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黒薔薇の館

「実はこれから鍛冶屋に行こうと思うんです」

 素直に告げた。

 鍛冶屋という言葉を聞き、白薔薇は一瞬大きく目を開き、御子柴のことを凝視した。

「鍛冶屋ですって。どうしてそんなところに行くのよ?」

「今回の事件には得体の知れない刃物が使われている可能性が高いです。刃物の専門家である鍛冶屋に行けば何か情報が分かるかもしれません」

 しばしの間があり、白薔薇が言った。

「……行くのは構わないけど、あなた場所は分かるの?」

「い、いえ、知りません。でも途中で村人に聞きますよ」

「馬鹿なこと言わないほうが良いわ。あなた村人にどう思われているか知ってるの?」

 勿論、如何わしい目で見られていることは心得ている。黒薔薇の館を出る時も石やゴミを放り投げられたのだ。あまり良い印象は持たれていないだろう。

「嫌われてますよね」

 ボソッと御子柴は言った。

 それを受けた白薔薇は苦悶に満ちた表情になり、

「嫌われてるどころの話じゃないわ。あなたは黒薔薇を殺した殺人鬼ということにされてる。今外に出たら村人たちに殺されるわよ」

 殺されるとは穏やかではない。しかし、黒薔薇を崇拝している村人が一致団結すれば、そのくらいのことをしてもおかしくないのかもしれない。御子柴は顔を青くさせながらも言葉を継いだ。

「で、でも何とかして鍛冶屋のお爺さんの話を聞きたいんです。そこに白薔薇様が犯人ではないという証拠があるような気がします」

「本当に行くのね?」

「はい。行きます」

 御子柴が力強く言うと、白薔薇は「ちょっと待ってて」と言い、どこかに消えて行った。数分待つと手にメモ紙を持った白薔薇が現れ、紙を御子柴に渡しながら、

「これ地図よ。この地図どおり行きなさい。後、その服装じゃ不味いからお父様の服を借りると良いわ。付いて来て」

 言われるがままに白薔薇について行く御子柴。玄関脇にある部屋は衣装ルームのようでコートやらジャケット、スラックスなど様々揃っていた。御子柴が部屋のトビラの前で唖然としながら室内を見渡していると、白薔薇はせっせと部屋の中を動き回り、服を集め始めた。

「これを着なさい」

 用意されたのは黒いステンカラーコートに灰色のスラックス。そしてディアストーカーだった。これではまるで探偵の装いである。御子柴が口をだらしなく開けていると白薔薇が言った。

「警察ではあなたのことを探偵って言ってるわよ。どうしてなのかしら? 探偵なら探偵らしい格好をするべきよ。だからこれを着なさい」

 御子柴のことを探偵と言ったのは確実に京極であろう。あの警部は御子柴を探偵にしたいようである。何でも人里離れた山の中で起こる事件には探偵がつき物なのだと言う。滅茶苦茶な理由であるが、そんなに嫌な気はしない。

「あ、あの」御子柴が口を開く。「よくディアストーカーなんてありましたね。こんな帽子今時あまり見かけませんよ」

「そうね。私もお父様がこれをかぶってるのをあまり見たことないわ。ただ、一度山の中で猟をしたことがあったの。その時に仕立てたものなのよ。ほら、ディアストーカーって鹿撃ち帽とも言うでしょ。だからよ。さぁ早く着なさい。私は一旦出て行くから」

 そう言うと、白薔薇は衣裳部屋から出て行った。たちまち一人にされる御子柴。ぎこちない笑みを浮かべながら、彼は仕方なく白薔薇の用意した服を着ることになった。

 白薔薇の父と体型が近いため、それほど窮屈さを感じられなかった。まさにぴったりという感じである。スラックスを穿き、上半身はコートを羽織、最後にディアストーカーをかぶる。これでコートがインバネスだったら完全にシャーロック・ホームズだ。室内にある姿見で自分の姿を見つめる。

 何というか、逆に目立たないか? そんな風に感じた御子柴であったが、文句は言えない。そうこうしていると、部屋の外で待機していた白薔薇がトビラをノックした。

「着替えたかしら?」

「あ、はい。どうぞ」

 と、御子柴が答えると、白薔薇は素早く室内に入った。そして直ぐに御子柴を見つめ、

「なかなか似合ってるじゃない。これで変装はばっちりね」

「そうでしょうか。僕は逆に目立つような気がしてならないんですけど」

「さっきまで着ていた風来坊みたいな服装の方が目立つわよ。さっき渡した地図を見ながら行けば大丈夫だから行ってきなさい」

 僅かながら白薔薇の口調が弱々しくなる。大分疲弊しているようだ。

「僕は」御子柴は強く言う。「必ず白薔薇様が犯人でないという証拠を掴んでみせます。だからそんな顔しないでください」

 必死に励ます御子柴であったが、白薔薇の表情は変わらない。覚悟を決めた死刑囚のように哀調帯びた顔をしている。白薔薇は少し間を置いた後、

「御子柴。どうしてあなたはあたしのためにそこまでしてくれるの? あなたはこの村の人間じゃない。あたしたちは会ってまだ一日しか経っていないよ。それはつまり殆ど他人という関係ってこと。それなのにあなたはあたしが犯人ではない証拠を集めようと躍起になっている」

「それはそうですよ。たとえ一日とはいえ、白薔薇様にはお世話になりました。僕はそんな人が犯人として警察にマークされているのが嫌なだけです。きっと何かあるはずですよ」

「もし……。もしもよ、警察の言うとおり、あたしが犯人だとしたらどうする?」

 思いがけない言葉に御子柴は硬直した。白薔薇の言葉は一本芯があるようで、決して冗談で言っているようには聞えない。

「ど、どうしてそんなことを言うんですか? 白薔薇様がそんなことをするわけないじゃないですか。だって姉妹ですよ。そりゃ姉妹ですから喧嘩をすることはあるかもしれませんが、殺すなんてことは考えられません」

 強い口調で言い放つ御子柴。

 それを受けて白薔薇は小さく頷いた。

「そうね。だけどこの世は上手くいかないことばかりなのよ。気をつけて行ってきなさい。あ、表は村人たちが包囲してるから裏口から出なさい」

 白薔薇は裏口に案内すると、疲れきった表情を浮かべ、その場から立ち去った。一人残された御子柴は意を決し屋敷の外へ出て行く。靴は借りることがなかったので、かっちりとしたスタイルに足元はスニーカーというちぐはぐな格好になってしまった。それでも御子柴は地図を見ながら鍛冶屋に向かった。

 途中、畑や田んぼを通り過ぎ、村人たちが慌しく農作業をしている姿が見えた。傍から見ると平和そのものである。とても事件が起きた村とは思えない。御子柴はそそくさと田んぼを通り過ぎ、鍛冶屋へ向かった。

 白薔薇の地図は分かりやすく、直ぐに鍛冶屋を見つけることが出来た。鍛冶屋は民家が集まった一番奥の家であり、古びた瓦が特徴の小ぢんまりとした家であった。家の前には店の看板らしきものが全く出ていないので、直ぐにはそこが鍛冶屋であるということは分からなかった。ただ、家の奥に作業場があるようで、そこから鉄臭い匂いが漂って来た。

 表札にも『茎村』と書かれている。ここで間違いないだろう。丁度警察の姿もなく、良い時間に来たのかもしれない。御子柴は玄関の脇にあるインターフォンを押し、反応を待った。しばらくしているとドスドスと廊下を踏む音が聞え、玄関のトビラが勢いよく開いた。

 視線の先には真っ黒に日焼けした老人の姿がある。顔中火傷や日焼けなどで変色し、しわくちゃだ。何か伝奇に出てくる長老のようにも見える。

「何か用かね。もう話すことはないよ」

 キッと棘のある声で茎村は言った。

 もう話すことはない。ということは、御子柴を警察関係の人間と勘違いしているのであろうか。

 やや緊張した顔で御子柴は口を開いた。

「あ、あの。僕は警察やマスコミ関係の人間じゃありません。昨日、黒薔薇様の館に泊めてもらいましたただの旅人です」

 黒薔薇の館に宿泊したという言葉を聞き、茎村は目を広げる。黒く霞んだ目線が御子柴に注がれる。

「あんたが村で噂になっている殺人鬼かね。そんな物騒な人間がここに何の用なんだ?」

 いつのまにか殺人鬼にされている御子柴であったが、直ぐに質問に答えた。

「僕は殺人鬼ではありません。実は、今回の事件、白薔薇様が疑われているんです。僕はその汚名を晴らすために独自に調査しています。だから協力してください」

 白薔薇が疑われているということを聞き、茎村は目の色を変えた。

「あんたは何者なんだね? 探偵とでもいうんじゃなかろうね」

「まぁ探偵みたいなものです。警察は白薔薇様を疑っています。でも僕はそうは思えません。必ず何か白薔薇様が犯人ではない証拠があるはずです。僕はそれを掴みたいんです」

「……分かった。あんたの格好は目立ち過ぎる。ここで話すよりも中で話そう。入りなさい」

 茎村は周りを見渡し後、迅速に御子柴を家の中に入れた。家は平屋で部屋が三部屋ほどしかない。茎村は居間に御子柴を案内した。居間は六畳半ほどの部屋で中心にコタツが置いてある。さらに部屋の左奥には仏壇が置かれ、遺影も飾られている。

「まぁ座りなさい」

 茎村はそう言うと、部屋から出て行き、やがて温かいお茶を持って現れた。それをコタツの上に置き、自らはゆっくりとコタツの中に座り込んだ。それを受けて御子柴も対面に座る。部屋は寒い。随分と古い家なのか隙間風がある。御子柴がオドオドとしながら黙り込んでいると、茎村が言った。

「今日は色んなお客さんが来るもんだ。午前中は沢山の刑事が来たよ。任意同行を求められたが、俺は断ってやった。警察というところはどうも信用ならねぇ。あんたの言うとおり、あいつらは白薔薇様を疑っている。これは間違いねぇようだ」

「僕は今回の事件が白薔薇様によるものだとは思えません」

 敢然と言う御子柴であったが、対面に座る茎村は乾いた笑いを浮かべるだけだ。何もおかしいことは言っていない。それなのにどうしてこの老人は笑うのだろうか。

「あんた名前は?」

「御子柴です」

「そうかい。御子柴さんよ、警察がどうして俺のところに来たのか分かるかい」

「勿論です。警察は黒薔薇様の首を切った凶器を捜しているんです。凶器は未だに見つかっていません。煙のように消えてしまったんです。だから村の唯一の金物屋である茎村さんの家を訪ねたんでしょう」

「まぁそうだろうが。警察が俺のところに来たのには他にも理由があるんだよ」

 御子柴はグッと背筋を伸ばした。

 この老人は何かを知っている。直感的にそう思えた。

「何かあるんですか?」

「あんたは白薔薇様が犯人ではないと言った。だが警察はそう考えていねぇ。あいつらは俺と白薔薇様の関係を見抜いている」

 茎村はそう言うと、お茶を一口飲んだ。それにしても白薔薇と茎村の関係とは一体どのようなものなのだろうか。村の富豪である白薔薇と、ただの鍛冶屋である茎村に何か接点があるのだろうか。御子柴は真剣に尋ねた。

「関係って白薔薇様と何かあったんですか?」

 その問いに茎村はゆっくりと頷いて答える。

「あぁ。だが……」

 茎村はなかなか話そうとしない。目をきょろきょろと動かし、御子柴のことを吟味しているようであった。

 茎村と白薔薇の間に何か秘密があったとしても、それを話してくれるかどうかということは茎村にかかっている。特に御子柴と茎村は今日会ったばかりである。そんな拙い関係であるため、茎村が真相を語ってくれる可能性は低いように思えた。

 御子柴は強く拳を握り締めながら、

「茎村さん。何があったのか話してください。僕はどうしても白薔薇様を救いたいんです」

「それは俺だって救いてぇ。だがよ。俺が知っていることは、必ずしも白薔薇様を救うとは限らねぇんだ。否、むしろ追い詰めてしまうかもしれねぇ」

 確実に茎村は白薔薇の秘密を知っている。

 それも警察にも話していない重要な秘密だ。そしてそれはどうやら白薔薇に対してあまり良い情報ではないようである。御子柴は唾液を飲み込みながら、茎村に言った。

「白薔薇様のことを教えてください。僕は必ず白薔薇様のことを救ってみせますから」

「どうだろうな。俺にはあんたが白薔薇様を救えるとは思えねぇ。何しろ格好がもう怪しい。得体の知れねぇ臭いがぷんぷんするぜ」

 その言葉を聞き、御子柴は屋敷で着替えて来たことを後悔した。やはり、いつもどおりの風来坊の格好で来るべきだった。しかし、今そんなことを言っても後の祭りである。何とかして茎村を説得しなければならないが、どうやって説得すれば良いのか、皆目見当がつかない。

 茎村が黙り込み、室内には静寂が訪れた。しんと静まり返り、外の風の音が良く聞えた。

 話を整理すると、茎村は鍛冶屋である。刃物を作ったり、研いだりして生活しているはずだ。黒薔薇は首を鋭利な刃物で切られていた。同時に凶器はまだ見つかっていない。そして犯人として挙げられている白薔薇は、茎村と何らかの関係がある。

 これはもう白薔薇が茎村に刃物に関して依頼したとしか考えられない。茎村は白薔薇の依頼で何か作った? あるいは用意したのだろう。でなければここまで頑なに口を閉ざすということはありえない。それは恐らく警察も察しているはずだ。だからこそここに捜査員を派遣したのだろう。

 例えば包丁やナイフが凶器だったすると、それをわざわざ村の鍛冶屋である茎村の許で購入するだろうか? 村から離れて街の方へ行けばスーパーや量販店がある。そこで買った方が何かと便利なような気がする。スーパーや量販店であれば、買ったことを特定するのは難しい。沢山の人が毎日利用するから、店員はいちいち客の顔を覚えているはずはないだろうし、包丁やナイフを買うからといっても怪しい目では見られない。

 にもかかわらず、白薔薇は茎村の許へ来た。それはなぜか? 決まっている。茎村ではなければ出来ない代物を頼みに来たからだ。しかし、どうしてそんな不可解な道具を用意しようと思ったのだろうか。

 京極の言うとおり、犯人は白薔薇なのであろうか。調査をすればするほど、白薔薇の首を絞めてしまうことになる。どうすればこの窮地を脱することが出来るのか。御子柴は普段使わない脳をフル稼働させ、ひたむきに考えを巡らす。しかし、良いアイディアは出ない。白薔薇が一歩ずつ追い詰められて行く。

 どのくらいであろう、茎村と御子柴の間に沈黙が流れたのは。茎村は沈黙に慣れているようで、この不快な空気を何とも思っていないようであった。そんな中、御子柴は何とか口を開いた。

「茎村さん。あなたは何か知っている。だけどそれを警察には言っていないんですよね?」

 御子柴の声は震えていた。その声に茎村は御子柴の誠意を感じ取り、

「あぁ。言ってねぇ。これから先も言うつもりはねぇよ」

「なら、それを絶対に守ってください。誰にも言わず、あなたの心の中だけのことにしてもらえると、僕はありがたい」

 茎村は意外そうな目をした。御子柴が食い下がり、秘密を聞き出そうとしてくると想像していたのであろう。しかし、そんな風にはならず、むしろ秘密を守ってくれと言う。

「あんたは俺から情報を聞き出そうとしないんだな?」

「はい。茎村さんと白薔薇様の間に何かあったことは容易に推測出来ます。だから警察もあなたのことを疑い、ここに来たに違いありません。あなたと白薔薇様を結び付けているもの。それは凶器しかないでしょう。恐らくあなたは今回の事件に使われたであろう凶器を知っているんじゃないですか? 今のところ、それを知っているのは白薔薇様と茎村さん、あなたたち二人しかいません。これを永久に守り通すことが出来れば白薔薇様は犯人から逃れられるでしょう」

