第118話 夏の日差しと汗をかく美少女
この時、俺は聞いた。
確かに聞いた。
俺の頭の中で、なにかが焼き切れる、ぷつんという音を。
そうだ。きっと回路が死んでしまったんだ。
次から次に起こるあまりにも面倒くさいできごとに、精神が一時的に麻痺状態に陥ってしまったんだ。
だったら、もういいじゃないか。
そう、もう俺は焦る必要はないのだ。
たとえ今地球に隕石が落ちてきても、宇宙生物が目の前の池から突如として現れても、けっして俺は焦らない。
HAHAHAと乾いた笑いをして、ロビンソンで買ったパンを、小さくちぎって鳩にでもあげるさ。
「離れろし!」
ずかずかと駆け寄ると、識さんが俺と山崎さんを引き離す。
「つか、説明してくれるんだよね? 鈴と、一体なにをしていたのかについて」
「ああ。もちろん」
居住まいを正すと、俺は正面に立つ識さんを澄んだ目で見上げる。
「で、京矢は一体、こんな所でなにをしていたん?」
「…………いや、なにも」
「嘘こけ! 鈴と抱き合って愛を叫んでただろうが!」
「…………いや、叫んでないよ」
「ふうん……そういうこと言うんだ」
ポケットからスマホを出すと、識さんはなにかの動画を再生する。
俺はそのままの、背筋を伸ばしたままの姿勢で、突き出されたスマホの画面に流れる動画を、謹んで拝見する。
藤棚の下にある、木を模して作ったコンクリートのベンチ。
……うん、ここだ。
手を取り合い、互いに見つめ合う年頃の男女。
……うん、俺と山崎さんだ。
ほどなくして、男の子の方が、熱い熱い愛の告白を、女の子へと行う。
……うん、……うん。
最後にがばっと、二人は強く強く抱擁をする。
…………うん。
動画が終わると、識さんは腰を曲げるようにして俺へと顔を突き出すと、じとーっとした目をしながらも聞く。
「で、なにか言うことは?」
「ひどいじゃあないか! 盗撮をするなんて!」
「そこなん!?」
呆れたように息をはくと、識さんは首に巻いていたタオルで額の汗を拭う。
そして俺の横に腰を下ろすと、ボトルホルダーにかかっていた水を手に取り、ごくごくと一気に半分ほど飲む。
「まあいいわ。どうせ鈴が暴走して、致し方なくって感じなんしょ?」
「その通りだ。さすがは識さん。理解が早くて助かる」
「それで、あんたら三人は……」
俺越しに、山崎さん、一華へと視線を巡らせる。
「一体どうしてここにいるん?」
「ああ、それは……」
俺はここ数日に起こったくるみとのできごとを、簡潔かつ手早く、識さんに説明をした。
くるみとのことを他の誰かに説明するのは、もうこれで四回目だ。
全体の流れ、伝えるべきポイントを、しっかりと把握した俺は、途切れることなく流暢に、識さんに説明することができた。
もしもこの世に『この数日間に夏木京矢と夏木くるみとの間に起こったできごとをうまく説明する選手権』みたいなのがあったなら、おそらく俺はリハーサルなしでぶっちぎりで優勝をしていたことだろう。
「なるほどねー」
俺の話を聞き終えると、識さんは脚を組み、ベンチに背中を預ける。
「私の知らないところで、京矢にそんなことが起きてたんだ」
「ああ。それで、識さんはどうしてこんな所にいるの?」
「見れば分かるっしょ?」
「ん? なに? 全然分からない」
「本気? どう見てもジョギングっしょ」
ジョギング?
ジョギングってあれだよな。健全な人が行う、運動の一種だよな。
どうして全然健全そうに見えない識さんから、ジョギングなんていう修行僧みたいな言葉が出てくるんだ?
「あれ!? もしかして識さんって、ものすごく健全な人なのか!?」
ばしっと首を叩かれる。
「どういう意味だし! 京矢、あんた私のこと、どう思ってるん?」
「いや、カラオケとかクラブが大好きな、スーパーリア充……みたいな?」
「なにそれ!? 私どんだけチャラいの!?」
もう一度俺の首を叩こうと手を上げるが、ばからしくなったのか、識さんは手を下ろすとペットボトルを取って、ぐびぐび飲み始める。
「前にも言ったっしょ? 私中学ん時はバスケ部だったって。高校に入ってからは部活入んなかったから、体がなまっちゃって。だからこうして、暇を見つけてはジョギングしてんの。分かった?」
とても分かりやすい説明を、ありがとうございます。
というか識さんってあれだよな。見た目とか言動が、中身に反比例しているっていうか。
ヤリマンビッチ……とまではいかないまでも、そういうことに事欠かなさそうに見えて、処女だし、恋愛超上級者に見えて、意外とうぶだし、興味のないやつに対しては徹底的に無関心そうに見えて、結構誰に対しても別け隔てなく接するし、飲酒をした挙句の果てにオールをかましちゃいそうに見えて、午前中からジョギングをするぐらいに健全だし。
ギャップが引き立てるっていうのかな?
なんだかスポーツウェアに身を包む識さんが、妙にかわいらしく見えてきた気がする。
黙ったままで、じろじろと見すぎたのだろう。俺の視線に気づいた識さんが、ははーんといった目をして、俺に聞く。
「え? なに? なんで私のことをじろじろと見てるん?」
「い、いや。なんでも」
とっさに視線をそらす。
「え? なになに? どうしたん? まさか、汗に輝く私に惚れ直したん?」
「ち、ちげーし!」
「じゃやどうして私のことを、じろじろ見てたん?」
上体を起こして、俺の方を向くと、識さんは俺の腕に抱きつき、ぐっと顔を寄せた。
識さんの汗と俺の冷や汗が地肌と地肌で接触して、混じり合ってゆく。
妙にひんやりとしているし、変にぺたぺたとするしで、なんだか汗をかいていない時よりも、艶めかしくて淫靡な――いや、はっきり言おう。エロい感じが、増幅しているような気がする。
やばい……これはやばすぎる。
なんだかくらくらしてきたぞ。
きっと汗に含まれるフェロモンとかが、俺の然るべき器官に到達して、俺を狂わせようとしているんだ。
気をしっかり持て! 俺!
これは幻想だ!
まやかしだ!
異性に対する性への渇望は、所詮は脳内物質による化学反応でしかないんだ!
どこまでも純粋に、物理学の世界でしかないんだ! ……ああおっぱい…………。
「やめるのです!」
理性が本能に負ける寸前で、山崎さんが声を上げて、俺から識さんを引き離すチクショー。
「なに朝から発情してやがるのですか!」
「は、はあああー!? 発情なんてしてねえし!」
「どこからどう見ても発情のそれに他ならないのです!」
「鈴、あんた目がおかしいんじゃあないの!? 私はただ、京矢と腕を組んだだけだし!」
「それを発情と言っているのです! わざとなのです! 白昼堂々と、体液と体液を交換だなんて!」
「体液!? 体液ってなんなん!?」
「汗のことなのです!」
「じゃあ汗って言えよ! 紛らわしい!」
「体液は体液なのです! 夏木くんと識さんの体液が、混じり合っていたのです!」
――ちょっ!
お二人さん、声がでかくないですか!?
体液って言葉が、周囲に響きまくっていますよ!
しかし二人の興奮は冷めるどころかさらにエスカレートしてゆく。