第120話 コーヒーを淹れる……ただそれだけの話
上田さんの家に着き、玄関の周りにあふれたアンティークの数々に足を引っかけないようにドアをくぐると、昨夜の、セーラー服姿のままの一ノ瀬さんが、一華へと飛び込んできた。
「一華さーん!」
「ひゃっ……ありさ……」
一ノ瀬さんは一華の体に腕を回して、見るからに嫌がる一華に頬をすりすりする。
「ああ! 朝一番から一華さんと触れ合えるなんて! 今日はなんて素晴らしい日なのかしら! 本日七月三十日は、一華さん感謝の日としましょう! そうしましょう!」
「げっ……ありさ、あんたもいるんか」
苦い顔をした識さんが、若干引き気味に言う。
「ていうかその格好なんなん? コスプレ?」
「あら、識さんじゃない。スポーツウェア、とても似合っているわよ。かわいいわ」
「あ、あんがと」
正面切ってほめられるとやはり気恥ずかしいのか、識さんはキャップのつばを指でつかみ顔を隠すと、ずかずかと一人で廊下の奥へと歩き始めた。
リビングに入ると、そこにはソファに腰を下ろして、ノートパソコンに目を落とす、上田さんの姿があった。
服は昨日と同じくシルエットが目立つ洋風のワンピースだ。
ただし今日は森を思わせるような緑色ではなくて、北欧の涼しげな空気を表現したかのような爽やかな水色をしている。
腰には相変わらず赤茶色のウエストベルトをつけており、水色と茶色の色の対比からか、やたらにくびれが強調されて見える。
というか赤色の髪、白い肌、青い瞳と相まってか、女神にしか見えない。
ああ! 朝一番からシオン神にお目にかかれるなんて! 今日はなんていい日なんだ!
そうだ! 今後七月三十日を、聖シオン祭と名付けて、世界の平和を祈ろう!
かわいいは正義! かわいいは正義! と。
「あ、どうも」
キャップを取った識さんが、手で髪をときながらも言う。
「私、六組の識日和。さっき道でばったりあったから、手伝いにきた感じ」
「うむ。それは助かるな。我は上田しおんだ。よろしく頼むぞ」
「は、はあ……」
識さんが俺の方を向き、小声で聞く。
「ちょっ、京矢。この子ってもしかして、あれ?」
「あれって?」
「だから……ちょっと残念な子?」
「残念なもんか。女神だよ」
うわあというような顔をしてから、識さんは溜息をつき、上田さんへと顔を戻す。
「それで、これからどうすんの? 京矢の妹さんからは、まだ返事がなにもないんしょ?」
「そうだな……作戦会議は皆が揃ってからにしたいので、とりあえず識日和は、シャワーでも浴びてきたらどうだ?」
「え? シャワー?」
「鍛錬をしていたのだろ? 一度汗を流してくるといい。着替えは、こちらで用意しておこうぞ」
「あ、それは助かるかも」
「風呂場は廊下に出て左だ。ゆっくりしてくるといい」
識さんがリビングから出てゆくと、俺は上田さんの斜向いに腰を下ろして、買ってきたパンの袋を差し出す。
「ていうか上田さん、もう起きてきたの? もしかして寝れなかった?」
「いや、一時間ほどぐっすりと寝たぞ」
「一時間って、仮眠って感じだよね。大丈夫?」
「全然問題ない。そもそも我は、それほど睡眠時間が長い方ではないからな。それよりもむしろ今は……」
顔を上げると、リビングのドアの前に立つ山崎さんへと視線を送る。
「山崎鈴よ。ネーム、上がったのだな」
「はいなのです。自信作なのです。是非ともチェックを、してほしいのです」
「うむ。では二階の我の部屋で見させていただこうか」
ソファから立ち上がると上田さんは、山崎さんに歩み寄り、まるで紳士のように自然に、肩に手を回した。
そして部屋へと誘うように体の向きを変えさせると、もう片方の手で音もなくドアを開けた。
「そうそう、夏木京矢よ」
去り際に、上田さんが肩越しに俺へと声をかける。
「夏木くるみからの承認だが、残念ながらまだされていない。そのパソコンにツイッターが表示してあるから、ちょくちょくチェックをしてやってくれぬか」
「それは、もちろん」
「あとキッチンだが、好きに使ってくれて構わない。コーヒーとか紅茶があるはずだ」
「ありがとう。ありがたく使わせてもらうよ」
上田さんと山崎さんと一緒に、一ノ瀬さんも、自分の制服に着替えるために二階へと向かったので、俺は再び一華と二人きりになった。
