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黒薔薇の館

 流浪の旅人、御子柴一樹は○○県の田舎道をぼんやりと歩いていた。時刻は午後五時を回っている。そろそろ今日の宿を決めなければならない。とはいうものの、辺り一帯にはホテルなどという気の利いたものは一切なく、民宿さえ見つかりそうになかった。

 目の前に広がるのは延々と田んぼや畑、そして民家ばかりだった。視線の遥か先には山があり、これから始まるであろう夜の闇を待っていた。

 ふと景色を見ると、小学校らしき建物が見える。夕暮れの学校では小学生たちが元気に遊んでいる。田舎ということで児童の数は少ない。一〇名程度である。かけっこをしているのであろう。律儀にも二人の児童がゴールでテープを持ち、運動会さながらの本格的なかけっこをしていた。

 走って行く児童がゴールテープを切り、鮮やかにテープが宙を舞う。そんな風景を見ながら、御子柴は旅をして来て良かったな、と感じていた。

 御子柴はふうとため息をついた。季節は秋。もう夏の暑さは全くない。むしろ寒い。くたくたになったネルシャツに膝の部分が擦り切れたデニムパンツ。足元はコンバースのジャックパーセル。九〇年代に流行ったニルヴァーナのボーカル、カート・コバーンのような風体をしていた。

 早く宿を探さなければ。御子柴は近くにある民家に行き、どこか民宿でもないか聞いてみることにした。民家は古い日本家屋である。この辺りには新しい家は一切なく、時の流れが昭和で止まってしまったかのような感じを覚える。青々と光る瓦屋根。そして引き戸。時代を感じさせる。縁側には白髪の老婆が座り込み、外の景色を眺めていた。御子柴は白髪の老婆の許へ向かい、話を聞いてみること決めた。

 御子柴が民家の方へ歩いて行くと、老婆もそれに気づいたようである。サッと目を細め、体をギュッと硬直させた。もしかしたら話を聞くことさえ出来ないかもしれない。流浪の旅人、御子柴はそう考えていた。

「あの、すいません」

 老婆に近づいた御子柴はなるべく優しい声質を心がけ、声をかけた。

 すると、老婆は訝しそうに御子柴の風体を眺めた。今風の若者と呼ぶには些か時代遅れの格好をしているが、老婆はゆっくりと答えた。

「何か用ですかね?」

「この辺で宿を探しているんです。どこか良いところを知りませんか?」

「宿? そんなものはここら辺にはないよ。山を越えて麓の村まで行かないと駄目だこって」

 山を越える。御子柴は前時代的な懐中時計をデニムのポケットから取り出し、再度時刻を確認した。

五時十五分。

 既に日は暮れ始めている。今から山を越えるのは難しい。そう判断した御子柴は懐中時計をしまいながら、

「どこか泊めてもらえる場所は知りませんか?」

 あわよくばこの家に泊めてもらう。そう考えた御子柴であったが、現実はそんなに甘くない。オレオレ詐欺などによる犯罪により、老人たちは見知らぬ人間を警戒している。否、老人だけでない。普通の人間ならば、突然尋ねて来た人間を家に上げようとはしないだろう。

 どんなことが起きるのか分からないのだ。特に御子柴は得体が知れない。今年二十六歳になる御子柴はどう好意的に見ても、世間と繋がっているような人間には見えない。世捨て人。そこまで言うと、言い過ぎではあるが、御子柴は世間の人間たちから乖離していた。

 老婆はしわしわになった顔を撫でながら、考えを巡らしているようである。もしかしたら警察を呼ばれるかもしれない。そうなったら不味い。御子柴は早々に退散しようと考えていたが、その考えは見事に覆された。

「泊まりたいのなら、良いところがあるよ」

 と、老婆はぼそりと言った。

 僅かに希望が見えて来た。御子柴は花が咲いたように笑顔になり、

「ほ、本当ですか? それはどこですか?」

 すると、老婆は細い腕を宙に上げ、山のほうを指差した。御子柴はその指の先を追う。薄暗い闇に包まれた山。その中に場違いな建物が建っているのが見えた。小ぶりな洋館である。どうしてあんなものがこんなところにあるのだろう。御子柴はわけが分からなかった。

「洋館ですね。誰か住んでるんですか」

 と、御子柴がおっかなびっくりと尋ねると、老婆はふむふむと頷きながら答えた。

「当たり前だよ。あそこには黒薔薇様が住まわれておる」

 黒薔薇。

 怪しげな単語が出てきた。様をつけるからには人の名前なのだろう。しかし、不可解な名前である。

「黒薔薇様って誰ですか?」

 失言だったかもしれない。その言葉を聞いた老婆はサッと顔色を変え、

「お前さん、黒薔薇様を知らないというのかい」

「は、はい。この辺りに来たのは初めてなもので」

「黒薔薇様は昔からこの辺りの村を治めて来た良家の娘さんだよ。非常に心の優しい方さ。この先にある大きなお屋敷に住んでおったんだが、今はあの洋館に住んでおられる。きっと黒薔薇様なら、お前さんのことを一晩くらい泊めてくれるだろうよ」

「黒薔薇様は男性ですか? 女性だと少し不味いと思うんですが……」

 御子柴が言うと、老婆はくわっと真っ赤な顔になり、

「黒薔薇様は高貴な女性だよ。お、お前さん妙なことを考えているんじゃなかろうね。そんなことになったら、村人全員に殴り殺されるよ。それだけ黒薔薇様の人望は厚いんだからねぇ」

 襲うなんてことは微塵も考えていない。

 しかし、やはり家主が女性であると、色々と気を使う。老婆の話では黒薔薇という女性が何歳なのか分からないが、いい歳をした男女がひとつ屋根の下で泊まるのには問題が多過ぎるように思えた。

 とは言うものの、あまり悠長なことは言っていられない。既に日は沈み始めているし、山の麓ということで、気温はグッと寒い。空を見上げれば、雲行きだって怪しい。何とか寝床を確保しなければならないだろう。御子柴は老婆に礼を言い、早速黒薔薇様が住む館へ向かうことに決めた。

 老婆の家を出て、畑沿いを走る道路を山に向かって歩く。畑には誰もいないし、反対方面から歩いて来る人もいない。道路に一定間隔で立てられた街灯だけが虚しく地面を照らしている。

歩みを進めると、道はやがて土になり、山道に入る。山道は舗装されており歩きやすい。黒薔薇が整備したのだろうか? 山を歩いて行くと、二十分ほどで目的の場所、黒薔薇の館へ到着した。小ぢんまりとした洋館。否、洋館というよりは、英国風に建てられた一軒家というほうが正しいかもしれない。黒塗りの壁の黒い建物である。

玄関のトビラの上には張り出されたポーチがあり、黒い壁にはカンテラ風の明かりが設置され煌々と光り輝いている。窓にはよろい戸があるし、壁はレンガ造りだ。少し家の周りを回ってみると、小さな井戸があることが分かった。頭上を見上げると、よろい戸が閉まった窓が見える。何というか、御伽噺の中に足を踏み入れたような気がする。

御子柴はぐるりと館を一回りした後、玄関に戻り、ドアをノックした。ドアも英国風であり、上部に半円状の小窓がついている。

「あの、すいません」

 大声でそう言い、中から反応を待った。しばらく待っていると、スタスタと歩いて来る音が聞え始めた。その足音は、トビラの前で止まり、ぎぃと錆びた甲高い音が聞え、トビラが開けられた。

 トビラの先にはカンテラ風の明かりを持った男が立っている。少し小太りで、執事の格好をしている。歳は御子柴よりやや上、三十歳くらいであろうと判断した。

「何か御用ですか?」

 男は低音で言った。完全に警戒しているように思える。なるべく明るい声を心がけ、御子柴は言った。

「僕は日本全国を旅している御子柴というものです。この辺りで一晩泊めてもらえる場所を探しているのですが……」

「宿? そんなものはこの近くにはありませんが」

 冷たい答え。しかし御子柴は負けずに、

「ええ。それで困っていましたら、村の人にこの館を紹介されたんです。ここに住まわれている黒薔薇様なら泊めてくれるかもしれない。そう仰っていたので」

「黒薔薇様のこと知っているのか?」

「名前だけですけど」

 男はグッと下顎を引き黙り込んだ。顎と首が同化している。しばらく沈黙状態が続くと、館の中から声が聞えた。

「誰か来たの?」

 若い女の声である。声が聞えたのと同時にコツコツと乾いた足音が聞えて来る。御子柴にサッと緊張が走る。

 足音はやがて、玄関の前で止まる。薄暗い屋敷の中からぼんやりと人影が見える。すらっとした女性が現れた。歳は二十五歳くらいだろうか? 否、もう少し上かもしれない。カンテラの明かりに照らされた女は、フリルがふんだんにあしらわれた真っ黒なドレスを身に纏っている。薄暗いから余計に黒く見えた。

「黒薔薇様」

 男が言った。どうやら目の前に現れた黒ドレスの女性が黒薔薇らしい。御子柴は頭をぼりぼりと掻いた後、黒薔薇のことを見つめた。人形のように端正な顔をしていて、見る者を魅了するような不思議な力がある。麓の家で出会った老婆が高く評価することも納得出来る。

「蔓田。この人は誰なの?」

 容姿だけでなく、声まで綺麗だ。ソプラノのように高い声は聖性さを感じさせる。

 蔓田と言われた男は、少し難しい顔をしながら、

「実はこの男が一晩泊めてほしいと言っているのですが」

 その言葉を聞き、黒薔薇はさらに一歩足を進めた。そして御子柴のことを上から下まで美術品でも見るかのように視線を注ぐと、小さな口をもごもごと動かし、

「なら泊めてあげなさい。この辺には宿はないし、今から山を越えるのはしんどいでしょう。可哀想じゃないの」

 あっさりと言った。

 ほとんど駄目元で聞いていたので、黒薔薇の言葉は御子柴の心を幾分か安堵させた。とにかく泊まれるのではあればそれに越したことはない。

「良いのですか? この男、得体が知れませんよ」

 蔓田はそう言う。そんなに泊めたくないのだろうか? 否、それが普通の人間が見せる当然の反応なのかもしれない。黒薔薇の方が変わっているのだ。

「構わないわ」黒薔薇は言った。「蔓田、二階に空いている部屋があるでしょう。そこにこの方を案内してあげて。……そうだ、あなたお名前は何ていうのかしら?」

 問われた御子柴は、一つ咳払いをした後に答えた。

「御子柴一樹と言います。今は日本全国を旅する旅人です」

「旅人。今時珍しいことをしているのね。暇があれば是非旅の話が聞きたいわ」

 と、無難に答えた黒薔薇はサッと身を翻し、屋敷の中へ消えて行った。御子柴がその姿を見て、しばしぼんやりとしていると、蔓田が声をかけて来た。

「では部屋に案内する。ついてこい」

 そう言い、蔓田はカンテラを持ち、屋敷の中を進む。御子柴は直ぐにその後を追う。洋館ということで、靴を脱がなくても良いようだ。日本では珍しい。全国を旅して来た御子柴であったが、ホテル以外、このように土足で室内に足を踏み入れられる宿泊施設はなかった。

 玄関のトビラをくぐると、長い廊下に出る。床はフローリングだが、黒く塗装されていて、どこかしらアンティークな感じを抱かせる。壁には燭台が設置されており、そこに電気式の蝋燭が立てられ、オレンジ色の光を明々と放っている。廊下を渡ると、やがて階段が見えて来る。それほど大きくはない。小ぶりな階段である。人が二人通れば詰まってしまうだろう。

 階段の壁にも電気式の蝋燭が立てられ、明かりを放っている。蔓田が階段を踏みしめるとギシギシと音が鳴る。螺旋状になった階段を上がると、二階に出る。二階は廊下があり、後は部屋が三部屋ほどあるだけである。蔓田は階段から見て一番奥の部屋に御子柴を案内した。

「ここで泊まるんだ」

 蔓田は部屋の戸に手をかけ、木製のトビラを開きながら言った。

 室内は電気がついていないので、真っ暗である。黒いカーテンが閉められているため、光が全く差し込まない暗黒の世界だ。蔓田はトビラの横にあるスイッチを押し、明かりをつけた。天井からは小ぶりなシャンデリアがぶら下がっており、淡い光を室内に放ち始める。

 御子柴はぐるりと部屋の中を見渡した。それにしても妙な部屋である。何から何まで、真っ黒なのだ。木製の家具で統一された室内はアンティーク感が漂い、見る者をうっとりとさせる。但し、家具類はすべて真っ黒に塗装されている。家具だけではない。ベッドのシーツも布団も、壁の色もすべて黒なのだ。

 窓際に設置された小棚の上には黒い花瓶に入れられた黒い薔薇が咲き乱れている。何からなにまで黒尽くめ。異様な部屋であると感じた。

「基本的に好きに過ごして良いが、物を壊したりするなよ」

 執事風の容姿をしているくせに、喋り方は現代的な蔓田がそう言うと、御子柴は黙って頷いた。泊めてもらった家の物を壊すほど、御子柴は愚かな人間ではない。

 蔓田が部屋を出て行くと、御子柴は一人きりになった。ベッドの上にボストンバッグを置き、大きく伸びをした。ここで一晩過ごせば、明日には山を越えられる。日本中を旅して来て色んな窮地に見舞われたが、いつも何とかなってきた。今回も同じだ。御子柴は一人笑みを浮かべた後、部屋の右側に置かれた古びた回転椅子に腰を下ろした。

