは、一体なんだろうと首を傾げながらも、床に両膝をついてソファから下りると、上田さんが指をさす部分へと視線を送る。
――『ホテル湯沢の湯』と名があった。ホテルの外観の写真も。
一瞬識さんはその場に固まり、なにかに気づいたように上田さんに視線を送ってから、小さく頷いて話し始める。
「あ、そうそう、ちーちゃんだけど、ホテル湯沢の湯って所に泊まってるらしいよ。純はどこに泊まってるん?」
識さんのこの質問を聞き、なぜ先ほど上田さんが、識さんが電話を切ろうとするのを止めたのかが、ようやく分かった。
会話を引き伸ばして、嘘の情報を膨らませて、絞れるだけ場所を絞ろうという、そういう魂胆だったのだ。
正直……上田さんが恐ろしい。
共感性が全くないくせに、人を操る勘だけは、これでもかというぐらいに発揮する。
いつか、俺も操られるのかもしれない。
気づいたら銀行を襲っていたとか、マジでやめてよ!
『いや……別に。なんで?』
「なんでって、同じホテルなら、連絡取り合って、引き合わせてもいいかなって」
『いや、いいよ』
「なんで? 楽しそうじゃね?」
『だって俺、今家族といるし。はずいっていうか』
「――家族!?」
思わず俺は、声を上げてしまう。
驚いた一華が、俺の口へと両手を突き出すと、そのまま押し倒す格好で、俺の上に覆いかぶさる。
きょ……京矢……だめえ!
くそぅ! くそぅ! 誰が家族だ! くるみは純の家族じゃあねえ! 夫婦ぶってんじゃあねえぞボケ!
京矢! ……しーっ! ……しーっ! ば、ばれちゃう!
覆いかぶさった一華が、必死な顔を俺に近づける。
周囲が暗くなった。
一華のぼさぼさの髪がまるでベールのように俺の頭の周りを覆い、一時、二人だけの近接空間になった。
……い、一華。
一度二度と、俺は一華に頷く。
一華は潤んだ瞳で俺の目をのぞき込みながらも、囁くように聞く。
京矢……もう声……出さない?
頷くと俺は、一華の肩へと手をやり、ゆっくりと上体を起こす。
光が戻ってきた。
あと識さんの電話の声も。
「いや、今家だけど。もしかしてちょっと電波悪いん?」
『いや……そんなことないと思うけど。まあ、気のせいか』
どうやら上手くごまかせたみたいだ。
これもとっさに俺を静止してくれた一華のおかげだ。
本当にありがとう。
俺は目の前にいる一華をぎゅっと抱くと、何度か優しく頭を撫でてから、両頬に軽くチークキスをした。
「ふぁっ!? きょ……きょきょきょ……ふええ…………」
……というか俺なにしてんだ?
よく考えたらこれって、普段なら絶対にやんないよな。
ああそうか。
この前観た映画で、戦場から帰還した米兵が、家族に同じようなことをしていたんだ。
きっとそれの影響だ。
この異常な状況が、ある種戦場に酷似したこの状況が、俺の精神を妙に刺激しているんだ。
だから俺は悪くない。
というか日本人は、普段からこれぐらい、友人・家族に対して、素直な感情を表に出すべきなんだ。
だから俺は悪くない!
ゆでダコみたいになった一華をそっとソファに預けると、俺はゲンドウよろしく組んだ手の上に顔をのせる。
そして意味もなく一人でにやりとしてから、なおも敵と会話を続ける識さんへと耳を傾ける。
「まあじゃあ、ちーちゃんの件は、なしということで」
『ああ』
「ちなみにだけど、今ライン確認したら、ちーちゃん今日の昼頃に帰ったみたい。同じホテルだったとしても、結局は無理だったね」
『あ、そうなんだ。まあ、別にいいけど』
「それじゃあ今度こそ、また明後日で」
『おう。じゃあまた』
今度こそ、通話が終わった。
識さんはというと、ぶはーっと息を吐いてから、ソファに思いっきりもたれかかった。
「識日和よ、ナイスだ。極控えめに言って、三百点満点だ」
上田さんが、冷めた紅茶を差し出しながらも言う。
ありがとと言い受け取ると、識さんは紅茶を一気に飲み干して、喉を潤す。
「でも、ホテル名は引き出せなかった。あの会話だと、ホテル湯沢の湯なのかどうかは、ちょっと判断できないし」
「それでもだ。なにより最後にクラスメイトはすでに帰宅したと付け足したのがいい。近くにクラスメイトがいては、滞在中、部屋から出てこなくなるのは目に見えているからな。それでは現地に赴いた時に、少なくとも渡辺純の姿を見つけることが困難になる」
あの短時間で、識さんはそこまで考えていたのか……。
さすがは識さん。人間関係において、積み重ねてきた経験の差が違うね。
「して、総括しよう」
立ち上がり、ソファの反対側に回ると、上田さんは両手を広げる支配者のポーズを取る。
そして一人ひとりに視線を送り、それから彼方にいる一ノ瀬さん、山崎さん、細谷へと顔を向けてから、歯切れのいい、快活な声音で言う。
「我々の追う夏木くるみは、現在三組のクラスメイトであり、ギルド『ミルク・ラビッツ』のギルメンでもある渡辺純と共に、群馬県北湯沢村にある、湯乃花温泉にて、身を潜めている。その後の捜索は、今後現地にて行うものとする。以上だ」
上田さんの総括は、このアンティークの置かれた、どこか不思議なリビングに響き渡り、拡散して、やがては窓の外に広がる闇夜の中へと、粛々と、されど儚く、消えていった。
湿気に殺されそうです。。