室内には、ノートパソコンから聞こえる小さな冷却ファンの音と、壁にかけられた時計の、かちかちという律動が、まるで静けさを強調するように響いている。
とにかく、飲み物でも淹れるか……。
俺は一華に話しかける。
「一華」「京矢」
口を開いたのがほぼ同時だったので、言葉が重なる。
「お、おう。どうした?」
「う、ううん。……京矢、から」
「いや、いいって。一華は、なんて言おうとしたんだ?」
「ううん。京矢からで」
これはいつまでも延々と続きそうだぞと思ったので、俺が折れることにする。
「じゃあ、まあ……。とりあえず、キッチンでコーヒーでも淹れる?」
「う、うん。私も……そう言おうと思ってた」
キッチンは、玄関を入ってすぐの所にある、目の高さに小さなステンドグラスがはめられた、木のドアの向こう側にあった。
床はしっかりした板張りであり、壁は白の漆喰だ。
オーク材のテーブルを取り囲むようにして置かれた食器棚などは、どれも木肌が温かなヨーロッパ風であり、フランスパンとかでかいチーズとか、なんかそんな感じの食品が似合いそうな雰囲気を醸し出している。
コンロの周りは、耐熱のための赤いタイルになっている。
そして上部に視線を転ずれば、そこには排気ダストとして、レンガのバイザーのような物が、まるで軒下のように、斜め下に突き出ている。
俺はコンロの脇の、金属の鍋敷きの上にのっていたやかんを手に取ると、一度軽くゆすいでから、水を入れて火にかけた。
「ええと、コーヒーってどうやって淹れるんだ?」
瓶に入れられた、すでに挽かれた豆を手に取る。
「俺、インスタントしか淹れたことがないから」
「ま、待って。ググるから」
スマホを取り出すと、一華が調べ始める。
「ドリッパーにフィルターをかぶせて、そこに挽いた豆を入れて、その上からお湯を注げばいいみたい。そうすると、下のサーバーにコーヒーが滴り落ちる」
「まあ、そうだよな。普通に考えて」
俺は言われた通りにセッティングをすると、フィルターの中にコーヒーを入れて、沸騰した湯を注いだ。
すると精神を落ち着けるような芳しいコーヒーの香りが、辺り一面に広がった。
「ま、待って。沸騰したお湯はだめみたい。香りが飛んじゃうって」
「マジで。まあ、まだセーフだろ。ちょっと注いだだけだし」
「う、うん。多分。それで、このまま数十秒蒸らす」
「お、おう……」
ぽた……ぽた……ぽた……。
そろそろいいかな。
「じゃあ、本番いくぞ」
「う、うん」
一華が、不安そうに俺の腕に手をのせる。
肌を通して、一華の体温が伝わってくる。
「な、なんか……」
「お、おう。なんか?」
「共同作業みたい。……初めての」
「は、恥ずかしいこと、言うなよ」
「だ、だってぇ……」
頬を染めて、一華がうつむく。
倒置法にしてニュアンスを弱めてはいるけれども、ようは初めての共同作業だろ?
そんなん正面切って言われたら、やっぱ恥ずいだろ。
しかもただコーヒーを淹れているだけだし。
「よ、よし。……入れるぞ」
「う、うん。優しく……して。一気に入れると、出ちゃうかも、しれないから」
「分かってる。じゃあ、いくぞ」
「うん」
「……一華、手をどけてくれないか? このままじゃあ、入れられないだろ?」
「でもでも……私、不安で」
「大丈夫だ。全部俺に任せろ」
「京矢……本当に大丈夫? 京矢も、その、あの……初めて、だよね?」
「初体験は、誰にだってあるだろ?」
「そ、そだね。なんか私……緊張、しちゃって」
「いくぞ……よし入った」
「あっ! 京矢! 出てる! 出てる!」
「やばっ! ティッシュ! ティッシュ!」
しゅっしゅっ……しゅっしゅっ……。
「……よし。気を取り直して、いくか」
「うん。いく」
「いくぞ」
「うん。いく」
「これ、何回も入れないとだめみたいだな」
「何回いく?」
「分かんないけど、入れて、出して、入れて、出して……限界まで?」
「あんまりやると、よくない。程々が、肝心」
「そろそろいいか? もう一回出すぞ?」
「ひゃん! あっ! あっ!」
「一華!?」
「京矢! 飛んだ! 私の腕に飛んだ! 汁が!」
「お湯って言おうな」
「アウトオオオオオオー!」
叫び声と共に、突然、勢いよくドアが開けられた。
びっくりして振り向くと、そこには識さんの姿があった。
なぜか純白のウエディングドレスに身を包んだ、華やかで美しい識さんの姿が。