黒薔薇の館
リビングへ行くと、二人いた刑事が白薔薇に気づき、軽く会釈をした。そして徐に空気を察し、室内から出て行った。窓辺からはパトカーの赤い光が見え、館の周りに警官たちが警備に当たっていることが容易に想像出来た。御子柴と白薔薇は二人きりになる。白薔薇は席に座るように促し、御子柴は椅子に座った。それを見るなり、白薔薇は御子柴の対面に座り込んだ。
「御子柴。あなたどうするつもり?」
どうすると言われても困る。逃げ出すつもりはないのだから。御子柴が黙り込んでいるのを見ると、白薔薇が続けて言った。
「あなた犯人にされるわよ」
「どういうことですか?」
「警察が来れば直ぐに捜査される。今のところ一番怪しいのはあなたなのだから」
「僕が怪しいのは分かります。でも僕にはアリバイがあるんですよ。黒薔薇が亡くなったであろう時刻、僕は花弁さんと喋っていましたし、それにその後棘丸さんと共に外に出ていました」
「そんなのはアリバイとは言えないわ。警察というところは証拠がなければ作り上げてしまう場所よ。一番怪しいあなたをとりあえず捕まえ、その後尋問によって無理矢理犯人であることを認めさせてしまう。そうなればあなたは犯人にされてしまう」
流浪の旅人である御子柴も警察の捜査がかなり強引だということは聞いたことがある。
「逃げなさいよ。今なら執事やメイドも寝てるからチャンスよ。あたしの部屋に荷物が置きっぱなしよね。それを取って来てさっさと行きなさい」
「どうしてそんなことを言うんですか? 白薔薇様は僕のことを犯人じゃないと思ってくれているんですね。でなければ逃げろなんて言いませんものね」
御子柴がそう言うと、白薔薇は照れ笑いを浮かべた。
「黒薔薇はね……」白薔薇は言った。「働きもせず、悠然と毎日暮らしていたわ。蔓田や花弁が言うとおり、村人の手伝いをして日々の生活を送っていた。勿論ボランティアだからお金は貰えないわよ。村人から農作物の分け前を貰うとはいっても高が知れている。それだけじゃ生活は立てられないわ。だから実家のお父様やお母様に頼んで仕送りを貰っていた。その仕送りを蔓田、棘丸、花弁の給与にして残った分を食費や生活費に回していたのよ」
「三人分の給与を払ってなおも食費や生活費が残るなんて、かなりの高額の仕送りを得ていたんですね」
「そりゃそうよ。お父様やお母様は黒薔薇には甘いからね。まぁそれは仕方のないこと。黒薔薇のほうが頭も良いし、人当たりだって良い。あたしと黒薔薇は似ているけれど、中身は全く違うもの、黒薔薇は崇拝されて、あたしはお巡りさんとして生活している。雲泥の違いよ」
「でも白薔薇様は文句を言わずに働いているじゃないですか。なかなか出来ることじゃありませんよ」
「そうかしら、働くのは当たり前だと思っているけど。御子柴、今回の事件の犯人は誰だと思う?」
唐突に白薔薇は尋ねた。犯人は誰かと言われても分からない。御子柴は顔を曇らせ、
「さぁ。全く見当もつきませんね。僕はただの旅人ですから」
「探偵小説をよく読むくせに、推理の方はさっぱりなのかしら」
「そりゃそうですよ。興味はあるんですけど。でも、それにしても妙ですね」
御子柴は目を擦りながら言った。白薔薇は顔を歪めながら答える。
「妙? 何のことを言ってるの?」
「蔓田さんや棘丸さん、それに花弁さんのことですよ」
「彼らがどうかしたの」
「おかしいと思いませんか? 黒薔薇様という崇拝されていた人物が亡くなったんですよ。それなのに執事やメイドはぐうすか寝ている。これほど妙なことはありませんよ」
「そうかしらね。探偵小説では当たり前よ。皆殺人が起きても寝るときは寝るし、場合によっては警察に連絡しない場合もある。それに比べればあたしたちのとった行動は現実感に満ち溢れているわ」
「まぁそれはそうなんですけど。蔓田さんは僕が逃げないように一晩見張ると言っていたんです。白薔薇様のように眠らずに黒薔薇様のところへ行き、涙を見せるというのが一般的だと思うのですが」
白薔薇は自分のことを言われ、顔を赤くした。黒薔薇の部屋で泣いていたところを見られたのが余程恥ずかしかったのだろうか。しかし、御子柴の言うとおり、白薔薇の行動は正しい。実の妹が何者かによって殺された可能性があるのだ。悲しまない方がおかしい。
一体、誰がこんなことをしたのだろうか? 白薔薇は「誰が犯人か?」ということを尋ねてきた。夜な夜な館にやって来て、誰にも見つからないように、速やかに黒薔薇の首を切り裂く。それが正しければ、まるで魔法のような行動だ。
棘丸が見たとされるXは村人なのか? それともこの館にいる誰かなのか? 御子柴は顔を曇らせながら考えていたが、一向に答えは出なかった。頭が霞がかったように重く、ぼんやりとしている。
しばらく経ち時刻を確認すると、午前五時を回ったところであった。黒いカーテンがかかっているため、外の様子は分からないが、まだ薄暗い闇に包まれているだろう。刑事は何時頃やって来るのだろうか。
「御子柴、最後のチャンスよ。逃げなさい。周りにいる警官たちはあたしが上手く気を逸らすから」
と、白薔薇は言った。きっぱりとした口調である。
「どうしてそこまで僕のことを思ってくれるんですか?」
その問いに、白薔薇はグッと言葉を詰まらせた。数秒の間が開いた後、白薔薇は答える。
「このままだとあなたが捕まるかもしれないと思うからよ。蔓田が言うとおり、今回の事件で一番怪しいのはあなたよ。流浪の旅人で住所不定、それでいて仕事もしていない。ただ思うがままに旅をして生活している。こんな怪しい人物って他にないわ」
このまま警察がやってくれば一番疑われるのは御子柴であろう。それは理解出来た。しかし、だからといって逃げることは出来ない。逃げれば自分が犯人であると認めることになるからだ。
御子柴が何も言わずに黙り込んでいると、二階から慌しい音が聞えた。ドスドスと地団駄を踏む音である。白薔薇も御子柴もその音に耳を澄ませた。やがて音は大きくなり、一階に向かって来る。そして、リビングのトビラが乱暴に開けられる。
トビラの前には酷い寝癖の蔓田の姿があった。顔は蒼白だが、リビング内にいる御子柴の姿を見てホッと安堵しているようでもある。
「御子柴。ここにいたのか。それに白薔薇様も」
蔓田の姿を見た白薔薇は、やれやれとため息をついた後、言った。
「どうしたの、騒がしい」
「も、申し訳ありません。ただ、御子柴を見張ろうとしていたにもかかわらず眠ってしまいまして、先ほど起きたところ御子柴の姿がなくなっていたので、逃げ出したと思ったのですが、その心配はなかったようですね」
その言葉を聞いた御子柴はムッと顔を膨らませ、
「僕は逃げませんよ。ただ、早朝早く起きてしまったので、リビングにやって来ただけです」
三人の間に緊張が走る。
それを感じた白薔薇はゆっくりと立ち上がり、カーテンをサッと開いた。薄暗い闇が目の前一杯に広がる。
「もう直ぐ太陽も昇るでしょう。そうすれば明るくなるわ」
誰に言うでもなく、白薔薇は言った。蔓田も御子柴も黙って外の風景を眺めた。薄暗い闇の中、山の木々が広がって見える。ぽつんと村から離れた場所に建つ館。そこで起きた不可解な事件。これではまるで探偵小説のようではないか。御子柴はそう考えていると、沈黙を蔓田が破った。
「しかし妙ですな。私だけでなく棘丸も花弁も眠っています。黒薔薇様が殺されたというのに、執事やメイドがこの体たらくでは身も蓋もありません」
「そうかしらね」白薔薇が言う。「余程疲れていたんでしょう。事件が起きたからこそ体力は温存しておかなければならないわ」
「そうですが、棘丸も花弁も未だに眠っているんですよ。棘丸はともかく、花弁まで眠っているとは……、こんな不可解なことはありませんよ」
御子柴と同じことを考える蔓田。
やはり、黒薔薇の死という異様な事態になったというのに、ぐうすか眠っているというのは通常の考え方からいっても疑問である。普通は緊張や恐怖から眠れなくなるのが当たり前であろう。何しろ、一階には主である黒薔薇の遺体があるのだ。そんな遺体を前にしてあっさりと眠ってしまうのはおかしいことこの上ない。
「白薔薇様。御子柴のことを見張っていてください。私は棘丸と花弁を起こしてきます」
すると、花弁は切れ長の目を細めながら、
「そんなに慌てることはないわよ。時刻を見てみなさいよ。まだ五時よ。もう少し寝かせておいても良いじゃないの」
「しかし、朝早くに県警の刑事がやって来るんですよ。そんなに悠長なことは言っていられませんよ」
蔓田はそう言うと顔をぱちんと叩き、白薔薇の言うことも聞かずに二階に向かって行った。蔓田が消えると、当然であるがリビング内には白薔薇と御子柴だけになる。
しばらくの間静寂が流れるが、白薔薇が御子柴に視線を合わせてくる。その視線に当然御子柴も気がついた。
「何かついてますか?」
と、御子柴が言うと、白薔薇は真剣な瞳を向け、
「あなたは千載一遇のチャンスを見逃したのよ。全く何をやっているのか」
「どうしてそこまで僕のことを思ってくれるんですか? 非常にありがたいことですけど変ですよ」
「言ったでしょ。あたしはあなたが捕まるのを見るが嫌なだけよ」
「白薔薇様は僕が無実だと思ってくれているんですか?」
白薔薇はしばし黙り込んだ。二階からは慌しい音が聞えてくる。蔓田が棘丸や花弁を起こしているのだろう。
「あたしは……」白薔薇は言った。「あなたが犯人であるかは分からないわ。でも、偶然この村にやって来たあなたが全く知らない黒薔薇のことを殺害するとは思えない。だからといって、蔓田や棘丸、花弁がこんなことをするとも考えられないけど」
「消去法で言えば残された人物は白薔薇様と棘丸さんが見たXということになりますよね。白薔薇様は黒薔薇様のお姉さんです。普通に考えれば妹を殺害したりはしないでしょう。となると、犯人はXということになります。Xは今もどこかに潜んでいるかもしれません」
「黒薔薇の部屋へ行き、速やかに黒薔薇を殺し、部屋を密室にして魔法のように消える。そんなことを村人が出来るとは思えないけどね」
やがて、二階から蔓田と棘丸、花弁がやって来た。棘丸と花弁はとても眠そうで、薄っすらと開いた目をこしこしと擦っている。
「お目覚めかしら?」
と、白薔薇が言った。
「はい。眠るつもりはなかったんですか、眠ってしまいました」
棘丸が答える。目は眠そうで赤く充血している。
「まだ五時を少し回ったところよ。眠っていれば良いのに、ホントにあなたたちはせっかちね」
次に答えたのは花弁だった。彼女の目も眠そうである。必死に眠気に耐えながら、花弁は言った。
「白薔薇様と御子柴様はずっと起きていらしたんですか?」
その問いに白薔薇が答える。
「ずっとというわけじゃない。あたしだって三時間ほど寝たわよ。だけど眠れなくてね。それで起きたのよ。御子柴もついさっき起きて来たわ。それほど時間が経ってるわけじゃない」
花弁の視線が御子柴に注がれる。
「す、すいません。あたしここのメイドなのに……」
「いえ」御子柴がはにかんだ笑顔を浮かべ、「別に構いませんよ」
時間が刻一刻と流れる。
午前七時には警官たちが立会いの下、朝食を五人で摂った。白薔薇が警官たちに朝食を摂るかどうか聞いたが、彼らは首を縦には振らなかった。
朝食はとろけるチーズが乗ったトーストと、昨日のパンプキンスープの残り、それに細切りのキャベツサラダであった。皆食欲はなく、箸は進まない。
朝食を終え、蔓田、花弁、棘丸が片づけを始めている頃、玄関のトビラがノックされた。その音に、リビング内に一斉に緊張が走る。
「誰かしら。まぁ分かってはいるけど」
呟くように言った白薔薇が席を立ち、玄関の方に向かって行く。御子柴もその後に続く。
ようやく界隈は明るくなり、電気をつける必要がなくなった。外から差し込む柔らかい日差しが、事件が起きた館の中を照らし出している。外はガヤガヤと騒がしい。
時刻は午前八時。玄関のトビラを開けると、真ん丸く太った背の小さい人物が立っているのが見えた。背が低いのにロング丈のベージュ色のコートを着ているものだから、コートが動いているように見える。でっぷりと出たお腹。高そうな先が尖った靴。今にもボタンが飛びそうなシャツ。何もかもが似合わない。一体、こいつは誰だ? 白薔薇と御子柴が考えていると、小太りの人物がコートにポケットに手を入れて、その中から警察手帳を取り出した。
「やっほー。待たせて御免ね」
甲高い小学生のような声。
白薔薇も御子柴も唖然としていると、それを見た太った人物が警察手帳を開いた。
「僕は京極勉。県警の刑事だよ。階級は警部。エヘヘ、偉いんだぞ。ええと、なんでも村一番の富豪の娘さんが亡くなられたって話だよね。それに殺人かもしれないんでしょ。びっくりだよねぇ。でも安心してよ。僕が来たからには直ぐに事件を解決するから」
京極と名乗る刑事はぺらぺらとそう説明した。しかし、よく分からない刑事である。本当に県警の派遣した刑事なのであろうか? 白薔薇と御子柴が眉根を寄せながら見つめ合っていると、京極の後ろから、五十歳くらいの女性と男性が現れた。
「白薔薇! 一体どういうことなの?」
ヒステリックに叫ぶ女性。フリルのついたジャケットにロングスカートを穿いている。かなり若作りをした女性だ。その後ろには英国紳士のようにグレーのスリーピースをビシッと着た初老の男性が立っている。
それに対し、白薔薇は驚いた表情を浮かべている。
「お、お母様、それにお父様も……どうして?」
搾り出すように言う白薔薇。
どうやら白薔薇、黒薔薇姉妹の両親が事件を聞きつけやって来たようである。白薔薇は事件に夢中で両親に連絡するのを忘れていたが、そうなると誰が事件のことを教えたのだろうか。御子柴が思案していると、京極がぼりぼりと坊ちゃん刈りの頭を掻き毟りながら、
「僕が伝えたんだ。多分、知らないと思ってね。とりあえず現場に行こうか。案内してよ」
結局、京極らはつかつかと館の中に入って来た。仕方なく、白薔薇は皆を黒薔薇の部屋まで案内する。リビングの脇を通り抜けると、警察が来たことを察した蔓田、花弁、棘丸が後に続く。
「ここです」
白薔薇はそう言い、ゆっくりと部屋のトビラを開けた。
トビラの向こうは昨日と殆ど変わっていない。床には大量の血があり、その上に黒薔薇が眠るように倒れている。黒い部屋には僅かながら外から日が差し込み、薄っすらとした光が狭い室内を包み込んでいた。
「こりゃ酷いね」
京極はそう言うなりドスドスと部屋の中に足を踏み入れた。京極の後ろにはその他の刑事と、黒薔薇の両親の姿がある。
「黒薔薇!」
母親が前に飛び出し、変わり果てた黒薔薇の姿を見つめ、よろよろと倒れた。それを父親が支える。母親は狂ったように泣きながら、倒れている黒薔薇のところへ近づこうとした。
しかし、それを京極が制した。
「お~い。板山君。このお二人を外までお連れして、ショックを受けているから丁重に扱うんだよ」
と、京極が言うと、ドアの前で立ち尽くしていた痩身の男が前に出て、黒薔薇の父と、母を一旦外に退席させた。その姿を白薔薇が真っ青な顔で眺めている。握り拳を作り、それを固く握り締め小刻みに震える。
両親が出て行ったことを確認した京極は黒薔薇の遺体を見下ろし、再び、声を発した。
「よ~し。捜査を開始するよ。ちゃっちゃっと始めちゃって」
その声に一斉に刑事や鑑識などの人物が部屋に入って来て捜査を始めた。慌しくなる黒薔薇の部屋。そして無言で立ち尽くす白薔薇と御子柴。
現場は騒がしくなり、写真を撮る音や刑事が歩く音でごちゃごちゃになった。すると、それを見ていた京極がニヤッと笑みを浮かべて声を発した。