 苦しい言い訳だった。

 御子柴の言うことは犯人が白薔薇であることを認めてしまうことだった。しかし、こう言うしか他に方法はないように思える。白薔薇を守るには茎村が何も喋らなければ良いのだ。これから警察は茎村のことをマークし取調べをするだろう。それに高齢の茎村が耐えられるか分からない。ここが最後の砦のような気がした。

「人は罪を償わなければならねぇ……。だから俺は孤独に生きてる」

 ぼそりと茎村が言った。

「どういうことですか?」

 堪らず御子柴は声をかける。すると、茎村は壁に掛かっている遺影を指差した。

「俺の親父とお袋、そしてかぁちゃんだ。もう大分前に亡くなった。俺は仕事ばかりで、両親の面倒は全部かぁちゃんに任せてたし、随分虐げもした。だからかぁちゃんは若くして死んじまったのかもしれねぇ」

 確かに遺影には壮年の女性が写っている。これが茎村の奥さんなのだろうか。御子柴がじっと遺影に対して視線を送っていると、茎村が再び言葉を継いだ。

「白薔薇様が俺のところにある道具を作ってくれと言ったのは間違いねぇよ。俺はもう殆ど仕事をしてねぇ。それにそんな道具は作れねぇと言ったんだ」

「その道具は」御子柴が尋ねる。「一体どんな物なんですか?」

「薄っぺらい刃物だよ。それを作れるかどうか聞いていた」

「薄っぺらい刃物ですか?」

「あぁ俺はただの鍛冶屋だからそんな特殊なものは作れねぇ。この工房はそれほど設備が充実しているわけじゃねぇからな。今の時代包丁やナイフなんていうものは別に金物屋でなくたって売っている。それによ、薄っぺらい刃物なんて作ってそれを何に使うんだっていうんだ。俺は作れねぇと言った」

「そうしたら白薔薇様はどうしたんですか?」

「直ぐに諦めたさ。だけどその代わり、鍵を複製してほしいと言ってきた。俺は金物屋だが、一応鍵の作製や複製も行っている。刃物を作り、研ぐだけじゃ生計を立てられねぇからな。俺は勿論鍵の複製ならば承諾した」

 それを聞いた御子柴はゆっくりを首を動かし、事実を確認しながら、

「ええと、どんな鍵でしたが?」

「あんたに言っても分からねぇかもしれねぇが、ディスクシリンダーという鍵だよ。もう一〇年以上も前に流行った鍵だ。複製は楽だし、防犯性も低い。だから俺は白薔薇様に鍵を複製するんじゃなくて、ドア自体を換えることを勧めた」

「そう言うと白薔薇様はどうしましたか?」

「それは別に良いと言ったんだ。とにかく鍵を複製してくれれば問題はねぇとな。だから俺は快諾したよ。無理に鍵交換を勧めることはしねぇ。恐らく、部屋の鍵や物置小屋の鍵だと推測出来たからな」

「そうなんですか。でもなんでそれが分かるんですか?」

「この村の鍵は大体俺が交換したんだ。最近無用心だからな。鍵の交換を勧めたことがあるんだよ。それで黒薔薇様の館や麓にあるお屋敷にも行ったことがある。トビラの鍵を新しいものに換えたんだ。だから、彼女たちの家の鍵は防犯対策がとれたものになる。これは間違いねぇ。部屋の鍵は換えちゃいねぇが」

 自慢げにいう茎村。その表情を見る限り、恐らく真実なのであろう。それを察した御子柴は口を開いた。

「白薔薇様が薄っぺらい刃物や鍵の作成を頼んだのはいつ頃の話ですか?」

「かれこれ一ヶ月くらい前の話だ。それきり白薔薇様は俺のところには来てねぇがな」

 白薔薇は何のために薄っぺらい刃物なんて作ろうとしたのだろうか。謎は深まるばかりである。そこまで考えると、御子柴はあることを思い出した。それは部屋に残された五百円玉くらいの厚さの穴である。

「すいません。もう一つ良いですか? その薄っぺらい刃物というのは厚さどのくらいですか?」

「話を聞くに、一ミリも満たないものだ。そんな薄い刃物は使い物にならねぇ。作るのだって面倒だしな」

 一ミリ満たない刃物。どうして白薔薇はそんなものを作ろうとしたのだろうか。

 御子柴が思いついたのは、黒薔薇の部屋にあった小さな穴に薄っぺらい刃物を差し込むということだった。薄っぺらければ丸めて持ち運びが出来るかもしれない。つまり、携帯しやすいということになる」

「だけど」御子柴は尋ねる。「茎村さんはその刃物を作らなかったんですよね?」

「あぁ。俺は作ってねぇ。白薔薇様の一家には色々と借りがあるが、薄っぺらい刃物を作るほど、俺は器用じゃねぇからな」

「借りがあるってどういうことですか?」

「俺のかぁちゃんは自殺したんだ。もう随分前の話だがね。その時も警察がやって来て、色々と調査をした。どうやら警察はかぁちゃんが自殺したんではなく、俺が殺したんじゃねぇかって察しているようだった。その時、助けてくれたのが白薔薇様の一家さ。だから、俺はあの一家に借りがあるんだよ」

 借りがあるからこそ、白薔薇は無理に薄っぺらい刃物を作ってくれと頼んだのかもしれない。

「そうだったんですか……。そのことは警察に言ってないんですね?」

「あぁ。この先も言うつもりはねぇよ。あんたは白薔薇様を救おうとしている。だから話したんだ。白薔薇様は悪い人じゃねぇ。ただ少し、行き過ぎるところがあるけども、根は優しい人なんだ。だからきっと今回の事件だって何の関係もないはずだ」

 茎村はそう言うと、言葉を閉ざした。

 これ以上、聞くことはないのかもしれない。そう察した御子柴はやおら立ち上がり、お礼を言って茎村の家を出て行った。

 茎村の意外な過去を知り、御子柴は頭を悩ませていた。白薔薇一家が昔、茎村のことを助けた。その恩を茎村は感じている。だからこそ白薔薇が依頼した不穏なものを作ろうとしたのだ。

 薄っぺらい刃物。それを黒薔薇の事件に使おうとしたに違いない。黒薔薇と白薔薇。双子の姉妹。会ってから一日程度しか経っていないが、それほど仲の悪い姉妹には思えなかった。確かに二人は少し口喧嘩をしていたが、あのくらいの喧嘩ならどの姉妹でもするだろう。

 となると、やはり黒薔薇を殺害するなんてことは不可解である。敏腕刑事? 京極の話によれば、いずれ証拠が出ると大見得切っていたがそれは本当なのだろうか。御子柴は田んぼ道を一人歩く。時より吹く風が身に沁みる。

 これからどうするか? 今のままでは駄目だ。白薔薇に不利な証拠があり過ぎる。茎村は白薔薇のことを誰にも言わないと約束してくれたが、それが本当に守られるかは分からない。茎村に対しての取調べはキツイだろう。頑固なお爺さんに見えたから、直ぐに吐くとは限らないが、取調べが長く続けば、何かの拍子で話してしまうことは大いにありえる。

 白薔薇のところへ行こう。白薔薇に今聞いたことを素直に話すのだ。御子柴は何となくではあるが、白薔薇が何かを隠しているのではないかと察していた。黒薔薇が亡くなったのだから当然であるが、顔は疲れていた。何かこうこの世の終わりのような表情を浮かべていたではないか。

 御子柴は白薔薇の許へ向かった。

 時刻は午後三時を回っていた。昼食を摂っていないが、今は緊急時である。それほど腹は空かなかった。

白薔薇の屋敷の前まで戻ると、周りにいた野次馬たちがいなくなっていた。御子柴は白薔薇の部屋へ向かう。屋敷の中はひっそりと静まり返っており、誰もいないようであった。皆、警察に任意同行を求められて行ってしまったのだろうか。しかし屋敷の鍵は開いている。これは誰かがいることを意味しているはずだ。御子柴は借りた上着やスラックスを脱ぐのも忘れたまま廊下を歩く。白薔薇の部屋はどこなのだろうか? 屋敷は大きく部屋数も多い。御子柴が迷っていると、前方から人影が見えた。

 コツコツと歩いて来る人影。それは白薔薇の父親であった。顔は蒼白で背中も丸まっている。見るからに疲労困憊といった感じだ。

白薔薇の父は御子柴のことに気づき、目を細めた。

「ここで何をしている?」

 警戒するような声。

 考えれば、まだキチンと挨拶をしていない。それに我が物顔で屋敷に入ってしまったが、それも不味かったかもしれない。

「あ、あの」御子柴は言った。「し、白薔薇様はどうしていますか?」

「白薔薇に何の用だ。それに貴様はなぜ勝手に屋敷に入っているんだ。何の真似だ」

 不味い。完全に怒っている。それに空気も最悪だ。これではまるで泥棒に入った人間が見つかってしまった時のようではないか。

「ええと、僕は御子柴と言いまして全国を旅している旅人です。昨日は黒薔薇様の館に泊めてもらったので、その縁で白薔薇様と知り合ったのです」

 すると父親の顔は真っ赤に変わり、勢いよく御子柴の首元を掴んだ。

「貴様が黒薔薇を殺したんだな。そうだ。そうに違いない!」

 物凄い怒声。耳を封じることが出来なかった御子柴は片目を閉じ、苦痛に顔を歪めた。

「僕は犯人じゃありません。ほ、本当です」

「嘘をつけ!」

 父親は御子柴を思い切り床に叩き付け、何度も踏みつけた。御子柴はされるがままに暴行を受け、それを必死で耐えた。

「何という奴だ。黒薔薇を殺して次は白薔薇か。警察に突き出してやる。この殺人鬼め!」

 室内には割れるような音が鳴り響いたが、誰も現れなかった。防音設備が整っているのだろうか? それとも白薔薇は深い眠りに就いてしまったのか?

「お、落ち着いてください」

 と、懸命に言う御子柴。

 しかし、父親の怒りは収まらず御子柴のことを踏みつけていく。

「貴様許さんぞ。わしがここでお前の息の根を止めてやる。黒薔薇の敵だ。覚悟せいッ!」

 数分間暴行を受けた御子柴であったが、老齢の父親は体力を消耗したのであろう。攻撃の雨は止み、よろよろと床に倒れ込んだ。そしてしくしくと泣き始めた。

「どうして、どうしてこんなことになってしまったんだ」

 念仏のように呟く。

 暴行から開放された御子柴はゆっくりと顔を上げた。唇は切れ血が滲んでいる。体もところどころ痛むが、骨折などはしていないようである。

 ここに来たのは不味かった。徒に父親を刺激するだけだ。御子柴は自分の行動を悔やんだ。

「貴様を殺してやる!」

 涙交じりに父親が言う。

「ぼ、僕は白薔薇様に用があるんです。何とかして会わせてもらえないでしょうか?」

 懇願する御子柴であったが、父親は我を忘れており、話が通じない。再び立ち上がると、力の抜けた攻撃を御子柴に与える。今、彼に何を言っても通じないであろう。それは分かりきっていた。一旦退散するべきだ。御子柴は言われたとおり、屋敷から出て行くことにした。

 借りた衣類を返すのを忘れていた。それに自分の衣類を置いたままである。いずれ取りに帰らなければならないだろう。それよりも問題なのは、どこに泊まるかということだ。財布は一応持っているから、少ないけれど金はある。だがこの村の村人が御子柴を泊めてくれるかというと無理だろう。

 ならば行くところは黒薔薇の館しかない。きっとまだ調査をしているはずだから。そこに行けば何か話を聞けるかもしれない。京極の話によれば、御子柴は一応捜査協力者になっているらしく、色々な話を聞くことが出来るようだ。捜査をすればするほど、白薔薇に不利な情報ばかり手に入るが、何とかして白薔薇の潔白を証明しなければならない。

 田んぼ道を歩いていると、前方に村人たちが集団になっているのが見えた。一体何事であろうか? 御子柴が目を細めて村人たちを見つめると、皆農作業の道具とは思えないものを持っている。鎌にシャベル、それにロープなどである。あんなものを何に使うのであろう。御子柴が顔を曇らせていると、前方にいた集団が御子柴の存在に気づく。そして、気づくや否や一斉に御子柴に向かって走り出して来た。

 怒涛の勢いである。それにどう考えても御子柴に向かって走って来ている。一体何が起きている? 必死に考える御子柴。考えられるのは村人が自分を犯人だと思い、復讐を考えているということだった。となるとこのままこの場に立ち尽くしているのは危険である。殺してくださいというようなものだ。御子柴の額に脂汗が浮かび上がる。と同時に御子柴はくるっと踵を返し、山のほうへ向かって走り始めた。

 どうしてこんな目に遭わなくてはならないのか? 村に自分の居場所はない。とにかく今は逃げなくては。それだけを考え、山の中に逃げた。何とか村人たちを振り切る。行く場所はもう黒薔薇の館しかない。

 御子柴は黒薔薇の館へ向かった。

 しかし、御子柴の希望は直ぐに打ち砕かれることになる。館の周りには黄色い捜査用のテープが張り巡らされ、その周囲に沢山の野次馬がいるのである。これでは館の中に入れない。やがて、御子柴を追って来た村人たちが館の前まで辿り着いた。そして、館の回りを覆っていた村人たちに対して、話を聞いている。きっと御子柴のことを探しているのであろう。

 絶体絶命の窮地である。どうしてこんなことになったのだろうか。このままでは本当に殺されてしまうのではないか。何とかして助かる手段はないのか? 山の中に隠れているとしても、ずっと隠れているわけにはいかないだろう。何とかして自分が犯人ではないという証拠を見つけなければならないが、今はそれどころではない。

 否、というよりも今更自分が犯人ではないという証拠を見せ付けても、あの怒り狂った村人たちが信用するかどうかは別問題である。この場に立ち止まるのは危険だ。今、自分の味方になってくれるのは誰だ。京極、板山、そして白薔薇であろう。京極はどこにいるのか分からないし、板山は黒薔薇の館で捜査中であろう。となると、助けを求めることが出来る唯一の人間は白薔薇しかいない。もう一度白薔薇の邸宅に戻ろう。彼女の父親がいるが、裏口から入れば白薔薇はきっと匿ってくれるはずだ。

 そう考えた御子柴はなるべく音を出さないように山を下り始めた。舗装された道は村人に出会う危険があるのでNGだ。道なき道を歩くしかない。何度も挫折しそうになりながら、御子柴は山を下った。そしてなるべく見つからないように走る。とはいうものの白薔薇の邸宅に向かう道には身を隠す場所がない。途中何度も村人たちに遭遇しながら御子柴は走った。このままでは絶対に不味い。

 白薔薇の屋敷に来たとき、山の茂みから一旦様子を窺った。家の前には人だかりが出来ている。その中心には白薔薇の父がいて、村人に何やら指示を与えている。屋敷の表には戻ることが出来そうにない。茂みから音を立てないように屋敷に近づき、屋敷の裏側に回る。今のところ誰にも気づかれていない。裏口から中に入ろうとしたが、鍵が掛かっている。入れそうにない。

 裏側には出窓が設置されており、カーテンが少しだけ開かれている。その関係で室内の様子が良く見えた。御子柴は一縷望みをかけて、室内を見渡す。

(白薔薇様。助けてください)