 回転椅子も当然黒である。骨組みは黒い木で作られており、座る部分は黒いベルベットが張られている。座るとキシッと音がしたが、座り心地は良い。大きなどっしりとした書斎机も良い木を使っているのだろう。存在感がある。机の脇には小ぶりな本棚がある。小説が並んでいるが、ぽつんと『ショック療法』と書かれた書籍が置いてある。

 安心したからなのか、ぐうと腹が鳴る。田舎の村ということもあり、この辺りにはコンビニ一つ見当たらない。それにここは山の中だ。今からコンビニを探して歩き回るのは面倒だし、危険であると判断した。御子柴は立ち上がり、ベッドの上に置いたボストンバックの中に何か食べ物はないかと探り回った。丁度、昼間に買った饅頭が一つ残っていた。それにペットボトルに詰めた水もある。これで何とかなるだろう。

 饅頭を一口で食べ、それを水で流し込んだ。時刻を見ると、もう少しで午後六時になるというところだった。

 粗末な食事を終えた後、御子柴は靴を脱ぎ、ベッドの上にごろりと横になった。たちまち疲れが抜け出ていき、良い気分になる。マットレスはふかふかだし、布団もふんわりと良い香りがする。今回の宿は当たりだなと笑みを零した。

 真っ黒に塗装された天井を見上げる。シャンデリアから放たれる明かりが御子柴を優しく照らし出す。ボストンバックの中から、読みかけの推理小説を取り出し、それを読みながら時間を潰す。推理小説では丁度、こんな洋館が殺人事件の舞台になるのだ。

 何もかもが黒く塗装された黒薔薇の館。そこに住むのは黒薔薇という名前を持った美しい主と太った執事。何というか何か起きそうである。御子柴がそう考えていると、トビラがノックされた。

「入っても宜しいですか?」

 女の声。しかし黒薔薇の声ではない。

 御子柴は素早く本を閉じ、ベッドから跳ね起き、

「どうぞ」

 と、声をかけた。

 トビラが開かれ、外から黒いメイド服を着た女性が現れた。これは誰だろうか? 御子柴が目を細めていると、黒メイドが言った。

「私はこの館でメイドをしている花弁というものです。どうぞよろしくお願いします。黒薔薇様がお食事の準備が出来たので、あなたのことを呼んで来るように仰いました。リビングにご案内します」

 少しおどおどとした口調の花弁と名乗るメイドはそう言った。

 歳は御子柴と同じくらいか、それよりもやや下かもしれない。黒薔薇に比べると容姿はかなり劣るが、それでも愛らしい猫のような顔立ちをしている。漆黒のメイド服。ティアードスカート。エプロンは通常は白が基本であろうが、黒い物を着用していた。

「食事、良いんですか? 実は僕、それほどお金を持っていないのですが……」

 御子柴は貧乏である。旅人という少し風変わりな生活をしているからだ。

「構いません。お金なんか取りませんから」

 クスッと笑みを浮かべる花弁。

 何か少し恥ずかしくなった御子柴は頭を掻きながら、ニコッと笑った。そして靴を履き花弁の許へ向かう。

「日本全国を旅してるんですよね?」

 メイドらしからぬ口調で花弁は言った。

 問われた御子柴は歩きながら答える。

「そうです。自分を見つめ直す旅ですかね。現実逃避とも言えますが。仕事だってしてるわけじゃありませんから貧乏ですし」

「でも、旅をしてるって素敵です。あたしはここに来るまでずっと引きこもりをしてましたから」

 突然ヘビーな話が出た。

 引きこもり。それは部屋から一歩も出ずに暮らしているというアレか。御子柴は引きこもりに会ったことがないが、何となく想像では太っていて、ほとんど喋らずゲームばかりしている人種を想像していた。だからこそ、花弁という愛らしい女性が元ひきこもりであるという事実に驚いたのである。御子柴が黙り込んでいると、さらに花弁が言葉を重ねた。

「引きこもりから救ってくれたのが黒薔薇様だったんです。あたしのような何の背景もない引きこもりを、この屋敷のメイドとして雇ってくれたんです」

「そうだったんですか。黒薔薇様はこの付近に住んでいる人たちから非常に崇拝されてるみたいですね。僕のことも泊めてくれましたし」

「黒薔薇様はあたしたちや村人にとって神様みたいな人ですよ」

 そう言いながら、花弁は階段を下りて行く。一段下りる毎に、キィと小さな音が上がる。御子柴も彼女の後を追い、階段を下りる。

 一階に着くと目の前には長い廊下が見える。その途中にはトビラがあり、部屋があるようだ。花弁は階段から一番近いトビラに手をかけ、

「ここがリビングです。どうぞ」

 と、言いながらゆっくりとトビラを開き、御子柴を部屋に通した。

 リビングもやはり黒く統一されている。長いテーブルは勿論黒色だ。テーブルの上には蝋燭が置かれ、淡いオレンジ色の光を放っている。テーブルの真ん中には黒薔薇が座っており、室内に入って来た御子柴のことを見るなり、フッと笑みを浮かべた。

 美しい笑顔であると感じた。天井を見上げると大きなシャンデリアがぶら下がっており、部屋全体をやんわりと照らし出している。部屋の左方向にはキッチンがあるようで、良い香りが漂う。黒薔薇の脇には蔓田が立っていて、食事の準備をしている。

「私の対面にお座りになって」

 黒薔薇が言った。御子柴は言われるがままに席に着いた。すると、勢いよくオナラのような音が炸裂する。一瞬何が起きたかの分からない御子柴は唖然とした。対面に座る黒薔薇がケラケラと笑い、それにつられて執事やメイドたちもクスッと笑みを浮かべる。

座面の下を確認すると、ブーブークッションが仕掛けられていることに気づいた。黒薔薇が仕込んだのだろか?

「ごめんさない」黒薔薇が言う。「初めての方が来ると、ついつい悪戯したくなっちゃうの。気になさらないで」

「は、はぁ」

 どうやら犯人は黒薔薇のようだ。しかし、御子柴は特に文句を言わずに愛想笑いを浮かべる。意外とお茶目だ。

御子柴が席に着いたのを見ると、キッチンの方にいた壮年の執事服を着た男が料理を運んで来る。最初に出されたのはスープだ。オレンジ色に染まるスープである。恐らくパンプキンスープであろうと御子柴は推測した。こんなフルコースのような食事を食べられるなんて夢にも思わなかった。

「あの、良いんですか?」御子柴は言った。「僕、その、お金も持ってませんし、特に何か技術を持ってるわけじゃありません。素泊まりでも全然構わないのですが」

 すると、その言葉を聞いた黒薔薇はキョトンと大きな目をぱちくりとさせながら、

「そんなことは気にしなくてもよくてよ。あなたは大切なお客様なのだから」

「はぁ。そうですか」

「それよりも、早く皆で食べましょう。私はお腹が空いたわ」

 黒薔薇の言葉で立っていた執事とメイドがスープを運びテーブルに置き、席に座った。通常、執事やメイドというと主が食事をしている際の給仕をするものであるが、この屋敷の執事やメイドは違うようである。主である黒薔薇と一緒に食事を摂るようだ。

 全員が席に座ったのを見ると、黒薔薇が「それじゃ頂きましょう」と言い、スープに口をつけた。それに倣い、御子柴もスープを飲む。予想通り、パンプキンスープだ。たっぷりとかぼちゃとミルクを使い、とても濃厚な味がする。それでいて、どこか家庭的な優しさを感じさせる。ほっこりとした気分で御子柴はスープを味わう。

 スープの後は、前菜としてサラダが出た。レタスにトマト、きゅうりが細かく切られた平凡なサラダの上にドレッシングが掛かっている。

「このサラダのドレッシングは亜麻仁油を使ってるの。とっても健康に良いんですって」

 黒薔薇が自慢そうに言った。亜麻仁油といってもそんなオイルは食べたことがない。御子柴は恐る恐るサラダを口につける。僅かに魚の香りがしたが、とても美味しい。少量のしょうゆが混ざっているようだ。

「どう。お口にあって?」

 黒薔薇の言葉に、御子柴は直ぐに反応する。

「は、はい。とても美味しいです。本当にありがとうございます。僕のような胡乱な旅人にここまでしてくれるなんて、感謝の念で一杯ですよ」

「そう。それなら良かったわ。そういえば自己紹介がまだだったわね。折角何かの縁で出会えたのだから自己紹介しましょう。……まずは私から」

 黒薔薇はフォークを机の上に置き、一旦食べるのを止めた後、次のように言葉を続けた。

「私は黒薔薇。この屋敷の主よ。特にやることはないのだけれどね。村の人と一緒に畑仕事をしたり、この屋敷で本を読んだりして暮らしているわ」

 何というのほほんとした暮らしぶりであろう。旅人をしている御子柴にとって黒薔薇のような生活は夢のようであると思えた。きっと両親が資産家なのだろう。でなければこんな屋敷には住めないだろうし、執事やメイドを雇うことだって出来ないはずだ。

 次に自己紹介したのは、一度名前を聞いているが太った執事の蔓田である。

「まぁ一度自己紹介をしたんですが、私は蔓田です。この屋敷の執事をしています。ここに来る前は麓の村で暮らしていて、いい歳をこいて働きもしない、いわゆるニートというヤツでした。しかし、黒薔薇様に誘われ、この屋敷で執事として働くことが出来ました。黒薔薇様には本当に感謝しています」

 蔓田がそう言うと、黒薔薇はクスッと笑みを浮かべた。蔓田はやや恥ずかしそうに頭を掻いている。蔓田の次は痩身の執事である男が自己紹介をした。年齢は三十歳くらいで蔓田と同じくらいだろう。御子柴はこの男のことを何も知らない。少し緊張しながら、耳を傾ける。

「わ、私は棘丸といいます。蔓田さんと同じでここの執事をしています。わ、私もここに来る前は麓の村で暮らしており、そ、そのニートでした。あ、で、でも家が農家だったんでその手伝いはしてましたけど」

 どもりが特徴のようだ。それにしても、またニートという言葉が出た。どうやらこの屋敷にいる執事やメイドは元ニートや、元引きこもりばかりのようである。何とも摩訶不思議な人選だなと、御子柴が思っていると、今度は花弁が口を開いた。

「次はあたしですね。あたしの名前は花弁と言います。蔓田さんや棘丸さんと同じで、麓の村で暮らしていましたが、ずっと引きこもりでした。小学校、中学校と不登校で、その後定時制の高校に進学しましたが、なかなかうまくいかず、五年かけてようやく卒業出来ました。卒業後はずっと家にいましたが、そんな時黒薔薇様に声をかけていただいて、この屋敷で働くことになりました」

 曰くがある三人の執事とメイド。それを救った黒薔薇。完全な主従関係が出来上がっている。不思議な屋敷だ。色んなところを旅している御子柴であったが、こんなユニークな屋敷は初めてであった。

「最後はあなたよ」

 黒薔薇は言った。御子柴は頷き、ゆっくりと口を開いた。

「僕は御子柴一樹。二十六歳です。全国を旅している旅人です。今回は泊めていただいて本当にありがとうございます。短い間ですがよろしくお願いします」

 無難に挨拶をこなす。

「これで全員の自己紹介が終わったわね。じゃあ次の料理を食べましょう。棘丸。次の料理を運んで来て」

 と、黒薔薇は言う。直ぐさま棘丸が反応し、ゆらゆらとキッチンの方に駆けて行く。次に出たのは大根を煮たものにそぼろのあんかけがかかっている食物だった。白い湯気が立ち上り、ふんわりと大根の良い香りが漂って来る。そんな中、黒薔薇が御子柴に向かって声をかける。

「今日の料理を作ったのは棘丸なの。彼は農家の出身ということで、野菜を使った料理が上手だわ。この屋敷ではね、執事やメイドがかわりばんこで食事を作るのよ」

「そうなんですか。何だかとってもアットホームなお屋敷なんですね」

「あなた良いことを言うわね。そう、この屋敷はとてもアットホーム。皆、助け合いながら生きているの。だから毎日が楽しいわ。あなたも毎日旅をしているのよね? どうやって生計を立てているの?」

「旅の先々で手伝いやアルバイトをして小金の稼いでいるんです。まぁ本当に微々たるものですけど、それで民宿に泊まったり、手伝いをする代わりに、一日家に泊めてもらったりして生活してるんです。最近は泊めてくれる家も凄く減りましたけど。まぁ仕方ありません。物騒な世の中ですから。あ、でも僕は無害ですよ。何もしませんから安心してください」