「僕らは一旦別室へ行こうか。そこで話も聞きたいし」
「え、京極さんは捜査しないんですか?」
堪らず白薔薇が尋ねる。
その言葉を聞いた京極は「エヘヘ」と白い端正に揃った歯をむき出しにして、
「僕は今日来た中で一番偉いからね。部下に命令するだけだよ。調べてもらったら話は聞くから安心して。第一、事件現場って血が凄いしね。万が一シャツやコートに血痕が付着するとなかなか取れないし、なんか嫌じゃない。僕はね、安楽椅子探偵型の刑事なんだ」
「は、はぁそうなんですか……」
捜査をしない刑事の存在を知った白薔薇は、緩やかにため息をついた。
「それよりもさ。立ち話もアレだし、コーヒーでも飲もうよ。そうして話を聞こう。どこか空いた部屋あるでしょ。これだけ大きな館だもんね。そこに案内してよ」
京極がそう言うと、仕方なく白薔薇がリビングの方へ歩き出す。先ほどまで食事を摂っていたリビングの中は、ふんわりと食事の香りが残っていた。京極はくんくんと犬のように匂いを嗅いだ後、どっしりとテーブルの中央に座り込んだ。
「ねぇ誰かコーヒーくれない? ミルクと砂糖はたっぷりと入れてね。そうしないと脳に栄養がいかなくて自慢の推理も展開出来ないから」
それを聞いた白薔薇は花弁に向かって人数分のコーヒーを用意するように告げた。注文を受けた花弁はそそくさとキッチンの方へ向かい、コーヒーの準備を始める。
リビング内には、京極、白薔薇、御子柴、蔓田、花弁、棘丸の六名がいる。棘丸が花弁の手伝いをするためキッチンの方へ向かった後、残された人物はリビング内のテーブルに座り込んだ。
「それにしても大変だったね。ええと、確か君の妹さんなんでしょ?」
京極は真ん丸な目を白薔薇に向けて言った。
対する白薔薇はコクリと首を上下に動かし、質問に答えた。
「そうです。双子の妹です」
「それにさ。君はこの村の派出所のお巡りさんだっていうじゃない。現場の保存はしっかりしていたみたいだから、相当優秀なお巡りさんなのかもしれないね」
べらべらと喋る京極。白薔薇は顔を歪めながらも何とか愛想笑いだけを浮かべた。すると、次に京極は御子柴のほうを見つめ、
「この館には色んな人物がいるみたいだね。そうだ、自己紹介してよ。僕は聖徳太子みたいだから直ぐに人の名前を覚えられるんだ。じゃあ君から言って」
指を差された御子柴は自分の名前と簡単な経歴を話した。その後に白薔薇が、さらにその後蔓田が、最後にコーヒーを運んで来た花弁と棘丸が自己紹介をした。
全員の自己紹介を聞いた京極は首に同化してしまった顎をふむふむと動かした。自分の頭の中で整理しているようである。
「ええと、ミコダイラさんだっけ? 君はこの館の執事?」
その言葉に慌てて御子柴が言う。
「ぜ、全然違いますよ。僕は御子柴です。み、こ、し、ば。職業はええと、なんて言えば良いのかな。旅人です」
「そうそう、御子柴君。でも旅人なんて珍しいよね。そういや、横溝正史の小説に出てくる金田一耕助に少し似てるね。まさか探偵なの? 僕、探偵に会ったことないなぁ。でももしも捜査協力してくれるなら言ってよ。僕認めちゃうから」
「はぁ。でも勝手にそんなことして良いんですか? 貴重な情報とかあるだろうし」
「大丈夫だよ。僕は偉いし、パパは県警の警視監なんだ」京極はコーヒーを啜った。「あ、甘さが足りないコーヒーだね。僕、甘くないとコーヒーは駄目なんだ。お~い。ええとハブラシちゃんだっけ、砂糖とミルクを持って来てよ」
ハブラシという単語に一同は固まる。
名前のニュアンスから似ていると察した花弁が呆然としながら、
「あ、あたしは花弁ですよ」と言いキッチンへ向かい、そこから砂糖壷とクリープの瓶を持って来た。京極はそれを受け取るなり、山盛りの砂糖を二杯、クリープを三杯入れてそれをかき回す。京極のコーヒーはもはやコーヒーと呼べない色に変化している。
誰もが言葉を失い京極のことを見つめていると、京極は砂糖たっぷりのコーヒーを飲み込み、
「ほら、デスノートっていう漫画でさ、Lっていう名探偵が出てくるでしょ。僕、良く彼に似てるって言われてさ。砂糖とかお菓子とか好きだし、そういう物を食べていると、推理力が上がるからね」
「あはは」と笑いながら、京極は椅子の上に体育座りをして、「まぁ流石にここまでの真似はしないけどね。椅子の上に体育座りしたら疲れちゃうもん」
と、言い京極は体育座りから普通の格好に戻った。一体なんなのだ、この刑事は。当の京極はそんなことは一切気にせずにケラケラと笑っている。
そんな中、御子柴が口を開いた。
「あの。検視の結果っていつ頃出るんですか?」
すると、京極はフランクミューラーの時計をまじまじと眺めながら、
「今、八時半でしょ。遺体はこれから県の大学病院に運ぶから、大体十時くらいに検視を開始するとなると、そこから二時間はかかるね。まぁ夕方には解剖結果は分かるよ」
「そんなに早いんですか」
「まぁね。ここはかなり田舎だから移動だけで結構な時間がかかっちゃうんだ。大変だよ。でものんびりとしていて良いところだね」
京極はそう言うと、コーヒー入り砂糖の飲み物を美味しそうに飲み、ポンと腹を叩いた。
その様子を見ていた蔓田が呆れ顔で手を挙げた。
「刑事さん。もう犯人は分かっていますよ」
「え。何々、もう犯人分かってんの?」
「そうです。あなたの前にいる御子柴っていう旅人ですよ。こいつは昨日ノコノコと村に現れたんです。そして如何わしくもこの館に泊めてほしいと言ってきた。心優しい黒薔薇様は一晩の宿をお与えになりましたが、今から考えると、それらすべては御子柴の策略だったに違いありません。この男は盗み目当てで館に侵入し、それを黒薔薇様に見咎められたから勢い余って殺したに決まっています。早くこの男を逮捕してください」
一気に語る蔓田。その言葉を聞き、京極は真ん丸な目を御子柴に向け、
「って言われてるけど、御子柴君、君が犯人なの?」
御子柴は勢いよく首を左右に振り、次のように答えた。
「違いますよ。僕は犯人じゃありませんし、泥棒だってしたことありません。蔓田さんは誤解してるんですよ」
「まぁそうだよね。黒薔薇って子を殺したのが御子柴君ならさっさととんずらしているはずだもんね。この館に残る意味はないと思うな。だけど、蔓田君の言うことも分かる。この田舎町にやって来ていきなり一晩泊めてくれって言って、そこで不可思議な事件が起きれば疑われるのは当たり前だよ。まぁ今はさ、誰が犯人だとか言うのは止めて、昨日起きたことをすべて教えてくれない?」
それを聞いた白薔薇が震える声で言った。
「事件が起きたのは昨日の九時頃だと推定されます。それに部屋に鍵が掛かっていました」
京極が頷きながら答える。
「九時。結構早いね。どうしてその時間が割り出されたの?」
「九時半頃に皆で黒薔薇の部屋に向かったんです。そうしたら黒薔薇が変わり果てた姿になっていて。遺体に触れるとまだ温かくて、死斑も出ていませんでしたから、死んでから一時間以内だろうと、御子柴が言ったんです」
「へぇ、御子柴君は死後硬直や死斑を知ってるんだ。何か他に黒薔薇ちゃんの情報ない?」
「ええと、黒薔薇には夢遊病という病があり、夜起き出してさ迷う癖があるんです。その影らしきものを棘丸が外で見ているんです」
「ふ~ん。棘丸君。影を見たのはホントなの?」
棘丸は石像のように立ち尽くし、ぼそぼそと声を出した。
「た、確かです。夜九時頃、御子柴さんと外を散歩しているときにフッと人影が現れたんです。僕らはそいつをXと仮定して、は、犯人なんではないかと推測してるんですけど」
「X! へぇ。Xの悲劇みたいだね。知ってる? エラリー・クイーンの『Xの悲劇』。僕ドルリー・レーンっていう探偵も結構好きなんだ。変幻自在に変装出来るからねぇ」
話が変な方向にずれだしたとき、御子柴が答えた。
「Xの悲劇は僕も知ってますけど、それが今回の事件のどう関わって来るんですか? ふざけるもの良い加減にしてくださいよ」
「ふざけてなんかないよ。夜九時頃、棘丸君は館の外でXという人影を見た。まさか亡霊のわけないから、Xはこの館にいる誰かか村人ということになる。でもさ、この付近って夜になると何もないし、村からこの館まではそれなりに離れてるから、村人がここにやって来たというのは考えにくいよね。外を見てごらん」
京極は太い指を窓に向けた。
一同の視線が一斉に窓辺に注がれる。耳を澄ますと、何やらガヤガヤと音が聞えてくるのが分かった。人だかりが出来ているのだ。
「結構な数の村人が来てますね」
と、花弁が言った。京極はそれを聞くなり、「うん」と頷き、
「そう、黒薔薇ちゃんが死んだという話は、もう村人たちの間に流れてるんだ。僕が言ったわけじゃないよ。まぁ村にも捜査員を派遣して聞き込みしてもらっているから、情報が漏れるのは時間の問題なんだけどね。話によれば黒薔薇って子は村人に崇拝されていたようだね。だから皆集まるんだ。それに泣いてる人もいるよ。そんな子を村人が殺しに来るとは考えにくい。となると、棘丸君が見たとされるXの候補は白薔薇君、蔓田君、花弁君、の三人になる。一体誰なのかなぁ?」
「ちょ、ちょっと待ってください!」叫ぶように白薔薇が言った。「京極さんはあたしを疑っているんですか?」
「別に、そういうわけじゃないよ。ただ、真っ暗な中だと、Xに変装することはそんなに難しいことじゃないってことさ。特に君と黒薔薇ちゃんは双子だよね。さっき遺体をチラッと見たけど凄くよく似てる。だから君が変装して外をうろついていたとしてもおかしくはないわけさ。同様の理由が花弁ちゃんにも言えるよ。花弁ちゃんの身長は黒薔薇ちゃんと同じくらいだ。闇の中なら、見間違えるかもしれない。蔓田君は体型も身長も違うけれど、黒いマントを頭からかぶってマントの中心に黒薔薇ちゃんがよく来ている格好をプリントしたりすれば変装は出来るかもしれない。つまり、暗闇の中なら、変装することはそれほど難しいことじゃないんだよ」
室内がしんと静まり返った。犯人はこの中にいるかもしれないという可能性が、一同の頭の中に刻み込まれる。皆は眉間にしわを寄せ、難しい顔を浮かべながら時が過ぎるのを待った。
「まぁまぁそんなに難しい顔しないでよ」京極が言った。「あくまで可能性を追求しただけだからね。それに棘丸君が暗闇の中、何かを人を間違えてXを生み出しただけなのかもしれないし。話を元に戻そう。九時半頃、遺体を見つけたんだって。遺体は物凄い血だったよね。しかも密室だった。通常、あれだけの血が飛んでいれば返り血は浴びるよね?」
京極の話を聞くや否や、蔓田がくわっと身を乗り出し、
「確かルミノール反応っていう血液が付着したか否かというものを調べるものがありますよね?」
「良く知ってるね。確かにあるよ」
「それを御子柴にしてみてください。御子柴の手にルミノール反応が出れば犯人だと確定します」
蔓田の言葉に京極は乾いた笑いを浮かべた。
「君は余程御子柴君を犯人にしたいみたいだねぇ。ルミノールって人体には良くないんだよ。強いアルカリ性だからね。それに人間の皮膚の場合、新陳代謝で垢になって流れちゃうから証拠能力としては弱いんだ。まぁ君たちの服を調べても良いんだけど、誰も返り血が付いた服なんて着てないよね。アレだけの血だ、現場に入ったときに誤って付いたという可能性だって捨てきれない。問題なのはどんな凶器で殺したかってことだよ」
そう。凶器は未だに見つかっていないのである。犯人がどこかに捨てたか、持ち去ったはずだ。
「く、黒薔薇様は首を切られていました。やはりあれが致命的だったんでしょうか?」
おどおどと、花弁が京極に向かって尋ねた。京極はカップに残ったコーヒーを一気に飲むと、大きなゲップをして質問に答えた。
「僕も詳しくは見ていないけど、アレだけの血だから頚動脈が切られた可能性は高いよね。となると凶器は刃物かも。まぁ今の段階だと一概にこうだとは言えないんだけど」
「とにかく……」蔓田が激しく言い寄る。「御子柴を早く取り調べてください。こいつに決まってるんです。今日だって明け方逃げようとしたんですから」
蔓田がそう言うなり、御子柴は反論する。
「僕は逃げ出そう何てしてないですよ。白薔薇様と少し話をしていただけです」
「ドサクサに紛れて白薔薇様も殺害しようとする魂胆だったかもしれない。貴様、どこまで卑劣な奴なんだ」
どんどんと妄想が飛躍する蔓田。
あまりの言い草に、京極は頭をぼりぼりと掻きながら、
「分かった、分かった。僕がこれから御子柴君の聞き込みをするから、それで良いね」
「勿論です。御子柴、貴様もこれで年貢の納め時だな」
嘲るように蔓田は言い、コーヒーに口をつけた。
館内は捜査でガヤガヤとうるさい。京極と御子柴は蔓田と棘丸の部屋で話をすることになった。
「えーと、君たちにもその内捜査員が聞き込みに来るはずだから、質問にはちゃんと答えてね。嘘をつくとろくなことにならないし、直ぐ嘘ついた! って僕らには分かるから、キチンと答えること。僕と御子柴君は上の部屋を借りて話をするから、指示があるまで君たちはここから動かないようにしてね。あ、後コーヒーご馳走様」
肉のついた顔で微笑みながら、京極は言った。
京極と御子柴は二階中央の蔓田と棘丸の部屋に向かう。二階はまだ捜査員が来ていないので静かであった。部屋のトビラを開けると、余程慌てていたのか、ベッドのシーツが乱雑に投げ捨てられていた。
「まぁ適当に座ろうよ。御子柴探偵」
そう言うと、京極はベッドの上に腰を下ろした。足をぶらぶらとさせ、御子柴に対して座るように催促する。御子柴はというと、若干困りながらも、仕方なく京極の対面に座り込んだ。
どうして二人きりにならなくてはならないのか。京極のペースに飲み込まれてしまう。京極も蔓田と同じで自分のことを犯人だと思っているだろうか? 考えるのはそんなことばかりだった。
時刻を確認すると、午前九時を迎えていた。部屋の中はカーテンが閉じられているため薄暗いが、カーテンの隙間から薄っすらとこもれびが差し込んでいる。館の外は相変わらず野次馬たちでうるさいが、御子柴と京極がいるこの部屋は緊張感に満ち、静まり返っていた。
そんな中、京極がエヘヘと舌を出して不気味に笑った。その姿を見て、御子柴は苦笑いを浮かべる。
「君も大変だねぇ。旅をして、偶然立ち寄った家で謎めいた事件に巻き込まれて、それで犯人扱いされてしまう。これ以上ない災難だよね」
御子柴は鼻をすすりながら言った。
「やっぱり刑事さんも僕のことを疑っているんですか?」
「京極って呼んでよ。僕はね、君と二人きりになれて良かったと思っているんだ」
さらりと気持ちの悪いことを言う。御子柴は目を点にさせ、京極に視線を注ぐ。二人きりになりたかった。それはつまり、
「僕を逮捕しようとしてるってことですか?」
と、御子柴は震える声で答えた。すると、それを聞いた京極はケラケラと笑いながら、
「はぁ? どうしてそんなことになるのさ。僕はね、君のことをこれっぽっちも疑っていないんだ。っていうよりもね、もう犯人分かってるもん」
「え!」
京極のあまりの告白に御子柴は固まった。
犯人が分かっている。それは本当なのだろうか。京極がこの館に来てからまだ一時間程度しか経っていないのである。それに京極は現場を少ししか見ていない。捜査の殆どは捜査員たちに任せて、自分はリビングへ行き、簡単な聞き込みをしていただけだ。とてもではないが捜査をしているとは思えない。なのに犯人が分かっているというのはどういうことなのだろうか?
