第105話 美少女の普遍性について
上田さんが絵を描き始めると、しばらくは静かな時間が続いた。
上田さんの自宅が、大きな公園の裏手、路地の奥まった所にあるためか、辺りからはほとんどなにも、車の走る音すらもしなかった。
かすかに聞こえるのは、上田さんが鉛筆を走らせる音と、一華と一ノ瀬さんの立てる衣擦れの音ぐらいだ。
あとしいて言うならば、壁の高い位置にかけられた時計から鳴る、心臓の律動のような、かちかちという音ぐらいだろうか。
暖色系の、民族調のカーテンの向こうには、深いのか浅いのか、心地のいい夏の夜が、裏庭の生け垣越しに、沈黙を守り佇んでいる。
「なあ上田さん。一つ思ったんだけど……」
うっとりと一華を見つめる一ノ瀬さんと、頬を染めて恥ずかしそうにする一華を見つめながらも、ふと俺は思ったので口を開く。
「今描いてくれているイラストって、俺の妹、くるみに向けてだよな。女の子と女の子がいちゃいちゃするイラストって、そもそも女の子に需要があるのか? なんていうか、それでくるみが釣れるのか?」
「大丈夫だ。問題ない」
手を止めることなく絵を描き続けながらも、上田さんが答える。
「これは我の持論なのだが、美少女のかわいさには普遍性があるのだよ」
「美少女のかわいさには普遍性がある?」
「おのこのかっこよさには偏りがあるが、おなごのかわいさには普遍性がある――例えば、道端に咲く健気な花であったり、犬や猫、小鳥だったり、はたまた小さくて丸っこい物には、種族を越えて愛される普遍的なかわいらしさがある。それと同じで、美少女にも、性別、種族を越えて愛される、どこまでも普遍的なかわいらしさがある」
分かるような、分からないような……。
俺の気持ちを察したのか、上田さんが付け加えるようにして、説明を続ける。
「知っているか? 以前百合漫画を描くのは、その大半がおなごだったのだよ。おなごがおなご同士でいちゃいちゃする漫画を描いて、それをおなごが読む。そういう類のジャンルだった」
「つまりは」
頭の中で考えをまとめながらも、俺は上田さんに確認するように言う。
「元来女の子は、女の子同士でいちゃいちゃする漫画が好き。それは女の子のかわいさには、同性の女の子ですらかわいいと感じさせる、普遍性があるから。だからくるみに向けてのイラストに、女の子同士がいちゃいちゃするイラストを使っても全然構わない」
「そういうことだ。なによりも我は、肌を寄せ合う美少女の二人を見て、今とても興奮している!」
変態かよ!?
ああ……上田しおん……この人もあっち側の人間なんだな。
というか俺の周りの女の子、変な子多すぎない??
上田さんがイラストを描き終えたのは、それから数十分後のことだった。
俺は上田さんからでき上がったイラストを受け取ると、感想を言うべく、じっくりと見てみた。
……うん。構図は、上田さんが一華と一ノ瀬さんに指定した通りだな。修道女の上に、軍服を着た美少女が覆いかぶさっている。
ただし顔や、若干だが体型は、ドラペの公式ホームページにあったキャラにしっかりと入れ替わっている。
だが、それだけじゃあない。
一体なんだろうか。
この絵を見ていると、妙に感情が刺激されて、心が満たされるような心地にさせられる。
顔を上げると俺は、体を起こしてソファの上でもじもじする一華と一ノ瀬さんへと視線を送る。
そしてもう一度、目に焼き付いた印象を紙の上に再現するように、イラストへと目を落とす。
――そうか。分かったぞ。
この絵には、ただ目の前に広がっているだけの光景が描かれているのではなくて、そこにある『感じ』までもが描かれているんだ。感じというのはつまり、人の感情。この場合、一華の初々しいまでの無垢な感情と、一ノ瀬さんの、空よりも高くて海峡よりも深い、一華に対する愛情だ。
だからこそ、描かれた二人のイラストを見ると、物理的には目には映らない部分である、互いが互いを思う感情が、自ずと見る者の心に投影されて、なんともいえない感情が無性に湧き上がる。
上田さんが描きたかったのは、おそらくはこれなんだ。
目には見えない感情さえも、非常にリアルに描いた、そんな一枚絵。
「なんていうか、一華と一ノ瀬さんに衣装を着せて、恥ずかしいポーズまでもさせた意味が、よく分かるイラストだと思う」
「ほう。夏木京矢は、なかなか見る目があるようだな」
目をきらりと光らせると、上田さんが口元に笑みを浮かべる。
「それでこそ我が右腕だ。漫画のアシスタント、楽しみにしているぞ」
どうやら俺は、非常勤ではなくて、正式なアシスタントにされてしまったみたいだ。
「して、細谷なにがしよ」
俺からスケッチブックを受け取ると、イラストの描かれたページを丁寧にやぶり取り、細谷へと差し出す。
細谷は受け取ると、イラストと上田さんを交互に見ながらも聞く。
「翔平だよ。細谷翔平。……で、僕にこれをどうしろと?」
「色付けを頼む」
「色付け? 僕が? どうして?」
「我は次のイラストに取りかかるからだ」
「いや、でも」
有無を言わさぬ勢いで、上田さんがびしっと隣の部屋を指さす。
「隣の部屋にパソコンがある。それに取り込んでやるのだ」
「パソコンに取り込むのは余裕だけど、色付けは多分できないよ」
「大丈夫だ」
はっきりとした目で、力強く細谷を見る。
「細谷翔平、貴様ならばできる。そうだろう?」
「まあ、ググったり動画見たりして、できる限りはやってみるけど、期待しないでくれよ」
上田さんの勢いに折れた細谷が、とぼとぼと、しかしながら口元に笑みを浮かべながらも、ドアの向こうに消えていった。
――いやいやそれよりも、つい今しがたさらっと上田さんが言ったけれども、次のイラストに取りかかるとは一体なんぞや!?