 最後は場を和ませようとして言ったのであるが、蔓田や棘丸はそうはとらずにキッと御子柴を睨みつけた。そんな微妙な空気を取り払おうと、御子柴は続けて言った。

「あ、そうだ。この屋敷に住んでいるのはこの四人だけなんですか?」

 大根を小さく切り、それを口に運んでいた黒薔薇は一旦食事をするのを止めると、

「そう。今、この屋敷で暮らしているのは四人よ。お父様やお母様は村に建っている大きな屋敷で暮らしているわ。私はもう十七歳だから家を出てここで暮らすことにしたの」

 十七歳。

 御子柴は目を点にさせた。黒薔薇は確かに若くて美しい顔をしているが、とてもではないが十七歳には見えない。いくら若くても二十代前半くらいだろう。冗談を言っているのだろうか。それにしても誰も突っ込まない。御子柴が苦笑いを浮かべていると、棘丸がメイン料理を持って来た。じっくりと焼かれたヒレステーキである。肉の良い香りが漂って来る。

「こ、この肉は麓の村で育てているものです。け、健康的な牛の肉を使っているので、とても美味しいですよ」

 棘丸はそう言いながら、ステーキを御子柴の許に置いた。肉汁が滴るステーキはとても美味しそうだ。御子柴は溢れあがる涎を抑えながら、ステーキをナイフとフォークで切った。

 食事は進み、最後はデザートしてプリンが出た。プリンも棘丸の手作りであるらしくとても美味しい。食事が終わると、コーヒーが運ばれて来る。どうやら米やパンは食べないようだ。

「夜の炭水化物は美容の敵。だから夜はご飯やパンは食べないの」

 それが黒薔薇の持論のようである。

 食事が終わり、棘丸や蔓田、花弁が食器を片付け洗っていると、御子柴と黒薔薇はリビングで二人になった。何を話して良いのか分からない。沈黙状態に陥った。

「御子柴さん。一つ聞いても宜しいかしら?」

 突然黒薔薇が言った。御子柴はサッと身構え、黒薔薇に視線を移す。真剣な黒い瞳が御子柴を見つめていた。

「何でしょうか?」

「旅をしてるって言ってたけれど、何か好きなこととかないのかしら? ずっと旅ばかりじゃ飽きるんじゃなくて?」

 二十二で大学を卒業し、その後は様々な職業を転々として来た御子柴にとって旅は人生そのものだった。飽きるとか、そういう次元の話ではない。しかし、何か答えなければならない。

「僕は二十五歳のときに旅をしようと思いついて、その時勤めていた会社を辞めました。ですから、旅を始めてまだ一年くらいなんです。旅をする目的は自分でも分かりません。一体、自分が何をしたいのか見当がつかないんです。俗に言う、自分探しですかね。それに飽きるとかはないですね。まぁしいて好きなことを挙げるとすれば、探偵小説を読むということでしょうか」

「探偵小説? それって推理小説のことかしら」

 黒薔薇はくわっと身を乗り出して尋ねて来る。余程探偵小説が珍しいのだろうか。

「そうです。まぁ今は探偵小説なんて言わないでしょうね。ミステリーっていうやつです。旅の途中で古本屋によって何でも良いから探偵小説を買うんです。それを暇なときに開いて読んでます。まぁ趣味といったらそのくらいでしょうね」

「推理小説ってよく人が死んでそれを探偵が推理して解決する話でしょう。あなたも推理が出来るの?」

「まさか、僕は読むのが専門ですよ。とてもではありませんが、推理なんて出来ません。やってみたいと思った時期もありましたけど。それに、今まで色んな推理小説を読んできましたけど、一度も犯人が分かったことはないんですから」

 そう言った後、御子柴は乾いた笑いを浮かべた。黒薔薇はじっと御子柴のことを見つめ、ふうと小さくため息をついた。

「趣味があることは良いことよ。生きる目的みたいなものがあるということでしょ」

「黒薔薇様は何か趣味があるんですか?」

 御子柴は何気なく聞いてみた。

 対する黒薔薇はサッと顔を歪めて何やら考えて込んでいるようである。不味い質問をしてしまったのだろうか? 御子柴は首元をポリポリと掻いていると、黒薔薇が言った。

「私の趣味ねぇ……。大体はこの屋敷にいて、たまに麓の山まで下りて、農家を手伝ったり、村の掃除をしたりするくらいだから、何か特別な趣味があるわけじゃないわね」

 農家を手伝ったり、村の掃除をしたりする。良家の娘に生まれついたというのに、そんな雑用をするというのか。だからこそ、村の人たちに崇拝されているのかもしれない。御子柴は黒薔薇の人間性の高さを垣間見たような気がした。

「それにしても……」黒薔薇が言った。「推理小説が好きだなんてお姉様と一緒ね」

「お姉さんがいるんですか? 僕には兄弟がいないから少し羨ましいです」

 御子柴がそう言うと、黒薔薇はカップに残ったコーヒーを一気に飲み干して、

「そうかしら、別に姉がいるからといってどうこうなる話じゃないわ。昔は一緒に悪戯をしたりして遊んだけどね。とても仲が良いの。今でもよ。私の悩みに親身になって相談してくれるし。私もお姉様も悪戯好きなの。意外でしょ」

「お姉さんとは歳が離れているんですか?」

「いいえ。お姉様と私は双子なの。だから歳は一緒。生まれて来るのが数秒しか違わないのよ。双子ってテレパシーがあるっていうでしょ。だからお互いの気持ちが良く分かるの」

 歳が一緒ということは十七歳ということなのだろうか。十七歳というのが事実ならば今高校生ということになる。

「お姉さんは何をしてる方なんですか?」

「お姉様の職業ねぇ。あの方は警察官なのよ」

「警察官ですか、そりゃ立派な仕事ですね。僕も旅をしてますから、よく警官に出会いますよ。四六時中仕事があって大変な職業ですよね。でも、市民の安全を守る大切な仕事だと思います」

 御子柴は直ぐにある矛盾に気づいたが、それは言わなかった。ある矛盾とは十七歳で警察官にはなれないということだ。警察官になるためには最低でも高卒でなければならない。ということは、黒薔薇の年齢は嘘ということだ。永遠の十七歳という言葉があるが、彼女またその魔法の言葉に取り憑かれているのだろうか。

「そうね。確かにお姉様の仕事は大変なものだと思うわ。毎日忙しそうにしてるもの」

「お姉さんはどんな探偵小説を読むんですか?」

「さぁ。探偵小説にも色んな種類があるでしょう。私には分からないわ。でもいずれ機会があればお姉様に会えるかもしれないわね。きっと趣味があって話も弾むでしょう。そうだ、あなたはこの村にどのくらい滞在する予定なの?」

「ええと、実は明日には発つ予定なんです。山を越えて、その先で少し働き口を探してお金を貯めようかと思ってます」

「そうなの。明日には発ってしまうのね。でもこの村で仕事を探すのもお勧めよ。畑仕事が沢山あるから、少しくらいなら稼げると思うし。あなたがその気なら、この屋敷で少しの間雇ってあげても良いのよ」

 魅力的な話であると感じた。御子柴は口を閉じ、これからの予定を考えていた。たとえ明日、山を越えてその先にある村に辿り着いたとしても、そこで宿や仕事が直ぐに見つかるわけではない。今の時代、仕事にありつくのはなかなか大変なのである。それならば、この屋敷に少しの間住み着いて旅の資金を得るのも良いかもしれない。

「黒薔薇様。止めた方が良いですよ。この男、素性が知れませんから」

 洗い物をしていた蔓田がいつの間にか黒薔薇の横に立ち、口を挟んで来た。

「あら、どうしてかしら?」

 黒薔薇は不思議そうな顔をして尋ねる。対する蔓田は顔を歪めながら、

「今の時代、旅をして生計を立てるなんて生き方が出来るなんて思えないんです。もしかしたら何か如何わしい考えがあって、この屋敷に寄り付いたのかもしれませんよ。昔のこともありますし……」

 何という心外な答え。御子柴はショックを隠せずに俯いた。確かに少し汚らしい格好はしているが、下心があるわけではない。本心で一晩泊めてもらいたいと言っているだけなのだ。

「蔓田。御子柴さんに失礼よ。謝りなさい」

 黒薔薇はきっぱりと言う。その口調は真剣そのもので、聞く者を従わせる妙な迫力があった。

「し、しかし……」

「あなただって昔は働いていなかったはずよ。つまり、自由に生きていたということ。御子柴さんを否定することは出来ないわ」

 その時だった。リビング内に「どんどん」という音が鳴り響く。音は玄関の方から聞えて来た。時刻は夜七時を回っている。誰が来たのだろうか?

「棘丸。誰か来たみたいね。ちょっと見て来て頂戴」

 黒薔薇の言葉に棘丸は素早く動き、「分かりました」と、玄関の方に向かって行った。

「でも誰かしらね。こんな時間に。村の人たちは仕事を終えて家に戻っている時間だというのに」

 しばらくすると、棘丸がリビングに戻って来た。

「く、黒薔薇様。そ、村長さんが来ています。何でもこの付近に怪しい人間がいるのだということです。穴を開いたジーンズに踵が擦り切れたスニーカー。それにクタクタになったシャツにボストンバッグを持っていたそうですよ」

 その言葉に黒薔薇はサッと眉根を寄せ、

「怪しい人間?」

 と、答えた。

「と、とにかく少し一緒に来てくださいませんか」

「仕方ないわね。なら一緒に行きましょう」

 黒薔薇と棘丸は出て行った。棘丸は怪しい人物がこの村に現れたと言っていた。その特徴はまさに御子柴そのものではないか。当然、そのことに御子柴も気がついている。御子柴はガタッと椅子を鳴らせ立ち上がり、黒薔薇の後を追った。

 玄関では黒薔薇と棘丸、そして村長だという頭の禿げ上がった人物が何やら話し込んでいる。

「トネ婆さんのところに尋ねて来たそうなんじゃ。なんでも泊めてもらえる場所を聞き、トネ婆さんは黒薔薇様の館のことをついぽろっと言ってしまったようなんじゃよ」

 村長の声が聞える。トネ婆さんというのは、御子柴が黒薔薇の館に来る前に出会った老婆のことだろう。あの老婆がきっと何かを村長に告げ口したに違いない。御子柴は頭を抱えながら、玄関の脇にある棚に隠れ、会話を聞くことにした。

 次に声を発したのは棘丸だった。

「黒薔薇様、トネ婆さんのところに現れたのは、もしかしたら御子柴という男ではありませんか?」

「しっ」黒薔薇は人差し指を口元に立てて棘丸を諫める。「あなたは黙ってなさい」

 しかし二人の会話を見逃すほど、村長は凡庸な人物ではなかった。

「黒薔薇様。御子柴というのは誰なんですかい? まさか怪しい男、既にここに来たんじゃありませんかな?」

 村長はなかなか鋭いことを言う。黒薔薇は隠し通せないと察したのか、フンと鼻を鳴らし、

「御子柴という男性がここに来たのは間違いありません。ですが、彼は決して怪しい者ではありませんので心配はご無用です。どうぞお引取りください」

「しかし黒薔薇様、こんな物騒な時代に見知らぬ男を泊めるほど危険なことはありませんぞ。警察を呼びましょう。それが一番良いでしょう。昔のことを忘れたわけではありませんな」

 警察。どうしてそんなものを呼ぶ必要があるのだろうか。御子柴は体を震わせた。今まで何度か警察とはやりあって来たが、関わると面倒なことになるのだ。もう、この屋敷にはいられないかもしれない。御子柴は下唇をグッと噛み締めながら、黒薔薇の館からの撤退を考えていた。

「く、黒薔薇様。どうしますか?」

 ふと、棘丸が言った。黒薔薇はキッと棘丸を睨みつけ、

「全く、あなたが余計なことを言うから話がこんがらがっちゃったじゃないの。仕方ないわ。棘丸。御子柴さんを呼んできなさい」

「わ、分かりました」

 棘丸がリビングに引き返そうとしたとき、玄関の近くに隠れていた御子柴はスッと顔を出した。苦笑いをし、頭をぼりぼりと掻いている。

「ど、どうも。御子柴です。よろしくお願いします」

 と、簡単に自己紹介をした。

 村長は唖然としながらも、突然現れた御子柴をしげしげと見つめ始めた。

「村長。彼が御子柴さんです。見れば分かると思いますけど、とっても誠実な方ですわ。決して警察沙汰を起こすような方ではありません」

 黒薔薇がきっぱりと言うと、村長は薄っすらと伸びた顎鬚を摩りながら、

「人は見かけにはよらぬもんですぞ。黒薔薇様、とにかく一旦警察を呼びましょうか。……実は、もう呼んであるんです」

「警察を呼んだですって。村長、直ぐに取り消しなさい。御子柴さんは無害だって言っているでしょ」

「それは分かりません。わしは村長です。村人の安全を守るのも仕事なんです」

 村長の後ろには薄っすらと人影がある。人影はスッと村長の前に出てきた。ぼんやりとした明かりが人影を照らし出す。

「黒薔薇。あなた怪しい人間を屋敷に入れたんですってね」

 ふと、声が聞えた。若い女性の声である。

 声の主は、足を進め村長の横からくわっと現れた。

 煌々としたオレンジ色の光に包まれて現れたのは、黒薔薇そっくりの女性である。但し、パンツスーツを着用している。仕事が出来るキャリアウーマンといった格好だ。全身にフリルがついたドレスを着用している黒薔薇とは正反対の服装をしている。これは一体誰なのだろうか。

