第110話 幼馴染との一生の約束
一階に下りると、俺は一華が制服に着替えている間に、一度ノートパソコンを確認してみようと、一人でリビングへと向かった。
ノートパソコンは、上田さんが言った通り、ローテーブルの上に開いた状態で置かれていた。
ええと……フォロー申請が承認されたかどうかって、どこで確認するんだっけか……。
俺はキーボードの下部にあるタッチパッドに指をのせると、マウスポインターをふらふらと当てもなく漂わせてから、ツイッターの検索ボックスを選択する。
そして『なつみかん』で検索をすると、なつみかん――つまりはくるみのツイッターのホーム画面を表示させる。
右上にあるボタンの表記が、『フォロー許可待ち』になっていた。昨夜からはなにも変わらずに。
ここが、『フォロー許可待ち』から『フォロー中』とかに変われば、くるみが申請を承認したってことになるんだな。『フォロー許可待ち』から『フォローする』に変わってしまった場合は、残念ながら昨夜の一ノ瀬さんと同様に、くるみが申請を拒否したということになるわけだけれど。
「京矢、着替えてきた」
顔を上げると、制服に着替えた一華が、開けられたドアの前に立っていた。
俺はソファから立ち上がると、ズボンのポケットに財布が入っているのを確認してから、一華へと歩み寄った。
「おう。じゃあとりあえず、パン屋いくか」
「うん。きょうやー……」
俺の名を呼び、気恥ずかしそうに視線を落とす。
「どうした?」
「寝癖とか、ついてない? ……私」
「いや、別についてないけど。というか、一華は髪が長いから寝癖とかつかないだろ」
「つくし。髪が長くたって、寝癖つくし」
「そうなの? ところで一華って、髪切らないの? なんかぼさぼさだし、腰まであるとかって、さすがにって感じだし」
俺の言葉に、一華はどこか悲しそうな表情を浮かべて、肩をすぼめる。
「あ、わるい。別に責めているとかじゃあないんだ。美容院とか、いかないのかなあって、そんな感じ」
「だって……美容院……こわい。ちゃらちゃらした人が、空気を読まずにやたらと話しかけてくる……そんな印象」
分からんくはないけど、偏見じゃね? 分からんくはないけど!
「まさか、美容院にいくのが怖いから、その髪型なのか?」
「ううん。違う。……それも、ちょっとはあるけど」
「じゃあ一体どうして?」
「は、恥ずかしい……から」
「恥ずかしいって、なにが?」
「顔……出ちゃうし」
前で手を組むと、もじもじする。
「見られると、恥ずかしい」
恥ずかしい?
一華の顔が?
はあ?
自分の価値観がおかしいのか不安になったので、俺は顔の大部分を隠す、一華の前髪を手でそっと上げて、確認してみる。
うん……かわいい。
くりっとした目があいらしいし、小顔だし、目鼻立ちも整っているし、肌も超きれいだし。
ごく控えめに言って、美少女と言って差し支えないのではないだろうか。
「や、やめて……」
俺の手から逃れるように、一華は一歩うしろに下がると、頬を染めながらも言う。
「恥ずかしい……から」
「恥ずかしがることはないぞ。だって一華はどこに出しても恥ずかしくないほどに、かわいいから」
「――か、かかか、かわ、かわ……」
顔を真っ赤にすると、目を見開いて俺を見てから、気づいたようにそらす。
「かわいくないし! 嘘、言わないで!」
「いや、嘘でも冗談でもないし。というか鏡を見れば分かるだろ? そりゃー自分の目で自分を見ても、客観的には見られないから、もしかしたら判断は難しいかもしれないけれど、それでも一華の顔だったなら、たとえ自分で見たとしても、さすがに普通以上だってことぐらいは分かるはずだ」
「だ、だってぇ……」
首を傾げて、先を促す。
「私……鏡見ないし」
なん……だと……?
この世に鏡を見ない十代女子なんて存在するのか?
アマゾンの奥地に住む先住民族とかの女の子だって、水面に写る自分の顔ぐらいは確認するだろうに。多分だけれど。というか鏡ぐらいはあるかもだけれど。
「どうして見ないんだ? もしかしてお金がなくて鏡が買えないのか? だったら俺が買ってやろうか? ダイソーとかで」
「違う。そうじゃない」
「じゃあなんで?」
「私……」
うるうるした目をして、自分自身を抱く。
「自分が、嫌いだから……」
「え?」
一華の発した悲しい言葉に、一瞬俺は息が詰まる。と同時に過去の、一華がいじめられる光景が脳裏にフラッシュバックする。
悪口を言われる一華。
罵倒される一華。
仲間はずれにされる一華。
物を隠される一華。
暴力を受ける一華。
血を流す一華。
涙をこぼす……一華。
過去を思い出せば、いつの日も、一華は悲しい顔をしていた。
あの日も……あの日も……あの日だって。
今思えばあれは、いじめをする他人を恨んでいたのではなくて、いじめられる自分自身に問題があると、そう思い込んでいたのかもしれない。
そして繰り返される辛い日々は、まるで刷り込みのように、その自虐的な考えを一華の中で確固たるものにしてしまった。
おそらくだが、この刷り込みによる低い自己評価の確立は、のちに自分が悪くなかったと、自分の評価はそんなに悪くないのだと、理解してもなお、振り払うのが難しい類の問題なのだろう。
性格の定着という表現がもっとも適切だろうか。
例えば人前に出て話をするのが苦手な人が、いくら皆があなたにそれほど関心がないと頭では理解しても、いざ人前に出ると、理解とは裏腹に、緊張に声が震えてしまうのを、止められないように。
……俺のせいだ。
爪が食い込むのではないかと思われるほどに強く手を握りしめると、俺は目を閉じて、一華を思う。
俺が小学校の時に、あんなことをしなかったなら、一華がいじめられることはなかった。
いじめられなかったなら、性格が暗くなることもなく、昔の明るい笑顔のままで、きっと今頃きらきらした高校生活を送っていたんだ。
では一体なにができる?
