就職先は殺し屋一家
「……そういえば、メイドが足りなくなってるって言ってたな」
まさかの好機。なんとか殺されずには済むようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
「気に入らなかったらすぐ殺しちゃうからなー、オレもオレの家族も」
前言撤回。“今この場では”を付け足そう。
「多分殺しちゃうけど、それでもいいなら、来る?」
この状況を嘘だと思いたい。だが今のところ夢である気は全くしない。だが非情な彼が出してくれた提案を断れば、きっと瞬時に殺されると思い、何度も首を縦に振った。
「……あ、一応試験ね。オレのこと、力いっぱい殴ってみて」
「殴ったから殺すとかいう理不尽なことしませんか?」
「しないよ、馬鹿なの?」
ヒィッ……と声が漏れる。あまり安易に言葉を発するのは良くないようだ。
「暗殺一家マヴロス家に仕えるなら、戦闘もできなくちゃ意味ないよ」
こんな平凡な私が戦闘なんてできるわけもないが、仕方なく震える拳で目の前の男のお腹を殴る。私の出せる精一杯の力で。
ポフッ
情けない音しか出なかったのはこの際目を瞑ろう。
よく小説とかで見る、トリップ特有のチート能力がないだろうかと期待したけれど。そんなものは欠片も見当たらなかった。
「……弱すぎ。殺す価値もないんだけど」
当たり前だが、私の弱々しい拳に心底呆れているのが分かる。
「……や、やっぱりダメですよね……」
あわよくば、殺されて元の世界に戻りますように……と祈りを捧げる。あからさまに落ち込む私を見て、突然イェナは私に背を向けた。
「……行くよ」
私の聞き間違いかと彼を見れば、もう一度淡々と同じ言葉を吐いた。
「い、いいんですか!?」
「オレのこと好きとか言ったの君が初めてだからね。ちょっと興味ある」
興味があると言う割に、その表情からはなんの感情も読み取れない。だが運良く気に入ってもらえたらしい。
さっさと歩くイェナを慌てて追いかけた。
「遅すぎ。カメなの?」
「ぼ、凡人にこのスピードはキツいですよっ」
彼が歩く。その後ろを私が全速力で走る。それでも徐々に距離は離されていた。
「……はぁ、仕方ないなー」
「イェナさんっ!?え!?」
よいしょ、と軽々と私を持ち上げて横抱きにした。
「うるさいな、殺すよ?」
「黙ります!!」
この夢のような展開に、ヲタクの性とでも言うべきか──胸が高鳴ったのは許してほしい。相手は殺し屋には変わりないけれど。
「それと、メイドになるならイェナ様、だから」
「……はい、イェナ様」
それから彼は地面を蹴って走り出す。周りの景色がはっきり捉えられない。ビュンビュンと風を切る音がして、気を抜けば彼の腕の中から吹っ飛びそうだ。
「もっとしっかりつかまれないの?」
「精一杯ですううう」
恐れ多くもイェナの首に腕を回して、ぎゅっと力を込める。
「あ」
するっとイェナの私を抱く腕の力が抜けて、体が浮遊感に包まれた。
「え゛」
宙に放り投げられた身体をすぐにまた抱え直してくれたけれど、心臓はいまだかつてないほど脈打っている。
「手が滑った」
「それじゃ済まないですよ!!」
私を落とそうとしたことに抗議したけどちっとも悪びれなかった。
「もうすぐ着くよ」
長い髪が風に靡いて夜空に溶け込む。
もう離すまいと、私はまた腕に強く力を込めた。