「お姉様。ここに来た警察官というのは、お姉様のことなんですか?」

 お姉様。ということはこのスーツの人物が黒薔薇の双子の姉なのだろうか。御子柴は目を点にさせながら、姉と呼ばれた人物に視線を注いだ。

「では、白薔薇様。後はよろしく頼みますぞ」

 村長はそう言うと、身を翻し闇の中に消えて行く。白薔薇と呼ばれた警察官はコクリと首を動かし、

「分かったわ。安心しなさい。後はあたしが御子柴という男を監視するから」

 白薔薇はニッと笑みを浮かべ、茫然自失と立ち尽くす御子柴に視線を移す。見つめられた御子柴はどうして良いのか分からずに、黒薔薇に助けを求めるが、黒薔薇は何も言わずに白薔薇に視線を注ぐ。

 それにしても本当にそっくりな二人である。身長から体型、それに顔立ちまで瓜二つだ。

「黒薔薇」白薔薇は言った。「どうしてあんたはこんな面倒なことをするの?」

 問われた黒薔薇は口を窄めながら答える。

「私は面倒なことをしてはいません。それにお仕事はどうされたんですか?」

「仕事? 終わったからこうして私服で来てるのよ。まったく、ニートを雇ったと思ったら、今度は見知らぬ旅人を泊めるですって。それも男性を、どこまで淫乱なのよ」

 ぽろっととんでもないことを言う白薔薇。話とは違い、二人は仲が悪いのだろうか? それにしてもスーツが私服とは変わっている。黒薔薇はグッと下唇を噛み締めると、

「そんな酷いことを言わないでください。私は困った人を助けたいんです」

「助ける? 偉そうなことを言うのは良いけれど、いい年をしているんだから働いたら。こんな屋敷でのほほんと暮らしてないで、ハローワークにでも行きなさいよ」

「い、良いんです。私は十七歳ですから」

 黒薔薇は意気揚々と言い放った。

 すると、白薔薇は唖然とした表情を浮かべていたものの、直ぐに冷静さをとり戻り、眉間にしわを寄せながら、

「十七歳ですって。約一〇歳もさば読むなんてどういうことなの。馬鹿なことを言ってないで、早く働きなさい。警察の事務仕事なんてどう? 募集しているから受けてみたら? ああでも一応公務員だから、公務員試験を受けなければならないけど。頭を使うのはあなたが得意なことじゃないの」

 やはり十七歳じゃないらしい。一〇歳さばを読んでいるということは、黒薔薇の本当の年齢は御子柴と同じくらいということになる。そう思うと、急に親近感が湧いた。

「く、黒薔薇様。ど、どうするんですか?」

 不安そうな声で棘丸が言った。黒薔薇はコクリと頷くと、

「お姉様。残念ですけどもう部屋が余っていません。今日はお引取りください。本当に大丈夫ですから」

「村長に言われたからねぇ。あたしだってそりゃ帰りたいけど、何かあったら困るし。ええと、何だっけ、御子柴君? 風体を見るとかなり怪しい男だからねぇ。このまま見逃すわけにはいかないかな。現代の金田一耕助って感じだよね」

「金田一耕助は和装をしてますけどね」

 ボソッと御子柴は言った。それに対し、白薔薇はキョトンとし、

「あなた金田一耕助を知ってるの?」

 と、尋ねた。

 御子柴は首を動かして白薔薇のことを見据えながら、

「勿論知ってます。それに御子柴というのは横溝正史のジュブナイル作品に登場する少年探偵の名前ですから」

「ええ、それは知ってるわ。あら珍しい。今どき古き良き探偵小説を読むなんて」

 白薔薇がフッと笑みを浮かべると、会話を聞いていた黒薔薇が会話に入って来た。

「御子柴さんは探偵小説を読むのが趣味なんですって。お姉様と一緒なんです」

「じゃあ、クイーンとかカーとかそういう古いのも知ってるのかしら?」

 白薔薇の口から本格黄金時代の作家の名前が挙げられる。当然、クイーンもカーも知っている。すべて読んだわけではないが、探偵小説の世界では有名人である。知らないわけがない。御子柴は笑みを浮かべながら質問に答えた。

「勿論知ってます。クイーンでは『レーン最後の事件』カーでは『ビロードの悪魔』が好きですね」

「へぇ。変なとこ突くのね。普通、クイーンといったら『Yの悲劇』だし、カーだったら『火刑法廷』あるいは『三つの棺』とかよね。でもますます怪しいわ。こんな山奥の村に突然現れて泊めてほしいだなんて。それも趣味が探偵小説。事件の匂いがするわ」

 二人のやり取りを見ていた黒薔薇はホッと胸を撫で下ろしながら、

「こんなところで立ち話もなんですから、リビングに行きましょう。そこで話をすれば良いと思いますわ」

 黒薔薇、白薔薇、棘丸、御子柴の四人は玄関からリビングに戻った。リビングにはすっかり後片付けを終えていた蔓田と花弁が席に座り、二人仲良く談笑していた。四人が室内に入って来るのを見るなり、蔓田の花弁の目は点になる。その視線は白薔薇に注がれている。蔓田も花弁は慌てて立ち上がり、

「し、白薔薇様!」

 と、声をかけた。

「いちいちうるさいわね。あたしが来たら何か不味いの?」

 白薔薇は白い歯を浮かべて言った。

 その言葉に慌てて、蔓田が反応し、

「い、いえ。そういうわけではありません。ただ、突然白薔薇様が現れたので驚いているだけです」

「何言ってんのよ。先週も来たばかりじゃないの」

 白薔薇はどっかと椅子に座った。それを見た花弁がサッとキッチンの方に消えて行き、コーヒーを持って来た。ここの執事やメイドは白薔薇が苦手なのだろうか? 御子柴はそう考えながら、白薔薇がコーヒーを飲んでいる姿を見守った。

「それで……」白薔薇が言った。「御子柴さんは旅人だそうだけど、具体的には何をしてるの?」

 問われた御子柴は自己紹介をした。つまり、自分が旅人で、全国を放浪し、行く先々で労働をしながら暮らしているということを告げたのである。

 白薔薇は御子柴の話を黙って聞いていたが、話が終わったと見るや、コーヒーカップをガチャンとソーサーの上に置き、

「完全に怪しいわね。黒薔薇、あんたこんな捉えどころのない人間を泊めようとしたの。ちょっと考えられないわ」

 黒薔薇はぷくっと頬を膨らませながら、

「御子柴さんは怪しくありません」

「人は見かけでは分からないものよ。まぁこの人の場合、見かけもかなり怪しいけど」

 散々な言われよう。御子柴は何も言えずに黙り込み、白薔薇の反応を待った。

「ここじゃ人が多いわね」白薔薇は言った。「場所を移しましょう。御子柴、あなたはどこの部屋を利用しているの?」

 御子柴は頭を掻きながら答える。

「えっと僕は二階の一番奥の部屋を使わせてもらってますけど」

「そう、あたしがいつも使ってる部屋ね。そこへ行き、話をしましょうか。花弁。コーヒーを二人分持って来て頂戴」

 そう言い、白薔薇は席を立つと、御子柴にも立ち上がるように促した。御子柴は仕方なく立ち上がる。そして、白薔薇の後を追う。二人きりで部屋に閉じ込められるのは辛い。一体自分が何をしたのだというのだろう。まさか警察官に事情聴取されることになるとは思ってもみなかった。

 キシキシと音を上げる階段を上り、白薔薇と御子柴は二階の一番奥の部屋へ向かう。トビラを勢いよく開けた白薔薇は、室内をまじまじと見渡した。

「怪しい物はないわね。何か隠してると思ったけど……」

 御子柴はぼそりと小声で答えた。

「当たり前ですよ。僕は人畜無害です。物騒な物なんて持ってませんよ」

「そうかしらね」白薔薇は回転椅子に座った。「人は見かけによらないからね。まぁあなたはベッドの上にでも座りなさいな」

 何気なく言う白薔薇。

 仕方なく御子柴はベッドの上に座り込んだ。マットレスのスプリングが軋る音が聞える。時刻を確認すると午後七時半を迎えるところであった。丁度御子柴が座ったタイミングで、トビラがノックされた。

「あの、花弁です。コーヒーをお持ちしました」

 その言葉を聞いた白薔薇は背もたれに背中をどっしりと預けながら、

「入って頂戴」

 と、答えた。

 花弁が緊張の面持ちで部屋に入って来る。銀色のトレーの上に白い湯気を放つコーヒーカップが二つ乗せられていた。花弁はコーヒーを白薔薇の許に置くと、残ったもう一つのコーヒーは部屋の中央にあるローテーブルの上に置いた。

「ありがとうございます」

 二杯目のコーヒーであるが、御子柴は一応礼を言っておいた。花弁は緊張した顔を和らげにっこりと笑うと、そそくさと部屋を出て行った。こうしてまた、御子柴は白薔薇と二人きりになる。張り詰めた緊張感のある空気が流れる。

「さて、尋問を開始しようかしらね」

 ふと白薔薇が言った。白い綺麗に並んだ歯が見える。尋問といっても、特に悪いことをしたわけではない。ただ単に一日泊めてもらおうと思っただけなのだ。泥棒でもしようと考えたわけではない。

「一体この村に何の用なの?」

 白薔薇は足を組みながら尋ねた。

 この村に何の用があるなんて問われても困る。特に深い意味はないのだから。

「用と言われても困るんですけど。特に何かあってこの村に来たわけではありません。既に説明したとおり、僕は旅人です。だから全国の色んな村や街を放浪しています。今回も同じです。放浪中に偶然この村に辿り着いたのです」

「そう、なら黒薔薇のことを事前に知っていたのではないわけね」

「勿論です。ここに来るまでは全く知りませんでした」

「それにしても不味いわねぇ……」

 白薔薇は体を伸ばしながら言った。

 一体何が不味いのだろうか? 話の行方が分からない御子柴は顔を曇らせながら、

「何かあるんですか?」

 と、尋ね返した。

「昔ね。この村では殺人事件があったのよ。あなた知ってる?」

 村で殺人事件。穏やかな話ではない。そういえば村長も昔のことがどうとか言っていたではないか。

「知りません。そんな物騒な事件があったんですか」

「そう。かれこれ二〇年くらい前の話だけどね。ちょうど、今のあなたと同じような境遇の人間が現れたの」

「僕と同じですか。ということはつまり、旅人ということなんですね」

「ええ。麓の村に現れて、一晩泊めてほしいと言ったそうよ。時刻は夕方六時を回っていたし、これから山を越えるのは難しいだろうと判断した村人は、その旅人を泊めることにしたのよ。でもそれが悲劇の始まりだった。旅人は旅人ではなく、こぢんまりとした村を襲う泥棒だったってわけ。突然豹変した旅人に度肝を抜かれた村人だったけど、何とか抵抗して、旅人を追い出そうとした。取っ組み合いになり、旅人が村人を投げ飛ばしたとき、運悪く村人は家具の角に頭をぶつけてしまったの。丁度当たり所が悪かったみたい。病院に運ばれたけどそのまま亡くなってしまったわ」

「そ、それで、その旅人はどうなったんですか?」

「勿論警察の捕まったわ。派手にやりあったものだから、近隣の村人が警察に連絡したのよ。懲役十年。既に出所し、どこかへ行ってるでしょうね。だからこの村の人たちは旅人に多大な恐怖心を抱いてるってわけ」

 淡々と言う白薔薇であったが、御子柴は直ぐにおかしい点に気づいた。そんなに旅人を警戒しているなら、この館に来るきっかけを作ったトネ婆さんという人物はどうして御子柴を黒薔薇の館に案内したのだろうか? 村人から崇拝されている黒薔薇の許に、わざわざ危険な因子を送るとは思えない。

 すると御子柴の心を見抜いたかのように、白薔薇が言った。

「だけどあなた運が良かったのよ。あなたが尋ねたのはトネさんという老婆で、息子さんと一緒に暮らしてるんだけど、丁度息子が出かけていて留守だった。トネさんはね、少し痴呆症が出始めているから、ついあなたを黒薔薇様のところに行けと言ってしまったのね。だからあなたはこの屋敷に来ることになった。そして一連の出来事を、息子に話したそうよ。それを聞いた息子が村長に連絡したわけ」

「この村で殺人事件があったことは、当然黒薔薇様も知っていることですよね? どうして彼女は僕を泊めてくれたんでしょうか?」

 白薔薇は切れ長の目を窓の外へ向けた。その表情は本当に黒薔薇そっくりだ。

「黒薔薇はああいう性格でしょ。悪戯好きなんだけど、困っている人を見ると放っておけないのよ。まぁ、他にも理由があるかもしれないけど。そうだ、あなたブーブークッションに引っかかった?」

 御子柴は恥ずかしそうに頷き、

「はい。引っかかりました」

「そう。あの子、悪戯好きだから。許してあげて」

「そのようですね。それにしても、黒薔薇様は村人やここの執事やメイドに崇拝されているのですね」

「馬鹿なこと言わないで!」白薔薇が大声を出した。「崇拝されているですって、あの子はただ甘えてるだけなのよ。もう今年二十六になるのよ。それなのにあの子は一度も働かず、この屋敷で悠々自適に暮らしている。農作業を手伝ったと思えば、今度はニートを雇う始末。このままの生活がずっと続くわけじゃない。お父様だってもう高齢でいつまで生きているか分からないんだから。つまり、自分で生活していけるようにならなくちゃいけないの。それなのにあの子はいつまでもこうやって」