「犯人。御子柴探偵も気になるんじゃないの?」
にっこりと笑う京極。呪縛から解けたように御子柴は答える。
「ぼ、僕は探偵じゃないですよ」
「否、君には探偵になってもらわなきゃ」
「そ、それで犯人は誰なんですか?」
その質問に、京極はサッと周りを見渡した。そしてスッと立ち上がると、御子柴の耳元までやって来て、そっと囁くように言った。
「白薔薇ちゃん!」
その言葉に御子柴は体を大きく震わせた。
白薔薇が犯人? 一体どう考えればそんな結論に辿り着くのだろうか。御子柴は額に浮かび上がった脂汗を手で拭き取ると、恐る恐る言った。
「し、白薔薇様が犯人ってホントですか?」
「うん。ホントだよ」
「証拠はあるんですか?」
「さぁ。その内出るんじゃない。時間の問題だと思うけど」
「その内出るって、何か証拠があって言ってるんじゃないんですか?」
「僕、何歳に見える?」
いきなり話が飛んだ。わけも分からず御子柴は京極を上から下まで凝視する。そして適当に言った。
「三十歳くらいですか?」
「うわ。凄い。ビンゴ! 流石は探偵だねぇ。でも不思議だなぁ。僕結構若く見られるのに。普通はね、二十代前半に見られるんだよ」
どう見ても京極は二十代前半には見えない。御子柴が三十歳と言ったものかなりおまけしての結論である。本当のことを言えば四十歳くらいに見える。太っていて、真ん丸な目を持ち、若干童顔であるが、なぜか歳を食っているように見えるのだ。
「僕の階級。さっき言ったから分かるよね?」
御子柴は記憶を巡らす。
「ええと、確か警部さんですよね」
「そ。普通はノンキャリアだと三十歳じゃ警部になんかなれないんだぞ。本当はキャリアになりたかったんだけどね、不思議と試験で落ちちゃったんだ。学歴だってしっかりあるのに変だよね。でも僕は沢山の殺人事件を解決して来たからここまで奇跡的に昇進出来たんだ」
話が見えない。顔を曇らせながら、御子柴がどう答えようが決めかねていると、続けて京極が言った。
「つまりね、何が言いたいのかと言うと、僕には特別な力があるということなんだ」
特別な力。
また話が変な方に流れようとしている。京極と話していると、どんどん話が脱線し、いつの間にかわけの分からない場所まで持っていかれる。御子柴はそう思いながらも静かに声を発した。
「特別な力って何ですか? まさか超能力があるなんて言うんじゃないでしょうね」
「へぇ。流石は探偵御子柴君。ずばり言い当てたね。ご名答。僕には超能力があるんだよ。犯人が分かるっていうね。まぁ超能力ってうよりも人を見る観察眼っていうのかな。それがずば抜けて高いんだ。だからね、ちょっと見ただけで犯人が分かるんだよ」
「それで犯人が白薔薇様っていうわけですね。でも証拠もないのにそんなこと言って大丈夫なんですか?」
「証拠なんて直ぐに出てくるよ。犯人を言うのが僕の仕事。そしてその証拠を探すのが部下たちの仕事なんだ。君にも是非探偵として力を貸してほしい」
「あの、さっきから探偵探偵言われているんですけど、僕は探偵じゃないです。ただの旅人なんですよ。あなたのような特別な力もないし、推理だって出来ません」
「でも『Xの悲劇』のことは知っていたよね。ああいう古典的な名作を読んでいる人って最近はあまりいないんじゃないかな。君は推理小説が好きなんでしょ」
「まぁ好んで読んではいますけど、それは別に推理力が高いってことにはなりませんよ」
「ふ~ん。蔓巻君だっけ? 蔓田君だっけ? まぁ良いや、君のことを疑っているよね。御子柴君、いつまでも疑われたままで良いのかい?」
それは良くない。御子柴はグッと握り拳を作り、黙り込んだ。
「だけど、不味いことになったよね。館の主のお姉さんが犯人なんだもの。白薔薇ちゃんには見張りをつけなくちゃ」
依然として犯人は白薔薇であると決めつけている京極。
「そ、そういえば」御子柴は言った。「どうして黒薔薇様のご両親を呼ばれたんですか? お母さんは遺体を見て気を失ってしまったじゃないですか」
「よく聞いてくれたね。アレにはちゃんと目的があったんだよ」
「目的ですか?」
「そ。ここに来る前にね。白薔薇ちゃんと黒薔薇ちゃんが瓜二つのそっくりさんであるということを部下から聞いたんだ。まぁ一卵性の双子でかなりそっくりっていうのは稀にいるんだけど、両親が見間違えることはないよ。だから両親を呼んだんだ。万が一変装しているって可能性を潰すためにね」
「つまり、黒薔薇様が白薔薇様に化けているって思ったんですか?」
「そ。探偵小説だと良くあるトリックでしょ。双子が出てきたらまずは変装を疑わなきゃ駄目だよ。まぁ現実だと、完全な変装なんて無理だけど、白薔薇ちゃんを見てびっくり。ホントに黒薔薇ちゃんと白薔薇ちゃんはそっくりだったからねぇ。あれじゃ何も知らない人だったら騙せるよ」
「仮に変装が可能だとしても、どうして黒薔薇様が白薔薇様に変装しなくちゃならないんですか?」
「さぁね。その辺はまだ分からないよ。ただ、変装の可能性を潰して起きたかったんだ」
「DNA鑑定とかすれば一発で分かるんじゃないんですか?」
「一卵性の双子のDNAは基本的には同じだからね。調べても分からないよ。まぁ白薔薇ちゃんは村のお巡りさんだから、後で指紋を調べれば同一人物かは調べることが出来る。いくら一卵性のそっくりな双子であっても指紋は別物だからね。それにね、このくらいの事件じゃいちいちDNA鑑定なんかしないよ。時間もかかるし」
京極はそう言うと、ごろりとベッドの上に横になった。本当にこの人は敏腕刑事なんだろうか? 御子柴の頭の中でどんどん疑惑の泡が生まれていく。
「僕は」御子柴は苦しそうな顔を浮かべて声を出した。「とてもではありませんけど白薔薇様が犯人であるとは思えません。第一、実の妹を殺すなんて、ちょっと普通じゃないですよ」
京極は相変わらず寝そべったまま、着ていた上着のポケットからミニサイズのスニッカーズを取り出し、それをむしゃむしゃと食べ始め、
「親殺し、子殺し、兄弟殺し、色々あるけどね。そんなに稀なケースじゃないよ。特に昨今は核家族化が進んだから、家族内で揉め事が起こるってことは良くあるしね。僕が担当した事件にも尊属殺人はあったよ。まぁ全部解決したけど」
得意げな顔を浮かべる京極。また一つポケットからスニッカーズを取り出し、それを口に運ぶ。
「僕はどう考えても白薔薇様が犯人だなんて思えません」
御子柴は真剣な眼差しでそう告げた。
白薔薇は少しキツイ性格ではあるが、心は優しい。短い付き合いではあるが、御子柴はそう考えていた。白薔薇が犯人であるはずがない。では、誰が犯人なのか? その解答を持ち合わせているわけではないが、白薔薇を犯人扱いする京極に対し、嫌気が差していた。
「ならさ」むくっと起き上がり、京極は言った。「君は君で推理してみてよ。白薔薇ちゃんが犯人ではないっていう証明が出来れば良いわけさ。でも、僕の力は本物だから、調べれば調べるほど白薔薇ちゃんが犯人であるってことが浮き彫りになると思うけどね」
すると、京極は再びポケットに手を突っ込んだ。またスニッカーズを食べるのだろうか? やる気のなさそうな目で、御子柴は京極を眺める。御子柴の想像とは違い、京極が取り出したのは、スマートフォンだった。それを器用に動かしながら、耳元にあて、
「あ、もしもし、僕だけど、捜査どうなってる? 順調? まぁ良いや。ちょっと話があるから上の部屋まで来てくれない。え~と、中央の部屋にいるから。それじゃよろしく」
どうやら捜査中の部下を呼んだようである。しばらく待っていると、ドタドタと廊下を走る音が聞えて来て、部屋のトビラがノックされた。その音を聞くなり、京極が口を開く。
「ほ~い。開いてるから入っちゃって」
トビラが開く。トビラの前には痩身の男性が立っている。サイズが合っていないのか、肩幅がまるで合っていないスーツを着ている。これではまるでスーツに着られている感じである。
「お呼びでしょうか?」
「板山君。捜査の方はどうなってるの?」
板山と呼ばれた刑事はビシッと背筋を伸ばし、答えた。
「はい。順調に進んでいます」
「そりゃ良かった。それで死因は分かった?」
「まだ、司法解剖をしたわけではないのではっきりしたことは言えませんが、首をざっくりと切られています。恐らく頚動脈を切られたことによる失血死だと思われます」
「ねぇ。黒薔薇ちゃんの部屋の鍵の種類分かった?」
「ええと、一般的なディスクシリンダータイプでした」
そう言われ、京極はたぷたぷと首を動かし、質問を重ねた。
「そう。で、白薔薇ちゃんは何してる?」
白薔薇と言われ、板山は目を点にさせた。
「ええと、白薔薇というのは被害者の姉だという方ですか?」
「そ。今回の事件。彼女が犯人だから、白薔薇ちゃんから目を離さないでね。まぁワッパ(手錠)をかけろとかそういうんじゃないから」
「そうですか……」板山は悲しそうな目つきをしながら、「姉妹とは、さぞ二人は仲が悪かったのでしょうか?」
板山は全く捜査をしていない京極の話をすんなりと信じた。京極の言う『犯人が分かる』という特殊な力を信用しているのだろうか。
「ど、どうしてそんなに白薔薇様を疑うんですか?」
突然、御子柴が口を開いた。顔は真っ赤になっていて、体は小刻みに震えている。
「ええと、彼は?」
板山が聞くと、直ぐに京極が答えた。
「彼は御子柴君。流浪の旅人。でも僕と同じで探偵小説が好きみたいだから、きっと推理も出来ると思う。もしかしたら捜査協力してくれるかもしれないから、彼にも情報を与えてあげてね。彼は僕の言う犯人が違うって言うんだ」
「そ、そうですか。しかし、流浪の旅人という得体の知れない輩に情報を与えて良いんですか? 見るからに犯人って感じですけど」
「そんなことないよ。犯人は白薔薇ちゃん。どうやって事件を起こしたのは分からない。彼女の持っている服とか道具とか、すべて調べてね。アレだけの血が飛んでいるんだから、服に付いていてもおかしくはない。あ、それとこの付近の捜査も忘れないように、どこかに凶器や服が隠されているかもしれないから」
「は。了解しました」
「被害者の検視が終わったら連絡してよ。詳しい死因を知りたいしね」
にっこりと笑う京極。
どう好意的に見ても、歴戦のデカとは思えない。何というか話を聞いていると、色々毒気を抜かれる。しかし、京極の言う犯人が分かるという特殊な力は信用されているようである。板山は京極の言葉に微塵も如何わしさを覚えていないようであるし、淡々と命令を受ける仕草を見る限り、かなり京極を信頼しているようにも見える。
しばらくすると、板山は部屋から出て行った。再び室内は京極と御子柴の二人きりとなる。京極はベッドに座ったまま、マットレスのスプリングを利用してぴょんぴょんと飛び跳ねている。
白薔薇が犯人であると京極は言っている。それが正しいのかは分からない。だが、京極の力は本物のようだ。
殺すには動機が必要である。一日という短い付き合いであるが、白薔薇と黒薔薇は互いを憎みあうような関係ではなかったように思える。
白薔薇はキチンと毎日働いているようだし、黒薔薇は黒薔薇でこの館で毎日執事やメイドと上手くやっている。どこにも殺害という言葉が入り込む隙間はない。
そもそもどうしてこんな事件が起きたのだろうか。部屋は密室。そして麓の村から離れた場所に建つ洋館。まるで推理小説のようではないか。凶器が見つかっていない以上、どうやって殺害したのかは分からないが、本当に黒薔薇は殺されたのだろうか? 自殺とか、事故とかそういう可能性はないのであろうか。
「何やら考え込んでるね? 何か思いついたのかな」
飛び跳ねるのを止めた京極が尋ねる。何か事件を解決に導くようなことを思いついたわけではない。
「えと、本当にこの事件は殺人なんでしょうか?」
「殺人じゃないと御子柴君は考えているわけだね。少なくとも自殺の可能性は低いよね」
「どうしてですか?」
「君はあんまり知らないかもしれないけどさ。自殺って大体首を吊ったり、飛び降りを図ったり、ガスを吸ったり、後はリストカットで思い切り血管を切ったりとする方法が多いんだ。沢山の自殺者を見てきたけど、自分の首を切ったって人はあまりいない。切腹した人ならいたけどね。まぁ、黒薔薇ちゃんは女性だから首を刺すって自殺方法もなくはないんだけど、そうなると、どうして凶器がないのかが不思議だよね。遺書もなかったようだし」
「じゃあ事故って可能性はないんですか?」
「さぁ。夜遅く、夢遊病者である黒薔薇ちゃんが何らかの事故に巻き込まれた可能性はなくはないけど、……第一、頚動脈をぶった切るほどの事故って何よ。そんな特殊な事故は僕聞いたことないなぁ。つまり今のところは分からない」
「部屋が密室だったっていうことも気になるんです。鍵は二つしかなく、一つは黒薔薇様が持っていて、もう一つは棘丸さんが持っているんです。あ、今は蔓田さんですけど。だから、白薔薇様が鍵の掛かった黒薔薇様の部屋に入り込めるはずがないんです」
その言葉を聞いた京極は目を閉じフムフムと頷きながら、
「へぇ、その話は初めて聞いたよ。でも自分の部屋の鍵を閉めるなんて、黒薔薇ちゃんも変わっているねぇ。僕の家の部屋にも鍵はあるけど、殆どかけたことないなぁ。御子柴君は鍵をかける?」
「まぁ旅をしていてホテルに泊まればオートロックのことがありますけど、それ以外は基本的にかけないですね」
「でしょ。でも黒薔薇ちゃんは鍵をかけていた。それってどうしてなのかなぁ?」
「それは簡単ですよ。さっきも少し説明しましたけど、黒薔薇様は夢遊病を患っているんです。だから、自分の就寝中に外を出歩かないように部屋に鍵をかけているんだそうです」
京極はパッと目を開ける。真ん丸な瞳が御子柴に向けられる。
「そもそもそこが不可解なんだよねぇ。だって鍵を持ってるんでしょ。眠りながら鍵を開けることだって可能なんじゃないの。過食症の患者が眠っている間に無意識に冷蔵庫を開けて食べ物を食べちゃう事例があるように、夢遊病者が部屋の鍵を開けるって可能性もあると思うんだけど。それに棘丸君は外でXという人影を見ているんだよね? それが黒薔薇ちゃんっていう可能性だってあるよ」
「た、確かにそうかもしれないですけど。とにかく言いたいのは、白薔薇様は鍵を持っていなかった。つまり、黒薔薇様の部屋には侵入出来なかったということです」
京極はくすくすと笑い、言葉を返す。