 懇談するように祈る御子柴。しかし、その思いは無残な形で打ち砕かれる。御子柴が室内を覗くと、そこにはありえない光景が広がっていたのである。

 カーテンの隙間から僅かに見えた風景。そこには床に倒れている白薔薇の姿があった。一体何が起きている。御子柴はパニックになり、状況を上手く把握することが出来ない。それでも何とか室内の様子を見つめる。床の中央に倒れる白薔薇。自分で首を絞めたようである。僅かだが血が滲んでいる。床の上にはメジャーが落ちており、どうやらそれで自らの首を絞めたのであろうと想像出来た。

 この事を白薔薇の父は知っているのであろうか? 知っていたとしたら今頃病院に運んでいるだろう。悠長に村人と話していたりはしないはずだ。何とかして外部にこの事を伝えなければならない。しかし、どうやって伝える? 興奮し完全に御子柴のことを犯人だと確信している白薔薇の父、あるいは村人に告げたとしても、無駄に彼らを刺激するのではないか? 否、今はそんなことを言っている暇はない。事態は一刻を争うのだ。

 カラカラに渇いた唇を舐め、御子柴は屋敷の前まで向かった。相変わらず屋敷の前には村人たちがおり、各々が手に武器を持っている。シャベル、縄、鍬。中には斧を持っている輩もいるではないか。一致団結して御子柴を捕らえようとする心構えが感じられる。やはり、今彼らの前に姿を現すのは危険である。京極と連絡を取らなければならない。しかし、肝心の携帯電話は鞄の中である。取りに戻ることは出来そうにない。後考えられるのは公衆電話を見つけ、そこから警察に連絡するということである。但し、こんな田舎の村の中に電話ボックスがあるとは思えない。

 御子柴があらゆることを考えていると、彼は地面に落ちていた枯れ枝を踏みつけ、「バキ」と、音を出してしまった。サッと辺りに緊張が走る。当然、その音に村人たちは気づく。村人の一人が恐る恐る屋敷の裏側に回り、隠れていた御子柴のことを発見する。

「いたぞ!」

 割れんばかりの大声が聞える。その声を合図に村人たちが一斉に襲い掛かって来る。万事休す。御子柴は必死に逃げた。ここで捕まったら多分死ぬ。そんな危機感が全身を襲った。村人たちの多くは老人だが、中には壮年男性もいる。体力や走力は御子柴とそれほど変わらない。必死に逃げる御子柴であったが、山の降りたところで万策尽きる。前方から村人たちの集団が走って来たのである。つまり、前と後ろ挟み撃ちされてしまったのだ。これでは逃げ場がない。山の茂みに隠れるとしてももう無理だ。殺されるのか? 脂汗を掻きながら、御子柴が覚悟を決めていると、前後から現れた村人たちは御子柴のことを覆い込んだ。

 大きな円を作り、その中心に御子柴がいる。何だか怪しげな魔術を行うかのようであった。中心に立ち尽くす御子柴は肩で息をしながら状況を把握する。鬼のような形相をした村人たちに囲まれ、どうやらもう逃げ場はないと悟る。数秒の間があった後、取り囲んでいる村人たちの輪の外から白薔薇の父が現れた。手には狩猟で使うのであろう真っ黒なライフルを持っている。銃刀法違反じゃないのか? 否、そんなことを言っている場合ではない。

「いよいよ捕まえたぞ。この殺人鬼めッ」

 村人の意思を代表するように白薔薇の父は言った。声は冷静だが少しだけ震えている。体を小刻みに動かしながら、燃えるような目で御子柴を睨みつける。

「ちょ、ちょっと待ってください」

 完全に最後の悪あがきであったが、御子柴は言った。たちまち村人たちから罵声が浴びせられる。

 白薔薇の父はサッと片手を挙げて、村人たちを制する。

「何を待つ必要がある」

「ぼ、僕は犯人ではありません」

「そんなことを誰が信じる。貴様は昨日黒薔薇の館に泊まり、そこで黒薔薇を殺害した。それは間違いない」

 季節外れの汗が背中を伝う。

 この状況では何を言っても村人たちは聞く耳を持たないだろう。たとえ、シャーロック・ホームズのような推理を展開したとしても……。

「覚悟は出来ているか?」

 低く重鎮な声が轟く。もはやこれまでか。そう思ったときだった。前方からピンク色のポルシェが走って来るのが見えた。何というかセンスを疑う色である。カッコ良いポルシェが台無しだ。

 無論、そのポルシェに村人たちが気づく。皆、御子柴を見るのを止め、ポルシェに釘付けになっている。

 ピンクの色のポルシェは村人の前で停まり、ガチャとトビラが開き、ある人物が車から出てきた。ある人物とは言わずもがな京極である。にっこりとりんご飴のようなものを舐めながら京極は村人たちの輪に近づく。

「ねぇ、何やってんの?」

 にんまりとした笑顔を浮かべ、京極は尋ねる。あまりに場違いな存在が現れたものだから、御子柴を取り囲んでいた村人たち全員は拍子抜けしたようだ。

 呆けたように京極を見つめる白薔薇の父であったが、彼は京極に向かって声をかけた。「あ、あんたは確か……。刑事さんじゃなかったか? 丁度良い、我々は犯人を捕らえたのだ」

 すると京極は舐めていた飴をぼりぼりと噛み砕きながら輪に近づいて来て、

「ふ~ん。そりゃ凄いじゃない。それで犯人ってことは白薔薇ちゃんなの? 全く大の男が女の子を取り囲むなんて今時AVでもしないよ」

 あっけらかんと言う京極の言葉に、白薔薇の父は露骨に顔を歪める。それはそうだ。自分の娘を犯人扱いされていい顔をする親はどこにもいないだろう。

「白薔薇が犯人だと。あんた何を言ってるんだ」

 そう言う白薔薇の父であったが、彼の言葉を無視するように京極は輪の中を眺めた。

「あら、御子柴君じゃないの。こんなところで何やってんの? それにその格好、とうとう探偵の真価を現したようだね。まるでシャーロック・ホームズじゃない」

「刑事さん。こいつが犯人ですよ。とっとと捕まえてください」

 村人から声が飛ぶ。

「分かった分かったから皆、散ってよ。それにそんな危ない代物を持ってちゃ駄目だよ。まったく村人は一致団結すると危険なんだから」

 京極はそう言うと、村人たちを掻き分け、円の中心にいた御子柴に手を差し伸ばした。どうやら間一髪危険を回避したようである。依然として緊張で体をがちがちにしていた御子柴であったが、京極の手を掴んだことで、僅かながら緊張感が解けた。

「この人は探偵なんだぞ」高らかに言う京極。「それなのに寄ってたかって蹂躙しようなんて危ないことを考えちゃ駄目だよ」

 京極はずるずると御子柴を引っ張って行き、ポルシェの助手席に乗せる。車内は温かい。御子柴を車に乗せた後、再度京極は村人たちに向かって言った。

「事件は今日中に解決して見せるから、早く散った散った」

 その後、京極は運転席に座り、ポルシェをゆっくりと発進させた。

 輪の中心にいた白薔薇の父もライフルを持ったまま、愕然としたような表情を浮かべていた。

 ポルシェはやがて村の前を走る道路に出た。一〇分ほど沈黙状態が続く。県道に出ると、京極はにこにこと笑いながら御子柴に声をかけた。

「いやぁそれにしても危ないところだったね。まるであれじゃ一揆だよ。時代錯誤も甚だしいよね。まぁとりあえず話し合える場所へ行こうか」

 一揆というとんでもないことを言う京極であったが、冗談には聞えなかった。御子柴は静かにため息をついた後、声を出した。

「ホントに危なかったですよ。殺されるかと思いました」

「何であんなことになっちゃったのさ?」

「僕にも分かりません。ただ言えるのは村人たちが全員僕を犯人だと確信しているということです。だから一致団結して僕を襲ったんですよ」

「ふ~ん。そりゃ大変だ」

 京極は新しい飴を取り出し、それをぺろぺろと舐め始めた。何だか緊張感がなくなる。そう感じた御子柴であったが、肝心のことを思い出す。

「あ、そうだ。白薔薇様が……。白薔薇様が大変なんです」

「落ち着いてよ。白薔薇ちゃんがどうしたの?」

「部屋で倒れているんです。僕はそれを確かに見ました」

 御子柴の真剣な声を聞き、京極は目を何回か瞬いた後、上着のポケットからスマートフォンを取り出し、一旦車を停止させた。

「あ、板山君。僕だけど……あのさ、至急白薔薇ちゃんの屋敷まで行ってくれない。どうやら何か起こったみたいだから。ごめんね。それじゃよろしく」

 そう言うと、京極は電話を切った。

 再び車を発進させる。急回転し方向を変える。スムーズに加速していき、田舎道をひた走る。

「あの」御子柴は言った。「どこへ向かっているんですか?」

 前を見据えたまま京極は答える。

「白薔薇ちゃんの屋敷に決まってるじゃん。だって白薔薇ちゃんが倒れていたんでしょ?」

「そうです。でも今帰ったら村人たちに殺されるんじゃないでしょうか?」

「大丈夫さ。僕がいるからね」

 京極はポンとお腹を叩いた。

「で、でも白薔薇様が倒れていて、万が一のことがあったら村人たちはさらに怒り狂うんじゃないでしょうか? それに京極さんは僕のことを全然疑わないんですね」

「そりゃそうだよ。前にも言ったでしょ。僕は犯人が誰なのか分かるんだ。一目見ただけでね。だけど御子柴君からは犯人の臭いが全くしない。だから僕は君の事を疑っていないんだよ。むしろ感謝してほしいくらいだよ」

「感謝……ですか?」

「そ。普通一般人にここまで捜査協力なんてしてもらわないよ。警察の力を舐めちゃいけない。どんな微細な証拠だって見つけちゃうんだから。僕は御子柴君のことを信頼し、捜査協力をするという名目上、君をこうして連れているんだからね」

 しかしどうしてここまで御子柴のことを信頼するのであろうか? その理由がさっぱり分からない。御子柴は変わり行く田舎の風景に目を向けながら、質問した。

「聞いても良いですか? どうして京極さんは僕のことをそこまで信頼してくれるんですか? 会ったばかりだし、僕はただの旅人ですよ。京極さんのように犯人を当てる力もないし、本当に何の取り柄もないんです。旅人と言えば聞えは良いですけど、実際には無職です。社会のはぐれ者ですよ」

「探偵ってさ、そんなもんだよ。明智小五郎も金田一耕助もみんな職種不定だよ」

「エラリー・クイーンは作家だし、シャーロック・ホームズは探偵業を営んでいるんですよ。無職じゃありません。それに明智小五郎も、金田一耕助も探偵をしているから、無職ってわけじゃないですよ」

 京極はクスッと笑い、舐めていた飴をぼりぼりと噛み砕いた。本当に良く食べる人間だ。

「ならさ、御子柴ちゃんも探偵を名乗れば良いんじゃない? 格好だけを見ると探偵に見えるけど。あ、だけど足元が不合格かな。折角シャーロック・ホームズみたいな格好をしているのに、靴がぼろぼろのスニーカーじゃちぐはぐだよ」

「探偵を名乗るっていっても僕には何の力もありません。ただ、推理小説を愛好しているってだけで、そ、その全く推理の方は駄目なんです。実は本を読んでいて途中で犯人が分かったってことは一度もないんです」

「そうなんだ。でも良いじゃない。今から探偵を名乗れば、殺人事件には探偵がつき物だよ。僕には人を見る目があるんだ。君は探偵に向いてる。それだけさ」

 あははと京極は大きな声で哄笑した。

 そしてCDデッキに手を触れ音楽を流した。気分を落ち着かせるクラシックやジャズでも流してくれるのかと思ったが、全く違い、御子柴が聞いたこともないアニメソングが流れた。やたらとテンションの高い曲調である。

「魔女っ子戦士莉理香ちゃんのテーマ曲。僕、この曲が大好きなんだ。勿論アニメも好きだけどね。声優さんのサイン入りCDなんだよ」

 全く分からない御子柴は愛想笑いを浮かべた。どうも京極といると自分が窮地に立たされていることを忘れてしまう。それにプラスしてテンションの高く、アニメ声の歌を聴くにつれてどんどん変な気分になっていく。どうにでもなれというか何というか……。

 歌が二、三曲終わる頃、ピンクのポルシェは白薔薇の屋敷に戻った。屋敷の前には村人たちがおり、玄関の周りを取り囲んでいる。夕暮れの薄闇の中、立ち尽くす村人たちはどこか不気味に見えた。

「さて着いたよ。降りようか」

 京極はそう言い、エンジンを切る。颯爽と車から飛び出すと、ピンクのポルシェをまるで宇宙船でも見るかのような目で見つめていた村人たちが、一斉に京極に対し視線を注いだ。そして、次に降りて来た御子柴を見るなり、鋭い視線を送り始めた。

 針でちくちくと刺されるような視線が御子柴に注がれる。御子柴は気づかない振りをしながら京極の後に続く。京極はというと、にっこりと自慢げに笑いながら白薔薇の屋敷に入って行く。どこまでもマイペースな刑事である。

 屋敷の中に入ると、電気がついておらず薄暗かった。廊下を歩いていると、前方から板山が走って来るのが見えた。随分と来るのが早い。その所為か息が上がっている。

「京極警部。とんでもないことになりました」

 慌てふためく言う板山。それに対し、京極はちっとも表情を変えぬまま、

「何が起こったんだい?」

「白薔薇さんが倒れています。脈はありますが、意識不明です。既に救急車は手配してあります」

「そ。とりあえず現場に向かおうか」

 ドスドスと地響きを鳴らすかのように京極は白薔薇の部屋へ向かう。既にトビラは開いており、白いネグリジェ姿の白薔薇はベッドの上に寝かされている。恐らく板山が処置したのであろう、ベッドの脇には戻って来た白薔薇の父が立ち屈し、わなわなと広い肩を震わせている。

 京極と板山、そして御子柴が入るなり、白薔薇の父は首だけを後方に回した。御子柴に対し、咎めるような視線を投げる。

「き、貴様がやったのか?」

 生気の感じられぬ声で白薔薇の父は言った。

 貴様というのは当然御子柴のことである。問われた御子柴は青い顔を浮かべながらも首を左右に振り、

「僕ではありません。第一、あなたや村人に追われていたではありませんか?」

「その前にやったんだろう。貴様は確かこの屋敷に無言で入って来た。いつの間にか私の服を着ているし、一体貴様は何者なんだ」

 怒りで我を忘れ襲い掛かって来ると思えたが、そんなことにはならなかった。二人の娘が相次いで倒れた。その精神的なダメージが蓄積し、白薔薇の父はへなへなと床に倒れ込んだ。

「私にはもうわけが分からん……」

 板山が白薔薇の父に駆け寄り、サッと手を貸した。それを見た京極は、

「板山君。お父さんを自室まで運んであげて、何か温かい物でも飲ませると良いよ。それと至急捜査員を派遣して頂戴」

「は。了解しました」

 板山は白薔薇の父の肩を持ち、そそくさと室内から出て行った。二人が出て行くと、沈黙が訪れる。残された京極と御子柴は無心で白薔薇のことを凝視した。

 最初に動いたのは京極であった。現場の様子を見るよりも先に、彼は白薔薇の許へ近寄り白薔薇の手首をサッと触れた。

「大丈夫。板山君の言っていた通り脈はあるよ。首を吊って死のうとしたんだね。首元に僅かながら痕があるし、少しだけ血も出てる」

 その次に京極は室内を見渡した。現場に落ちている物といえばメジャーだけである。京極は白い手袋をはめ、メジャーを手に取る。メジャーはどこにでも売っているような巻取り式のメジャーである。メジャーの帯を見ると金属製で出来ているようだ。京極はメジャーの帯を出す。するとそれまでの表情とは変わり、険しいものに変わった。一体、何を見たのだろうか。

「メジャーねぇ。見てごらん、先端が細工されてるよ」

 その声に御子柴は視線を注いだ。

 メジャーの先端は通常L字型の爪が装填されているが、押収したメジャーにはそれがない。その代わり、先端には丸い穴が開いている。但し、薄っすらと切れ目が入っている。

「メジャーで首を吊ろうとしたんですね。でもどうしてメジャーなんでしょうか……。それに丸い穴、何かに引っ掛けるために開けたんでしょうか?」

 と、御子柴は呟く。

 確か、白薔薇は棘丸と一緒にカンテラの修復を行ったと言っていた。それなら穴を開けることくらい出来るかもしれない。仮に白薔薇が行ったとしても、なぜそんなことをしたのだろうか?