「お、落ち着いてください。今の時代、何も働くだけが生き方のすべてじゃないですよ」

「旅人の癖に適当なこと言わないで。働くだけが生き方じゃないですって。そんなの駄目よ。人が生きていくためには労働することが大事なの。それなのにあの子はいつまで経っても働かない。頭が良いくせにね」

 歯痒そうに白薔薇は言った。対する御子柴はローテーブルに移動し、コーヒーに口をつけ、

「黒薔薇様は頭が良いんですか?」

 と、尋ねた。

「そう。だってあの子はT大を出てるからね。この村から新幹線で通っていたわよ。あまり学校に行かなかったら卒業までに六年かかってるけど」

 意外な黒薔薇の経歴を知り、御子柴は黙り込んだ。そんな秀才がこの小ぢんまりとした村の中で、お手伝い以外の仕事はせずに屋敷で暮らしている。確かに家族からすれば心配であろう。その気持ちは分からぬでもない。

「あの、一つ良いですか?」御子柴は言った。「ご両親は黒薔薇様のことを何て言ってるんですか?」

「お父様やお母様は黒薔薇に甘いからね。何も言わないわ。むしろ黒薔薇の生き方を肯定してる。あたしには結婚しろとか、警察官は辞めろとか言うくせに黒薔薇には甘いのよ。まぁあたしはそれほど優秀な人間じゃなかったからね。学校だって良いところを出てるわけじゃないし」

 ぽつりと言う白薔薇。その顔はどこか哀愁に満ちていて、寂しそうに見える。

「でも白薔薇様は働いているじゃないですか。それも警察官として。それって凄いことだと思います」

「田舎のお巡りさんだけどね。特に事件が起きるわけじゃないし。誰にだって出来るわよ」

「どうして警官になろうと思ったんですか?」

 その質問に白薔薇は軽くコーヒーに口をつけた後、答えた。

「あたしが警官になった理由ねぇ。そりゃ簡単よ。探偵小説に憧れていたから。普通は探偵を目指せば良いのだろうけど、現実の探偵って事件に出くわせるわけじゃないからね。やっぱり警官となって、事件を解決したいと思ったの。ゆくゆくは県警の刑事部に配属されて、そこでバンバン事件を解決していきたいわ」

 意気揚々と告げる白薔薇。その表情は揺るぎない自信で満ちていた。刑事に憧れる良家の娘。かと思えば全く働かないで暮らす娘もいる。何だか不思議な家族だ。御子柴は体を伸ばした。

 室内は沈黙で包まれる。御子柴は何を言って良いのか分からずに黙り込む。白薔薇も同じである。腕を組み御子柴に視線を送りながら何かを考えているようであった。本当に泊めてもらえるのだろうか。それだけが不安である。今更家を追い出されて山を越えるのは辛い。御子柴はスッと懐中時計を見つめた。

 量販店で安売りしていた懐中時計である。決してブランド物ではない。色々ガタは来ているがもったいないので使っているのだ。時刻は午後八時を指している。黒いカーテンがかかっているので外の様子は分からないが、きっと漆黒の闇に包まれていることだろう。そうなれば、殆ど地理のない山に入って行くのは危険だ。野宿でも良いかもしれないが、寝袋などは持っていない。

「まぁ良いわ」白薔薇が言った。「今更追い出すって言うもの良心が痛むし。もうここで泊まるしかないわね」

 その言葉を聞き、御子柴は心の底から安堵した。何とか今日は野宿をしなくてもすみそうだ。久しぶりに暖かい布団の上で眠ることが出来る。そう思うと、御子柴の顔は緩み、自然と笑顔になる。

「何、何だか嬉しそうね。そんなにこの屋敷に泊まれることが嬉しいの?」

 白薔薇はニヤッと不気味な笑顔を浮かべながら尋ねた。

「勿論ですよ」御子柴は答える。「こんな立派なお屋敷に泊めてもらえるなんてことは滅多にありませんから」

「だけどこの部屋は駄目よ」

 何だか雲行きが変わってくる。

 この部屋が駄目ということは、どこで眠れば良いのだろうか?

「え、でも黒薔薇様はこの部屋を使えと言ってくれたんですけど」

「黒薔薇はそう言ったかもしれないけれど、ここはあたしの部屋なの。今日はあたしも泊まることに決めたわ。あなたを監視することにする。何か事件が起きてからでは遅いもの」

 完全に不審者扱いされている。御子柴は悲しくなり、その場でため息をついた。しかし、この部屋に泊まれなくなると、どの部屋を使えば良いのだろうか? 御子柴の記憶が蘇る。

 確か、黒薔薇は御子柴がこの部屋に泊まったことにより、もう空き部屋がないと言っていたはずだ。となると、泊まる場所がないのではないか。流石に白薔薇と一緒にこの部屋に泊まるのは不味いだろう。若い男女が同じ部屋で、それもベッドが一つしかないのに泊まるのは絶対に駄目だ。

 では蔓田か棘丸と一緒に泊まるのはどうだろうか? 棘丸はまだ良いが、蔓田は御子柴のことを毛嫌いしている。何となく態度で分かるのだ。出来れば一緒には泊まりたくない。まぁそんな贅沢は言っていられないのだけれど……。

 勿論、女性である花弁と一緒の部屋というものNGだ。黒薔薇と一緒というもの絶対に駄目。

 あれこれと御子柴が考えていると、クスッと白い歯を浮かべながら白薔薇が言った。

「何をそんなに難しい顔を浮かべているのかしら?」

 御子柴はややうなだれながら、

「だってこの部屋に泊まれないとなると、どこに泊まれば良いのかなって考えていたんです」

「この屋敷には四つの部屋とキッチン、ダイニング、リビングがあるわ。つまり4LDKってこと。一階には黒薔薇の部屋とキッチン、そしてダイニングとリビングがあるの。そして二階には三つの部屋がある。今あたしたちがいる一番奥の部屋。階段横の部屋は花弁が使っていて、真ん中の部屋は蔓田と棘丸が使っているわ。要はもう空き部屋はないの」

「僕はリビングで寝ろってことですか?」

「一階には黒薔薇がいるからねぇ。あなたが何をしでかすか分からないわ。よって、あなたは廊下で寝なさい。この部屋の前の廊下で寝るの。それならば許してあげるわ」

 さらりと酷いことを言う白薔薇。

 今まで色んな家に泊まって来たけれど、廊下で寝ろと言われたことは一度もない。季節的にまだそれほど寒くないから廊下で寝ることは可能であるが、キシキシと傷む廊下で寝袋も何もなしで寝るのは少しキツイと思った。否、あまり贅沢は言っていられないのかもしれない。少なくとも、泊めてもらえるだけでもありがたいのだ。そう考えなければ罰が当たるだろう。

「黒薔薇様はこの屋敷の主なのに、一階に一人で暮らしているんですね」

 御子柴はぼそりと言った。

 すると、白薔薇はフンと鼻を鳴らし嘆息した後、次のように言った。

「あの子が一階で暮らしているのには理由があるの」

 理由がある。それは一体何だろうか? 御子柴が生唾を飲み込むと、白薔薇は続けて言葉を継いだ。

「黒薔薇はね、ある奇病を抱えているの」

「奇病ですか?」

 鸚鵡返しに尋ねる御子柴。奇病とはまた穏やかな言葉ではない。

「そう。黒薔薇はね夢遊病者なのよ」

「む、夢遊病者」

 その単語を知らぬ御子柴ではない。

 睡眠中にうろうろと歩き回る異常行動のことである。そんな厄介な病に冒されているとは露ほどにも思わなかった。

「だから黒薔薇は一階に一人で暮らしているのよ。夜な夜な歩き回って、階段から落ちたりしたら困るでしょ。それに夢遊病者を無理に起こしたりすると危険なのよ。昔、海外では殺人事件に発展したこともあるわ。あまりに治らないからショック療法でもしたら良いのよ。村にはそういう民間療法が沢山あるから……」

 ショック療法とは穏便ではない。

 それにしても夢遊病の主。山の中にひっそりと佇む館。そしてそこに住む三人の執事とメイド。何やら怪しげな匂いがするではないか。御子柴は目を細め、白薔薇の反応を待った。

「あなたに一つ忠告しておくわ。黒薔薇の部屋には近づかないこと。それに夜中、うろうろと歩き回る黒薔薇は危険だから、絶対接しちゃ駄目よ。何をされるか分からないわ。だからあなたはこの廊下眠りなさい。良いわね?」

 諭すような口調で言う白薔薇。

 廊下では眠りたくないが、一階で泊まることが出来ない以上、廊下で眠るしかないようである。

「分かりました。じゃあ廊下で寝ます」

「意外と物分りが良いのね」

「そりゃそうですよ。今更追い出されるのは困りますからね。それに比べれば廊下で眠るくらい屁でもありません」

 そう言い残し、御子柴はボストンバックをひょいと掲げて外に出て行った。白薔薇は目を点にさせていたが、追いかけては来なかった。

 廊下は一定間隔で壁に燭台が設置されており、煌々と明かりを放っていた。頭上には古い蛍光灯の淡い光がある。廊下には窓があり、そこにも黒い暗幕がかかっており、外の様子は見えない。御子柴はふと暗幕を開き、外の様子を眺めた。

 完全に日が落ちた山の中は、魔界でも広がっているかのように黒い闇で覆われていた。今まで色んな場所で寝泊りをして来た旅人、御子柴であったが、この闇の中を進む勇気はない。やはり、ここは廊下で一晩を過ごすのが賢明な判断だろう。

 窓を見るのを止め、御子柴は廊下に座り込んだ。すると、丁度そこに銀のトレーを持った花弁が現れた。

「あれ、御子柴さんこんなところで何をしてるんですか?」

 花弁は不思議そうに尋ねる。

 誰が見ても、廊下で一人座り込んでいる御子柴は異様である。御子柴は乾いた笑いを浮かべながら、

「いや、その、色々ありましてね。廊下で眠ることになったんです」

「廊下で? 白薔薇様と喧嘩でもしたんですか?」

 喧嘩なんてしていない。一方的に追いやられただけである。でもそんなことを花弁には言えない。顔を曇らせながらも、御子柴は答える。

「流石に若い男女が同じ部屋に泊まるのは不味いと思ったんです。白薔薇様は女性ですし、なら僕が部屋を譲って廊下で泊まろうと考えたわけです」

 それを聞いた花弁は顔を歪めながらも目は真剣なまま、

「白薔薇様、酷いですね。一緒に泊まれば良いのに、白薔薇様は黒薔薇様と違ってそんなに色気もありませんから、御子柴さんが襲うなんてことは考えられません」

 グサッと鋭いことを言う花弁。白薔薇も黒薔薇も殆ど瓜二つの外見をしているから、体型だって全く同じである。白薔薇に色気がないのなら、黒薔薇にだってないということになるだろう。しかし、御子柴はそのことを口には出さなかった。

「少し、お話しませんか? あたし、旅の話を聞いてみたいですし」花弁はそう提案した。「ちょっと待っていてください。コーヒーカップを片付けたら直ぐに戻って来ますから」

 花弁は白薔薇のいる部屋をノックし中に入った後、直ぐに二つのコーヒーカップとソーサーを持って現れ、一階へ降りて行った。ものの五分ほどで、再び御子柴の所にやって来て、自室のトビラを開けた。

 花弁の部屋も御子柴が先ほどまでいた部屋と同様、真っ黒であった。家具から壁、カーテンに至るまですべてが黒。電気がついていないから余計に黒く見える。花弁が入り口の壁に設置された電気のスイッチを押すと、室内はぼんやりとした明かりに包まれた。

 部屋の中心には革張りの黒いソファーが置かれている。その前にはローテーブルがあり、飲みかけのコーヒーが置いてあった。室内の家具の配置は御子柴が案内された部屋と殆ど同じである。大きな机があり、ベッドがある。花弁の部屋には小棚があって、本やCDが少しだけ収納されている。部屋全体は綺麗であり、清掃が行き届いていた。

 花弁はベッドにどっかと腰をかけると、御子柴に向かって声をかけた。

「御子柴さんは回転椅子に座ってください」

 大きな机の前に、黒いベルベッドが張られた回転椅子がある。御子柴は言われるがままに椅子に座った。柔らかく座り心地が良い椅子である。花弁は御子柴が椅子に座ったのを見るなり、足をぶらぶらとさせながら、にっこりと微笑んだ。

「大変な目に遭いましたね」

 花弁は哀れむような目を向けて言った。

 確かに大変な目に遭った。豪奢な屋敷に泊まることが出来、専用の部屋に案内されたと思ったら、いきなり廊下で寝ろと言われてしまったのだから。こんなに慌しいことはない。御子柴は首元をぽりぽりと掻きながら、