「それはいくらなんでも強引だよ。この館は結構古びているよね。玄関のトビラは換えたみたいだけど、部屋のトビラは僕が見たところかなり旧式だ。オートロックとか、暗証番号式のトビラなら分かるけどね。さっき板山君が言っていたけど、あの部屋の鍵は普通のディスクシリンダーなんだって。あれって慣れれば三分くらいで簡単に開けちゃえるんだ。それに複製も簡単。この館に頻繁に出入りしていた白薔薇ちゃんが鍵を複製し持っていたとしても不思議じゃないよ」
あくまでも白薔薇を犯人にしようとしている京極。反論したい御子柴であったが、どう反論すべきなのか分からない。もごもごと口を動かしていると、再び部屋のトビラがノックされた。
御子柴と京極の目が入り口のトビラに集中する。京極が「開いてるよ」と声をかけると、トビラがゆっくりと開かれた。
入り口には青い顔をした棘丸が立っていた。
「あ、あの、捜査の方はどうなっているんでしょうか? 黒薔薇様の部屋には入れませんし。僕らは特に尋問されるわけではありませんし」
カタカタと小刻みに震える棘丸に対し、京極は取り成すように答えた。
「そんな顔しないでよ棘丸君。大丈夫、捜査は順調に進んでるよ。君たちへの尋問は捜査が一段落したらやるし、刑事ドラマみたいに激しい尋問をするわけじゃないから安心してよ」
「は、犯人は一体誰なんでしょうか? やはりX……。もしかしたら、僕らの中に犯人がいるんでしょうか」
京極は御子柴に視線を合わせた。
どうやら、白薔薇のことは喋るなと言いたいようである。御子柴が何も言わずに首を上下に動かすと、京極が落ち着いた口調で言った。
「犯人を見つけるために今捜査してるんだよ。だから心配しないでOKさ」
「で、でも僕らの中に犯人がいるかもしれないんですよね。僕はそれが堪らなく怖いんです。く、黒薔薇様を殺害するなんて、そんな恐れ多いこと誰が出来ると言うんです。警察に捕まる前に、村人たちに殺されてしまいますよ」
「ふ~ん。村人に殺されるとは穏やかな話じゃないね。黒薔薇ちゃんは余程崇拝されてるんだね。それじゃ僕と同じだ。僕も県警の刑事部の中では凄い信頼されてるんだよ。なぜなら僕が解けなかった事件はないからね。安心してよ。今回の事件もあっさり解いちゃうから」
エヘヘと白い歯をむき出しにして京極は言った。その後、ポケットの中からスニッカーズを取り出しそれを口に放り込んだ。
「それよりもさ」スニッカーズを咀嚼しながら京極が言った。「丁度、棘丸君に聞きたかったことがあるんだよね」
入り口に立ち尽くす棘丸は、目を細めながら答えた。
「な、何ですか?」
「Xのことだよ。君は昨日の夜、御子柴君と散歩中にXという人影を見たんでしょ」
「は、はい。見ました」
「Xはどんな感じだった。う~んと、体型とか背の高さとか覚えてることを言ってよ」
「し、身長は一六〇センチくらいでしょうか。ですから黒薔薇様と同じくらいだと思います。た、体型は少なくとも太ってはいませんでした」
「Xは何をしていたんだろう。館の周りをうろついていたんだよね?」
「そ、そうです。館の周り、それも井戸の近くでした」
井戸という単語が出て、京極はしばし固まった。そしてにんまりと笑うと、
「井戸ねぇ。今時井戸なんて使わないよね」
「はい、昔使われた井戸なんですが、い、今は使われていません」
「そ。何か気になるなぁ。時間もあるし、ちょっと井戸まで行ってみようか」
そう言うと、京極は素早く立ち上がった。でっぷりと出たお腹がぶるんと震える。京極が部屋を出て行くと、その後に御子柴と棘丸が続く。
一階に降り、玄関へ向かう。外に出ると、そこには大量の野次馬が待っていた。家の周りには黄色い立ち入り禁止のテープが結界のように張られている。それを潜り抜け、京極たちは井戸に向かう。
御子柴や棘丸が出てくると、野次馬たちから一斉に野次が飛ぶ。特に御子柴に対しては凄い。石やペットボトルが投げつけられる。
御子柴は手で顔を覆いながら、足早に井戸の方に駆け抜ける。家の周りを取り囲む警官たちが「止めなさい!」と大きな声を上げ、野次馬たちの熱を沈静させようと躍起になった。
井戸に着くと、京極は身を屈め、中を覗き込んだ。ポケットの中から小さなマグライトを取り出し、井戸の中を照らす。しばらく無言で眺めていると、京極は目を細め呟いた。
「誰か入った形跡があるね」
その言葉に棘丸が反応した。
「そ、そんな馬鹿な。だってこの井戸は使われていないんですよ」
「井戸の縁を見てごらん。井戸全体はこれだけ古びているのに、何かを引っ掛けた後が残っている。それもかなり最近に引っ掛けたみたいだね。そうじゃなきゃここまで白く跡は残らない」
御子柴も屈み込み、井戸の縁に目を向けた。
確かに京極の言うとおり、井戸の縁には何かを引っ掛けた後が残っている。おまけに血痕らしき赤い痕もある。
「恐らく」京極は言った。「梯子かロープをかけたんだ。それで井戸の中に入った。ねぇ棘丸君、この館に梯子やロープはある?」
「い、一階に物置として使ってる部屋があります。そ、そこにならロープや梯子があります。一応山の中に入ることがありますし、館の屋根の修理に使うこともあるので置いてあるんです」
「ありがと、じゃあ後で見てみるよ」
「で、でも何のために入ったんでしょうか?」
びくびくとしながら棘丸が尋ねると、御子柴は記憶を巡らせた。
この井戸は昨日も見たのだ。その時、井戸の中に何か落ちていたような気がしたのだ。
「棘丸さん」御子柴が静かに口を開いた。「井戸の中に何も落ちていません」
棘丸はチラと視線を御子柴に向け、
「そ、そうだ。確かに昨日、御子柴さんは井戸の中に何かが落ちていると言いましたよね」
二人の会話を聞き、京極が尋ねた。
「それは初耳だねぇ。一体何が落ちていたんだろう。う~んと、可能性として考えられるのは凶器が落ちていた。ってことなんだけど」
凶器という言葉を聞き、御子柴も棘丸も凍りついた。
それを見た京極が続けて言葉を継いだ。
「でもさ、不可解なのは、どうして井戸の中に凶器があったのか? ってことだよね。凶器を井戸の中に捨てたんなら、わざわざ危険を冒してそれを取りに戻ることはしないと思うんだけどなぁ」
「一旦凶器を井戸に捨てて、後からやっぱり危険だから取りに戻ったんじゃないでしょうか?」
と、御子柴が言うと、京極は肉がたっぷりとついた顎に手を当てて、
「ねぇ、この壁の向こうには誰の部屋があるの?」
と、棘丸に尋ねた。井戸の直ぐそばには館の外壁がある。
対する棘丸はしばし考え込んだ後、
「く、黒薔薇様の部屋があります」
「黒薔薇ちゃんの部屋ねぇ」
呟くようにそう言うと、京極は館の壁をぺたぺたと触り始めた。そして何かに気づいたようである。しかし、京極はそれを誰にも言わず、
「井戸の周りも調査してもらおうかな。とにかく一旦館に戻ろう、外は寒いよ」
そう言い残し、一人館の中に引き上げて行く。どこまでもマイペースな刑事である。御子柴は若干呆れながらも、館の中に戻った。
館に戻ると、京極は捜査中の黒薔薇の部屋へ向かった。その後に御子柴と棘丸が続く。
「京極さん、何をするんですか?」
と、御子柴が尋ねると、京極は真っ直ぐ前を見据えたまま、
「決まってるでしょ。黒薔薇ちゃんの部屋に行くんだよ。棘丸君はリビングに戻ってなよ。ここから先は警部の僕と、探偵の御子柴君の領域だから」
棘丸は愕然としながら、
「み、御子柴さんは探偵なんですか?」
話がややこしい方に転んだ。御子柴は眉根を寄せながらどうしようかと考えていると、素早く京極が言葉を返した。
「そ。御子柴君は流浪の探偵なんだよ。事件には探偵がつき物。あぁわくわくするなぁ。というわけだから、棘丸ちゃんはリビングに戻って頂戴。なぁに、捜査が一段落したら、まとめて捜査報告するからさ、安心してよ。リビングにいる皆にもそう言っておいてね」
そう言い残し、京極は黒薔薇の部屋に入って行った。
棘丸はというと、仕方なくリビングの方へ引き返して行く。その姿を見て、御子柴は京極の後を追った。
黒薔薇の部屋は五名ほどの捜査員で溢れていた。それほど広くない部屋であるから五人もいると狭く感じる。既に室内から黒薔薇の遺体は運び出され、司法解剖に回されたようである。
京極が室内に入るなり、板山が気づいたようでそばにやって来る。
「どうかされたんですか。京極さん」
「うん。ちょっと気になってね。井戸に血痕らしきものがある。直ぐに調べてみて。後、この部屋の壁にも血痕があるはずなんだ」
「そりゃこの血痕の量ですから、いたるところに血は飛んでますよ」
京極は板山の言葉を無視し、白い手袋をはめ、部屋の壁をぺたぺたと触り始めた。そして部屋のある壁の部分で立ち止まり、ゆっくりと室内を見渡した。そして、対面の壁に向かいそこでもまじまじと壁を見つめた。
「何かあったんですか?」
と、御子柴が言うと、京極は真ん丸な目を大きくしながら、黒薔薇の遺体が会った場所に視線を注いだ。
「御子柴君。見てごらん。壁に何かが付いてる」
言われるがままに御子柴は壁を見やる。すると、二センチくらいの小さなフックが付いていることが分かった。
「何でしょうか? 絵でも掛けるんでしょうかね」
「うん。絵を引っ掛けるものかもしれないね。この取っ手をA点としてここから真っ直ぐ対面の壁の点をB点としよう。それぞれの点を結んだ直線状に黒薔薇ちゃんの遺体がある。それにB点を見てごらん」
御子柴はB点を見つめる。入り口のトビラ前からでは良く分からない。恐る恐る足を進め、B点の壁まで足を進める。すると、壁に小さな穴が開いているのが見えた。五百円玉の厚みくらいの穴である。一体どうしてこんな穴が開いているのだろうか? 経年の使用により開いた穴なのだろうか。御子柴は眉根を寄せながら京極に向かって言った。
「穴が開いてますね」
すると京極は満足そうに笑顔になり、
「そう。小さな穴だよね。なんでこんなところに穴が開いてるんだろう。不思議だね。御子柴君、穴の周りを見てごらん」
「穴の周りですか……」
穴の周りを見つめる御子柴。
そこには飛び散った血が付着していた。
「血が付いてますね」御子柴は青ざめながら言った。「こんなところまで血が飛ぶなんて、かなり勢いよく切られたんでしょうね」
「うん。頚動脈を切られたんなら、血は結構飛ぶよ。だから、その穴の周りに血がついていたとしても全然おかしくはないんだ。ただ、B点の真裏にある外壁ね。ええと、井戸があったでしょ。そこの外壁にも血が付いていたんだ。後、井戸の縁にも。これは不思議だよねぇ」
室内だけでなく、室外にまで血が飛んだというのか。これはありえない。いくら血が飛び散ったとしても部屋の壁を抜け、外壁にまで血が飛ぶなんてことは絶対におかしいだろう。つまり、何かあるのだ。御子柴はそう考え、顔を曇らせた。
黒薔薇の部屋は依然として調査が行われて慌しい。御子柴の周りだけが切り取られたかのように静まり返り、隔離されたみたいになった。
「よくさ」京極は言った。「古典的なミステリーで針と糸を使って室内を密室にするというトリックがあるよね。この五百円玉くらいの厚みの穴もそういうトリックが隠されているに違いないよ。うん。絶対にそうだ!」
ポンとお腹を叩き、京極は満足そうな笑みを浮かべた。
針と糸を使い、この部屋を密室にするのならばわざわざB点に穴を開ける必要はないだろう。トビラに何らかの細工をしたほうが早いに決まっている。
「この穴から凶器を差し込んだのでしょうか?」
御子柴がこれ以上ないくらい目を細めて尋ねると、京極が直ぐに答えた。
「さぁね。分からないよ。一応、血液を採取して調べるけど、こんな小さな穴だったら刃物を入れることは出来ないよね。柄がひっかかるし、黒薔薇ちゃんが倒れているところまでは距離があり過ぎる」
「た、確かに。でもこの小さな穴は確実に何かありますよね。でなければ外壁に血が飛ぶなんてことはありえない」
「うん。それよりも今調べたいのは、お~い板山君」
召使を呼ぶかのように京極が口を開く。
室内の捜査をしていた板山が直ぐにやって来る。
「何か御用でしょうか?」
「あのさ、さっきも言った井戸だけど、その中を少し調べ見てくれない。何かあるかもしれない」
「井戸ですか。今時珍しいですね」
「でしょ。話によると使われていない井戸なんだって。でもさ。誰かが入ったような痕跡があるんだ。ちょっと確認してみてよ」
「了解しました」
ビシッと背筋を伸ばし、板山は電話を取り出し、何やら話し込んでいる。井戸に向かう人間たちを集めているのだろう。しばらくすると板山が部屋から出て行った。
室内は依然として捜査が進められている。その姿を呆然と見守る御子柴であったが、突然着ていたシャツの裾を引っ張られた。引っ張ったのは当然京極である。
「ねぇねぇ。ちょっと物置の部屋に行ってみない?」
物置。そういえば棘丸がそんな部屋があることを言っていたはずである。御子柴はフンと鼻を鳴らし、
「別に構いませんけど、京極さんは捜査をしなくて良いんですか? 皆さん色々やってますけど」
「うん。大丈夫だよ。捜査は全部任せているから。それに皆プロフェッショナルだから安心してね」
そう言い残すと、京極は御子柴のシャツの裾を握り締めたまま、部屋の外に出た。廊下を歩き、玄関脇にある部屋のトビラを開ける。
「ここかな?」
京極は楽しそうに呟く。何というかこの人を見ていると、事件を楽しんでいるようにしか見えない。不安な面持ちで御子柴は玄関脇の部屋を覗き込んだ。
室内は狭く。四畳半ほどの空間である。トビラから見て左側の壁には棚が設置され、そこに日用品のストックや缶詰、水、カップ麺などが置いてある。見ただけで物置部屋だということが見て取れる。
右側の壁には黒いポンチョや雨具などがハンガーにかけられており、床には新聞紙が敷いてあり、その上に黒い長靴が置いてある。さらに視線を進めると、梯子がかかっているのが確認出来た。
「梯子があるね」
京極は呟くと梯子を食い入るように見つめた。京極の直ぐ後ろに立ち、御子柴もその様子を凝視する。
梯子は二メートルくらいの大きな物である。棘丸の話によれば、館の屋根を修理したり整備したりするために屋根に上がることがあるそうだ。その際に使うのだろう。梯子は年季が入っているがアルミ製のしっかりとした物であった。色は黒だが、軽く持ち上げてみると非常に軽いことが分かった。恐らく女性でも簡単に持つことが出来るだろう。
さらに視線を進めるとロープもあることが分かった。これだけの材料があれば、井戸の中に入り込むくらいわけのないことだろう。京極は白い手袋をはめたまま、梯子をぺたぺたと触っている。
「京極さん」御子柴が言った。「何か分かったんですか?」
京極は視線を梯子に合わせたまま、口を開いた。