答えを求めるべく、上田さんの方へと顔を向けると、彼女は既に一華と一ノ瀬さんのもとに歩み寄り、まるで紳士のように手を差し伸べていた。
「ごくろうだった。さあ、立つのだ」
「う……うん」
「ありがとう。わるいわね」
上田さんの手を取り、ソファから立ち上がる一華と一ノ瀬さん。
そんな二人へと、上田さんが衣装掛けを手で示しながらも言う。
「では、さっそくだが次の衣装に着替えてもらおうか」
「へ? ……次?」
状況を察したのか、呟いてから一華が、顔面を蒼白にさせる。
「そうだ、次だ」
「でもでも……もう、イラストは描けたし……」
「念のため、もう一枚描いておくのだ」
「もう一枚? ……どうして?」
「一枚アップして、それで夏木くるみが申請を承認してくれなかったらどうする? そんな時、もう一枚もっと魅力的なイラストを上げれば、あるいは気が変わって承認してくれるかもしれんだろ。これは保険だ」
確かに。上田さんの言うことはもっともだ。
もっともだし、俺としては嬉しい限りなんだけど……一華は大丈夫だろうか?
精神的に、限界を迎えないだろうか?
「でもでも……私……もう……」
「いいからくるのだ! 拒否権はない!」
しびれを切らしたのか、上田さんは一華の手を取ると、無理やりにでも衣装掛けの方へと引っ張ってゆく。
一ノ瀬さんの手を引かなかったのは、おそらくはのりのりでやってくれるだろうと踏んだからではないだろうか。
案の定一ノ瀬さんは、上田さんの思惑通りに、まるで金魚のフンのように、心ここにあらずといった様子で二人のあとを追った。
「二人には、次にこれを着てもらう」
宣言するように言うと、上田さんが、とある衣装を手に取り、その場に持ち上げた。
俺たちは顔を上げると、暖色系の明かりの下に浮かび上がる、その衣装を見上げた。
大きな水色の襟に、同じく水色の袖口のついた、白のセーラー服だった。
日本の高校生が着るセーラー服と比べて、若干丈が長いことからも、水兵が着る、本場の物であると分かる。
とはいえセーラー服といえばセーラー服だ。
女の子が着たならば、そのかわいらしさを三百パーセント増大させる、超絶バフアイテムだ。
普通の女の子で三百パーセント増大だったなら、美少女である一華や一ノ瀬さんが着たら一体どうなるのだろうか。
女神にでもなるのだろうか?
おお恐れ多い。
「……セーラー服」
セーラー服を受け取った一ノ瀬さんが、はぁはぁと息を荒らげながらも、一華を見る。
「い、いいい、一華さんのセーラー服姿……見てみたいわ」
「いや! もう私……しない!」
声を上げた一華が、俺のうしろに隠れる。
そしてまるで小動物のようにちょこんと顔を出して二人の様子をうかがうと、またもや俺のうしろに隠れる。
「どうしてかしら? も、もしかして一華さん、私のことが、嫌いになってしまったのかしら?」
「そういうんじゃ……ないけど……」
「小笠原一華よ、一体なにをうじうじしておる?」
「…………」
「ふん。その様子だと、普段から夏木京矢に色々と迷惑をかけているのだろう」
図星をついた上田さんの言葉に、一華が俺の背中でびくりと震える。
そんな一華の様子を見た上田さんが、これでもかといった具合に説得の言葉を畳みかける。
「小笠原一華は夏木京矢に普段の恩を返そうとは思わんのか? もしここでモデルという貴様にしかできない大役を買って出てくれるのであれば、それは必ずや現在行方不明の夏木くるみにつながる。夏木京矢は、それでものすごく助かるのだ。いや助かるどころの騒ぎではない。あるいは貴様のことを愛するやもしれぬぞ」
こいつ……なに勝手に人の心を予想してんだよ。
俺が一華を愛する? そんなわけねえ!
俺と一華は……なんだー? あれだ! 幼馴染だ! そう、家族みたいなもんなんだ!
嫌いとかじゃあないけれど、全然これっぽっちも、愛してなんかいないんだからねっ!
「きょ……京矢が……わ、わた……私を……」
なにやらわけの分からない独り言をぶつぶつ言いながらも、頬を染めてもじもじと指を絡める一華。
それからすぐに、気づいたように言う。
「――はっ。しない! しないしないしない! 私……もういや!」
「では、どうすればモデルをやってくれる?」
「し、しおんは……分かってない。モデルをやる、私の気持ち……」
「つまり、我も着替えて、小笠原一華と同じ立場に立ってみればいいということか?」
「へ? ……うん、まあ」
「分かった」
答えると同時に、上田さんは緑色のワンピースの裾を、両手をクロスにして持つ。
そしてそのまま、まるで男の人ががばっとTシャツを脱ぐように、一気に持ち上げて脱いだ。
…………はい?