「そうですね。でも良いんですよ。泊まれるだけでありがたいんですから。それにしても黒い部屋ですね」

「黒薔薇様は黒がお好きなんです。館の殆どの物は黒色で統一されているんです。でも、御子柴さんは優しいんですね。白薔薇様は勝手な人なのに、全然悪口を言わない」

「そりゃそうですよ。だってこの屋敷は一応白薔薇様の家でもあるんですから。そうだ、白薔薇様ってよくこの家に来るんですか?」

「白薔薇様ですか? たまに来られますよ。ううんと、大体二週間に一度くらいですかね。交番のお巡りさんとはいえ、忙しいみたいですからね」

「刑事になりたいと言っていましたね。だから私服がスーツなんですかね。それに刑事になるには色々な条件をパスしていかなければなりませんから大変でしょうけど」

 すると、花弁はフッと白い歯をむき出しにし、

「刑事なんてなるものじゃないですよ。忙しそうですし、殺人事件に出くわした時にはあたしだったら卒倒してしまいますよ。御子柴さんは長いこと旅をされているようですけど、何か事件に巻き込まれたことはないんですか?」

 事件か。御子柴は記憶を巡らす。一年程旅をして来たのは事実であるが、頻繁に事件に出くわすわけじゃない。

「精々、熊や猪に遭ったくらいですかね。地元の猟師のライフルの音で逃げていきましたが、あの時は怖かったですね。熊も猪も意外と大きいんですよ」

「熊かぁ。何となく可愛いイメージがありますけど、やっぱり野生の熊って怖いんだろうなぁ」

 あっけらかんと言う花弁。彼女と喋っていると、色々と気が削がれる。

「あたし、ずっと引きこもりだったんで旅行とか殆どしたことがないんです。この村からもあまり出ません。たまに黒薔薇様と近くの街まで買出しに行きますけど、そのくらいです。だから、色々なところを旅されている御子柴さんが羨ましいです」

「旅をするなんて簡単ですよ。お金が必要だっていう人もいますが、贅沢をしなければそれほどお金はかかりません」

「あたしは一応、この屋敷にメイドなんで旅行をするわけにはいきませんよ。あたしは黒薔薇様に助けられましたから、その恩返しのためにこの屋敷にいるんです」

 黒薔薇に対する熱い思いが感じ取れた。余程黒薔薇に感謝しているのだろう。御子柴はニートや引きこもりになったことがないから、当事者の気持ちが分からない。だが、家にずっといる生活というのはきっと激しいストレスが溜まるものなのだろう。世俗と切り離された生活は時として精神を病む因子となるのだから。

「お休みはないんですか?」

 と、御子柴が尋ねると、花弁はスッと顔を上げて、

「休みですか。一応週休二日制です。まぁでも休みの日といってもこの屋敷にいるんであまり変わりはないですけどね」

「自分の家には帰らないんですか?」

 何気なく尋ねる御子柴。それに対し、花弁は遠い目をした。何か不味い質問をしてしまったのだろうか? 室内に重苦しい空気が流れる。しばしの沈黙があった後、花弁がそれを静かに破った。

「自分の家には殆ど帰りません。あたしは長い間引きこもりだったっていうこともあり、母親以外の家族とあまり仲が良くないんです。特に父親との関係は最悪ですよ。顔も見たくないって感じなんです。だから休みの日も大抵この屋敷にいます。黒薔薇様はそのことに対して何も言いませんからとても感謝していますよ」

「そうなんですか……」

「御子柴さんは家には帰ることはあるんですか?」

「家にですか、盆と正月には帰っていますよ」

「へぇ、意外と律儀なんですね。でもいい年をして旅ばかりしていると、ご両親は心配されませんか?」

 その質問に御子柴はグッと言葉を詰まらせた。家族の記憶が目まぐるしく脳内を回る。

「実は両親は亡くなっているんです。僕が旅をしようと思ったもの、両親の死がきっかけです」

 両親の死というかなりヘビーな話が出てきて、花弁は言葉を失った。何かこう聞いてはいけないことを聞いてしまったような感じがしたのであろう。室内にピンと張り詰めた空気が流れる。

「す、すいません。嫌なことを思い出させてしまって」

「いえ、構いませんよ。気にしないでください」

 御子柴は笑顔で言った。両親の死は確かに辛いことであるが、いつまでもその悲しみを引きずっているわけにはいかない。

「それよりも」再び御子柴は言った。「花弁さんはどういう経緯でこの屋敷に来ることになったんですか?」

「あたしがここに来る経緯ですか。それは簡単ですよ。母が黒薔薇様に相談したんです。『娘が引きこもりで困ってる』って。黒薔薇様は村の人たちに崇拝されています。あたしもそれを知っていましたから、突然黒薔薇様があたしの家にやって来たときには酷く驚いたものです。そこであたしのどうしようもない話を延々と聞いてくださり、その結果この屋敷で働くように促してくれたんです。だからあたしはとても感謝しています。黒薔薇様がいなければ今のあたしはいません。きっと、蔓田さんだって棘丸さんだってそう思ってるはずです。あたしたちにとって黒薔薇様は神様みたいな存在なんです」

 黒薔薇はここまで崇拝されている。恐らく人間性が豊かなのだろう。それはそうだ。こんな怪しいナリをした御子柴はあっさりと泊めてやると言ったのだから。

「黒薔薇様は村の人たちから崇拝されているのですね。何だか凄い人だなぁ」

 御子柴がそう言うと、花弁はにっこりと微笑みながら、

「そりゃそうですよ。村人の中にもひねくれた人がいて、黒薔薇様のことを悪く言う人もいますけどね。白薔薇様は特に黒薔薇様と仲があまりよくないようですし」

「そうなんですか? 仲が悪いという割にはこの屋敷によく来てるみたいですけど」

 花弁は不意に辺りをくるくると見渡し、小声で囁いた。

「あくまで噂ですけど、白薔薇様は黒薔薇様が自由に生きて、さらに村人たちから崇拝されているという境遇をあまり快く思っていないみたいなんです。警察官になったっていってもあくまで交番のお巡りさんですからね。刑事なんて夢のまた夢ですよ」

 外の闇は深まり、不気味な風が辺りに吹き始めた。御子柴はその後も花弁と話を続けた。話す内容といえば旅のことで、全く村から出たことがない花弁は、まるで未来人と話しているかのように身を乗り出し、御子柴の話を聞いていた。

 時刻が八時半を回った頃、御子柴は花弁との会話を打ち切り、一人リビングへ下りて行った。水でも飲もうと思ったのである。

 リビングには人気がなく、シャンデリアから放たれる明かりだけが虚しく室内を照らし出している。キッチンの方へ向かいグラスを探す。食器棚の中にグラスはしまわれているが、キチンと拭かれているので、これを使うのは忍びないと思った。そこで御子柴が手をグラス代わりにして水を飲もうと考え、水道の蛇口を捻ろうとしたとき、後方から声が聞えた。

「何をしている?」

 低い男の声。御子柴は直ぐに声の主が分かり、身を翻した。

 予想通り、視線の先には蔓田が立っている。手には時代を感じさせる青錆びの浮いたカンテラを持っている。その中の明かりがぼんやりと御子柴を照らし出す。

「え、ええと」御子柴はややどもりながら言った。「水を飲もうと思って」

「そうか。一人で一階に下りて行くから泥棒でもするのだと思ったよ」

 さりげなく酷いことを言う蔓田。やはりこの男は御子柴に対してあまり心地の良い印象を持っていないようだ。御子柴は苦笑いを浮かべながら、

「泊めてもらった家で盗みを働くほど、僕は愚か者ではありませんよ」

 御子柴はきっぱりと言う。

「旅をしていると言っていたな。どうしてこの村に立ち寄った?」

 立ち寄った理由などない。放浪中に偶然立ち寄っただけなのだ。御子柴は眉根を歪めながら、蔓田のことを見つめた。蔓田は鋭い目つきをしている。

「別に理由なんてありませんよ。偶然です」

「偶然にしては出来過ぎだな。お前、この村で起きた殺人事件について知っているか?」

 殺人事件。

 そういえば白薔薇もそんなことを言っていた。昔、この村に現れた旅人が村の人間を殺したのだという。だからこそ白薔薇はこの屋敷にやって来たのだ。御子柴を見張るために……。

「白薔薇様から聞きましたよ。でも、僕は殺人鬼じゃありませんから心配ありません」

「どうだかな。風体はかなり怪しいぞ」

「風体は確かにみすぼらしいかもしれませんけど、僕は無害ですよ。とても人を殺せるような人間ではありません。明日の朝直ぐ出て行きますから、今日だけはここに泊めてください。お願いします」

「お前どこで寝るんだ? まさか白薔薇様を同じ部屋に泊まるなんて言うんじゃないだろうな?」

 御子柴は首を左右に振り、廊下で眠るということを説明した。その言葉を聞いた蔓田は一瞬安堵したかのような表情を浮かべたが、直ぐに表情を戻し、元の難しい顔になった。

「廊下で寝るか。傑作だな。だが、それなら良いだろう。但し、一階には下りるなよ」

「どうしてですか? 水を飲む場所は一階にしかないし、トイレだって一階じゃないんですか?」

「一階は基本的に黒薔薇様の領域だ。深夜そこに入ることは許されん」

 滅茶苦茶な理屈だ。一階が黒薔薇の領域だとしても、どうしてそこに入ってはいけないのだろうか。御子柴はそこで黒薔薇が夢遊病者であるということを思い出した。

「それは黒薔薇様が夢遊病という病を患っているからですか?」

 その言葉を聞き、蔓田はこれ以上ないくらい瞳を広げ、

「お、お前、どうしてそれを知っているんだ」

「白薔薇様に聞きました。でも安心してください。危害を加えようとか、興味本位で見てみようとか、そういう気持ちはさらさらありませんから」

「白薔薇様……。なんておしゃべりな。我々とご両親しか知らない情報を。全く困った人だ。こんな得体の知れない輩に黒薔薇様の秘密をぺらぺら喋るなんて信じられない」

 蔓田は怒っているようであった。

 確かに白薔薇は不要なことをぺらぺらと喋ったかもしれない。だが、それは御子柴には関係ないことだ。御子柴が考え込み黙っていると、蔓田が再び言った。

「御子柴。黒薔薇様が夢遊病だということは他言無用だぞ。それを破ればそれ相応の罰がお前を待っていると思え」

 やや乱暴な口調で蔓田は言う。

 勿論御子柴はこのことを他言するつもりはない。別に黒薔薇が夢遊病者であったとしても、それは御子柴にとっては全く関係のない話だ。

「安心してください」御子柴は言った。「夢遊病くらいなんてことない病気ですよ。それで誰かに危害を加えることはないでしょうし」

「だと良いがな。私はお前の素性がどうも気に食わん。それに何か嫌なことが起こりそうで怖いのだ。万が一、黒薔薇様に何か遭ったらと思うと、私は気が触れそうだ」

 そう言うと、蔓田は頭を抱えた。

 余程黒薔薇のことを心配しているのだろう。御子柴は蔓田の気持ちが良く分かった。

「蔓田さん。安心してください。何も起きませんよ。それに、蔓田さんは黒薔薇様のことを心酔されているんですね」

「当たり前だ」蔓田は言った。「今の私があるのは皆黒薔薇様のおかげなのだ。あの御方がいなければ、私はずっと無職で家から出られなかったかもしれない」

「そういえばここに来る前はニートだということでしたよね。ずっと働いていなかったんですか?」

 その問いに、蔓田は一層鋭い視線を御子柴に向けた。

「お前だって働いていないだろう。まぁ良い。私の夢は学者になるということだった。そのために大学へ行き、大学院で博士課程に進んだ。卒業時は二十七歳になっていたよ。だが、学者にはなれなかった。大学の研究者は既に定員オーバーだ。かといって他の大学に行く事だって叶わない。とにかく人員に空きが出るのを待つしかなかった。研究者というものはコネが必要だが、私にはそれがない。非常勤講師ということで何とか職にありついたが、決して暮らしていける額の給与が貰えたわけではなかった。親に寄生し生きていくしかない。最初はいい顔をしていた私の家族だったが、低賃金状態が続くと、嫌味を言うようになった。大学院まで出たというのに、この体たらく。両親の怒りはピークに達していた。私は何も出来ず、そのプレッシャーに負け、他の職業を当たってみた。しかし、何の社会経験もない二十七の男を雇うほど、社会は甘くない。二十社ほど受けたが、どこからも採用されず、私はニートになった」

 そこまで言うと、一旦中休みをし、蔓田はキッチンからリビングの方へ移動してテーブルに座り込んだ。

 それを見た御子柴も後を追い、蔓田が座った対面に腰を下ろす。御子柴が席に着いたのを見るなり蔓田は話を続けた。

「ニートになって五年が経った頃だった。父が他界したのだ。私はいよいよニートを続けていくことが難しくなったと思った。しかし、どうすることも出来ない。既に年齢は三十を超えているし、今更仕事に就くといってもどんな仕事を選べば良いのか分からない。そんな時だったよ。黒薔薇様が現れたのは。黒薔薇様は私の父の葬儀に参列してくださり、その時に私の境遇を知ったのだ。そして有無を言わさずこの屋敷に来るように言ってくださった。それは嬉しかったよ。ニートを続けていると、誰からも認められない。社会から阻害されている。そんな風に感じるのだ。だが、そんな何の背景もない私を黒薔薇様は雇ってくださった。ありがたい話だ。黒薔薇様には一生頭が上がらないだろう。それくらい多謝しているのだ」