 京極は珍しく大きな目を細めながら考えて込んでいる。しかし、表情を変え御子柴のことを見つめる。

「なるほど。大体分かった」

 意味深な言葉であった。

 御子柴は声をかけようとした時、救急車のサイレンが聞え始めた。その音はどんどんと近づいて来ており、数分で白薔薇の屋敷の前で止まった。当然、その音を聞きつけた京極は救急隊員に直ぐに白薔薇を搬送するように命令し、ものの数分で部屋から白薔薇が運び出された。

「白薔薇ちゃんは大丈夫だよ。気を失っているだけ。病院に行けば直に気づくはずだよ」

 やがて捜査員たちがやって来る。それを見た京極はメジャーをくるくると回しながら、

「ちょっとついて来て」と言い、部屋から出て行った。状況が飲み込めない御子柴は堪らず彼の後を追った。京極はスタスタと屋敷の廊下を通り、やがて玄関に出た。どうやら外に行くようである。白薔薇の屋敷にはもう用はないのであろうか。

「き、京極さん、どこへ行くんですか?」

 御子柴が問うと、京極は振り返らずに、

「黒薔薇ちゃんの館だよ。事件の謎を解くためにね」

 事件の謎を解く。

 京極は何を言っているのだろうか。御子柴は目を丸くさせながら玄関のトビラを開けた。

 外に出て、ピンクのポルシェに乗り込む京極と御子柴。入り口付近にたむろしていた村人たちが二人を車の周りを取り囲む。京極は「パッパー」と大きなクラクションを上げて取り囲む村人を引き下がらせると、御子柴が助手席に乗ったことを確認するなり、直ぐにエンジンをかけポルシェを発進させた。ゆっくりとポルシェが動き出す。

 車は車道に出る。京極は運転しながらCDを聞く。テンションの高いアニソンが流れ、車内に変な空気が流れる。

「黒薔薇様の館に行くってどういうことですか?」

 御子柴が尋ねると、京極は前を見据えたまま答えた。

「決まってるじゃん。謎が解けたんだよ」

「謎が解けたって犯人が分かったんですか?」

「犯人はとっくに分かってるよ。何度も言ってるでしょ。犯人は白薔薇ちゃんだよ」

「でも白薔薇様は自殺未遂をされたんですよ。それは多分黒薔薇様が亡くなられてショックだったからだと思います」

 音楽がサビの部分に突入したとき、リズムに合わせて鼻歌を歌っていた京極はにっこりと笑みを浮かべた。たっぷりと肉がついた頬が緩む。

「別の可能性もあるよ」

 京極は自信満々に言う。京極の言っていることが理解出来ない御子柴は、眉間にしわを寄せながら鸚鵡返しに聞いた。

「別の可能性って何ですか?」

「白薔薇ちゃんは黒薔薇ちゃんを傷つけてしまった。それが原因で黒薔薇ちゃんは亡くなった。だからショックを受けて、責任を取るために自殺を図ったってことだよ」

「そ、そんな馬鹿な。白薔薇様と黒薔薇様は姉妹ですよ」

「姉妹だからって言うのは理由にならないよ。むしろ姉妹だからこそ歪んだ関係が出来上がる場合だってある。家族というのは人間の関係の中でも強い繋がりがあるからね。その分ややこしい関係になってもおかしくはないよ」

「そんな……」

 御子柴はショックで口が塞がった。京極を説得させるにはどうすれば良いのであろうか。いくら考えても埒が明かない。運転する京極に視線を送りながら、御子柴は思いを巡らす。白薔薇が犯人ではない証拠はないのであろうか。

「そ、そうだ。井戸や黒薔薇様の壁付近にあった血痕は誰のものだったんですか?」

 丁度信号が赤になる。京極は静かにブレーキを踏み、車を停止させる。そして車が停まったのを見計らい、

「あぁ、あの血痕ね。黒薔薇ちゃんの血痕だった。う~んと、前にも言ったけど一卵性の双子の場合、血液が同じだから、白薔薇ちゃんのかもしれないけど。井戸の血痕は付着してからそれほど時間が経っていないということが分かったんだ。計算では黒薔薇ちゃんの部屋に飛んだ血痕と同じ時間帯に付着したとされているんだよ。白薔薇ちゃんは血を流すような怪我をしていなかった。つまり、井戸に飛んだ血痕は黒薔薇ちゃんのものであると言えるよね」

 ということは、犯人は黒薔薇を殺害し、直ぐに外に出て井戸に凶器を放り込んだということになるのだろうか?

 目を細めながら御子柴は次の質問を飛ばす。

「ええと、黒薔薇様の死因は何だったんですか?」

 信号が青に変わり、ポルシェがのろのろと動き出す。

「死因は失血死。まぁ頚動脈を切られたわけだから当然だけどね。部屋に飛んだ血液を見れば容易に想像は出来るよ。毒物は飲まされてなかったけど睡眠薬は検出された。日常的に服薬してたみたい。お父さんもそう証言してるし。でも完全な大量出血による死だね」

「死亡推定時刻は?」

「午後九時から九時半にかけて。丁度黒薔薇ちゃんが就寝してから三〇分程度経ってからだよね」

「そうなんですか? 指紋とかは検出されたんですか?」

「指紋ねぇ。沢山検出されたよ。黒薔薇ちゃんだけでなく、蔓田君、棘丸君、花弁ちゃん、それに白薔薇ちゃんの指紋も検出された。梯子にも白薔薇ちゃんの指紋があったんだ。白薔薇ちゃんは定期的に館に来てるから、指紋が出てもそれほどおかしくないけど。まぁあそこに住んでいるんだし、棘丸君たちは召使いのようなものだから、黒薔薇ちゃんの部屋に出入りはあっただろうし。あんまり指紋は関係ないかな」

「凶器は見つかったんですか?」

「うん。見つかったよ」

 さらりと言ってのける京極。それに対し、食い入るように御子柴は視線を向けた。

「い、一体どんな凶器だったんですか? やっぱり危険な刃物だったんですか?」

「君も見てるはずだよ。御子柴探偵推理したまえ……なんちゃって。とにかくさ一旦館へ向かおうよ。そこで事件の謎はすべて解けるから」

 ルンルンとした気分で京極は言い放つ。

 既に事件の全貌は見抜いたという感じだ。御子柴は不意に窓の外に瞳を向けた。夕暮れの小学校が映り込む。今日は誰も校庭に出ていない。それはそうか。黒薔薇の館で如何わしい事件が起きたのだ。警戒し外で遊ぶことをしないだろう。

 昨日は確か、子供たちがかけっこをして遊んでいたのである。その風景を思い出し、御子柴は一人物思いに耽った。

 やはり白薔薇が犯人なのであろうか。それとも別に真犯人がいるのか? 真犯人として考えられるのはXだ。

「X……。Xは誰なんでしょうか?」

 徐に御子柴は口を開いた。

 すると、それを聞いた京極がハミングを止めて答えた。

「あぁ。Xというのは確か、棘丸君が散歩中に見た怪しい影というやつだね。アレはね、白薔薇ちゃんだよ」

「そ、そんなどうしてそんなことが言えるんですか?」

「館にあった物置を調べたよね。そこで長靴があったはずだ。その長靴を調べたところによると、中から靴下の繊維が出てきた。ちょうど白薔薇ちゃんが履いているものと同じものだったよ。井戸の中にも長靴と同じ足跡があったんだ。それに井戸の底の土と長靴に付いた土が一致したよ。Xという人間は物置にあった梯子を使い井戸の中に降りたのさ。梯子にも使われた形跡があったし、井戸の底にある土が付着していたんだ。それに山の中や館を散策しても変装したようなマントなんかは見つからなかった。変装の可能性は低いね。となると、ますます白薔薇ちゃんが怪しい」

「でも靴下の繊維が一緒だからと言っても白薔薇様が犯人であるとは思えませんよ」

 ポルシェは山道に入り、ガタガタと大きな音を上げながら道を進んで行く。山の中は薄暗く、魔界にでも忍び込んだかのような感覚を与える。

 車の中で時刻を確認すると既に五時を回っていたことが分かった。既に日は落ち始め、山の中には薄闇が降りている。ライトをつけたポルシェはすいすいと山の中を進み、やがて黒薔薇の館の前に出る。

「白薔薇ちゃんに不利な情報はまだあるよ」

 京極はブレーキを踏み、黒薔薇の館の前で車を停止させる。エンジンを切ると、陽気に流れていたアニソンが止み、車内は一気に静まり返った。

「し、白薔薇様に不利な情報って何ですか?」

 京極はポケット中からキャラメルを取り出し、それを口の中に放り込み、もぐもぐと咀嚼しながら答えた。

「黒薔薇ちゃんと白薔薇ちゃん。仲違いしてたんだって。白薔薇ちゃんは警察官でしょ。同僚に黒薔薇ちゃんが働いていないからみっともないということを言ったんだって。一度痛い目を見ないと分からないとも言ったらしいよ」

「そんなことくらい、誰でも言う可能性はありますよ。姉妹なんですからね。働いてほしいという気持ちがあったから、そういう愚痴を吐いたに決まってますよ。本心じゃありません」

「まぁそりゃそうだよね。その他にもこんな情報があるよ。黒薔薇ちゃんはT大を卒業したエリートだけど、白薔薇ちゃんは村の高校を出ただけなんだって、何でも隣町の村長家に嫁ぐなんていう、今時珍しい話があったようなんだけど、実現しなかったらしいね。つまり何が言いたいのかというと、嫌なことはすべて白薔薇ちゃんに回って来て、後を行く黒薔薇ちゃんは楽をしていたってことさ。両親も出来の良い黒薔薇ちゃんには立派な館を与えて、過保護に育てていたみたいだし。白薔薇ちゃんの中でフラストレーションが蓄積されても全然おかしくないよ」

 そう言った後、京極は車を降りた。そして黒薔薇の館に向かって行く。勿論その後に御子柴が続く。黄色いテープが張り巡らされた黒薔薇の館。沢山いたはずの野次馬は既に消えており、館の中には誰もいないようであった。どうやら今日の捜査は終わったようである。にもかかわらず京極は館の裏側に回って行く。

「捜査は終わったんじゃないでしょうか?」

 御子柴が不安そうに尋ねると、井戸の前に着いた京極が言った。

「捜査はね。だけど僕らはこれから謎を解きに行くんだ」

 相変わらず意味深なことを言う。謎を解くなら館の中ではないのか? 仕方なく御子柴は京極の後に続く。やがて二人は井戸の前に立つ。そこで京極は小さなマグライトを取り出し辺りを照らし出す。小さな明かりが煌々と周囲を照らし、長い影を作った。

「ここで何をするんですか?」

 と、御子柴が問うと、京極はズボンのポケットの中から白薔薇の屋敷で押収したメジャーを取り出し、

「確かこの辺だと思うんだけど……」

 と、言いながら黒薔薇の館の壁をぺたぺたと触り始める。しばらくそんなことを続けていると、京極は何かを見つけたようである。嬉しそうに顔を綻ばせながら、

「お、あったあった」

 京極が呟くのを聞きながら御子柴は考える。一体何があったのだろうか? それにどうして日も暮れた時間帯にこんな場所に来たのだろう。考えれば考えるほど分からない。

「京極さん。僕にはわけが分かりませんよ。説明してください」

「御子柴探偵。そんなことでは探偵と呼べないぞ。僕がしていることくらい、自慢の推理力で何とかしないと」

 とは言うものの、御子柴は探偵ではない。しがない旅人である。推理力と言われても高が知れているし、一般人と変わらない。突然推理せよと言われても何も思い浮かばない。

「そんなこと言われても、僕には何がなんやらさっぱりですよ」

「御子柴君。君は探偵小説好きだったよね?」

「まぁ好きっていえば好きですけど、そんなに読み込んでいるわけじゃないですし、愛好家に比べれば赤ん坊のようなものですよ」

「そう。でもクイーン知ってたじゃない」

「エラリー・クイーンですね。勿論知ってますよ」

 そう御子柴が言うと、京極はマグライトを御子柴の顔面に向けた。眩しさが御子柴を襲い、目を背けた。

「御子柴探偵、欧米の推理小説に読者への挑戦というものがあるよね。勿論、日本の小説にもあるけど、これは僕からの挑戦だよ。事件を解くためのすべての情報は明らかになっている。君はすべての情報を知ってるはずなんだ。となれば推理出来るはずだよ。謎を解いてごらんよ」

 何という傍若無人な問いだろうか。

 犯人が分かっているのに読者への挑戦? そんな馬鹿な。御子柴は呆気に取られ、だらしのない顔で京極のことを凝視した。依然として京極はにんまりと笑い、御子柴のことを面白おかしく見守っている。薄暗く肌寒くなった中、御子柴は考えを巡らす。事件を解くための情報はすべて開示されている。本当にそうなのだろうか? 