「うん。この梯子、使われた形跡があるね。誰かが使ったんだ」
「使ったって誰が使ったんでしょうか?」
「さぁ。それは分からないよ。でも一応この梯子も押収しよう。指紋が付いているかもしれないからね。検査しないと。後ロープもあるね。それも調べないと駄目だな。それに長靴か……。サイズが大きいのと、小さいのと合わせて四つあるね。女性用と男性用ってことかな。この館には四人の人間が暮らしている。人数分の長靴が揃っているんだね」
そう言うと、次に京極は長靴を調べ始めた。足の裏に泥が付いていないかを丁寧に確認していく。
「他に何かあったんですか?」
後ろから覗き込むように見ていた御子柴が声をかける。
「御子柴君。この長靴を見てごらん」
京極は大きい長靴を手に取り、それをひっくり返しソール部分を見せた。
黒い長靴のソールは黒いゴム製で出来ているようだ。そして軽く泥が付着していた。
「泥が付いてますね。でも長靴ですし、この近辺には山しかないんですから泥が付いていてもおかしくはないですよ。他の長靴にも付いているんじゃないですか?」
御子柴はそう言うと、他の長靴のひっくり返しソールを見つめた。他の長靴にも僅かながらに泥が付いている。しかし、そのどれもがカラカラに乾き、今にも床に零れ落ちそうだ。
そんな中、京極が答えた。たっぷりと肉の付いた頬がぶるんと震える。
「他の長靴にも泥は付いてるけど、皆乾いているね。それに一旦外で綺麗に泥を叩いてからここにしまっているんだ。だから敷いてある新聞紙には殆ど泥が付いてない。だけどこの大きな長靴にはまだ乾ききっていない泥が付着しているね。恐らく、使ってからそれほど時間が経っていないんだ。どうしてだと思う?」
いきなり問われても困る御子柴であったが、とりあえず答えた。というよりも可能性は一つしかない。
「棘丸さんが見たXが履いていたってことですか?」
「流石は探偵だね。その通り」
「大きい長靴を使ったということは村人ではありませんね。後、Xは男性だということでしょうか? となると、蔓田さんってことになりますけど」
「もう一人いるよ。……それは御子柴ちゃん!」
エヘヘと舌を出して答える京極。対する御子柴は、勘弁してくれと言わんばかりに顔を歪め、
「そ、そんな僕はこの物置の場所を知らなかったんですよ。それに棘丸さんと一緒だったんです」
「嘘だって。そんなに慌てないでよ。長靴が大きいから男性が使ったと考えるのは早計だよ。大きければ小さい足の人でも使える。つまり、女性でも使えるんだ。逆は無理だけどね。ってことはこの長靴を白薔薇ちゃんが使っていてもおかしくはないってことさ。それい薄暗い中、慌てていれば大きい長靴を履いてしまう可能性はあるしね」
そこで御子柴は京極が白薔薇を犯人だと決め付けていることを思い出した。あくまでもこの小太りの警部は白薔薇を犯人にしたいようである。
白薔薇は犯人なのであろうか? 否、そんなわけはない。御子柴はそう思いたかった。
「僕は白薔薇様が犯人であるとはどうしても思えませんよ」
ニヤリと笑っている京極の表情は崩れない。依然としてにんまりとしたまま、
「君はどうしても白薔薇ちゃんを犯人にしたくないみたいだね。どうしてなの? まさか惚れちゃった? 結構美人だしね。まぁその辺のことはどうでも良いけど。でもね、僕の犯人を突き止める力は本物だよ。今までそうやって事件を解いて来たんだからね」
と、自信満々に告げた。
京極の口調を聞く限り、彼が嘘をついているとは思えない。だからといってそうですかと呑み込みわけにはいかないのであるが。御子柴は静かに室内を見渡した。
黒薔薇は死んだ。この事実だけは変えられない。黒薔薇はもう蘇らないのだ。流浪の旅人である自分をあっさりと泊めてくれた黒薔薇。何度頭を下げても足りないくらいのことをしてくれた。そんな黒薔薇は何者かによって殺されたかもしれない。
そんなことをした人物は誰か? 京極は白薔薇だと言うが、御子柴にはそれが信じられなかった。何としても白薔薇の汚名を晴らしたい。となると、京極とは対立しなければならない。しかし歴戦の刑事である京極が言うことは正しいかもしれない。
経験豊富な面接官は面接に来た人物を少し見ただけで、その良し悪しが分かるそうである。それと同じで、様々な事件を経験してきた京極だからこそ、容疑者たちを見ただけで犯人が誰なのか分かるのかもしれない。
御子柴は歯をグッと噛み締め、
「僕が白薔薇様の汚名を晴らします」
京極はつぶらな目を大きく見開きながら、
「ふ~ん。君はあくまで白薔薇ちゃんが犯人じゃないと言い張るわけか。それはそれで構わないよ。人には色んな意見があるからね。でも僕の犯人を突き止める力は間違えることがないから無駄だと思うけど。だけど面白そう。やってみてよ。白薔薇ちゃんが犯人でないという証拠を集めることが出来れば、白薔薇ちゃんの容疑は晴れるよ」
あっさりと言う。京極にとって事件はゲームなのだろうか。何というかこう緊張感が感じられないのだ。
二人は再び黒薔薇の部屋に戻る。京極はスキップするように歩き、部屋のトビラを開けた。室内に入った御子柴は京極の背中に向かって、
「どうしてあなたはそんなに楽観的なんですか? 人が一人死んでいるんですよ」
京極の真ん丸な目が細く横に伸びる。
「知ってるよ。黒薔薇ちゃんは死んだ。それは確かだ。僕はね、決して楽観的に物事を考えているわけじゃないよ。こうしている間にも白薔薇ちゃんが犯人であるという証拠を集めているんだから」
しばらく二人が話し合っていると、部屋のトビラがぎいと開いた。外から板山が戻って来たようである。板山は顔を顰めながら室内に入って来た。
当然、京極は反応する。「お~い」と一言声をかけ、招き猫のように丸まった手を使い、板山を呼んだ。
「板山君。井戸どうだった?」
「はい。警部が仰られたとおり、井戸には何者かが侵入した痕があります。さらに不可解なのは井戸の周りに血痕らしきものが飛んでいるということです。こちらは今鑑識が調べています。恐らく、被害者の血液だと思われますが、どうして外に飛び散ったんでしょうか?」
「なるほどね。壁を通り抜けて外にまで血痕が飛び散ったわけか。……ってそんなことあるわけないでしょ。考えられるのは、凶器が井戸の中に落ちたということだよ」
「し、しかし井戸の中には何もありませんでしたが」
あたふたして板山が言うと、京極は満足そうな笑みを浮かべながら、
「板山君。君は何年捜査をしてるんだい。凶器がないなら犯人が持ち去ったに決まってるでしょ。ただ、不思議なのはどうして井戸の中に凶器を落とした、あるいは隠そうとしたのかということだよ。しかもそれを後から持ち去る。結構不可解なことだよね」
「一旦は井戸に隠し、よく考えたら危険だと判断して持ち去ったんでしょうか。しかし多少は埋められていますが、井戸は結構深いですよ」
「あ、そうだ。玄関の脇に物置部屋があるんだ。そこに長靴や梯子があるからそれも調べておいて、間違いなく使ったはずだからね」
「は」と、威勢の良い声を上げ、板山は再び室外へ出て行った。全く慌しい刑事である。
御子柴は肩を落として口を開いた。
「井戸に血痕が飛んでいたんですね」
それを受けて余裕たっぷりな京極は答える。
「うん。そうらしいね。さっきも言ったけど、間違いなく凶器の血痕だよ。そうじゃなきゃあんなところに血痕が飛ぶはずない。だけどますます妙だなぁ」
「妙ですか?」
鸚鵡返しに御子柴が尋ねると、「ふぁ~」と大きな欠伸をした京極が口を開く。
「そ。まず凶器が何なのか分からないよ。鋭利な刃物を使ったのは被害者の首を見れば分かるけど、返り血を浴びた痕が全くない。御子柴君。黒薔薇ちゃんが倒れていたところを見てごらん」
言われるがままに、御子柴は黒薔薇が倒れていたところを見つめる。水溜りのように血が溜まり、白いチョークで黒薔薇が倒れていた場所に印がされている。京極の言っている意図が分からない御子柴は腰に手を当てて、黙り込んだ。
「流石の探偵でも分からないか……。普通さ、犯人が相手の頚動脈をぶった切った場合、かなりの量の血が飛び散るんだ。犯人の体にも血が付くことは間違いない。犯人に血が飛べばその分床に飛び散る血液は少なくなる。簡単に言えば犯人によってマスキングされるってことさ。犯人が立っていた場所にはあまり血痕は飛ばなくなる。だけどこの現場は均一に血液が飛んでいる。これは不可解だよね。一体どういうこと何だろう」
京極の言うとおり、血痕は均一に飛んでいる。犯人が返り血を浴びれば、犯人が立っていた場所には血が飛ばないはずである。
「つまり」御子柴は言った。「現場には犯人がいなかったってことですか?」
勝ち誇ったかのように京極は笑い、
「そう。その通り、流石は探偵君だ。犯人は現場にはいなかった可能性が高いよね。だけどそれじゃおかしなことになる。だって誰かが首を切らなければ血なんて出ないし、黒薔薇ちゃんだって死ぬことはなかったはずだよ」
「後ろから回って首を切ったんじゃないんですか? そうすれば返り血を浴びないことになりますよ」
「それは難しいね」京極は人差し指を立てて言った。「床を見てごらん。血は四方八方に飛び散っている。ってことは黒薔薇ちゃんは首を切られてから四方に動いたということなんだ。犯人が押さえつけていたのなら、限られた方向にしか血が飛ばないかもしれないけど、現場にはその痕がない。まるで幽霊みたいな奴だなぁ。ホント調べれば調べるほど不思議な事件だよ」
「Xは殺し慣れている人間かもしれませんよ。例えば黒薔薇様の首を切って、素早く布団の中に隠れるとかしたかもしれません。そうすれば血痕から逃れることが出来る。幸い、布団にも血が飛び散っていますよね。布団で返り血を浴びることを防いだということはありませんかね?」
すると、京極は「プッ」と吹き出し、
「凄い超絶推理だね。首を切って素早く布団の中に隠れる。忍法隠れ蓑術ってことか。Xが殺し慣れてる可能性はなくはないけど、普通人を殺せば僕らに捕まるのが当たり前だから、あんまり現実感のない話だよね」
「で、ですが、指名手配の人間の仕業ってこともありえますし」
「指名手配されている人間が新たに人を殺すなんてことは考えにくいよ。皆人相が変わり、慎ましく暮らしていることが多いからね。Xが殺し慣れてるという推理は却下。それに長靴を履いた可能性が高い。そうなるとやっぱりこの館の誰かということになる。まぁ半日後にはすべて分かるよ。それまでの辛抱だね」
御子柴は黙り込んだ。とにかくこの事件には不可解なことが沢山ある。現場にいることなく、黒薔薇の首を切った。その可能性が高い。しかし、そんな神懸り的なことが出来るのであろうか。
「京極さんは白薔薇様が犯人であると言っていましたよね。ってことは、白薔薇様は返り血を浴びずに、それに布団の中に隠れずに、凶器を隠し、犯行をやり遂げたことになりますよ。そんなことが白薔薇様に出来るのでしょうか?」
「さぁね。だけど白薔薇ちゃんは警官だし、それなりに捜査の知識はあるだろうから、出来なくはないかもね。ただ、返り血は浴びないっていうのは不可解この上ないことだけど」
「現場におらず、人を殺害するなんて出来ませんよ。ってことはつまり、白薔薇様が犯人ではないという証明ではないでしょうか」
「でも僕の特殊能力が白薔薇ちゃんが犯人だって言ってるからねぇ。どうにかして不可能犯罪を可能にしたんだよ。まぁ一通り捜査をすれば直に分かるよ」
時刻は午前十時を回ろうとしている。
既に捜査が開始されてから二時間ほどが経った。捜査は順調に進み、少しずつ事件の全貌が明らかになる。但し、依然として殺害方法と凶器は分からなかった。
そんな中、京極が言った。
「僕は一旦退散するよ。また夕方来るから」
御子柴は口をだらしなく開けたまま、
「え、どこへ行くんですか?」
「県の検察庁だよ。ちょうど支部がこの近くにあるからね」
「なんでそんなとこに行くんですか?」
「押収したした物はすべて検察庁へ持って行き、そこで調査するんだよ。その結果を聞きに行こうと思ってね。後は大学の解剖室で黒薔薇ちゃんの解剖が行われるからその詳しい話も聞きたいし」
あっけらかんと言う京極。彼はポケットの中に手を突っ込み、ヴェルタース・オリジナルの飴を取り出し、それを口の中に放り込むと、大して舐めもせずにぼりぼりとお煎餅を噛むように食べ始めた。立て続けに三つほど食べると、お腹を摩りながら声を出した。
「それにそろそろお腹も空いたし。何か食べたいしね。一応、この館には見張りをつけるから、多分板山君になると思うけど、仲良くしてあげてね。あ、安心してよ。御子柴君にもちゃんと情報を与えてあげるから」
「僕は白薔薇様が犯人であるとは思えません。絶対に別に犯人がいると思います」
京極は大きく伸びをする。出っ張ったお腹が震え、シャツのボタンが今にも飛びそうになっている。
「君はあくまで僕の力を信じないってことか。……まぁ良いけど。僕は夕方またここに来る。それまでに白薔薇ちゃんが犯人じゃないっていう証拠でも集めておいてよ。まぁ無駄だと思うけど、欲しい情報があれば板山君に聞けば良い。僕がそう話をつけておくよ」
「何としても白薔薇様が犯人ではないという証拠を集めて見せます」
「ふ~ん。大した自信だね。まぁ良いや。頑張ってよ。僕も君の推理を楽しみしてるから。やっぱり館には探偵だよね。ああぁ、僕も探偵になれば良かったなぁ」
本気なのか冗談なのか分からない口調で京極は言った。その後、のしのしと象のように部屋を出て行った。それを見計らい、御子柴も黒薔薇の部屋を出る。そして、リビングへ向かった。
リビングに着くと、蔓田、棘丸、花弁の三人の姿があった。一体なぜだろうか? 白薔薇の姿がない。三人はリビングに入って来た御子柴のことを見るなり、打ち合わせでもしていたかのように一斉に立ち上がった。
「御子柴!」
まず声を出したのは蔓田だった。
顔は蒼白で小刻みに震えている。余程緊張した時間を過ごしていたのだろう。
「どうも、一通り調査を見てきました」
「なんで犯人である貴様が調査をしているんだ。貴様は今頃警察の牢獄か、取調室にいるはずだろうが」
「落ち着いてください。僕は決して犯人ではありません」
冷静な口調で御子柴が言うと、蔓田の隣に立っていた花弁が声を発した。
「は、犯人は分かったんですか?」
目はうるうると水分を含んでいて、今にも泣きそうである。果たして真実を話すべきなのだろうか。白薔薇が容疑者の筆頭になっている。否、京極は確定させている。その話をすればこの三人の執事とメイドは酷く驚くだろう。しかし、白薔薇の容疑を晴らすためには御子柴一人の力では不十分である。多くの人間の力がいるはずだ。
