第116話 上書き保存2
「『手に手を重ねる』か。これは簡単そうだ」
「それなのですが、そのあとにある『抱きしめる』と、一緒にやってもらってもいいですか?」
「え? 別にいいけど。なんで?」
「手に手を重ねて、お互いに抱き合うとか、とてもロマンチックなのです」
「オ、オーケー。じゃあ……いくか」
俺はベンチの上にのせられた白くて小さな山崎さんの手に自分の手を重ねると、腕を回しやすいようにそっと身を寄せた。
そしてゆっくりと、ようは慎重に、山崎さんの肩へと腕を回すと、そのまま優しく抱き寄せた。
服を通して、山崎さんの体温が伝わってくる。
触れ合う肌と肌が、互いの汗によりぺたぺたと引っつき合う。
……というか、山崎さんめっちゃいい匂いがするんですが。
服からはローズの香りが、髪からは甘いシャンプーの匂いが。
俺汗臭くないかな?
よく考えたら昨日風呂入っていないし、午前とはいえ太陽の下を、パン屋さんまで買い物に歩いたし……。
ふと、視線を前方に転ずると、山崎さんの背後に、一華の姿が目に入った。
一華は、目に涙を滲ませて、すがるようにこちらに手を伸ばしている。
ふにゃふにゃと開けられた口からは、まるで声を失ったかのように、一切の言葉が出てこない。
後悔の感情にも似た罪悪感が、一気に俺の心に湧き上がった。
一体俺はなにをしているんだ? 一体どうしてこんな状況になったんだ? という思いが、俺の頭の中に駆け巡った。
これじゃあまるで企画もののAVだ! NTR系のAVだ!
性別は逆だけれども、借金返済のために、妻が旦那の前で犯されるあれ……みたいな。
「も、もういいだろ」
「はい、なのです」
俺と山崎さんは、どちらともなく離れる。
「俺……汗臭くなかったか?」
「前にも言いましたよね? 夏木くんの汗ならば、嗅ぐどころか飲んでもいいと」
そこまでは言っていませんよね?
「それぐらいに、ボクは夏木くんのことが大好きなのです」
山崎さんが、照れたようにうつむきながらも、きらきらとした笑みを浮かべる。
あれ? 俺今ちょっときゅんとしたんだけど。
山崎さん超かわいいし、もう……よくね?
――いかんいかん!
首を横に振り、妙な考えを振り払う。
山崎さんにはもっといい人がいるはずだ。
一時の気の迷いで、俺みたいなどこにでもいる類型的な男子高校生と、付き合うべきじゃあないんだ。
そもそも全然釣り合わないし。
「さあ、次ので最後だぞ」
話題をそらすためにも、俺は話を前に進める。
「さっさとやって、上田さんの家にいこうぜ」
「はいなのです。最後は、『手で涙を拭う』なのですね」
「了解。じゃあ山崎さん、涙を流してくれ」
「夏木くんは、結構無茶なことを言うのですね。それにボクは、悲しくもないのに演技で涙を流せるような腹黒女とは違うのです」
「じゃあ、目薬とか?」
「それはだめなのです。目薬を拭われても、感慨もくそもありませんので」
「じゃあやめとく?」
「それはもっとだめなのです。上書き保存失敗なのです」
さっき思わず山崎さんに対してきゅんとしてしまったのを取り消します。
この子、超面倒くさいっすわ!
「ではこうしましょう。夏木くんが、ボクを泣かしてください」
「泣かすって、どうやって?」
「そうですね。ボクに対して、なにか悪口を言ってください。大好きな夏木くんにそんなことを言われれば、きっと悲しくてボクは泣いてしまうのです」
「分かった。じゃあ……山崎さんのば~か」
「…………」
かあかあとカラスが鳴いた。
すぐ脇の道路を、『さおや~さおだけ~』と音声を流す、物干し竿を売る軽トラックが通過していった。
……さすがにこれじゃあ、子供でも泣かねえわな。
では一体どうしようか……そうだ!
「山崎さん。俺きみのこと嫌いだわ」
「――ひぐっ」
効果絶大!?
しかし涙がこぼれるには至らない。
だったら……。
「山崎さん、きみとはもうやっていけないから別れよう」
「――ひぐっ……ううう……」
おしい!
もう少し!
もう一つなにか……こう決定打になるものを……。
山崎さんのうしろで、なぜかほっとしたように息をはく、一華の姿が目に入る。
見つけた!
これをすれば、間違いなく山崎さんは泣く!
俺はベンチから立ち上がると、山崎さんの前を通過して、一華の前に立つ。
そして一度山崎さんへとばかにするような冷笑的な笑みを向けてから、一華へと真剣な眼差しを向ける。
「へ? きょ、きょうや?」
なにがなんだか分からないといった困惑した顔で、俺を見上げる一華。
「な、夏木くん? ……一体なにを?」
おどおどと、不安いっぱいといった顔で、俺を見上げる山崎さん。
俺は、これはあくまでも演技なんだと自分自身に言い聞かせてから、宣言するように、強い口調で言った。
「一華! 山崎さんとは破局した! だから……俺と結婚しよう! 一華! 俺はお前のことが、大大大大、大好きだ!」
そしてそのままがばっと、一華を抱きしめる。
正直別に抱きしめるまではしなくてもよかったと思うのだが、でかい声で断定的に言っているうちにも、なんだかどんどんと心が盛り上がってきてしまって、気づいたら一華に抱きついてしまっていた。
大して親しくない相手だったならば、確実に俺、セクハラで訴えられるだろうな。
というか一華は大丈夫ですよね? セクハラで訴えたりとかしませんよね? ね?
「きょ、きょきょきょきょ、きょうや……」
耳元で、たじたじになった一華の声が聞こえる。
結構強く抱きしめたので、一華の鼓動が、胸を通して俺に伝わってくる。
かあっと、一華の体温が上がるのが分かった。と同時に一気に汗が吹き出すのも感じた。
「は、はぃ……」
俺の服を手でぎゅっとつかむと、一華が小声でなにかを言った。
え?
今一華……なんて言った?
体を離すと、首を傾げて一華に聞く。
すると一華は、潤んだ瞳で俺をしっかりと見つめながらも――
「はい」
と、今度ははっきりとした口調で言った。
次の瞬間、先ほどから魂が抜けたようにベンチに座っていた山崎さんが、ぼろぼろと涙を流して、ここら一帯に響き渡るのではないかと思われるほどの大声で、泣き始めた。
「え!? ちょっ! 山崎さん!?」
「ゔえええええええええんんん! そごまでじろとは言っでいないのでずううううううう! なづぎぐんはボグを捨でるのでずが!? ボグのごとなんがもういらないのでずがあああ!? ひどいのでず! ボグはごんなにもなづぎぐんのこどを愛じているというのにいいいいいいいいい! ゔえええええええんん!」