「ちょ、ちょっと待って下さいよ。事件を解くためのすべての情報は明らかになってるのなら、京極さんが解けば良いじゃないですか。だって警部さんなんでしょ。どうして僕が推理しなくちゃならないんですか?」

 尤もな問いを放つ御子柴。

 しかし、対する京極は笑いながら、

「館で人が死んだ。これは恐ろしいことだよ。しかも不可解な死に方だった。凶器はどこかに持ち去られ、さらに室内は密室。血は飛び散っているものの、犯人が返り血を浴びた可能性は少ない。室内には怪しげな小さな平べったい穴が開いていて、おまけに館の外にある井戸に血が付着している。良いかい、井戸の直ぐ脇の部屋は黒薔薇ちゃんの部屋だ。井戸には念写されたかのように血が付いている。ここまで言っても分からないの? 御子柴探偵しっかりしてよ。シチュエーションは完全に推理小説どおりなんだから。あぁわくわくするなぁ。これで御子柴君が事件を解いたら今回の事件は推理小説として売り出せるよ」

 さらりとわけの分からないことを言う京極。御子柴は立ち尽くしながら、一つずつ考えを推し進めていく。

 京極は凶器が見つかったと言った。よく考えれば、凶器は午前中と午後の捜査では見つからなかった。となると、凶器は本当につい最近見つかったことになる。事件を解くためのすべての情報が開示されているなら、御子柴も当然凶器が見つかったということを知っていることになるだろう。

(僕も凶器のことを知っているんだ)

 ふと、御子柴は京極の手元を見つめた。丸々と肉のついたドラえもんのような手。その可愛らしい手にはある物が握られている。ある物。それは巻き取り式のメジャーだ。これは確か白薔薇が自殺未遂した場所で見つかったものだ。それを京極が押収したのである。

 鈍感な御子柴でも京極の言っていることが分かった。

「凶器は……」御子柴は重々しく言った。「メジャーなんですね」

 相対する京極はニヤッと口角を上げ、

「ピンポーン! 正解。流石は御子柴探偵。分かってるじゃない」

 と、言った。その後、上着のポケットから白い手袋を取り出し、それを御子柴に渡した。綿製の薄っぺらい手袋である。よく警察が捜査で使うのを御子柴は見ていた。手袋を受け取るなり、御子柴は手袋をはめた。

「それ、僕のスペアね。それからこれ」

 京極は御子柴が手袋をはめたことを確認すると、僅かに血痕の付いたメジャーを渡した。金属の帯で出来た建築現場で使うようなメジャーである。一体どうしてこんなものを白薔薇は持っていたのであろうか。……否、答えはもう出ているではないか。

凶器は確定した。しかし、こんなありふれたメジャーでどうやって黒薔薇を傷つけるのだろうか。黒薔薇はこの凶器で受けた傷が致命傷となって死に至ったのである。一体どうやればこのメジャーにそこまでの殺傷力を持たせることが出来るのであろうか。

これで首を絞めたときに、金属の帯で首が傷ついたのか? 難しい。御子柴はそう考えた。辺りの闇が一層深くなり、館の付近はおどろおどろしい雰囲気に包まれた。

御子柴は考えを推し進める。メジャーを使って首を絞めるなら、金属の帯のメジャーなんて使わないだろう。何しろ金属で出来ているのである、固いし曲げにくい、プラスチックで出来た柔らかい帯を使うはずである。否、そもそも首を絞めるためにメジャーなんて使わないだろう。紐を使うはずだ。

(駄目だ……)

 御子柴はグッと歯を食いしばった。

 犯人は事件現場にいなかったのである。それに黒薔薇は頚動脈を切られて死んでいたのだ。現場におらずこの金属帯のメジャーを使って黒薔薇に傷を与えるのはどうすれば良いのか。メジャーの帯は細長い。ドアの隙間くらいなら入るかもしれない。だからといってこのメジャーで頚動脈を切るほどの殺傷力が出るかは分からない。

 それに、井戸や壁に血が付着しているのである。ならば、犯人は外から黒薔薇の部屋に向かってこのメジャーを入れたということになる。しかし、どうやって? 壁をすり抜けることなんて出来ない。

「帯を見てごらん」

 京極は言う。

 そう言われ、御子柴はメジャーの帯をどんどん出した。すると、中央から先端にかけて夥しい血が付着しているのが分かった。

(そ、そうか?)

 御子柴に頭の中である考えが雷光のように輝く。

「壁に開いた五百円の厚さくらいの薄っぺらい穴からこのメジャーを入れたんですね。もうそれしか考えられない。それに先端を細工したのはL字の爪があると邪魔になるからですよ」

 と、御子柴が言うと、京極は新しいキャラメルを舐めながら満足そうに頷いた。

「うん。それも正解だね。現場の穴には凶器がすり抜けたであろう血の痕が残っていた。犯人はこの穴からメジャーを中に入れたんだろうね」

 となると次に考えるべきことは、この凶器を使ってどうやって黒薔薇の首へ致命傷となる傷を与えたのかということである。いくらしっかりとした金属製の帯であるメジャーを持ったとしても長さが伸びれば伸びるほど、凶器としての力は衰えるはずである。金属帯が硬いとしても伸ばせばくねっと折れ曲がるはずだ。とてもではないが、殺傷力が出るとは思えない。

 御子柴は脳をフル稼働させる。確か穴の対面の壁には何かなかったか? そう何かあったはずである。

「京極さん。思いついたことがあるんですけど、実際にやってみて良いですか? このメジャーはまだ鑑識さんが調べていないですけど大丈夫でしょうか?」

「大丈夫」京極は言った。「思い通りにやってごらんよ」

 その言葉を聞き、御子柴はメジャーの帯をギュッと伸ばした。京極が持つマグライトの明かりがぎらぎらとメジャーを照らす。

 メジャーの帯には大量の血痕がついている。恐らくこれは黒薔薇の血であろう。もう間違いなく凶器はこのメジャーで確定だ。御子柴はそう考えながら、メジャーの帯が動かないようにロックをかけ、先端を薄っぺらい穴に通した。針穴に糸を通すかの如く。

 金属帯はするりと穴の中に入る。それを確認した御子柴は、

「黒薔薇様の部屋へ行きましょう」

 と、京極に問いかけた。

 対する京極は何も言わず、ただ親指を立ててゴーサインを出す。

 二人はくるっと館の前まで行き、館の中に入る。館内は暗かったが、直ぐに京極が明かりのスイッチを見つけた。静まり返った館内に明かりが灯る。ぼんやりとした明かりは薄気味悪く館内を照らし出していた。

 御子柴は一直線に黒薔薇の部屋へ向かう。当然室内には誰もいない。事件現場らしく、床にはチョークで黒薔薇が倒れていた輪郭線が描かれている。その他にも番号が書かれたプレートが床に置いてあり、事件の調査をしたということが見てとれた。御子柴はというと、外壁から入れたメジャーをぐいぐいと伸ばし、対面の壁まで持って行く。丁度穴の高さと同じところに絵画をかける取っ掛かりがある。

 メジャーの先端には切れ目があるが丸い穴が開いており、何とか取っ掛かりに引っ掛けることが出来るようになっている。長さは十メートルと記載。それなりに長い物のようだ。御子柴は取っ掛かりにメジャーの先端を引っ掛けた。すると、メジャーは部屋の中央にゴールテープのようにピンと伸びた。高さは一三〇センチほどである。

「メジャーが張られた高さは黒薔薇様の首くらいの位置です。そして先端から中央にかけて血痕がある。これは恐らく中央から先端に向かって黒薔薇様の首を切り裂いたからなんです」

 その言葉を聞いた京極は満足そうな笑みを浮かべてふむふむと頷いた。

「なるほどね。メジャーのエッジが黒薔薇ちゃんの首を引き裂いた。でもそんなに都合よくいくかな? だってメジャーを伸ばして部屋の中央に設置すれば凄く目立つよ。普通、誰も引っかからないと思うけど」

 京極の問いは的確である。

 通常の状態であるならば、黒薔薇はこんなちゃちな仕掛けにあっさりと気づき、首を切り裂かれることはなかったであろう。しかし、現実は違う。確かに黒薔薇は首を切られ命を落としたのである。それは一体なぜなのか?

「思い出してください。黒薔薇様の奇病を……」

「奇病ねぇ」

 と、京極は頷きながら言った。あたかも解答を知っているようであったが、彼は何も言わず、ただポケットから大きな飴を取り出しそれを噛み砕き始めた。京極の反応を見た御子柴はゆっくりと話を続ける。

「黒薔薇様は夢遊病なんですよ。夜中に動き回る癖があった。恐らく犯人はそれを利用したんです。黒薔薇様が夢遊病であるということを知っているのは、黒薔薇様の両親と、蔓田さん、棘丸さん、花弁さん、そして白薔薇様だけですから、犯人は当然この六人に犯人は絞られます」

 ボキボキと飴を砕いた京極はスッと手を挙げて、

「ちょっと待ってよ。犯人の候補はもう一人いるよ」

「え、もう一人?」

 間抜けなことで御子柴が尋ねると、京極は御子柴のことを指差した。

「もう一人の容疑者、それは御子柴ちゃん。御子柴ちゃんも黒薔薇ちゃんが夢遊病だってことを知っていたんだよね?」

「あ、そうですね。でも僕は一応探偵役を務めているんですよ。だから犯人じゃありませんよ。まぁ僕も容疑者であると確定すると、今言った七人が容疑者ということになります。まず黒薔薇様のご両親は事件当時館にはいませんでした。無理矢理考えればこっそりと忍び込むことも不可能ではないですが、館の中には白薔薇様、蔓田さん、棘丸さん、花弁さん、僕、の五人がいたので、全員に見つからずメジャーを設置するのは難しいでしょう」

「だろうね。それに、犯行時間帯に黒薔薇ちゃんの両親が黒薔薇ちゃんの館ではなく、麓にある大きなお屋敷にいたということは多くのメイドが証言してるしね。現実的には彼らを犯人にすることは難しいよ」

「そうですね。お屋敷から黒薔薇様の館まで歩けば二十分以上掛かりますからね。まずは黒薔薇様のご両親は容疑者から除外されます」

 御子柴はそこで言葉を切った。室内は静寂が流れ、ぼんやりとした明かりだけが二人を照らし出している。気温もグッと下がり肌寒い。京極が新たな飴を取り出し、それを舐め始めたのを見計らい、御子柴は口を開いた。

「残る容疑者は白薔薇様、蔓田さん、棘丸さん、花弁さん、そして僕です。僕と棘丸さんは犯行が行われた時間帯、外へ散歩に行っていました。当然、メジャーなんて持っていません」

「分かるよ。君と棘丸君が外に出たということは確かなようだね。山の中に君と棘丸君の足跡らしきものが残されていた。まだ新しいものだったから、御子柴ちゃんの言うことは間違いじゃないよ。でも、部屋の鍵はどう説明するの? 確か現場は密室だったはずだよね。鍵は棘丸君と黒薔薇ちゃんしか持っていないという話だった」

「京極さんの言ったとおりです。でも確か、あの部屋の鍵はとても複製しやすい鍵だそうですね?」

「そ。ディスクシリンダーといって古いタイプの鍵だよ。流石は御子柴探偵、よく覚えていたね」

 満面の笑みを浮かべる京極。それに対し、御子柴はディアストーカー越しに頭をぽりぽりと掻き、

「ありがとうございます。ですから、この部屋の鍵の複製は簡単なんです。誰にでも複製するチャンスはあった。ということになります。密室は密室でも不完全な密室だったんですよ。この辺は推理小説のように上手くはいきませんね。白薔薇様は一ヶ月ほど前、茎村さんという村の金物屋さんに薄っぺらい刃物の作成と、鍵の複製を依頼しています。薄っぺらい刃物は作れないと断られたそうですが、鍵の複製は出来たようです。簡単な鍵ですから直ぐに複製したと、茎村さんは証言しています」

「なるほどね。じゃあ白薔薇ちゃんが黒薔薇ちゃんの部屋の鍵を持っていても不思議はないわけか。……やるじゃん、御子柴ちゃん。そこまで調べているとは思わなかったよ。やっぱり僕の目は間違いなかった。君は探偵として素質があるんだよ」

 まるで自分のことのように御子柴を褒める京極。御子柴は褒められて顔を緩めながら微笑んだが、直ぐに真剣な顔をし、

「鍵の複製を頼んだのは白薔薇様だけでした。となると、鍵を持っているのは黒薔薇様、白薔薇様、棘丸さんの三人ということになります。ディスクシリンダーの鍵は旧式の鍵らしいですが、昔ながらの針と糸を使って進入するということは難しいと思います。犯行時間帯、蔓田さんも花弁さんも自室にいたようですし」

 御子柴の言葉を聞くと、直ぐに京極が口を開いた。キシッと床が鳴る。

「ちょっと待ってよ。蔓田君、花弁ちゃんが犯行時間帯、自室にいたということはどうやって説明するのさ?」

 京極の言うことは正しい。

 探偵として力を発揮し始めた御子柴であったが、この問いかけには些か迷いを見せた。蔓田と花弁が自室にいたということは、彼らの証言でしかないのだ。はっきりと確定することは出来ない。御子柴はグッと歯を噛み締めながら、考えを推し進める。

 何か良い手段はないのか、彼らが部屋にいたという証拠は……。

「京極さん。蔓田さんと花弁さんは犯人じゃありませんよ。だって彼らは黒薔薇様の専属の執事やメイドですし、何よりも黒薔薇様を傷つける動機がありません。蔓田さんも花弁さんも黒薔薇様の館へ来る前は家で引きこもりやニートだったそうです。それを救ったのが、黒薔薇様なんです。二人とも黒薔薇様に対して恩義を感じていました。そんな二人が黒薔薇様を傷つけるとは到底思えないんです」

 蔓田と花弁が黒薔薇に信仰に近い何かを感じていたのは事実である。

 二人とも黒薔薇に対し篤い忠誠心を持っていた。そんな二人が犯行を行うはずがないということは分かりきっている。しかし、それを示す証拠がない。

「御子柴ちゃんの言うことは分かるよ。蔓田君も花弁ちゃんも黒薔薇ちゃんが亡くなったことでとてもショックを受けてる。あれは演技ではないよ。僕は刑事を長く続けているからそれは分かる。でもそれだけじゃ容疑者から外せないんだ」

 京極は白薔薇を犯人だと告げたものの、他の者のアリバイをしっかり聞いてくる。抜け目のない警部だ。とはいうものの、御子柴は困り果てた。探偵ごっこはこれまでなのかもしれない。

「確か……」御子柴は言った。「花弁さんは母親と電話をしていたと言っていました。花弁さんから携帯を借りて通話記録を見てみたらどうでしょうか。電話をかけているということが分かれば、花弁さんは容疑者から外せると思います」

「ふ~ん。なるほどね。確かに御子柴君の言ってることはあってるよ。花弁ちゃんはお母さんと電話してた。犯行時間帯にね。でも電話をしながら、メジャーを部屋に設置するくらいなら出来るかもしれない。今はイヤホンをつければ携帯電話を持たずに電話することも可能だからね」

「ちょっと待ってください。電話をしながらメジャーを設置するのは可能かもしれないですけど、井戸の中にメジャーを放り込んで、それを拾うなんてことは出来ないと思いますよ。電話をしていたのは一時間位らしいですから、花弁さんには犯行に及ぶことは出来なかったはずです」

 対する京極はくりっとした目をぱちぱちと瞬きながら、

「そうだね。いくらイヤホン式の電話に切り替えたとしても井戸の中に梯子を入れて、上り下りするのは難しいだろうね。花弁ちゃんのお母さんが言うには、電話越しに特に不穏な音は聞えなかったという話だからね。まぁ身内の言葉だから信頼度は低いし、ロジックとしては弱いけど、花弁ちゃんを容疑者から外すことには賛成だね」

「となると、残るのは白薔薇様と蔓田さんですね」

「御子柴君と棘丸君は? ホントに外にいたの?」

 いたずらっぽく微笑みながら京極は言った。外に出ていたのは確かだが、それを証明することは出来ない。

「ホ、ホントに外にいましたよ。僕らの足跡が残っていたって言ったじゃないですか。それに、棘丸さんが館の鍵を閉め忘れたと言ったから、僕らは館に戻ることになったんです。そして黒薔薇様の遺体を発見したんですから」

「論理としては弱いね。今のところの容疑者は、白薔薇ちゃん、蔓田君、棘丸君、それに御子柴ちゃんの四人だね」

「まぁそうなりますね。館は人里離れていますからなかなか証明することが出来ません」

 うなだれるように言う御子柴。その表情からは探偵という言葉が微塵も感じ取れない。やはり自分はただの旅人。推理するなんて夢のまた夢なのだ。そう考えたとき、まさに御子柴の考えを見抜いたかのように、京極はにんまりと笑いながら、

「そういうときはね、犯人を確定させちゃうんだよ。つまり、逆算して考えるんだ。僕は何度も今回の事件の犯人は白薔薇ちゃんだと言ったはずだよ」

 それは分かる。しかし、御子柴は白薔薇を犯人じゃないと説明したいのである。一日という短い間であるが、白薔薇が人を殺すような人間とは思えなかった。確かに姉妹喧嘩をしていたのかもしれないが、殺すことはないだろう。だが、推理すれば推理するほど、白薔薇が怪しくなってしまう。