「容疑者は既に警察の中で決まっているようです」
「だ、誰なんですか?」
意を決し、御子柴は口を開いた。
「白薔薇様です」
白薔薇という言葉が御子柴の口から放たれたとき、リビング内は死のように静まり返った。皆、今聞いた言葉が真実なのかどうか分からないといった表情を浮かべている。
何秒ほどだろうか、沈黙状態が流れた。時間の進みがこれほど遅く感じられたことはない。御子柴は額に浮かび上がった脂汗を手で拭き取り、三人の反応を待つ。
依然として固まる三人であったが、まず口を開いたのは痩身の執事、棘丸だった。
「み、御子柴さん。僕の耳がおかしくなければ、よ、容疑者は白薔薇様ということが聞えたんですけど……」
あくまで御子柴の言うことが信じられないようである。もともと細身である棘丸は死体のように青ざめ、押せばたちまち崩れてしまう氷細工みたいに見えた。
「警察は」御子柴は瞬きをした後言った。「白薔薇様を犯人だと考えています。でも僕は違うと思います。白薔薇様が黒薔薇様を殺すはずはありません。きっと何かの間違いです」
「そ、そりゃそうですよ。白薔薇様が犯人であるはずがありません。どうして白薔薇様が疑われているんでしょうか?」
御子柴は京極という刑事の特質を淡々と述べた。つまり、特殊な力があるということ、それとある程度の知識があり、捜査を進めているということ。御子柴の言葉を三人は受験生のように真剣に耳を傾けていた。御子柴の話が終わると、花弁が言った。
「京極さんって方は信頼出来る方なんですか? あたしが少し見たところによると、何かお坊ちゃんみたいな感じであんまり刑事さんという感じがしなかったのですが」
花弁の感じた印象は概ね正しい。御子柴だって捜査中にお菓子をぼりぼり食べたり、ねっ転がったりする刑事を敏腕捜査官とは思えない。ただ妙に説得力はあるのだ。白薔薇が犯人だということも、きっと京極なりの考えがあってのことなのだろう。でなければあそこまで自信たっぷりには言えないはずだ。
「御子柴」次に言ったのは蔓田だ。「貴様、嘘をついているんじゃないだろうな? 自分が犯人になりたくないから、恐れ多くも白薔薇様を犯人に仕立て上げようとしている。そうだったら私は貴様を許さんぞ」
わなわなと震えている。
しかし御子柴は首を左右に振り、
「僕は嘘をついていません。それに白薔薇様が犯人だなんて僕には到底考えられません。そこで皆さんにも協力してもらいたいんです」
御子柴の言葉を受けて、棘丸が答えた。
「協力ですか?」
「はい。皆で力を合わせて白薔薇様の容疑を晴らしたいと考えているんです。夕方、京極さんはここにやって来ます。その時まで白薔薇様が犯人ではないという証拠を集めたいんです。そのためには僕の力だけでは不十分です。皆さんの協力がいるんです」
「も、勿論協力しますよ。白薔薇様は僕たちにとっても大切な方です。そんな方が容疑をかけられているのなら、ぼ、僕らはそれを解く手伝いをしなければなりません」
意気揚々と告げる棘丸。
その後に花弁が素早く口を挟んだ。
「あたしも協力します。絶対に白薔薇様は犯人じゃありませんよ」
その後、御子柴、棘丸、花弁の視線が一斉に蔓田に注がれる。蔓田は鼻をフンと鳴らすと、開口一番、
「私も協力するに決まってるだろう。だが御子柴、貴様は本当に犯人じゃないんだな?」
問われた御子柴は首を上下に振りながら、
「僕は犯人ではありません」
「貴様が犯人ではない。勿論白薔薇様も犯人ではない。当然、私たち三人も違う。となると一体誰が犯人になるんだ?」
「Xです。棘丸さんが闇の中で見たという亡霊のような人間です。もうXが犯人であるということは確実でしょう」
「Xか。そいつは今頃どこで何をしてるんだろうな。殺人を犯して冷静でいられるほどタフな奴が村人の中にいるとは思えないがな」
「それを今から調べるんです。そういえば、白薔薇様はどこへ行ったんですか?」
蔓田はふうとため息をつくと、眉根を寄せ、
「白薔薇様はお父様とお母様の容態を確認するために、麓の自宅に向かわれた。だから今はここにはいない。それに相当ショックを受けておられるようだったから、少しそっとしておいた方が良いかもしれん」
「そうですか、なら丁度良いです。皆で手分けしてXを探し出しましょう」
四人が一致団結をしてさぁ捜査をしようという時だった。リビングのトビラが開かれ、板山と数名の警察官が入って来た。
「ここにいたのか」板山はそう言うと、四人を見渡し、「これから取調べを行う。狭くて申し訳ないのだが、村から一番近い警察署に行ってもらう。私と一緒に来たまえ。それとこの館はすべて調査する為に関係者以外は立ち入り禁止になる。しばらくは入れなくなるから注意してほしい」
取調べとは穏やかではない。独自に捜査を始めようとしていた御子柴は出鼻を挫かれ、渋い顔を浮かべた。皆は板山に言われるがままに、リビングから消えた。
玄関をくぐり外に出ると、一斉に冷たい視線が御子柴に注がれる。警官たちが興奮する村人たちを抑え、その隙に御子柴、蔓田、花弁、棘丸の四人は板山の運転するパトカーに乗った。
助手席に御子柴が乗り、後部席に他の三名が座る。全員が揃ったことを確認すると、パトカーが発進した。
村を越え県道に出る。道は空いておりすいすいと車は進む。パトカーの中から眺める風景はどこか哀愁じみていて、気分を鬱屈させた。一体、どんな取調べを受けることになるのだろう。後部席の三人の空気も重い。どんよりとしている。
御子柴は取調べを受けたことがないが、警察の取調べという厳しいと聞く。話によれば無理矢理に自白させられることもあるそうだ。
二〇分ほどで警察署に到着した。かなり年季の入った警察署で建物自体も大きくない。四階建ての小ぢんまりとした警察署であった。
警察署に入るなり、四人は板山に連れられ三階の廊下まで進んだ。直ぐに準備するということになり、四人はしばし放置された。三分ほど時間が過ぎるのを待つと、最初に蔓田が呼ばれた。蔓田が廊下の一番奥にある部屋に連れて行かれると、ひっそりした空気が残された御子柴、棘丸、花弁の三人を覆った。
沈黙する空気の中、花弁が口を開く。
「……あ、御子柴さん、本当に京極さんの言うことは正しいんですか?」
御子柴は大きく息を吸い込んだ後、
「彼曰く、自分には犯人を見つける特殊な力があるそうです。その能力を使い、白薔薇様が犯人であると決め付けているんですよ。全くおかしな話です」
「そ、そうなんですか。でも警察の人が言うのだから、何かしら根拠があるのかもしれませんね」
彼女の言葉を聞き、棘丸は眉根を寄せながら、言葉を返した。
「は、花弁さん。もしかして白薔薇様を疑っているんじゃないでしょうね」
鋭い視線が花弁に注がれる。花弁はその視線を受け止めながら、
「い、いえ。そういうわけじゃないんですけど、ただ、白薔薇様と黒薔薇様ってたまに大喧嘩するじゃないですか? 働いていないとか、働くとかで、あたしもそれに巻き込まれたことがあって、白薔薇様が疑われても仕方のないような気がするんです。で、でもだからといって白薔薇様が犯人だと言うわけじゃないんですけど」
「そ、それは姉妹なんですから、喧嘩くらいしますよ。と、特に白薔薇様と黒薔薇様は瓜二つの双子なんですから」
「じゃあ、やっぱり棘丸さんが見たXという人間が犯人なんでしょうか?」
Xという言葉を聞き、棘丸は少し間を置いた後、ゆっくりと首を縦に振った。棘丸はあくまでもXを犯人だと決め付けているようだ。この辺は白薔薇を犯人だと決め付ける京極と変わりはない。
「しかし……」二人の会話を聞いていた御子柴が言った。「Xというのは一体誰なんでしょうか? 村人には黒薔薇様に恨みを持つ人間なんていないでしょうし」
「い、否、そうでもないかもしれません」棘丸が緊張の面持ちで答える。「そ、村長さんいますよね。彼は確か黒薔薇様に対してあまり良い印象を持っていないような気がします」
村長。新たな容疑者が出てきた。御子柴は軽く頷きながら、棘丸と花弁の反応を待つ。
次に口を開いたのは花弁だった。
「村長さんがそんなことするはずありませんよ。それに黒薔薇様に対して良い印象を持っていなかったってどういうことなんですか?」
「い、いえ、あくまでも僕の考えなんですけど、村の仕事を手伝うときに、村長が来ますよね? その時あまりいい顔をしていなかったと思うんですよ。村は黒薔薇様の一家が治めているといっても過言ではありません。そ、その体制に村長が嫌気を差しているのだとしてもおかしくはないですよ」
「ちょっと待ってください。それならどうして黒薔薇様を殺害するんですか? 黒薔薇様は当主ではありませんよね。まず狙われるのは当主である黒薔薇様のお父様ではないでしょうか?」
「じ、次期当主を殺すことで、黒薔薇様の一家を滅亡させようと試みたとか、そんな可能性はありませんかね」
次期当主は長女である白薔薇になるはずであろう。
話がどんどんとおかしな方向へ進んでいく。村長=Xという可能性はなくはないのであろうが、御子柴にはありえない御伽噺のように聞えた。第一、黒薔薇の館に白薔薇を呼んだのは村長なのである。本当に黒薔薇を殺すつもりがあるのなら、警官である白薔薇を館に呼ぶことはないだろう。
棘丸と花弁が沈黙していると、御子柴が口を開いた。
「やはり、X=村長という可能性は低いですよ」
すると棘丸はキッと細い目を御子柴に向けた。
「ど、どうしてですか?」
「棘丸さんが見たXという人影は小柄だったんですよね。女性のようだと言っていませんでしたか?」
「た、確かにそうですけど、変装することは可能なんじゃないでしょうか? だ、だって夜ですし、僕が見たのもほんの一瞬なんですから」
ほんの一瞬見た影を村長だと断言出来ることが凄いと思いながら、御子柴は棘丸を見つめた。
「井戸がありますよね」
唐突に御子柴は話を変えた。
井戸という言葉を聞き、棘丸も花弁も視線を御子柴に向けた。
「井戸ならありますけど」花弁が言った。「今は使っていないんですよ」
「ええ。知っています。でも実はあの中に何者かが入った可能性があるんです」
「そ、そんな馬鹿な。何でそんなことをするんですか?」
と、棘丸が言った。
しばらく間を置いた後、御子柴は答える。
「恐らく凶器を井戸の中に放り込んだ後、やはり危険だと思い、井戸の中に入ってそれを持ち去ったという可能性が高いと言われています。井戸の周りに血痕が飛んでいたらしいですよ。血痕は今鑑識の方が調べているはずです」
「く、黒薔薇様の部屋だけでなく、外にまで血が飛び散るなんてありえない話ですよね」
棘丸は視線を御子柴が外し、俯きながら答えた。
その後、花弁が言葉を重ねた。
「で、でも凶器って何なんですか? 黒薔薇様は首を切られたんですよね? やはりナイフなんでしょうか?」
「それは……」御子柴は物憂げな表情を浮かべ、「今警察が調べていますが、黒薔薇様の遺体を見る限り、鋭利な刃物で切られた可能性が高いとされています」
「だからこの館の包丁などを持って帰ったんですね」
「ん、どういうことですか?」
御子柴は顔を上げ、花弁を見つめると、彼女が素早く言った。
「あの、御子柴さんと京極さんが二階でお話されている時、あたしたちはリビングにいたんですよ。何をするわけでもないですけど、話をしていたんです。その時、捜査員の方が何人か来て館にある刃物をすべて押収して行ったんですよ。その後ここに来ることになったんです」
「そんなことがあったんですか。知りませんでした」
恐らく、京極の手回しであろう。のんびりとお菓子を食っていた割に、意外とやることはやっているのである。御子柴は少しだけ京極のことを見直した。
「それで花弁さん。昨日の夜、僕と棘丸さんが外に散歩しているとき、何をしていましたか?」
突然の問いに面を食らう花弁であったが、目を細め、何かを思い出すように口元に人差し指を置いた後、
「あたしは自室にいました。大方の片付けも終わりましたからね」
「黒薔薇様には会わないんですか?」
「はい。黒薔薇様は早くにお休みになられますし、あたしは鍵を持っていません。だから部屋にこもって母と電話していました。黒薔薇様の部屋に何者かが侵入したなんて分かりませんでしたよ」
母親と電話していた。花弁の口調を見る限り、彼女が嘘をついているとは思えない。本当に花弁は何も知らないのだろう。
時刻は十二時を迎えた。お昼時であるが、事件があったということもあり、誰も何かを食べようとはしなかった。そんな時、板山が小走りでやって来た。板山は棘丸と花弁に視線を送りながら、
「すまない。何分古い建物なんでなかなか空いた部屋がなくてね。ええと、花弁さんと棘丸君一緒に来てくれ」
その言葉に花弁が答える。
「二人同時に取調べをするんですか?」
「否、別々の場所で行う。本来なら四人一斉に取調べを行いたいのだがね。まぁ仕方ない。とにかく来てくれたまえ。それほど時間はとらせない」
「僕は?」御子柴が言う。「僕はどうすれば良いんですか? 取調べしなくても良いんですか?」
「念のため、君からも話を聞こうと思う。だがもう少し待ってくれないか。なかなか人員が取れないし、部屋数も限られているんだ」
そう言われ、仕方なく御子柴は納得した。この辺の緩さは警察が白薔薇を犯人だと仮定しているからなのであろうか? 通常ならば取調べを一斉にしなければ意味がないように思えるが……。
花弁と棘丸は取調室に連れて行かれた。二人とも緊張で肩が小刻みに震えている。
一人残された御子柴はぼんやりと辺りを見渡した。確かに板山の言うとおり、この警察署は小さくて狭い。それほど部屋数が多くないのは本当だろう。五分ほど待っていると、廊下の一番奥にあった部屋から蔓田が出て来た。
御子柴はあまり蔓田が得意ではない。蔓田もそれを感じ取っているのであろう。蔓田は御子柴の隣に足を進めると、視線を御子柴には注がずに天井を見上げた。
二人の間に沈黙が走る。居心地の悪い時間だ。御子柴はそわそわとしながら早く時間が過ぎて、棘丸と花弁が戻って来るのを待った。
そんな中、徐に蔓田が声を発した。
「御子柴。お前は白薔薇様が犯人だと思うのか?」
突然の問いに、御子柴は固まった。しかし何かを言わなくてはならない。搾り出すような声で答えた。
「僕は白薔薇様が犯人であるとは考えていないです。しかし、警察はそうではないようですね」
「そのようだ。それは取調べを受けて分かった」
