第141話 先入観も使いよう
本格的に作業を始めてからは、あっという間に時間が過ぎた。
先ほどまで真上にあった太陽は、徐々に、しかし確実に、西の空へと傾いてゆき、気がつけば辺りからは、夏のあのうだるような暑さが、まるで夢か幻であったかのように、消え失せていた。
時刻は午後五時。
七月なのでまだまだ外は明るいが、夜風を思わせる心地のいい風が、じきに訪れる一日の終りを暗に伝えている。
昼間よりも若干おとなしくなったセミの泣き声が、風と同様に、やはり一日の終りを暗に伝えている。
平時であれば、やっと涼しくなったと安堵をするところではあるが、残念ながら今は有事だ。
否応なく時間の流れを感じてしまうというのは、成果が出ない今の俺にとって、焦燥感をかき立てる単なる要因でしかない。
このままじゃあやばい……。
俺はマウスを動かす手を止めると、まるで焦りを表明するように、今度は口に出して言う。
「このままじゃあやばい」
「ん? やばい?」
俺の斜向かいに座り、プリントアウトした文字候補一覧に目を通す細谷が、ちらりと俺へと視線を送る。
「だって……もう時間がないし、文字の特定も、できていないし」
「いや、そんなことはないよ」
「そんなことはない?」
「確かにまだ文字の特定はできていない。でも確実に」
テーブルの上に重ねられた紙の束を上から手で叩く。
紙束は、定期的に皆から集めた、あるいは正解かもしれない、看板の文字候補だ。
「情報は蓄積されていってる」
「蓄積って、それで本当に看板の文字が割り出せるのか?」
「うん。このまま続ければ、断定はできないまでも、決定的なヒントにはなると思う」
「決定的なヒント? 分かりやすく言ってくれ」
「そうだな…とりあえず一度皆をリビングに呼んで、引き継ぎをするか」
紙束を持ち上げて、テーブルの上にとんとんとした細谷が、立ち上がりながらも言う。
「引き継ぎ?」
「僕、このあと夕勤でバイトなんだ。だから申しわけないけど、いかないといけない」
「ああ、そうなんだ。というかこんなぎりぎりまで、マジでありがとう。この償いは今度必ずするから」
「償いとか別にいいって。そもそも一ノ瀬さんに脅されてやっただけだし」
「でも……」
「それに」
場を取り繕うように、細谷が紙束をぱらぱらとめくる。
「結構楽しかったし。男友達だけの寂しい夏休みを覚悟していたけど、あんなかわいい女の子たちと過ごすことができて」
「イカれたやつばっかだけどな」
「それでもだよ。……つか、夏木って結構ひどいのな」
細谷はまだ、彼女たちの本性を知らない……。
リビングに集まると、細谷は現在の進捗を皆に伝えてから、先ほど俺に言った、情報の蓄積と、そこから導き出される決定的なヒントについて、説明をした。
「まず初めに言っておくけど、この短い時間で、看板の文字を全部完璧に特定するのは無理だと思う。でも、問題ない。全部特定できなくても、場所が絞れるような情報をある程度すくい上げることができれば、狭まったカテゴリー内でさらに厳選して特定作業に臨むことができるはずだから。そしたらまたカテゴリーを狭めて、厳選して特定作業に臨む。その繰り返し」
「なにを言っているのかさっぱり分からないわ」
やれやれと首を振った一ノ瀬さんが、困ったような顔でさっと髪をうしろへと払う。
「細谷くんはあれね。あまり人の立場になって話すことができない人なのね。今のだって完全に、分かっている人が分かっている人に話せば通じるような内容だったし」
「うん。確かにそうだね。気をつけるよ」
「ほう」
感心したように上田さんが頷く。
「素直に自分の否を認めるか。細谷翔平……貴様やはりなかなかに見込みがあるぞ。さすがは我が右腕だ」
「右腕? ……どうも」
小さく会釈をしてから細谷が続ける。
「例えば観光地なんて大体限られているよね。大きなカテゴリーに分けたなら、まあ海か山か都会だ。写真を見る限り誰がどう見たって夏木の妹さんは山にいる。じゃあ山の観光地っていったらどんなカテゴリーがあるか。なになにスキー場だったり、なになに展望台だったり、なになにキャンプ場だったり、そこら辺が思い浮かぶと思う。そう、看板のヘッドラインの最後の文字は、大抵この辺りの、カテゴリーを表す名詞が入っていることが多いんだ」
「なるほどなのです」
手で口を覆った山崎さんが言う。
「ようは当たりをつけて……いやあえて先入観を持って、潰れた文字を見る。そうすれば書かれている文字が絞られるぶん、上がってきた情報の中から最短で答えにたどり着けるし、また合っている可能性が高い……というわけなのですね」
「そうです。そしてそのような見方で蓄積されたデータを調べてみたら、カテゴリーについては、すぐにたどり着くことができました。念のため自分でも色んなパターンを試してみたので、間違いないと思います」
「で、その文字は、一体なんだったんだ?」
細谷のもったいぶった言い方にたえきれなくなった俺は、身を乗り出すようにして、聞く。
「『温泉』だよ」
――温泉…………。
「看板のヘッドラインにあった最後の部分は、『温泉』で間違いない。つまり夏木の妹さんは今現在、日本のどこかにある、ほにゃらら温泉に身をひそめている。分かるだろ? となると、あとは関東の温泉をリストアップして、それらを順番に潰して照合していけば、最短で答えにたどり着くことができる。僕がさっき言ったカテゴリーを狭めていく云々っていうのは、つまりそういうこと……って夏木、聞いてるか?」
温泉という言葉に気を取られて、周りへの意識が散漫になっていた俺へと、細谷が首を傾げる。
「あ、ああ……まあ……」
気づいたのだろう。髪をくるくるしていた識さんが、不意に指を止める。
「あっ、温泉って、もしかしてあれに関係あるん?」
「あれって?」と細谷。
「ほらさっき京矢が話した、妹さんとの結婚式の話。確か湯治で訪れて、そんで体調がよくなったから、最終日に丘に登ったとかって」
「可能性は大いにあるのではないか?」
にっと白い歯を見せた上田さんが口を開く。
「そもそも今回の家出は、夏木くるみの夏木京矢に対する血を越えた愛情が故であるのは間違いがない。そしてその愛の重要な節目になっているのが――そう、過去に温泉地の丘の上でした、夏木くるみとの結婚式ごっこだ。であるならば、自分の思いに終止符を打つ、あるいは決意をさらに固くするという意味合いにおいても、原点に立ち返る、特別な場所を再訪するというのは、ある種人間の本能のようなものであり、また人情みたいなものであろう」
そう……かもしれない。
いや、たとえそうでなかったとしても、くるみがいる可能性が極めて高いのだから、まずはそこを優先して調べるべきだろう。
数年前、俺が小学生の時にいった、あの思い出の温泉地を。
「で、その温泉は一体どこなん? 名前は?」
識さんが聞く。
だがしかし、俺はすぐに言葉が出てこない。
というか、全然全く覚えていない。
「いや、分からない。覚えていない」
「はあ……使えないわね」
ため息をついた一ノ瀬さんが、がっかりしたように首を横に振る。
使えないって……ひどい。
つか小学校低学年の時にいった観光地なんて、普通覚えてねえっつの!
子供なんか所詮、ただただ親に連れられて、ほいほいついていくだけなんだから。
「お、親なら……知ってる」
おずおずとした様子で、一華が俺の服の袖をくいくいする。
「電話で、聞いてみる。そうすればきっと……すぐに分かる」
「ああ、そうだな。ちょっと今から、聞いてみるよ」