 ロジックを無視すると、御子柴と棘丸が外に出たのは間違いない。恐らく蔓田も屋敷の中にいたのだろう。となると、残された容疑者は白薔薇しかいなくなる。蔓田の話では、白薔薇は二階の自室にこもった後、一階に下りたようだ。それも一〇分ほど。一〇分あれば外に出て、外壁から黒薔薇の部屋にメジャーを入れることは可能であろう。そして、それを回収することも。

「僕や、蔓田さん、棘丸さんはメジャーのことを知りませんでした。第一、メジャーを使って人を殺すなんてことは出来そうにないですよ」

 力なく御子柴は言った。それを聞いた京極は御子柴の手を取りながら、

「じゃあ早速試してみようよ。メジャーのロックを外したほうが分かりやすいかな」

 そして京極は一旦部屋から出て行った。恐らくメジャーのロックを外しに壁の外側に向かったのだろう。

 しかし何を試すのであろうか? 一人になった御子柴が目を点にさせていると、京極が戻って来て、すたすたとピンと張られたメジャーの前まで行った。そして真ん丸とした指でメジャーに触れる。メジャーは五百円玉の厚みくらいの穴から対面にある絵画の設置用のフックに掛けられているだけである。

 通常であればメジャーの丸い穴にフックを掛ければ、抜けることはない。しかし、押収したメジャーには切れ目が入っている。たとえ引っ掛けてもちょっとした衝撃で外れてしまうかもしれない。

 京極がメジャーに触れた瞬間、金属製の帯が恐ろしい速さで五百玉の厚みくらいの穴へ向かって行く。そして、部屋の中から消えて行った。

「かなりのスピードだったね。あれだけ早ければ金属製の帯が凶器に変わってもおかしくはないよ」

「たぶん」御子柴は言う。「室内に均一に飛んだ血は、きっと帯で切り裂かれた反動で黒薔薇様が回転したからだと思います。そうすれば、部屋に飛んだ血が説明出来る」

「回転か。確かにあれだけのスピードなら回転してもおかしくはないね。でもどうして黒薔薇ちゃんは悲鳴を上げなかったんだろう?」

「黒薔薇様は睡眠薬を常用してると言ってました。その状態で動き回れば意識が朦朧とするでしょう。悲鳴を出すことが出来なかったんではないでしょうか?」

「うん。その意見は賛成だね。きっと自分でも気づかないうちに致命傷を負ってしまったんだよ。さて、外に回ってみようか」

 京極はそう言うと、のっしのっしと黒薔薇の部屋から出て行く。外に向かって何をしようというのだろうか。御子柴は彼の後に続き、館の外に出た。

 二人が向かったのは当然井戸のある場所だった。外壁に小さな穴が開いており、メジャーを差し込むことが出来るのである。メジャーは勢いよく収納された反動で、井戸の前までぽつんと落ちていた。京極はそれを確認すると、スッとメジャーを拾い上げた。

「反動でここまで飛んだんだね。これを見て御子柴君はどう思う?」

 御子柴は彫刻のように固まった。何となく京極が言いたいことが分かったのである。

「もしかしたら、犯人は犯行後凶器を井戸の中に放り捨てたのではなく、メジャーが収納される反動で井戸の中に落ちたのかもしれませんね」

「ビンゴ!」

 高らかに告げる京極。メジャーが偶然井戸の中に落ち、それを犯人が探し出したのだとすれば。

「京極さんの話では、物置部屋にあった長靴と梯子に使われた形跡があるということでした。それに長靴には白薔薇様の靴下の繊維があり、さらに井戸の底には長靴の足跡があったと言います。長靴を履いていた人物が犯人ということになりますが……」

 もはやここまで来ると犯人は確定したも同然である。白薔薇を犯人から除外するために探偵役を買って出たのにもかかわらず、逆に白薔薇を犯人として認めてしまうことになりそうだ。

 苦虫を一〇匹ほど噛み潰したような顔になりながら御子柴黙り込んだ。夜の闇が御子柴と京極を包み込む。魔の山に来たような感じだ。気温はグッと寒く震えそうなのに、御子柴の背中には汗が流れた。

「どうしたの? 御子柴ちゃん。早く続きを聞かせてよ」

 急かす京極。彼は答えを知っているのだ。ずっと前から。白薔薇を犯人だと言い切ったのは他でもない京極なのだから。

「長靴には……」御子柴は話を始めた。「白薔薇様の靴下の繊維がありました。となると、長靴を履いた可能性があるのは白薔薇様しかいません。白薔薇様の靴下を拝借し、それを履くという手段もなくはないかもしれませんが現実的には難しいと思います。それに、棘丸さんが見たというXは小柄なんです。蔓田さんのように大柄な人ではありませんし、僕でもありません。体型が違い過ぎます。Xは小柄、つまり女性である可能性が高いんです。残された人物の中で女性なのは白薔薇様しかいません」

 京極は指をパチンと鳴らしながら、

「そうだね。Xが女性だとしたら残っているのは白薔薇ちゃんしかいないよね。だけど思い出して欲しい。僕は前に変装すれば誰にでもXになれる可能性があると言ったよね?」

「確かに言いました。変装すれば蔓田さんにもXになりうる可能性があります。しかし、太った蔓田さんが体型を変えるのは容易なことではありません。また、僕や棘丸さんも同じです。黒く縁取りした服を着て、闇に溶け込ませるという方法も出来なくはないかもしれませんが、そんな服は発見されませんでした」

「山の中に捨てたんじゃないの? それか燃やしたとか」

「山の中に捨てる時間はありませんでした。Xを見つけてから僕と棘丸さんは直ぐに館に戻ったからです。犯人にはそれほど時間はないのです。それに僕と棘丸さんが外に出たのは二〇分程度なんです。黒薔薇様の部屋に侵入して鍵を閉める。その後井戸の中に落ちたメジャーを回収する。一〇分あれば、それだけのことをすることは可能でしょう。でも、山の中に服を捨てに行く時間はないですよ。燃やすという方法も論外です。燃やせば臭いが出ますし、何より目立ちます。あの夜そんなことはありませんでした。つまり、服を隠したという可能性はないということです。それに山の中や館の中から怪しい衣類が発見されなかったと京極さんが言ったじゃないですか」

 すると、京極にんまりと笑い、首を上下に振る。

「よく覚えていたね。一通り捜索したけど怪しい衣類はなかったよ。でも、そうなるともう犯人は白薔薇ちゃんしかいない。御子柴君は白薔薇ちゃんを犯人から外そうと躍起になっていたけど、推論した結果、白薔薇ちゃんを犯人だと確定させてしまったみたいだね」

 そう。今回の事件は白薔薇が犯人。

 その可能性は大である。否、もはや一〇〇%白薔薇が犯人であろう。もはや彼女しか残らないのだから。

 京極がさらに言葉を進める。

「梯子はどうなの? 持っていたら結構見つかりやすいし、面倒だよね?」

 それを受けて、御子柴は答える。

「黒薔薇様の館にある物は殆どが黒い物です。黒薔薇様は黒が好きだったようですから、勿論、梯子も黒です。闇の中では殆ど見えないでしょう。僕と棘丸さんには分からなかったんです。それに、館や骨董品の修理を良くしていたと聞きました。梯子の使い方に慣れていても不思議ではありません」

「なるほどね。確かに黒薔薇ちゃんの家の物は黒ばかりだった。黒い梯子なら闇に溶け込む可能性は高いよ」

「でも問題はあります」

 と、御子柴が静かに口を開くと、京極は腕組をしながら答えた。

「問題? 何それ、動機のことかな」

「動機もそうですが、まず不可解なのはどうして外壁から部屋の中にメジャーを入れて、それで黒薔薇様を傷つけるなんて面倒なことをしたのか? ということです。仮に白薔薇様が黒薔薇様に殺意を持っていて殺そうとしたのであれば、そんな面倒なことはしません。第一、メジャーを使った犯行方法は不確定要素が多過ぎてあまり実践向きではないですよ。精々驚かすというのが関の山でしょう」

「驚かすねぇ……。でもそれが目的だったとしたらどうだろう」

 京極はにんまりと唇を押し上げながら言い、ポケットの中からキャラメルを取り出し、それを美味しそうに舐め始めた。

 驚かすことが目的。

 これが事実ならば白薔薇は黒薔薇を殺害しようとしてはいなかったということになる。しかし、どうしてそんなことをしようと思ったのか? 黒薔薇は夢遊病者だ。それに睡眠薬を常用している。ふらふらと歩いて行くうちにピンと張ったメジャーに引っかかる可能性は高い。そこでメジャーに触れれば帯は勢いよく収納されるはずである。場合によっては今回のように致命傷に繋がるかもしれない。

「白薔薇様は……」御子柴が震える声で言った。「本当は黒薔薇様を殺害しようと計画していたのではないのかもしれません。もしかすると、悪戯でこんなことをやったのではないでしょうか」

 姉妹で悪戯をかけあうということは小さな子供ならありえることである。それが大人になった白薔薇、黒薔薇の間で行われるかどうかは不可解だが、悪戯の可能性は高いように思えた。

「悪戯ねぇ」京極は舌をペロッと出しながら、「その可能性はあるかもしれないね。悪戯をしようと試みて、その結果大事件に発展してしまった。子供が車の下に隠れてそのまま轢かれてしまうようにね。だけど白薔薇ちゃんは大人だよ。それに警察官だ。そんな子供だましな悪戯をするのかな?」

 悪戯にしては手が込み過ぎているし、メジャーが高速で収納されれば、あっさりと凶器に変わるということは容易に想像出来る。だが白薔薇はメジャーを使い、奇行に及んだ。

 その理由が分からず、御子柴は黙り込んだ。再び二人の間に沈黙が流れる。辺りを冷たい風が吹き、火照った頬をじんわりと冷やしてくれた。

「黒薔薇様の話では、黒薔薇様も白薔薇様も意外と悪戯好きであったという話です。幼いとき、お互いに悪戯をし合ったと言っていました」

 と、御子柴が言うと、京極は物憂げな表情を浮かべ、何やら考え込んだ。

 何分ほどだろうか。二人は口を開かなかった。御子柴はその間にも懸命に推理を進めたが、都合の良い答えは思い浮かばなかった。もはやこれまでか。そう思ったとき、京極が言った。

「ショック療法という言葉を知ってる? 白薔薇ちゃんが泊まっていた部屋にもそんな本があったはずだよ」

 突然の問いであったが、御子柴は答えた。

「一応知っています」

「精神病の治療の一つでね。人体に衝撃を与えて治療を図るというものだよ。まぁ医学がそれほど進歩していなかった昔の話だけど、今でもこういう村の中には民間療法として受け継がれている場合があるんだ。白薔薇ちゃんはずっとこの村で暮らしていたわけだから、村の民間療法を知っていてもおかしくはないよね」

 話が見えなかった。御子柴は握り拳を作りながら京極の話を聞いていた。彼が今、ショック療法を言い出したのには理由があるからだ。この期に及んで意味のないことは言わない。京極ほどの歴戦の刑事が言うのだから間違いないのであろう。

「つまり……」身を固まらせながら御子柴は言った。「白薔薇様は何らかのショック療法を試そうとしたということですか?」

「うん。そうだよ。黒薔薇ちゃんは夢遊病を患っていたはずだよ。お医者さんに診せたけどなかなか治らなかったみたいだね。そこで白薔薇ちゃんがショック療法を考えた。それが今回の事件だったらどうだろうねぇ」

「そんな危ないことをしますかね。事実、黒薔薇様は亡くなってしまったんですよ」

「白薔薇ちゃんもまさかここまで事件が発展するとは思わなかったんだよ。軽くメジャーでショックを与えて黒薔薇ちゃんの夢遊病を強引に治そうとしたのかもしれないね」

 白薔薇が黒薔薇の病気を治そうとするのは分かる。事実、白薔薇はショック療法という言葉を知っていたし、それを試そうということも仄めかしていたではないか。

 そんな中、御子柴は言った。

「京極さん。白薔薇様は確か、茎村さんのところへ行き、薄っぺらい刃物の製作を依頼していたんです」

「薄っぺらい刃物とは穏やかじゃないね。どうしてそんなものを使おうとしたんだろう」

 あたかも答えは知っているという口調で京極は答えた。

 薄っぺらい刃物を使う理由は一つしかない。黒薔薇が夢遊病で起き上がったとき、それに引っかかれば起きるという寸法である。しかしこれには穴がある。なぜ薄っぺらい刃物を部屋に張り巡らさなければならなかったのか? ということである。

 夢遊病から覚醒させるためにはわざわざ刃物を使わなくても良い。紐やテープで十分ではないのか。もしかしたら……。

「これは僕の妄想なんですけど聞いてもらえますか?」

 御子柴が言うと、京極はゆっくりと頷いた。それを見計らい御子柴は話を続ける。

「今回の事件。実は白薔薇様と黒薔薇様の二人によるものだったんじゃないでしょうか?」

「二人による事件? それは新説だねぇ」

「はい。黒薔薇様が白薔薇様に依頼した。あるいは逆もありますが、黒薔薇様の夢遊病を治すために二人は少々荒療治なことを考えた。二人は一卵性の双子ですから、お互いの考えが分かったのかもしれません。それが薄っぺらい刃物を使った治療法です。でもそれは茎村さんに断られたことで暗礁に乗り上げた。そこで思いついたのがメジャーの方法です。白薔薇様は推理小説の愛好家ですから、色んなトリックを知っていても不思議ではありません。第一、一人で作業する場合、メジャーのロックを掛け、室内に差し込んで、フックに掛けることになります。その後、また外に出てロックを外さないとなりません。ですが、二人でやれば、一々外に出る手間が省けますから、作業がスムーズになります。作業がごく短時間で行われたのは、今回のトリックを二人で実践した証拠ではないでしょうか? 実は白薔薇様がショック療法のこと呟いたことがあったんです。冗談だろうと受け流していたのですが」

 御子柴が言い終えると、対面に立っていた京極がぐるぐると部屋の中を回り始めた。歩くたびにキシキシと床が音を上げ沈黙する室内に音を与える。

 やがて窓辺まで足を進めた京極はカーテンを少し開け、小さな隙間から外を見つめた。外はとっくに深い闇に包まれて、ひっそりとしている。山の中だからなのだろうか、空を見上げると満面の星たちが煌いている。これで事件が起きなければ良い天体観測日和になっただろう。

「問題は」御子柴は告げる。「メジャーの先端に開いた穴です。穴が開いていればフックに掛けることは可能です。しかし、切れ目があればそうはいきません。白薔薇様はほんの悪戯で切り込みを入れたのかもしれません。それがこのような惨劇を引き起こした。だから責任を感じて自殺未遂をしたんですよ」

「まぁ……」京極が言った。相変わらず視線は外に向けている。「ギリギリ合格かな」

 何が合格なのだろうか。御子柴はわけも分からず黙り込み、外を見る京極に視線を注ぐ。しかし、彼は何も言わない。

 合格というのは先ほど告げた推理が当たっているということなんだろうか。それにしては随分と拙い推理のように思えた。自分は探偵ではないし、本当は白薔薇を救おうとしていたはずなのに、逆に白薔薇を犯人だと確定してしまった。

 いくらショック療法を試みたということが真実だとしても、黒薔薇が死んでしまったら何にもならない。さぞ、白薔薇はショックを受けただろう。まさかこんなことになるとは思ってもみなかったはずだ。メジャーで怪我をすることはありえても、死ぬことは稀なはずである。恐らく、偶然に偶然が重なって今回の不幸を呼んだに違いない。