「取調べではどんなことを聞かれたんですか?」
「簡単なことさ。昨日の夜何をしていたのか? ということや、この館に来た背景。それに白薔薇様との関係。後は黒薔薇様に恨みを持った人間はいないかということだな。昨日の夜のことだ。あまり突飛なことは聞かれなかった。後は、指紋を取られたということくらいだな。恐らく花弁や棘丸も同じはずだ。いずれにしても、向こうは白薔薇様を容疑者として捉えている。それは間違いない」
「昨日の夜。僕と棘丸さんが外に散歩していたとき、蔓田さんは何をしていたんですか?」
「私か、私は特に何もしていない。自室でこもっていたんだ」
「それを証明出来る人はいますか?」
と、御子柴が言うと、蔓田はスッと顔色を変えた。
「お前、まさか俺を犯人にしようとしているんじゃないだろうな?」
「違いますよ。ただ、何をしていたのか知りたいだけです」
相変わらず不満そうな表情を浮かべていた蔓田であったが、ため息を一つつくと、問いに答えた。
「私は自室にいたからな。仕事を終えた後は大体そうなんだ。黒薔薇様は早くに就寝されるし、残された仕事は殆どない。部屋にこもり小説や雑誌を読んでいた。だからそれを証明出来る人間はいないな」
「そうですか」
残念そうに言う御子柴。蔓田が本当に部屋にいたかという証拠はない。だがこれだけ黒薔薇に心酔しているのだ。蔓田が犯人という可能性は殆どないだろう。
「蔓田さん、黒薔薇様の部屋で何か変わった音とか聞きませんでしたか? それに白薔薇様はその時間帯何をしていたんでしょうか?」
「黒薔薇様の部屋では特に何もなかったさ。異変があれば直ぐに気づく。だが私は二階にいたからな。昨日の夜は……、否、待てよ、黒薔薇様の部屋で何か物音が聞えたような気がするんだ」
「物音ですか?」
「あぁ。部屋の中を動き回る音だよ。黒薔薇様が就寝後、部屋の中を動いたのは間違いない。しかし妙だな。あれだけの傷を受けたにもかかわらず、黒薔薇様は悲鳴一つ上げなかったんだから」
そう、黒薔薇は悲鳴を上げなかったのである。
夢遊病で眠っている間に首を裂かれ、死んだということになる。これは不可解であった。御子柴は考えを巡らせながら質問を続ける。
「それで白薔薇様は?」
「あ、あぁ。それなんだが、白薔薇様は貴様が最初に泊まるはずだった部屋に戻り、そこで過ごしていたはずだ。途中一階に降りて行ったが、数分で戻って来た。だから黒薔薇様を殺害するなんて時間はなかったはずだ。第一、白薔薇様が妹である黒薔薇様を殺すなんてことはないだろう。そりゃ二人はつまらないことでしょっちゅう喧嘩をしていたが、姉妹ではよくある光景のはずだ。私だって兄弟がいる。たまには喧嘩もするさ。特に私はニートが長かったからな。そのことで兄には冷たく言われたものさ」
「そうなんですか。白薔薇様は何分くらい一階に行っていたか分かりますか?」
その問いに、蔓田は時刻を確認した後、
「多分だが、一〇分、否、もっと短かったかもしれない。いずれにしても人を傷つけるには短過ぎる時間だ」
一〇分以下の時間なら、白薔薇に黒薔薇を殺すことは出来なかったはずだ。しかし、事実黒薔薇は亡くなった。それも首を切られて。やはり、Xという人間が犯人なんだろうか? 御子柴はそこまで考えを推し進めると、鼻をすすり口を開いた。
「さっきまで棘丸さんと花弁さんでXとは誰かという話をしていました。そこで村長ではないかという話が出たんですが、蔓田さんはどう思いますか?」
しばし沈黙した後、蔓田はスッと口角を上げ質問に答えた。
「村長か。そんなわけはないだろう。村からここまではある程度の距離があるし、村人は夜になれば山には入らない」
「ですが、白薔薇様を呼んだのは村長ですよ。彼は昨日の夕方ここにいたということになります。つまり、山の中に潜伏していたとしてもおかしくはありません」
「それはないな。村の情報網を舐めない方が良い。誰かが帰らなくなればあっという間に広まるのが村の特性だ。昨日の夜、我々の許にそんな話は来なかった。ということは村長は普通に家に帰ったんだよ」
インターネットすらないような村の情報網が凄まじいというものは意外であったが、よく考えれば村という一つのコミュニティーだからこそ、噂が広まるのは早いのだと思えた。その証拠に事件のことを誰が言ったわけでもないのに、館の周りには物凄い数の村人が野次馬として集まって来ていたではないか。
御子柴が考え込んでいると、蔓田が言った。
「凶器がまだ見つかっていないらしいな」
そう。凶器はまだ見つかっていない。その代わり、井戸の周りには血痕が付着している。不可解だが、井戸に凶器を放り投げた可能性があるのだ。
「そうです」御子柴は言った。「刃物かそれに近い何かを使ったのは間違いないようですけど……」
「村に鍛冶屋がある。もう殆ど活動はしていないが、頑固な爺さんが一人で刃物を作っているんだ。今では包丁なんかを研ぐだけだがな」
「そんなところがあるんですか、でもそこで刃物を買ったとは思えないですよ」
「もしかしたら鍛冶屋の爺さんが犯人かもしれないな。あそこなら多少おかしな刃物があってもおかしくはない」
そんな馬鹿な。一体鍛冶屋のお爺さんにどうして黒薔薇を殺さなければならないという動機があるのだろうか。
「考えにくいですよ」
と、御子柴は仔細ありげな表情を浮かべ言った。
その言葉に些かの不満を覚えたであろう蔓田は、キリッと御子柴のことを見据えながら答える。
「どうしてそんなことが言える? 鍛冶屋の爺さんは少し変わり者だからな。もしかしたら何か黒薔薇様に対して恨みを持っていたかもしれない」
「もしそうであれば、警察が事情を聞いているんじゃないでしょうか? 村にも捜査員が派遣され、色々と聞き込みを行っているみたいですし」
相変わらず不満そうな顔をしている蔓田であったが、廊下に置かれたベンチに座った。キシッとベンチの音が鳴り、再び廊下は静かになった。
凶器もどこかへ消えて犯人は白薔薇だとされている。だが、白薔薇が黒薔薇を殺すとは思えないし、他の容疑者も浮かび上がらない。
「あの」オドオドとしながら御子柴が言った。「本当に殺人事件なんでしょうか?」
蔓田は頭をポリポリと掻きながら、
「本当のところは分からない。だが、アレだけの血痕が飛ぶような事故は一体どんなものであるか皆目見当もつかない」
「でも返り血を浴びた人はいないし、黒薔薇様の部屋の床には均一に血が飛んでいるんです。それは現場に犯人がいなかったという証明ではないのでしょうか?」
京極も同じことを言っていた。現場には均一に血が飛んでいたのである。犯人がいれば間違いなく返り血を浴びていたのにもかかわらず、現場にはその痕が全くない。犯人は魔法のように消えたのだ。そんなことが果たして白薔薇に可能なのであろうか?
白薔薇は交番のお巡りさんであるから、多少事件について知識があってもおかしくはない。だがしかし、交番のお巡りさんはこんな陰惨な事件には遭遇しない。それにどうして妹である黒薔薇を殺さなければならないのか?
いくら考えても答えは出ない。京極は今頃どうしているのであろうか? 御子柴はそんなことを考えながら時間が過ぎるのを待った。徒に時間が過ぎ、丁度十三時を回った頃に棘丸と花弁が戻って来た。
最後に取調べを受けるのは、勿論御子柴である。御子柴は板山に呼ばれて廊下の奥の部屋に赴く。板山は淡々としている。やはり捜査歴が長いから、今回の事件も彼にとっては沢山ある事件のうちの一つなんだろう。
取調室に着くなり、板山は中央にあるパイプ椅子にどっかと座った。対面にあるデスクの上にはA4サイズのノートが広げられている。取調室には板山の他はいなかった。
「まぁ座ってください」
板山はそう言った。
デスクの対面には年季の入ったパイプ椅子が置かれている。御子柴はそこに座り込んだ。椅子が僅かに音を上げる。
「御子柴さんでしたよね。気を楽にしてくださいよ。色々と警部から聞いているんです。探偵なんですよね?」
いつの間にか御子柴は探偵ということになっている。一体京極はどういう説明をしたのであろうか? ただの旅人である御子柴は決して探偵ではない。だから推理小説のように超絶的な推理を展開出来るわけでもないし、独特の観察眼があって微細な情報を逃さないということも出来ない。
「はぁ」と、御子柴が大きなため息をつくと、それを見た板山がクスッと笑った。
「あなたも大変ですね。犯人されたり、探偵にされたり、色々と肩書きが変わりますから」
その言葉に御子柴は答える。
「そうですね。特に京極さんは変わった刑事さんのようですからね。色々と振り回されました」
「でもあの人は凄いんですよ。キャリアでもないのに実力だけで警部に上り詰めた。ノンキャリアで三十で警部というのは普通だったらありえません。あの人だから出来たことなんです」
と、板山は自分のことのように告げる。
余程京極のことを慕っているのであろう。蔓田、棘丸、花弁が黒薔薇を心酔しているように。
「板山さんは」早速御子柴は言った。「京極さんの特殊な力を信じているんですか?」
「特殊な力というのは犯人を導き出すあの鋭い眼力のことですね。勿論信じています。というよりも信じざるを得ないですね。あの人はこれまで数多くの事件を解決してきましたが、一度も犯人を間違えたことはありません。これはもう神懸りですよ。普通だったらそんなこと絶対にないです」
「そうなんですか。でも今回の事件だけは別かもしれません。何しろ容疑者となっているのは被害者である黒薔薇様の姉である白薔薇様なんですから」
「ええ。そうですね。普通だったら私も信じませんよ。ですが、警部が白薔薇さんが犯人だと言っている。そうなればもう犯人は白薔薇さんで決定なんです」
「白薔薇様が犯人だという証拠はあるんですか?」
「午前中に押収した物を今調べています。これから徐々に調査結果は出るでしょう。そうすれば必ず白薔薇さんが犯人であるという証拠が出てくるはずです。まぁそれまでの辛抱ですね」
「凶器は見つかったんですか?」
何気なく尋ねる御子柴。その言葉を聞き板山は顔を曇らせた。
「凶器は未だに見つかっていないですよ。村に鍛冶屋があるのはご存知ですか?」
先ほど蔓田がそう言っていたのを思い出し、御子柴は首を上下に振りながら、
「ええ。知っています。お爺さんの職人がやっているという話でしたが」
「知っているなら話は早いです。何でも結構腕の立つ職人らしいですよ。既に捜査員が事情聴取に行ってますが、特に有益な情報は出ていないようです。ただ、気になることがありましてね」
そこまで言うと、板山は不意に眉間にしわを寄せ、困ったような顔つきになった。
不思議に思った御子柴は板山に視線を合わせ、質問を飛ばす。
「何かあったんですか?」
「警部にあなたにも情報を与えて欲しいと言われているので信頼してお話します。鍛冶屋の老人の名前を茎村というのですが、茎村さんはどうやら白薔薇さんから何らかの依頼を受けたようなのですよ」
「白薔薇様の依頼? それは何ですか?」
「それが分からないんです。もともとこの情報は茎村さんの口から聞いたものではなく、茎村さんの仕事場の近くに住んでいる老夫婦から聞いたものなんです。何でも白薔薇様が茎村さんの仕事場に足を運んでいたそうです」
「一体、なぜそんなことをしたんでしょうか? 茎村さんと白薔薇様は仲が良かったんですか?」
御子柴が尋ねると、板山は大きく瞬きをして間を作った。室内が静寂に包まれる。
「仲が良かったとは思えません。何しろ歳が四十歳以上離れていますからね。かなり頑固なお爺さんで、我々警察の言うことは殆ど聞く耳を持ちません。これは謎ですよ」
「どうして謎なんですか? 警察を毛嫌いしている老人は多いと思いますけど。ほら、警察って昨今色々な不祥事が多いじゃないですか」
御子柴が皮肉を言うと、板山はそれをさらりと受け流しながら、
「仰ることは分かります。ですが今回の事件では違うのですよ。黒薔薇様という村のシンボルが何者かに殺された可能性が高い。だからこそ、村人は皆我々に協力してくれるんです。村が一丸となって犯人を逮捕しようとしている。にもかかわらず茎村さんだけは違うのですよ。これは不可解と言うしかありません」
村人が犯人を捕まえようとし、一人だけその波に乗らない。確かに不可解なことだ。茎村という老人は何かを隠している可能性が高い。御子柴は顎を引きそんな風に考えていた。
「確かに怪しい人ですけど、何とも言えないですね。気難しい老人が村にいてもおかしくはありませんし」
「その通りです。ただ、凶器が見つかっていない以上、鍛冶屋を疑うのは仕方のないことなのですよ」
「警察ではどんな物を凶器と考えているんですか?」
と、御子柴が問うと、板山は髪の毛をサッと掻き上げながら答えた。
「凶器は刃物でしょう。致命傷になった首の傷を見る限り、まず間違いなく刃物かそれに近い物によって頚動脈を切られたことが死因です。しかし……」
「犯人は返り血を浴びていないという不可解なことが起きているということですね」
サッと顔を上げ御子柴が言うと、板山はコクリと小さく頷いた。返り血を浴びない犯人。床には均一に血が飛んでいる。これは何を意味しているのだろうか。
「犯行現場には犯人がいなかったのでしょうか?」
と、御子柴が尋ねた。すると板山は大きく開けていた目を細めた。疲れが出ているのであろう。少しだけ元気がないように見える。
「犯行現場に犯人がいなかった可能性は高いです。既に知っていると思いますが、現場に残された血痕を見る限り、犯人が返り血を浴びているとは思えないのです」
「間接的に刃物で殺したんでしょうか?」
「それはまだ分かりません。どうやって間接的に黒薔薇さんを殺すのか? その辺は全く見当がつきません。魔術のような犯行ですよ」
空気が重苦しくなる。Xという人物が実在するなら、Xは一体どのようにして黒薔薇の頚動脈を切ったのであろうか? 否それよりも、
「ちょっと良いですか」片手を静かに上げ、御子柴が言った。「本当に今回の事件は殺人事件なんですか?」
意外な言葉に、板山は細めていた目をくわっと見開いた。
「自殺だと考えているんですか?」
「ええ。それか事故ではないかと」
「事故も自殺の可能性もありますが、今の段階では断言出来ません」
そこで御子柴は京極が言っていたことを思い出した。自殺をする場合、自らの首を切って死ぬ人間は少ないのだそうだ。
しばし御子柴が沈黙していると、板山が続けて言った。