 蔓田はそう言うと、机に肘をつき目を閉じた。引きこもりやニートという者は心に大きな闇を抱えているのだと、御子柴は感じ取っていた。自分は旅ばかりしているが、蔓田のように仕事がなくニートになる人間は少なくない。同時に、黒薔薇に対する忠誠心が窺えた。まるで女王を守る剣士のように固い結束が生まれているのだと感じる。

「黒薔薇様は本当に優しい方なのだ。だから、お前のような浮浪者じみた者であっても、一晩の宿を与えてくださる。通常、こんなことはない。何しろこの村では昔旅人を泊めたということで殺人事件が起きているのだからな。そんな前例があるというのに、黒薔薇様はあっさりとお前を泊めると仰った。感謝するんだな」

「勿論ですよ。感謝しても仕切れないくらいです。こうして食事も与えてもらったし、寝る場所は廊下になりましたけど、それは全然構いません」

 御子柴は真剣な表情で言った。その真っ直ぐな目を蔓田は見つめている。そして徐に口を開いた。

「全く、不思議なヤツだ。犬のように純粋無垢な目をしている。その瞳に黒薔薇様は共感されたのかも知れないな」

 そう言うと、蔓田は立ち上がりキッチンの方へ向かいグラスに水を注いで戻って来た。グラスを御子柴の前に置き、それを飲むように促した。

「確か水が飲みたいと言っていたな。水を飲むと良い」

 言われるがままに、御子柴は口をつけた。冷たい水だ。田舎ということで水道の水もミネラルウォーターのように美味しい。

「御子柴。一つだけ言っておく」不意に蔓田は重鎮な声を上げた。「黒薔薇様の期待を裏切ったら承知せんぞ」

 その言葉はどこまでも真摯であった。対する御子柴は黙ったまま、首を上下に振る。黒薔薇の思いを裏切る予定などさらさらない。今日一晩ここに泊まり、朝早くには出て行くつもりだ。迷惑なんてかけないだろう。

「大丈夫ですよ。安心してください」

 と、御子柴が言うと、蔓田は鼻を鳴らし、太い手で御子柴の肩を叩き、「グラスはシンクの中に置いておくだけで良い」と、言い残しリビングから出て行った。

 リビングでは一人になった。薄暗いシャンデリアの明かりがグラスを照らし出し、ウイスキーのように色をつけていた。水を一気に飲んだ御子柴は立ち上がり、言われたようにグラスをシンクの中に置き、自分の寝床である二階の廊下へ戻ろうとした。布団はないが何とか眠れるだろう。

 懐中時計を確認すると、午後九時であった。廊下を歩き階段を上ろうとすると、丁度棘丸と出くわした。棘丸も蔓田と同じで青錆びの浮いたカンテラを持っている。しかし、丈の長いダスターコートを羽織っているのはなぜだろうか?

「御子柴さんでしたか」

 棘丸は優しい口調で言う。蔓田と話したばかりだから、その声は余計に優しく感じられた。

「ちょっと水を飲もうと思って、でも棘丸さん。その格好、どこか行くんですか?」

「ええ。少し屋敷の外を散歩しようと思って。どうです、一緒に行きませんか? 少し話をしたいとも思っていたんです」

 時刻は夜九時五分。突然の誘いに面を食らった御子柴であったが、直ぐに了承した。この館に来てから棘丸とは殆ど喋っていない。これを機会に親交を深めるのも良いと思ったのである。

 古臭いカンテラを持った棘丸は静かに玄関のトビラを開け、外に出た。外はコーヒーのように黒く、風の音が不気味に鳴り響いていた。雲がかかっているのか、空を見上げても星は見えない。圧倒的な闇が御子柴と棘丸を包み込んだ。最初は少し山を下り、ゆっくりと辺りを散策した後、再び館前まで戻った。

「それにしても」御子柴は言った。「古いランプですね」

 その問いに棘丸はフッと笑みを浮かべながら、

「骨董市で買った古いカンテラを僕がランプとして作り変えたんです。し、白薔薇様もこのような修理の作業が得意で、手伝ってくれました。黒薔薇様もいたく気に入ってくれて、それで使っています」

「骨董市なんて行くんですか?」

「たまにですけどね。こ、ここから数キロ離れた街で定期的に行われるんです。それほど規模の大きいものではありませんが、掘り出し物はあります」

「では館の明かり類もすべて棘丸さんが整備したんですか?」

「まさか、そこまでのことは出来ませんよ。何しろ元ニートですから」

 あっさりと言う棘丸。そう、棘丸もその昔はニートだったのである。

「そういえば蔓田さんも花弁さんも棘丸さんと同じ境遇だと言っていましたよね。そのつまり、昔はニートだって」

 棘丸は館の裏の方へ回り、ふと立ち止まった。

「そ、そうですよ。この館に暮らす人は皆同じ境遇です。だから仲が良いんですよ。黒薔薇様も決して働いているわけではありませんからね。黒薔薇様も仰いましたが、村の人の手伝いをしたりして暮らしているんです」

「何だかのんびりしていて良いですね」

「ぼ、僕は御子柴さんの暮らしもなかなか羨ましいと思いますけどね」

 二人は再び歩き出す。すると、前方に井戸が見えた。闇に包まれた井戸はどこか恐怖感を煽り、不気味に見える。その時、僅かながら井戸のそばから何かを弾くような音が聞えた気がした。

「井戸がありますね。あれって使えるんですか?」

 御子柴が何気なく尋ねると、棘丸は首を左右に振りながら、

「い、いえ、もう使えません。中は空のはずですよ。一応土を埋めてあるんですが、黒薔薇様がすべて埋めないようにと指示を出しているんです。多分、悪戯に使うんだと思うんですが。そ、それに、今時井戸を使っている家は少ないでしょう。村の方に行ってもいないと思います」

「でも井戸があるなんて珍しいですよね」

 井戸のそばに行ったが御子柴の聞いた音の正体は掴めない。気の所為だと彼は感じた。

 御子柴は井戸の中を覗き込む。真っ暗で底は見えない。あの世と繋がっているかのように見える。しばらく御子柴は井戸の中を覗き込んでいた。すると、そばに立っていた棘丸がカンテラで井戸の中を照らし出した。

 ぼんやりとした明かりが闇を侵食し、底のほうまで見える。深さは二メートルほどあるが、梯子でもあれば入れそうだ。御子柴はふと井戸の底で何か光っているのが見えた。

「あれ、何でしょうか? 井戸の底に何かありますよ」

 御子柴の言葉に棘丸は驚き、井戸の中を見つめた。しかし、中に何が入っているかは分からなかったようだ。

「ま、まぁ古い井戸ですからね。ゴミが入っていても不思議ではありません。さぁ行きましょう。ここは一応黒薔薇様の部屋のそばですから、あまり長居はしないほうが良いでしょう」

 そう言い、棘丸はスタスタと山を登って行く。その後に御子柴も続く。館が遠くなり二人の間には沈黙が流れたが、棘丸がそれを破った。

「そうだ。今日の食事どうでしたか?」

 その問いに御子柴は笑顔で答える。

「とても美味しかったですよ。色んなところを旅していますが、これほどの物を食べる機会はなかなかありません」

「そ、それは良かったです。今日の調理当番は僕でしたから。ここで使う野菜や肉、米などはすべて村で作っているんです」

「自給自足なんですね」

 棘丸は歩みを進め、やがてある場所で止まった。丁度、近くの木々の隙間から村を見下ろすことが出来る。点々と広がる明かりが見えてとても綺麗だった。

「今は暗くて見えにくいかもしれませんが、む、村の麓には沢山の畑や田んぼがあります。ぼくらもそこへ出かけて行き、農家の人を手伝ったりするんです。ここから二十分ほどですからね。そ、そのお礼に野菜や米、肉なんかをわけてもらうってわけですよ」

「悠々自適な生活ですね」

「ええ。というよりも、僕にはそのくらいのことしか出来ないんです。ぼ、僕は村から離れた工業高校を卒業した後、街の工場に就職しました。一日十二時間くらい働く、非常に苛烈な場所でしたよ。そ、それでも最初の二年くらいは上手く暮らしていたんです。賃金もそれなりに得て、ひっそりと生活していました。ですけど、工場が機械化を進めて、多くの人がリストラされることになったんです。僕もその中に入っていました。あっという間に無職になって、働く場所がなくなりました。工場というなんていうのかな、誰でも出来るような仕事をしていたためにキャリアはなく、つ、次の職場はなかなか決まりませんでした。それで家に閉じこもるようになったんです。ここに来る前一〇年はニートをしてましたよ」

 あははと乾いた笑いを浮かべながら、棘丸は言った。

 それにしても一〇年というのは恐ろしい長さである。そんなに長い間ニートをしていて社会とのつながりを絶っていたとは、御子柴はその現実に驚きを覚えた。

「それで黒薔薇様に救われたというわけですね。蔓田さんも花弁さんも同じようなことを言っていました」

「そ、そうです。僕らは皆似たような境遇を抱えています。だからこうしてうまくやっていけるのかもしれません。ぼ、僕らは皆、黒薔薇様にとても恩義を感じています」

 そう言い、棘丸は空を見上げた。空は曇り空だが空気はとても澄んでいて気持ちが良い。

 その後十五分ほど空を見ながら話すと棘丸が館のほうに足を向けた。

 散歩は終わりなのだろうか?

「あれ、誰だろうこんな時間に」

 棘丸は言った。カンテラを掲げ、正体を見定めようとしている。

「誰かいたんですか?」

 堪らず御子柴も尋ねる。どうやら前方に不穏な影が見えたようであるが、御子柴には分からなかった。棘丸はカンテラを掲げたまま答えた。

「ええ。館の周りに誰かいるようなんです。つ、蔓田さんかな? あの人もたまに散歩するみたいだし、体を鍛えるために山を走り込んだりしてるんですよ。で、でも女の人みたいに細かったな」

 黒い影の正体は掴めなかった。

 御子柴と棘丸が館の前まで辿り着いたとき、既に影は消えていたのである。本当に影は見えたのだろうか。御子柴が気にかけていると、棘丸がガタガタと震えているのが分かった。

「どうかしたんですか?」

 尋常ではない震え方に御子柴は驚きながらも声をかけた。

「わ、忘れていたんです……」

 どもりながら棘丸は言った。

「忘れていた? 何を忘れたんですか?」

「館の鍵をかけて来るのを忘れてしまったんですよ」

 鍵をかけ忘れることがそんなに重要なことなのだろうか? 御子柴はわけが分からずに棘丸に視線をやり、

「大丈夫ですよ、こんな時間に館に来る人間はいないですから。それに僕らが館を抜けた時間はせいぜい十五分ほどです。心配要りません」

 なるべく優しく諭すように言った御子柴であったが、その効果は全くなかった。依然として棘丸は震えている。

「だ、誰かがここに来るという可能性はあります。でも館の中には蔓田さんや花弁さんがいますから問題はありません。でも、黒薔薇様は違います」

 全く話が見えない。棘丸は余程焦っているようで、しどろもどろになっている。一体、何が彼をここまで慌てさせているのだろうか。

「落ち着いてください。黒薔薇様がどうかしたんですか?」

 ……沈黙。

 脂汗を浮かべた棘丸は静かに言った。

「こ、こんなことを旅人であるあなたに言うことは問題があるのかもしれないのですが、黒薔薇様はある病気を抱えているんです」

 その言葉に御子柴は黒薔薇が夢遊病という病に冒されているということを思い出した。直ぐに懐中時計を確認する。時刻は午後九時二十五分。寝るにはまだ早い時刻だろう。

「白薔薇様に聞きました。夢遊病を患っているんでしょう。ですが、まだ九時半です。流石に黒薔薇様は起きているでしょう」

「い、いえ」棘丸は言った。「く、黒薔薇様は八時半頃には就寝されるのです。非常に早寝早起きの方ですから、翌日の四時には起きているんですよ。就寝された黒薔薇様が病気のために外をうろつかれた。これほど危険なことはありません。なぜなら外は崖があったり穴があったりと危険なのですから。さ、さっき言った井戸だってあります。もしも怪我でもされたら、ぼ、僕はどうすれば良いんでしょうか?」

 棘丸はこれ以上ないくらい震え慄いている。カンテラがガタガタと揺れ、今にも地面に落としそうだ。御子柴は棘丸の肩に触れ、懸命に落ち着かせようと努力した。

「落ち着いてください。さっき見えた影だって見間違いかもしれません。とにかく一旦館に戻って黒薔薇様の部屋を見てみましょう。そうすれば大丈夫ですよ」

 御子柴の提案を棘丸は呑んだようだった。幾分か震えが収まる。それを確認した御子柴は棘丸を引き連れて黒薔薇の部屋へ向かった。

 時刻は九時半。まだそれほど夜も深まっていないのに館の中は不気味なほど静まり返っていた。壁に設置された燭台が虚しく廊下を照らし出している。慌しく棘丸が歩いて行く。一階の一番奥に黒薔薇の部屋がある。黒く塗られたトビラをノックし、反応を待つ。