「事故だったんですよ。きっと」

 静かに御子柴が口を開いた。

 その言葉を聞くなり、京極はようやく窓辺から視線を返し、室内に視線を注いだ。

「事故ねぇ。まぁ確かにその可能性は高いね。白薔薇ちゃんは黒薔薇ちゃんを殺害しようなんて思っていなかった。僕も今回の事件が事故だということには賛成だね。だけど白薔薇ちゃんが黒薔薇ちゃんを死に至らしめたという事実は消えないけど」

 御子柴は苦笑して頷いた。確か京極は犯人が白薔薇だと言っていなかったか? なのに今は事件が故意によるものではなく、事故だと言い切っている。この事は御子柴を大いに混乱させた。

「殺人じゃないんですか? 京極さんはずっと白薔薇様が犯人だって言ってたじゃないですか?」

 京極はにっこりと笑いながら言葉を返した。

「白薔薇ちゃんが犯人だとは言ったよ。だけど、今回の事件が殺人事件だということは言ってない。あくまでその可能性があるって言ったんだ。殺人事件の犯人にしては白薔薇ちゃんは少しか細く見えたからね。それにプロバビリティを狙ったわけでもない。姉妹で殺し合うのなら動機は怨恨という場合が多い。つまり、狂ってるんだ。だから殺したとしてもそれほど精神的なダメージを負っていることが少ない。むしろ逆に清々しいくらいなんだよ。自分が殺人をやったことを隠そうとするし、逃げようともする。だけど白薔薇ちゃんにはそういう傾向がなかったからね」

 御子柴は軽く頷いた。喉は緊張からかカラカラに渇いており、唾を飲み込むことさえ難しい。軽く室内を見渡した後、御子柴は言葉を継いだ。

「京極さんはもしかしたら最初から白薔薇様と黒薔薇様、二人の犯行だと思っていたんではないですか?」

「一卵性の双子は妙なテレパシーみたいなものがあるからねぇ。僕は黒薔薇ちゃんの遺体を見て、もしかしたら二人が事件に関係しているかもしれないと思っていたよ」

「そうですか……。でも、どうやって部屋の中に穴を開けたんでしょうね。蔓田さんたちが気づくかもしれないのに」

「あんな薄い穴じゃ誰も気づかないよ。もしかしたら二人でやったのかもね。物を直したりすることが出来る白薔薇ちゃんなら可能かもしれないし。元々今回の事件はショック療法を行うために計画されたものだった。そう仮定しよう。でもね、ショック療法って何の知識もない個人がやるのって危険なんだよ。ちゃんと専門的な知識を持った医師の指示通り行わないと駄目さ。そうしないと、今回のような最悪の事件を起こすことになる」

 何という悲しい事件なのだろうか。

 夢遊病を治すためにショック療法を行った結果、最悪のことになってしまった。運が悪かったのか。あるいは神の悪戯か。今になっては不幸だったと言うしかないだろう。いくら事故だったとしても白薔薇の罪は消えない。御子柴が悔しそうに歯を噛み締めていると、京極が言った。

「この館は建ててから結構年月が経ってるよね。白薔薇ちゃんのお父さんの話では白薔薇ちゃんと黒薔薇ちゃんが生まれた時に、記念として建てたものらしいよ。つまり二十六年前に建てられた館ということになる。二十六年も経てばところどころ痛みが出てもおかしくはないよ。この家は玄関のトビラ以外リフォームをした跡がないから壁に穴を開けるのはそう難しいことじゃない。ましては五百円玉くらいの厚みの小さく薄い穴だ。毎日少しずつやれば白薔薇ちゃんや黒薔薇ちゃんでも穴を開けることは可能だよ」

「でも……」御子柴が口を開く。「どうしてこんな面倒なことをやったんでしょうかね? ショック療法を行うなら他にも良い手段がありそうなのに」

「そうだね。きっとショック療法を行ってるということを蔓田君や棘丸君、そして花弁ちゃんに気づかれたくなかったんじゃないのかな? それに、メジャーを穴から通せば黒薔薇ちゃん一人でもショック療法を行うことが出来るからね」

 その時だった。突如室内に携帯電話の着信音が鳴り響いた。どこかで聞いたことのあるアニソンの着信音。今時着うたを着信音に設定しているだけで珍しいが、京極は大して動揺した素振りも見せずに大きく出っ張った腹をポンと叩き、電話に出た。

 刑事は四六時中事件について考えなければならないのか。嫌な仕事だなと御子柴は考えた。だが、そんな仕事に少し惹かれていた。京極が電話をしている最中、彼はメジャーを通した穴の場所まで足を進め、小さい穴を眺めた。血痕が付着している小さな穴。

 これだけ小さな穴なのに人を殺すことに一役買ってしまったのである。何という恐ろしいことだろう。

 京極が電話を終える。それを見計らい、御子柴は視線を京極に向ける。

「御子柴ちゃん。白薔薇ちゃんが意識を取り戻したらしいよ。病院に行ってみようか」

「分かりました」

 二人は黒薔薇の館を出て、白薔薇が搬送された病院に向かうことになった。

 真っ黒な闇の中を進むピンク色のポルシェ。この世には痛車というアニメキャラを塗装した車があるが、ピンクのポルシェはそれに匹敵するくらい目立つものだった。それでいて車内にはアニソンが大音量で流れ、事件が起きたという緊張感を削いでいく。

 ハンドルを指でリズミカルに叩きながら、京極はノリノリで運転していく。やがて、山を降り、一般道を走り始める。田舎道だから照明は少なく、辺りを走る車の姿は殆どない。すいすいとポルシェは進み、あっという間に村を抜ける。

 御子柴は助手席の窓から外の景色を見つめた。真っ黒に染まる村。そして遠くに見える山。黒薔薇の館は見えないが、あの山の中で陰惨な事故が起きたと思うとやるせなくなる。

 それに白薔薇に会ったらどう声をかければ良いのであろうか? 笑って話すことは出来そうにない。同時に励ますことだって無理だろう。どう足掻いても黒薔薇を蘇らせる方法はないのである。御子柴は魔術師ではない。ただの旅人である。そんな御子柴は悔しそうに唇を結び、京極の運転姿を見守る。

 当の京極はというと、事件に慣れているのか、鼻歌なんて歌っている。どこまでも余裕綽々だ。そんな京極が羨ましいと思えた。

「京極さん。今回の事件は事故ってことなんですよね?」

 運転している京極は前を見据えたまま口を開いた。

「そうなる可能性が高いだろうね。一応白薔薇ちゃんにも話は聞くし、実況見分にも立ち会ってもらうことになるけど」

「やっぱり白薔薇様は刑務所行きなんでしょうか?」

 その言葉を聞き、京極はようやく眉間にしわを寄せ、事件の最中にいるような難しい顔を浮かべ、

「刑務所行きは免れないだろうね。今回の事件はかなり特殊だ。へんてこなことを行っているからね。事故だということが立証出来れば良いけど。事故だということになれば、傷害罪や殺人が問われることはないよ。普通は執行猶予付きの刑になるだろうね。まぁ一応七年以下の懲役ってことになるけど、どうなるかは現段階では分からないなぁ」

「警察官は辞めなければならないんでしょうか?」

「残念だけどその可能性は高いね。何しろ人が一人死んでしまったんだから」

 白薔薇を待つ運命はそう明るいものではない。それを聞いた御子柴は一層ショックを受け、底なし沼に沈んでいく気分になった。

 村を抜けたポルシェは一〇分ほど一般道をひた走り、隣町まで辿り着いた。都心で見るような大学病院とは言えないが、それなりに大きな病院の前に辿り着く。五階建ての街の総合病院という佇まいである。白塗りの壁にはところどころ汚れが見え、経年の使用を感じさせる。病院の窓からはところどころからカーテン越しに光が漏れている。入院患者がいるのだろう。

 がらがらになった駐車場に車を停め、二人は車を降りる。病院はとっくに診察時間を終えているので、静まり返っていた。表の入り口は既に閉まっており、二人は裏口の方に回り、そこから病院の中に入った。

 裏口付近の喫煙所に板山が座っており、彼は京極が入って来たのを確認するなり直ぐにタバコの火をもみ潰した。そして素早く外に出てくる。

「あ、板山君。白薔薇ちゃんはどこに入院してるの?」

 板山はサッと敬礼するなり答えた。全身からタバコの臭いがする。目は少し窪んでおり全体的に疲れているように見えた。

「最上階の個室です。父親が個室にするように手配したみたいですね」

「流石だね。それじゃ早速行ってみようか。板山君は帰って良いよ。これから書類の作成でしょ。もう事件は解決したからね」

 解決という言葉を聞き、板山は大きく目を見開いた。直立不動に立ったまま、目を瞬いている。それは驚くだろう。

「やはり警部が仰ったように白薔薇さんが犯人だったのですか?」

 京極は自信満々に答えた。

「勿論そうだよ。御子柴君が凄い推理を展開したんだ。君にも見せたかったなぁ。御子柴探偵の超絶推理。まさに推理小説を読んでいるかのようだったよ」

 板山はスッと視線を御子柴に注ぎ、笑みを浮かべた。御子柴は何と言って良いのか分からず、ただ愛想笑いを浮かべる。疲れた一日であったが、事件は終着を迎えようとしている。後少しでこの事件は完全に終わるだろう。

 結局、板山とはそこで別れることになり、白薔薇の病室へ向かうのは御子柴と京極の二人だけとなった。

 夜の病院はひっそりと静まり返っている。電気はついているものの、殆ど人の声がしないので、少しだけ恐怖を感じさせる。聞えるのは二人の歩く靴の音だけだった。

 コツコツと足音を響かせながらエレベーター前まで向かう。エレベーターは直ぐにやって来る。チンという音が鳴り、トビラが開く。あまり大きくない。定員は十人くらいだろう。二人はエレベーターに乗り、五階に向かった。

 五階は一階の診察病棟とは違い、僅かだが音が聞えている。テレビの音や話し声である。やはり入院患者がいるので、患者たちがテレビを見たり、話をしたりしているのだろう。

 白い壁には手すりが付いており、一人の老人が手すりにつかまりながらトイレに行く姿が見えた。京極はエレベーター前にあるナースステーションに行き、警察手帳を見せ、何やら話した後、白薔薇の部屋を聞き出したようである。

「白薔薇ちゃんは一番奥の部屋にいるんだって。行ってみようか」

 あっけらかんと言い、京極はスタスタと廊下を歩いて行く。その後に御子柴が続く。白薔薇が入院されている部屋は直ぐに分かった。京極が引き戸をノックすると、中から「どうぞ」という声が聞えた。白薔薇の父の声である。京極は引き戸を開け室内に入る。勿論御子柴も続く。

 個室というだけあって室内は広々としている。白い清潔な壁に中央にはベッドがある。その横には液晶テレビが置いてあり、入り口の対面には大きな窓が設置されている。部屋の広さはおよそ一〇畳。部屋には見舞い客が寝泊り出来るように三人がけのソファーが置いてある。それにトイレや洗面所もあるようだ。

 御子柴は病室に入るなり、白薔薇に視線を注いだ。てっきりベッドの上に寝ているからと思ったが、可動式のベッドの背もたれを起こし、ぼんやりと御子柴と京極の姿を見据える。右腕には点滴の針が差し込まれ、どことなく痛々しい。首元には軽く包帯が巻かれている。もしかしたらメジャーで切ったのかもしれない。表情は死人のように白く、全体的に生気を感じられない。

 パイプ椅子に座っていた白薔薇の父がゆっくりと立ち上がり、京極と御子柴に目を向けた。白薔薇の父も疲れているようである。目は窪み鬱屈としている。白薔薇の父は京極の姿を見るなり軽く会釈をし、次に御子柴に視線を送った。てっきり睨まれると覚悟した御子柴であったが、そんなことにはならなかった。

 室内には緊張が走るが、それを京極がいつもの楽観的な声で破った。

「白薔薇ちゃん。久しぶり。良かったね。目を覚まして」

 なかなか白薔薇は反応しない。ただ視線を注ぐだけで彫刻のように固まっている。しかし、数秒の間が流れた後、突然白薔薇がガタガタと体を震わせ始めた。そしてほっそりとした両腕で顔を覆い、しくしくと泣き始めた。

「わ、私はなんてことをしてしまったのかしら……」

 心の底から悔いるような声。

 その声を聞いた白薔薇の父は糸の切れた人形のようにストンとパイプ椅子に座り込んだ。パイプ椅子の「ミシッ」という音が聞え、室内は白薔薇の泣き声に包まれた。京極はというと空気を読まないのか、あえて読んでいないのかよく分からないが、ポケットからキャラメルを取り出しそれをぺろぺろと舐め始め、

「白薔薇ちゃん。すべては分かってるよ。僕らはもう謎を解いたんだ」

 手で顔面を覆っていた白薔薇はふと顔を上げ、潤んだ瞳を京極に向けた。そして涙ながらに言った。

「こんなことになるとは思わなかったんです。でも私は黒薔薇を殺してしまった。もう黒薔薇は元には戻りません。私も後を追い自殺しようとしたのですが、このように生き残ってしまいました」

「自殺はいけないことだよ」京極が言った。「どんなことがあっても死んじゃ駄目さ。君は確かに黒薔薇ちゃんを殺してしまったかもしれない。だけど、僕らはそれが故意ではなく事故であるということも見抜いている。御子柴君が推理したんだよ。君にも聞かせてあげるよ」

 そう言うと、京極は御子柴の肩をポンと叩いた。推理を聞かせるというのは、黒薔薇の館で話したとことをここでもう一度話せば良いということなのだろうか。御子柴は真剣な顔のまま口を開いた。

「白薔薇様。これから僕が推理したことをお話します。聞いてください」

 それから御子柴は黒薔薇の館で話したことと寸分も変わりないことを白薔薇に聞かせた。白薔薇は姿勢を前傾にさせ、緊張の面持ちで話を聞いていた。話すにつれて白薔薇の目が大きく見開かれていく。

 御子柴の推理は三十分ほどで終わった。話を聞いていた白薔薇の父は呆然としている。推理が終わった後、白薔薇はゆっくりと口を開いた。

「み、御子柴、あなたは探偵だったの?」

 ディアストーカーを脱ぎ、金田一耕介のように後頭部を掻き毟った御子柴は、恥ずかしそうに首を動かし、

「すべてが僕の推理ではありません。京極さんにも手伝ってもらったんです」

「そう。あなたの言うことは当たっているわ。警部さん。事故とはいえ、白薔薇の命を奪ってしまいました。責任はすべて私にあります」

 はっきりとした口調だった。京極はキャラメルを舐めながら、顎と首が一体化した部分を縦に動かし、

「動機、つまりメジャーを使って黒薔薇ちゃんの夢遊病を治そうとしたきっかけは何なの?」

「きっかけは黒薔薇が一度、眠ったまま館の外に出てしまったことでした。御子柴、あなたも知ってるわね?」

 問われた御子柴は記憶を巡らせ、

「はい、確か棘丸さんが散歩の際に館の鍵を閉め忘れてしまい、その隙に黒薔薇様が外に出て怪我をされたということですね」

 と、御子柴は答えた。

「そうよ。あれがきっかけ、あの件があり、棘丸は蔓田や花弁にきつくお灸を据えられたの。その姿を見た黒薔薇は自分の病気の所為で棘丸に迷惑をかけてしまったと考えたのよ。それでショック療法を行うということを思いついたの」