俺は一華になにをしてやれる?
無駄とは分かっていた。言葉なんて所詮、意味ののった空気の振動でしかなくて、ある場合には立派と言えるかもしれないけれども、大抵はなにも役に立たない、エゴの塊であると分かっていた。
でも、とにかく今は、言わないわけにはいかなかった。
償いは、必ずするからという、約束を込めて。
「一華……本当にごめんな」
「へ?」
俺の謝罪を聞き、一華が不思議そうな顔をする。
「なにが?」
「俺のせいだよな。一華が、自分自身を、嫌いになったのは」
「京矢のせい? ……なんで?」
「だから、その……俺が小学校の時にあんなことをしたから、一華がいじめられて。それでお前……」
「ち、違うよ?」
一歩二歩と俺に近づくと、一華が俺の袖をつまんでくいくいと引く。
「それ、全然違う」
「違わないだろ。いじめられる前といじめられたあととでは、性格が百八十度変わったんだから。つまりは、いじめのせいで一華は、自分で自分の顔を見られないぐらいに、自分のことが嫌いになったのは……確実」
袖から手を離すと、一華はまるで拝むように前で手を組んで、考えるように目を閉じる。
そしてもう一度俺を見ると、悲しくなるほどに不器用な笑顔を浮かべながらも、悲しくなるほどに不器用な声音で言う。
「ううん。やっぱり小学校のことは……関係ないと思う。多分私、いじめとかなくても、こんな性格になってたと思うし。だってだって……あるよね? 子供の時は運動ができて明るかったけど、大人になって、引きこもりになっちゃうとか。私はきっと……そんな感じ」
それじゃあまるで運命論じゃあないか。
病気とかなら、確かにあるかもしれない。
遺伝子に刻まれていて、ある時期を迎えるとかちりとスイッチが入って、発病するみたいなのが。
性格にも、その遺伝子のスイッチがあるとでも言うのか?
そんなわけはない。
性格については、環境が全てだ。
因果関係のもとに成り立つ領域の物事だ。
そうに決まっている。
――だったら一華は……。
俺は一華の手を取ると、目をのぞき込む。
……俺をかばうために、なんとかかんとかして、それっぽい言葉をひねり出している。
「一華……本当にごめん」
「だ、だから……」
言いかけて、途中で言葉を切ると、一華は握られた手へと顔を落としてから、考えるようにしばらく口を閉ざす。
そして納得するように一人で小さく頷いてから、顔を上げて俺に言う。
「私、もう二度と、自分が嫌いって言わない。鏡も見るように努力する。だ、だから、京矢は私に対して絶対に謝らないで。ごめんって……もう絶対に言わないで」
「一華……お前……」
「約束……してくれる?」
一瞬、周囲になにもない、荒涼とした十字路に立つ、一華の姿が思い浮かんだ。
イメージの中の一華も、今目の前にいる一華と同様に、握った手を胸に当てており、不安そうな顔をしている。
ひどく漠然とした、心象イメージ。
もしもこのイメージが現在の一華を表しているとしたら、それは間違いなく人生の岐路――なんらかの重大なターニングポイント。
俺は一人で納得したように頷くと、一華の手を一度離してから、小指を絡めた。
一華ははっとしたように指切りされた手を見ると、顔を上げて、口元に笑みを浮かべた。
「分かったよ。俺は今後、あの過去のことに関しては、絶対に一華に謝らない。だから一華は今後、絶対に自分で自分のことを嫌いって言わない。約束な」
「京矢……」
口元に笑みを浮かべたままの状態で、うっすらと目に涙を浮かべる。
「う、うん。……約束」
イメージの中の一華が、戸惑いながらも、一歩を踏み出した……今度は映像までは見えなかったけれども、なんだかそんな気がした。
「でも、とりあえずはくるみちゃん捜し」
手を離すと、一華がくるりと俺に背を向けて、肩をすぼめながらも言う。
「今は、それが大事。時間も、今日を入れて、たった二日しかない」
「そうだな。うん、確かにそうだ」
俺はまるで背中を押すように、うしろから一華の頭を軽く撫でると、そのまま一華の横を通過して、玄関へと向かい歩き出す。
「まずはパン屋にいこう。頑張ってくれた上田さんと細谷のためにも、うまくて生気の出るパンを見繕うんだ」