「自殺の場合、必ず凶器が残るでしょう。でないとおかしい。あなた方が黒薔薇さんの遺体を発見したとき、凶器は落ちていなかったんですよね? となれば自殺の線は薄くなります」
そう。黒薔薇の遺体を発見したとき、現場には凶器は落ちていなかった。もしかしたら、蔓田、棘丸、花弁、白薔薇の誰かが事前に遺体を発見していて凶器を持ち去ったという可能性もあるが。
さらに板山は言葉を継ぐ。
「自殺となると、遺書もありませんし、話を聞く限り、黒薔薇さんには死ぬ理由がないんです。自殺というのはかなりおかしなことですよ」
「じゃあ事故っていうのは? 黒薔薇様は夢遊病を患っておられます。ですから何らかの事故に巻き込まれた可能性があっても決しておかしくはないんですよ」
「ええ。ですが事故という線も考えにくいです。頚動脈をばっさりと切る事故ですからね。一体どういうことをすればそんな事故になるのでしょうか?」
「夢遊病ですから、自分でも気づかぬうちに刃物で首を切ってしまうとか? そんなことはありませんかね?」
「黒薔薇さんの部屋には刃物やそれに近い物がなかったですからね。それにいくら夢遊病だとしても自分の首を切るなんて事故はおかしいですよ」
話は堂々巡りである。
考えれば考え込むほど謎めいた話である。カーテンの隙間から柔らかい日差しが差し込んでいて、何だか場違いなように思えた。御子柴はスッと深呼吸をして部屋の中をぐるりと見渡した。確か、黒薔薇の部屋には絵画を飾るフックと、五百円玉くらいの厚さの奇妙な穴が開いていたのである。
「そういえば……」御子柴は一息ついて、「部屋には謎の穴がありましたよね? 警察ではアレをどう考えているんですか?」
板山は穏やかに唇をくっと上げながら、
「ええ。あの穴も謎です。何しろ血痕が付いていますからね」
「血痕が付いているということは、あの穴から凶器を入れたんじゃないでしょうか?」
「そうですね。しかし、穴といっても平べったい穴ですよ。日本刀じゃ入らないだろうし、果物ナイフじゃ短過ぎる」
その言葉を受けて、御子柴は首を傾げながら声を出した。
「紙とかどうですか? ほら、本やレジュメなんかを読んでいて、紙の端で指を切るってことがあるじゃないですか。あの応用で首を切るとか可能なんじゃ?」
「流石は探偵、と言いたいところですが、それは推理小説の読み過ぎですよ。紙では頚動脈を切るほどの殺傷力はありません。ですが、あの五百円玉くらいの厚さの穴から何らかの凶器を差し込んだという可能性は高いんです。血痕がそれを証明していますからね」
板山は泰然として言った。
では、他に考えられる凶器は何であろうか? 考えを巡らす御子柴であったが都合の良い凶器は思い浮かばなかった。
「僕らはこれからどうなるんですか?」
素朴な疑問である。御子柴は狼狽しながら尋ねた。その問いに、直ぐに板山は答える。
「念のため指紋採取にご協力ください。本来なら身体調査令状というものが必要なのですが、今回は時間がないために、同意書を用意しました。まぁ任意なので、嫌であれば無理強いはしません。蔓田さん、花弁さん、棘丸さんには同意を得ました」
と、言い、板山はデスクの中から白いA4の紙を取り出した。どうやら同意書のようである。御子柴は仕方なく、同意書にサインし、その後指紋の採取を受けた。
指紋採取が終わると、御子柴が重々しく口を開く。
「白薔薇様はどうなるんですか? ええと、麓のご実家に戻られたと聞きましたけど」
「かなりショックを受けているようですからね。ですが、早急に取調べを受けてもらうことになります。恐らく明日か、早ければ今日中に」
「そうですか」
「この後のことですが、今日は警察署を出てもらいます。黒薔薇さんの自宅、つまり、白薔薇さんがいる村の実家の方へ戻って頂くことになるでしょう。黒薔薇さんの館はすべての部屋を捜査しますからね」
「そうなんですか。じゃあ僕はまだこの村に滞在することになりますね」
「ええ。そうなります。申し訳ないのですが、あなたの荷物も一旦預かります。どうか、もうしばらくの辛抱をよろしくお願いします」
板山の取調べはあまり有益なものにはならなかった。知っていることの再確認が多い。それに板山らは御子柴を容疑者から外し、あくまで白薔薇が犯人であるという姿勢を崩さない。白薔薇が犯人ではないという証拠を集めないとならない。
時刻は二時を回り、一旦廊下に戻った御子柴は昼食も摂らずに、村の中央にある黒薔薇の実家へ赴くことになった。
パトカーで一旦麓にある黒薔薇の実家まで送ってもらった後、御子柴、蔓田、花弁、棘丸はそれぞれ別れた。蔓田や花弁、棘丸には実家という行く場所がある。皆それぞれ疲れきった表情をしながら山を降りて行った。
残された御子柴は悠々と佇む黒薔薇の実家を見上げた。山の中にあった館とは違い、城のような佇まいをしている。アンティークな西洋の洋館のようで、見る者を唸らせる力がある。スクラッチタイル張りのチューダー様式の洋館だ。入り口は大きく、グッと張り出したポーチが印象的である。窓もよろい戸がついており、がっしりとした半円状の形をしている。
綺麗な鋭角をした灰色の屋根が美しい。御子柴はただただ唖然とし、風貌を眺めていた。今まで生きてきて、これほどの美しい家はあまり見たことないと思えた。
館の外は野次馬たちでごった返しており、皆怪しい旅人である御子柴を嫌悪していた。村人によっては石などを放り投げるため、御子柴はなかなか館に近づけなかった。
洋館の前には白薔薇が立っており、いきり立つ村人たちを懸命に抑えている。それに倣い、板山や他の刑事たちも警備に当たる。
白薔薇は板山に軽く敬礼をすると、御子柴を素早く屋敷の中に案内した。黒薔薇の館と同じで靴を脱がなくても良いようである。しかし白薔薇は余程疲れているのだろうか、表情は暗くどんよりとしており、歩き方も重々しい。
「白薔薇様……」小さく口を開く御子柴。「お父さんやお母さんの具合はどうですか?」
前を歩く白薔薇は振り向くことなく答えた。
「今寝室で寝ているわ。お父様が隣についているから安心のはずよ。それにしてもあなたも大変だったわね。色々と取調べを受けたんでしょう」
「ええ。ですけど聞いていたほど取調べはきつくはありませんでした。簡単な話し合いですよ」
御子柴は白薔薇が疑われているということは一切告げずに言った。言えば白薔薇をさらに傷つけてしまうと思ったのである。そんな御子柴の思惑とは裏腹に、平然と白薔薇は言った。
「あたしが疑われているんでしょ?」
その言葉は御子柴を固まらせるに十分だった。御子柴は廊下の中央で立ち止まり、額から汗を流した。
「そ、そんなことは……」
辛うじてそう言った。
前を歩いていた白薔薇は御子柴が立ち止まったことに気づいたようで、自らも立ち止まり、くるっと踵を返した。目は赤く燃えるようだった。長い間泣いていたのだろう。かなり充血している。
「あたしだって警官のはしくれだもの、刑事たちが誰を疑い、どういう捜査をしているのか分かるわ」
「ぼ、僕は白薔薇様が犯人だなんて思ってないないですよ。蔓田さんも棘丸さんも花弁さんだってそう思っています。僕らの間ではXという人間が犯人であると考えているんです。昨日の夜、棘丸さんが館の外で怪しい人影を見たんです。丁度井戸の周りですよ。それを僕らはXと呼んでいます。恐らくそいつが犯人ではないのでしょうか」
励ますように言う御子柴であったが、白薔薇はあまり反応しない。ただ、Xという存在を思い出し、ピクッと眉根を動かしただけであった。
「Xねぇ。そんな人間がいるのかしら?」
「いますよ。きっと」
「いれば今頃見つかっているわよ。見つかっていないということは棘丸が見た影も偽物だということね」
そう言うと、白薔薇は再び前を向き歩き出した。行く先はリビングのようであった。豪奢なシャンデリア、そして革張りの高級そうなソファーが置かれている二十畳ほどの広い部屋である。ソファーの対面には巨大な液晶テレビがかけられている。さらに暖炉が設置されており、マントルピースもある。マントルピースの上には家族写真が飾られている。大分前の写真であろう。幼い白薔薇と黒薔薇が仲良く写っている。時が止まってしまったかのように思える。
昼間だというのに、少し薄暗さを感じさせるが、堂々たる部屋であった。白薔薇は部屋に入るなり、直ぐにソファーに腰を下ろした。そして手で顔面を覆い、そのまま沈黙した。どうして良いのか分からない御子柴はリビングの入り口に立ち尽くし、徒に部屋の中を見渡していた。
村の富豪ということでやはり室内は栄耀な雰囲気がある。静まり返った室内で御子柴は一人ため息をついた。すると、それを聞いた白薔薇がハッと我に返り、顔面から手を外した。
「ごめんなさい。御子柴、あなたも座りなさいよ」
ソファーはU字型に設置されている。御子柴は白薔薇が座った場所から見て左側にあるソファーに座り込んだ。柔らかいだけでなくしっかりとした固さのあるソファーは、座り心地が非常に良かった。午前中の疲れがフッと抜けていく。
「事件が起きたからメイドたちはいないのよ。何か飲む? それとも昼ご飯がまだかしら」
普段メイドがいるという時点で普通の家庭ではない。自分とは住む世界が違うと感じた御子柴は素早く首を振り、
「別に何もいりませんよ。それにしても静かで良いところですね」
「静か過ぎて逆に落ち着かないわよ」
「取調べはどうするんですか?」
「あたしはまだよ。一応任意同行を求められたけど、お母様のこともあるし、断ったわ。だけどいずれにしても時間の問題ね」
そう言う白薔薇の声はとても寂しそうであった。それはそうだろう。なにしろ妹が亡くなったのだから。それも通常の死に方ではない。何者かに殺された可能性があるのだ。
白薔薇は真っ直ぐ視線を向けたまま、か細い声を出した。
「御子柴、あなたはさっき今回の事件はXによる犯行だと言ったわね。本当にXなんて存在がいると思う?」
突然問われて御子柴は困惑した。
Xという人物は存在するのか? 棘丸は確かに見たのだと言っていた。普段それほど声を上げるタイプではない棘丸が、あそこまで頑なにXという影を見たのだと言っているのだから、彼は何かを見たのだろう。
「僕はいると思います」
御子柴はそう告げた。そう告げることで白薔薇は容疑者という固い枠から遠ざけることが出来るような気がしたのだ。しかし、白薔薇は不満そうな面持ちのままである。追い詰められたものが見せるような哀愁漂う表情で御子柴のことを睨みつけた。
「実はね。Xはあたしかもしれないのよ」
「え?」
一瞬何を言われたのか御子柴には分からなかった。時が止まったかのように御子柴は固まってしまった。X=白薔薇ということになってしまえば、ますます白薔薇は疑われることになる。
「訳があってね。昨日の夜少し外に出たのよ。あなたちが散歩に出て直ぐにね。その時棘丸に見つかったのかもしれないわね。彼は時より散歩するみたいだけど、あたしはそんなこと知らなかった。何しろ毎日あの館に行くわけじゃないからね」
「そ、そうなんですか……。そのことは警察には言ったんですか?」
白薔薇は首を左右に振り、
「いいえ。まだ言っていないわ。だけど時間の問題ね。夜にはあたしは捕まってしまうかもしれない」
捕まる。諦め口調で白薔薇は言う。何だか話が妙な方向に転がり始めた。嫌な予感がする。白薔薇は犯人なのであろうか。このままでは京極が言ったことが当たってしまう。彼の犯人を当てる力に土をつけたい。何とかして白薔薇の容疑を晴らさなければならない。
「白薔薇様……」御子柴は言った。「自分が犯人だなんて言わないですよね。い、いえ、それ以上何も言わないでください。僕は何とかしてあなたの容疑を晴らしてみせますから」
すると、白薔薇は驚いた顔をし、
「あなたが私を救うとでも言うの? 御子柴、あなたはただの旅人なのよ。警察でもなければ探偵でもない。そんなあなたに何が出来るというの?」
「何が出来るかは分かりません。でも僕は白薔薇様が犯人であるとは思えないんです。絶対に別に犯人がいる。そう確信しています」
高らかに宣言する御子柴。彼の言葉を聞き、白薔薇の面持ちが少しだけ和らいだ。
「御子柴、あなたは今日この屋敷に泊まるのでしょう」
「出来ればお願いしたいです」
「なら二階の一番奥の部屋を使いなさい。今は物置になってるけど、一応ゲストルームだから」
「ありがとうございます」
「昼ご飯とかいらないのね。でも何か食べたいのであれば勝手にキッチンを漁って構わない。あたしは少し疲れたから部屋で休むことにするわ。夕方になったら起きるから、それまで静かに眠らせておいて」
そう言い残すと、白薔薇はよろよろと立ち上がり、亡霊のようにリビングから消えて行った。一人残された御子柴であったが、他にやることがない。とりあえず二階の一番奥の部屋に向かおう。そう考え、彼は立ち上がった。
黒薔薇の館とは違い、広々とした階段であった。二階も広く、階段を上がると大きな廊下に出る。壁には点々と燭台が設置され、煌々と明かりを放っている。中世の洋館に来たという感じだ。廊下の床には赤いカーペットが敷かれ高級感を感じさせる。
白薔薇が言った二階の奥の部屋というのは直ぐに分かった。がっしりとした茶色いトビラがあり、そこを開けると十畳ほどの洋間が広がった。
トビラの対面には大きな出窓があり、その脇にシングルベッドが置かれている。左側には棚がありアンティーク感が漂う置物や書籍が置いてある。右側には書斎机が設置され、その隣には小さな棚がある。トビラの脇にはクローゼットがあり、開けてみるとそこには女物の衣類が沢山かかっていた。部屋の中央には一人がけのソファーとローテーブルが置いてある。御子柴は部屋の広さに見とれながらも、まずはソファーに腰を下ろした。
スッと力が抜けていき、眠気が襲って来るが、何とか白薔薇が犯人ではないという証拠を見つけなければならない。そのためには眠ってなどいられない。まずは何から手をつけるべきであろうか。
必死に考えを巡らす。思いついたのは茎村という鍛冶屋のことだった。白薔薇と何らかの繋がりがあると噂される鍛冶屋。村人たちが皆捜査に協力的であるのに、この鍛冶屋だけは非協力的らしいのだ。何かあるとしたらここしかない。
御子柴は立ちあがり、外へ飛び出した。階段を下り、玄関に向かおうとすると、丁度休もうとしている白薔薇に出会った。顔は白く疲れているように見えた。白薔薇は御子柴を見るなり、スッと笑みを浮かべ、声を発した。
「どこか行くの?」
御子柴はどう答えるべきか迷った。昼飯でも食べに行くと嘘をつこうか? 否、その前に鍛冶屋がどこにあるのか分からない。