「お医者さんに診せたとも聞きました。その時に良いアドバイスはなかったんですか?」

「勿論診せたわ。お父様が腕利きの精神科医を何度も紹介した。でも結局治らなかった。夢遊病には特効薬がないのよ。どの医者も睡眠薬を処方したり、リラックス出来る抗鬱剤を処方したりするだけで、決して病気が治るということはなかったの。もともと夢遊病はそれほど神経質になる病気ではないようだから、どの医者もそれほど真剣に考えてはいなかったようなの。でも黒薔薇は自分の病気を治したいと考えていた」

 そこまで言うと、白薔薇は大きく息を吸い込み、それを少しずつ吐き出した。その後視線を御子柴から外し、窓をチラと見た後、言葉を続けた。

「黒薔薇が考えたのはショック療法を行うということ。夢遊病が危ないということが分かればそれがきっかけで病気が治ると考えたわけね。事実、精神病ではショック療法を使うことが多々あるわ。黒薔薇は何かの本でそれを読んだのよ。館にもそんな本があるし。それで私に相談を持ちかけた。相談内容は凄い鬼気迫るものだったわ。例えば自分が夢遊病で徘徊し始めたら、思い切り引っ叩いて欲しいとか、部屋のベッドに自分をぐるぐる巻きにしてくれだとか。だから私は提案したの。部屋にロープなどを張り、夢遊病で動き出したらそれに引っかかる仕組みを使ったらどうかってね」

 白薔薇はそう言った後、ゆっくりと嘆息しがっくりとうなだれた。僅かだが鼻をすする音が聞えてくる。

 話を聞いた御子柴は質問を飛ばした。

「でも、どうして金属のメジャーなんかを使おうと思ったんですか? どう考えても危険ですよ」

「そうね。確かに危険よ。でも最初は薄っぺらい刃物を使おうとしていたのよ。危険であればあるほどショック療法の効果があると黒薔薇は信じていたわ。余程自分の夢遊病を治したかったに違いない。一応、茎村のところへ行き、薄っぺらい刃物が作れるかどうか聞いてみたけど駄目だった。その代わりに金属製のメジャーにしたのよ。メジャーなら刃物とは違い安全だと思ったから。それに、フックに引っ掛けるために先端に穴を開けたのよ。これならフックに安定して引っ掛けることが出来るからね」

 しかし、その金属帯のメジャーが最終的には黒薔薇の命を奪う凶器になってしまったのだ。

「鍵はどうして複製したんですか?」

 御子柴が問うと、直ぐに白薔薇は答える。

「黒薔薇には内緒にしていたけど、心配だったからあたしも一本鍵を持っておくことにしたの。棘丸に頼むもの変な話しだし」

「じゃあXというのも……」

「Xの正体はあたし。メジャーを回収しようとしたら、井戸の中に落ちてしまったの。慌ててたから長靴を履き間違えてしまったみたいだけど、一応メジャーを回収しておかないと黒薔薇が何を言うか分からないから。梯子も使い慣れてるからスムーズに持ち運び出来たわ」

 そう言い、白薔薇は一旦言葉を切り、スッと目を閉じた。

 数秒の間があった後、目を見開き話を続けた。

「昨日の夜、黒薔薇の部屋へ行き、実際にメジャーの仕掛けを試すことにしたの。あたしが今日ここに来たことを黒薔薇は不満そうに文句を言ったわ。それで、あたしの中でちょっとした悪戯心が湧いたの。先端の穴に切り込みを入れて、黒薔薇をびっくりさせようと思ったのよ。お互い悪戯をし合うから、お互い様だと思ったし。最初はね、黒薔薇が首を裂かれたなんて分からなかった。回収したメジャーはそのまま机の上に置いていたの。薄暗かったから血痕も見にくかったし。そして、あなたたちと共に黒薔薇の変わり果てた姿を発見し、その後、メジャーを確認したわ。そうしたら物凄い量の血が付いていたの。それでとんでもないことをしてしまったと悟った。だけど、どうして良いのか分からなかった。そのまま何も出来ぬまま、一夜を過ごすことになったのよ。本当なら早く言わなければならないことだったけど、警察官というプライドがそれを許さなかった。死んで償わなきゃって思ってたから、捕まるのは避けたかったの……。後は御子柴、あなたが推理した通りよ。いずれにしても私は罪を犯してしまった。死ぬことが出来なかったのは、神様が罪を償えと言ってるのよ」

「でも、どうして昨日を選んだんですか? 僕がやって来て、館の中はいつもと違う雰囲気だったはずです」

「それはね、あなたが来たからよ。以前、この村で旅人が殺人を犯した事件は聞いたでしょ。だから、普通ならあなたを泊めることはしないわ。でも黒薔薇はそう考えてはいなかった。むしろチャンスだと察したのよ」

「チャンスですか?」

「ええ。ショック療法を行うチャンス。もし、何かあってもあなたに罪を着せることが出来る。黒薔薇は執事やメイドたちに責任を負わせることはしたくないと言っていたから。あなたには悪いけど、あなたは生贄として黒薔薇に選ばれたのよ。黒薔薇の悪戯心が出たってことね。でもそれじゃあまりにあなたが可哀想だから逃げるチャンスを与えたの。事件が起きた夜。執事やメイドのコーヒーに睡眠薬を入れてね」

「だからあの夜、蔓田さん、花弁さん、棘丸さんは眠り込んでしまったのですね。そういえば、コーヒーを淹れたのも白薔薇様でした。でも、睡眠薬なんてどこで?」

「簡単よ。黒薔薇は日常的に睡眠薬を服用していた。きっと遺体からも検出されたはずよ。それを少し貰ったのよ。そしてコーヒーに混ぜたというわけ。これがすべてかしらね」

 白薔薇がそう言うと、室内はしんと静まり返った。どう足掻いても白薔薇の罪は消えないし、黒薔薇は蘇ることはない。

 それに御子柴自身を泊めた理由も分かった。罪を擦り付けるためだったのだ。そうでなければ不気味な存在である旅人を泊めることはしないだろう。いくら崇拝されている黒薔薇であっても。

「警部さん……」不意に白薔薇の父が言った。「今回の事件、何とかなりませんか? 事故だったんです。金ならいくらでも払いますから。そ、その、事件をなかったことには出来ませんかね」

 白薔薇の父の額には脂汗が大量に浮かび上がっている。それが照明に照らされてきらきらと光っている。

 しかし凄まじいことを言い出すものだ。金をやるから事件をもみ消してくれ。京極の話では白薔薇は警察に捕まるとのことだった。七年以下の懲役の可能性が高いそうだが、執行猶予が付くのである。服役もそれほど長期になることはないだろう。但し、警察は辞職しなければならなくなるだろうが……。

 当の白薔薇はというと、目を大きく見開きながら父親のことを見守っている。そんなことを言うのは意外だという顔だ。話によれば白薔薇の父は優秀な黒薔薇を優遇し、出来の悪い白薔薇を冷遇していたらしい。だからこそ、白薔薇を守ろうとする父親の姿が意外に見えたのだろう。否、冷遇していたというのも白薔薇の想像かもしれない。親が子を守ろうとするのは当たり前の行為だ。御子柴が白薔薇に会いに来たとき、父親は激怒していたではないか。それは白薔薇を愛している証拠だと思えた。

 さて、京極はというと相変わらずキャラメルを舐めたまま、にっこりと笑っている。その笑顔はどことなく不気味だ。京極はチラッと父を一瞥し、

「ちなみにさ、いくら積むつもりなのさ?」

「言い値で構いません。それで白薔薇が助かるのなら」

「じゃあ百億万円頂戴よ」

 エヘヘと舌を出しながら京極は言った。

 百億万円っていうのは果たして正しい日本語なのであろうか。白薔薇の父は口をだらしなく開け、唖然としている。京極という人物は賄賂が通じる相手なのかさっぱり分からない。

「お父さん……」京極は言った。「僕は金で買収出来ないよ。だって僕はお金を沢山持ってるもん。これ以上あったって使いきれない。むしろ邪魔になるだけだよ。それにね、白薔薇ちゃんは罪を償わなければ駄目さ。それが事件を引き起こした者の宿命だからね」

 京極はさらりと言った。その口調を聞く限り、全く迷いが見えない。そんな姿を見て、初めて御子柴は京極を見直した。この人は刑事の鑑だ。そんな風に思えた。

「し、しかし……」白薔薇の父は引き下がらない。娘を何とかして守りたいという思いが感じ取れる。そんな中、白薔薇が口を開いた。

「お父様、止めてください。そんな買収は我が一家の恥ですよ。それにあたしは黒薔薇のように優秀ではありません。あたしのことなんかいつものように冷遇されれば良いじゃないですか?」

「冷遇などしておらん!」白薔薇の父は叫んだ。「どうしてそんなことを言うのだ?」

「あたしは高卒で警察官に入ることになりました。警官になったときも大反対されましたよね。お父様が用意した大学だって行きませんでしたし、隣町の方と結婚するという話も辞退しました。黒薔薇は悠々と大学へ行き、ずっと働きもせず自適に暮らしていたのに……。あたしだけが辛い目に」

 白薔薇の目に涙が浮かぶ。白薔薇の父はそれを見て、白薔薇のベッドに近寄り、肩を掴んだ。

「わ、私はお前に幸せになってもらいたかった。お前と黒薔薇は違う。黒薔薇が大学へ進み、お前は警察官になった。だが、警官は危険だし、長時間勤務だ。話では刑事を目指していると聞いた。そんな危ない職業には就けたくない。早く良い相手を見つけて落ち着いて生活してもらいたかったんだ」

「そ、そんな……。で、でも、黒薔薇には山の館をお与えになったではありませんか」

「お前が結婚した暁には、隣町に家をプレゼントしようと計画していたんだ。お前を驚かすために隠してはいたが……」

「それじゃあ、すべてはあたしの勘違いなんですか? そ、そんなことって」

「否、お前の所為ではない。私が悪い。私は感情を伝えるのが苦手だ。特に娘にはどう接して良いのか分からなかった。その所為で随分冷たい印象を与えてしまったのかもしれん。すまない。本来なら私が罪を償うべきだ。刑事さん。白薔薇の代わりに私を捕らえて下さい」

 涙ながらに語る白薔薇の父。しかし、その言葉を京極は聞かずにスッと白薔薇のことを見つめた。

「お父さん。白薔薇ちゃんを見てごらんよ。しっかりとした良い瞳をしてる。罪をキチンと償う者が見せる瞳だよ。僕はずっと刑事をしてるから、罪人がどんな目をしているかでその後の様子が分かる。白薔薇ちゃんは大丈夫。きっと罪を償うから」

「そうです! 私はキチンと罪を償います。それが私の取る道なのですから」

 と、白薔薇は真っ白いシーツの端をギュッと握り締めながら言った。そう、罪は償わなければならない。その言葉聞いた京極は観音菩薩の如くにっこりと微笑んだ。

「さて、話は終わりだよ」京極は言った。「白薔薇ちゃん。明日には退院出来そうなの?」

「はい。そうなりそうです、傷もそんなに酷くはありませんから……。それにもう死ぬつもりもありません。私は罪を償うという道を取ることに決めたのです」

「分かった。その言葉を信じるね。それじゃまた明日来るよ。御子柴君。この通り話は終わりだよ。事件は解決したんだ」

 事件は確かに解決した。だが心に巣食うこの耐え難い感情は一体何なのだろうか。黒薔薇は死に、白薔薇は捕まる。メジャーというありふれた工具を使い、まるで推理小説のようにして行われたショック療法。すべてが現実のことではないように思えた。

 今まで旅をして来て、一番堪えた一日である。

 病室を出て、京極と御子柴は誰もいないエレベーターに乗った。エレベーター内で御子柴は尋ねた。

「京極さん。白薔薇様をあのままにして良いんですか? 一応自殺未遂をされた方なんですよ」

「医師や看護師に注意するように言ってあるよ。それに君だって白薔薇ちゃんの決意を見たでしょ。白薔薇ちゃんはもう大丈夫。後は罪を償うだけさ。心に負った傷は決して消えないけど、白薔薇ちゃんは牢として罪を償うはずだよ」

 御子柴はその日、白薔薇の屋敷で泊まることになった。夜遅く、白薔薇の父が帰って来て、部屋を貸してくれたのである。白薔薇の母が未だに気を失っているので、病院から急いで帰って来たそうだ。彼の表情も疲れきっている。これから来るであろう苦難に耐えることが出来るのだろうか? と御子柴は不安になった。

 あてがわれた部屋は八畳ほどの洋室。白薔薇が言っていたゲストルームだ。部屋の対面に大きな窓があり、その前に堅牢な木製のベッドが置いてある。また、天井から小さいシャンデリアがぶら下がっており、御子柴を虚しく照らし出している。左右の壁に置かれている家具も良いものだろう。使い込まれて存在感があった。

 御子柴は着ていた服を白薔薇の父に返し、元の風来坊の姿に戻った。擦り切れたデニムに、くったりとしたネルシャツ。いつもの姿である。御子柴はベッドの上に横になり、今までの事件を反芻し始めた。まさか自分が、人が死ぬような事件に遭遇するとは思ってもみなかった。推理小説ではよく事件が起きるが、実際に経験すると読むでは全く重みが違う。辛いことだ。

 てっきり眠れずに夜を過ごすことになると思っていたが、そんなことにはならなかった。やはり疲れていたのである。今日一日は色々あり過ぎた。黒薔薇が死に、そして取調べを受け、さらには村人たちから犯人であると誤解され、追い掛け回されることになった。おまけに推理をする羽目にも……。

 御子柴はゆっくりと目を閉じ、静かに眠りに就いた。

 翌日――。

 目が覚めると、カーテンの隙間から日差しが差し込んでいるのが分かった。御子柴の顔面をきらきらと照らし出し、かなり眩しい。

 体を起こし、大きく伸びをする。昨日の疲れはあったが、そんなに体は重くない。昨日は十時前には就寝したはずである。御子柴はベッドから立ち上がり、デニムのポケットから懐中時計を取り出した。

 時刻は七時を少し回ったところであった。

 事件は終わったのだ。もうこの村にも用はなくなった。御子柴はお礼を言うために白薔薇の父の許へ向かった。

 後日談を紹介しておくと、白薔薇は予定通り、警察に拘束され、尋問を受けることになったようだ。鑑識の調査や、尋問の結果、事件は殺人事件ではなく、事故として扱われることになった。そのため、白薔薇は執行猶予三年、懲役一年という短い罰を受けることになったのである。

 この事はあっという間に村中に広まり、様々な議論を巻き起こすことになる。勿論、蔓田や棘丸、花弁もこの事実を聞いた。彼らは主を失い、行く場所を失ったかのように思えたが、白薔薇の父の恩遇により、これまでどおり黒薔薇の館に住むことが決まったようである。館を放っておくと、直ぐに廃墟のようになってしまうため、それを防ぐための配慮のようだ。それと同時に、白薔薇が戻って来たときの住居として、黒薔薇の館は使われるようである。それも大々的にリフォームをして。主を一時的に失った館であるが、三人の執事やメイドが今も新しい主の帰還を待っている。

 さて、この物語の主人公、御子柴はどうなったかというと、旅を続行することにはならなかった。彼は今回の事件を受け、自分が行くべき道を見つけたようである。つまり、御子柴は自分探しという旅を終えたのだ。しばらくは資金を貯めるために工事現場のアルバイトに就くことになったが、それが終わったら起業しようと考えているようだ。

 勿論、彼が思い描いていることは探偵になることだ。今回の事件を通し、御子柴は探偵として生きて行く道を選んだのである。

 いつの日かまた、探偵のとして事件に遭遇する日がやって来るかもしれない。御子柴はやがて来る未来を想像しながら、工事現場のシャベルを振り下ろした――。

〈了〉

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