「コンコンコン」

 三度ノックするが、中から反応はない。

「もう寝てるんじゃないですか?」

 と、御子柴は言った。

 八時半には就寝しているのだとしたら、いくらノックをしても無駄だろう。むしろ逆に起こしてしまうことになりかねない。それは執事としてはあるまじき行為なのではないか。御子柴はそう考えていたが、棘丸は違うようだ。取り憑かれたかのように青ざめた表情を浮かべている。

「く、黒薔薇様。いらっしゃいますか?」

 棘丸は声をかける。依然として反応はない。

「きっと寝てるんですよ。心配なら中に入ってみたら良いんじゃないんですか?」

「あ、あなたは何も分かってないッ」

 穏やかだった棘丸が突然豹変した。その変わり身に御子柴は驚き、目を丸くする。棘丸は大量の汗を掻きながら、

「夢遊病はとても危険な病気なんですよ。さ、先ほどの散歩で僕は外をうろついている影を見ました。この時間帯に村人は来ません。と、となると、影の正体はこの屋敷にいる誰かということになります」

「蔓田さんや花弁さん。それに白薔薇様だっていう可能性もあるじゃないですか。とにかく落ち着きましょうよ」

「あ、あの体型は黒薔薇様に違いありません。僕はなんてことをしてしまったんだろう。もうおしまいだ」

 カンテラを持ちながら、棘丸は頭を抱え出した。どうしてここまで自分を責めるのだろうか。御子柴には意味が分からなかった。いずれにしても、棘丸の心を平常にさせるには黒薔薇が眠っているということを確認してもらう他ないだろう。

 御子柴は頭を抱えている棘丸よりも先に、黒薔薇の部屋のドアノブを捻った。

「開かない……」

 と、御子柴は言った。

 すると、そばにいた棘丸が冷たい息を吐き、

「む、夢遊病者である黒薔薇様は寝る前に部屋の鍵を閉めるんです」

「今も鍵が掛かっています。ということは黒薔薇様が外に出ていないという証拠ではないでしょうか?」

「で、でも、一旦外に出てまた鍵を閉めたという可能性もありますよ」

「まぁ確かにその可能性もありますが、何かあったと考えるのは少し考え過ぎだと思いますけど」

「昔……」棘丸は静かに言った。心なしか冷静さを取り戻しているように見える。「お、同じようなことがあったんです」

「同じこと?」

 と、御子柴は目を細めて尋ねた。

 棘丸は首を上下に動かしながら、

「そ、そうです。あの時も僕が館の鍵を閉め忘れてしまったんです。黒薔薇様が夢遊病のまま外に出て、井戸に足を引っ掛けて危うく落ちそうになったことがあるんです。その時は膝を切る軽症で済みましたが、こ、今度はどうなるか分かりません」

「鍵、開けたらどうですか? それで黒薔薇様が眠っておられたらすべて丸く収まるじゃないですか」

「し、しかし、黒薔薇様の部屋に勝手に入るなんて、僕には出来ませんよ」

 御子柴と棘丸がやり取りしていると、その音を聞きつけたのか、蔓田と花弁がやって来た。二人とも訝しそうな表情を浮かべている。

「こんな時間に、それも黒薔薇様の部屋の前で何をやっているんだ?」

 静かな声で蔓田が言った。

「じ、実は……」

 棘丸は外で黒い影を見たこと、館の鍵を閉め忘れたことを告げた。

 普通ならそれほど驚くに当たらないことではあるが、蔓田も花弁も顔を青くして棘丸の話を聞いていた。黒薔薇の夢遊病というのはそれほどに危険なのだろうか?

「影を見たのは確かなんですか?」

 小ぶりのカンテラを持った花弁が尋ねた。

 その問いに棘丸は深々と頭を下げ、

「た、確かです。素早く横切ったのが見えたんです」

「素早くだと」蔓田が言った。「夢遊病者はそれほど俊敏に動かないはずだぞ」

「で、でもこの目で見たんですから」

「棘丸。お前は確か前にも同じミスをしたよな。黒薔薇様が膝を怪我された時の話だ。そのときもお前が館の鍵を閉め忘れたんだ。そのことを覚えているのか?」

 問い詰めるような蔓田の口調。特に体も太っていて低い蔓田の声は重々しく響いた。

 対する棘丸はすっかりしょげてしまって、今にも泣き出しそうな顔をしている。空気は悪い。どうしようか御子柴が解決策を練っていると、花弁が言った。

「とりあえず場所を移しませんか? ここは黒薔薇様の部屋の前です。あまりうるさくしちゃ駄目ですよ」

 尤もである。それを聞いた蔓田も棘丸も頷き、場所を移した。御子柴、蔓田、棘丸、花弁の四人はリビングへ向かい、そこで話し合うことにした。

 話し合うといっても蔓田が一方的に棘丸を問い詰めるだけである。三人は同じ境遇を持つから仲が良いと思っていたが、一概にそうは言えないようだ。四人が話し合いをしていると、コツコツと足音が聞え始めた。

 四人の視線が一斉にトビラに注がれる。黒薔薇が起きたのだろうか? 一瞬の間があり、リビングのトビラがガッと開かれた。

「く、黒薔薇様?」

 御子柴は呟いた。

 トビラの前には黒いガウンに黒いナイトウエアを着た女性が立っている。

「は? 黒薔薇ですって、どこを見てるのよ。あたしは白薔薇。っていうかさ、あんたたち何してるわけ?」

 と、白薔薇は言った。

 黒薔薇と白薔薇は瓜二つの双子であるため、薄暗い中だと判別しにくい。そんな中、蔓田が質問に答えた。

「棘丸がまたやらかしたんですよ」

 非難するような声。棘丸はすっかり小さくなり俯いている。それを見た花弁が棘丸の背中を摩っている。

「棘丸がやらかしたって何を?」

 不思議そうに言う白薔薇。それを聞き今度は花弁が答えた。

「棘丸さんが館の鍵を閉め忘れてしまったんだそうです。それで、黒薔薇様が外をうろついた可能性があるんです。部屋に行って確認しようと思ったんですが、鍵が掛かっているので、どうしようかって皆で話していたんです」

「あんたたち、そんなつまらないことでうじうじ話し合ってるわけ」

「つまらない話ですって?」

 蔓田が不満そうに言った。白薔薇は蔓田の口調など一切気にせず、

「そんなに心配なら部屋を見てみたら良いじゃないの。それが一番良いわ。棘丸、黒薔薇部屋の鍵はあるんでしょ」

 問われた棘丸は深く頷き、

「ス、スペアキーがありますから鍵を開けるのは可能です」

「ならそれを貸して頂戴。あたしが確認して来るから」

「し、白薔薇様。黒薔薇様の部屋に入るんですか?」と、驚いた顔を浮かべながら花弁が言う。

「そうよ」ほくそ笑む白薔薇。「だって心配なんでしょ。ほら、棘丸早く鍵を貸して」

 強引に鍵を迫る白薔薇。その行為に棘丸は根負けしたようである。ジャラジャラと沢山の鍵がついたキーケースを取り出すと、そこから一つの鍵を抜き取り、それを白薔薇に渡した。

「ありがと」

 白薔薇は鍵を受け取るなり直ぐに黒薔薇の部屋へ向かった。当然、御子柴たちも後を追う。

 部屋に向かう最中、蔓田が棘丸に言った。

「前回は黒薔薇様の恩情で鍵当番を続けたが、二度のミスは許されん。鍵の番は私がしよう。鍵をよこすんだ」

 強引に押し切られ、棘丸は蔓田にキーケースを渡した。棘丸はしょんぼりと肩を落とし、この世の終わりのような顔をしている。

 前方を歩く白薔薇は黒薔薇の部屋に辿り着き、直ぐに鍵を開け、室内に入って行った。意気揚々としていた白薔薇であったが、突如立ち止まった。その止まり方が不自然であったので、御子柴は眉根を寄せながら、部屋の中を覗いた。

 室内は薄暗く、ベッドの横にある小さなランプが光を放っているだけだった。白薔薇の影がランプに照らされ長く伸びている。

「どうかしたんですか?」

 と、御子柴が尋ねると、白薔薇は叫ぶように、

「は、入らないでッ!」

 御子柴、蔓田、棘丸、花弁の間に緊張が入る。直ぐに何か起きたのだと察し、白薔薇の命令も聞かず全員が室内に入り込んだ。

 花弁がトビラの脇にあるシャンデリアのスイッチを入れた。瞬く間に室内にオレンジ色の光が染み渡る。と、同時に五人は驚愕の事実を目の当たりにする。

 室内中央には血に染まった黒薔薇の姿があった――。

「ど、どういうこと」

 誰に言うでもなく、白薔薇は言った。表情は死人のように白く、目がこれ以上ないくらい開いている。

「ガチャン」

 花弁がカンテラを床に落とした。あまりの状況についていけないだろう。白薔薇と同じで顔面は蒼白である。

 部屋の入り口で御子柴も蔓田も棘丸も立ち尽くした。どう動いて良いのか分からないのだ。ただ、時間だけが徒に過ぎていく。

 どれくらい静寂が流れただろう。部屋は完全に静まり返っている。そんな静寂を花弁の悲鳴が破った。

「いやぁぁぁぁ!」

 その声に皆が我を取り戻す。

 白薔薇は床に屈み込み、黒薔薇の手首に触れた。その姿を御子柴が見下ろす。

「み、脈がないわ。つまり黒薔薇は死んでいるってこと?」

 と、白薔薇は呟いた。次の瞬間、御子柴が動き、白薔薇の隣まで赴く。黒薔薇がどうなっているのか自分の目で確認したかったのである。

 御子柴は白薔薇の隣に屈み込む。

 黒薔薇の部屋はそれほど広いものではない。館の主が住むには少しばかり狭いように思えた。部屋の幅は十メートルないだろう。全体的に小ぢんまりとしている。

 その部屋の中心に黒薔薇は倒れ込んでいた。遺体は首元を鋭利な何かで切られている。頚動脈が切られたのだろう。床には大量の血液が流れている。黒い床だから血液も黒く見える。次に御子柴は遺体に触れてみた。遺体はまだ温かい。いわゆる死後硬直がまだ始まっていないし、死斑も出ていない。御子柴は数ある推理小説を読んできた。そのくらいの知識はある。

「黒薔薇様は亡くなってから間もないですね」

 と、御子柴は言った。

 その言葉に白薔薇が反応する。

「は、何言ってんの。あんた」

「ですから、黒薔薇様は死んでから間もないと言っているんです」

 白薔薇が目を点にさせていると、後方にいた蔓田が口を開いた。

「御子柴、どうしてそんなことが分かるんだ?」

「簡単です」御子柴は黒薔薇に触れて言った。「死後硬直というのは、死後二時間経ってから始まるものなんです。ですが、黒薔薇様の遺体はまだ温かい。おまけに死斑も出ていません。これは死後一時間以内を意味しています。それに就寝されてからそれほど時間は経っていません」

 それを受け、蔓田はつかつかと御子柴のほうに足を進め、遺体を見るために屈み込んでいる御子柴の首元を持ち、強引に立ち上がらせた。

「貴様がやったんだな」

 重く割れ鐘のような声がひっそりとした室内に響き渡る。

「な、何を言ってるんですか。僕じゃないですよ」

「ふざけるな。黒薔薇様を殺害するなど、私たち執事やメイドがするわけはない。白薔薇様は姉妹だ。となると、残されたのは貴様しかない」

 首元をこれ以上にない力で引っ張ったので、一番上のボタンが飛んだ。それでも御子柴はされるがままになり、蔓田を見つめ、

「落ち着いてくださいよ。僕はやっていません。第一、どうして僕が黒薔薇様を殺さなきゃならないんですか。僕は今日、初めてこの村にやって来たんですよ」

「金目当てだろう。黒薔薇様は裕福な格好をしているし、若い女性だ。貴様は流浪の旅人、慢性的に金には困っているはずだし、恐らく、旅の先々で盗みを働いているんだろう。考えられるシナリオはこうだ」

 蔓田はそこまで言うと、御子柴を思いっきり突き放した。その反動で御子柴は床に転んだ。そして蔓田は御子柴に言葉の雨を降らせるように、怒涛の勢いで喋り始める。

「良いか、貴様は私と別れて水を飲んだ後、夜黒薔薇様の部屋に忍び込み、そこで金目の物がないか探していたんだ。それを黒薔薇様に見つかった。そこで黒薔薇様と貴様は口論になった。黒薔薇様が大声を出して危険を知らせそうになったから、困った貴様は黒薔薇様を殺害することに決めた。恐らく、ナイフかなんかを持っていたんだろう。旅人なんだから、サバイバルナイフを携帯していたとしてもおかしくはない。なんて卑劣なヤツだ。黒薔薇様の慈愛に満ちた行為を仇で返すなんて」

「ぼ、僕は犯人じゃありませんよ。口論になれば館にいる誰かが気づくはずです。それに僕は夕食後黒薔薇様には会っていません。おまけに鍵がかかっているのなら、僕は室内に入れませんよ。第一、花弁さんと話をしたり、水を飲んだ後、棘丸さんと外を散歩したりしていたんですから」

 助けを求めるように御子柴は花弁や棘丸に話を振った。凍りついた花弁は何とか御子柴の言葉を聞くと、震える声を出した。

「た、確かに御子柴さんはあたしと喋っていました。あたしの部屋にいたんです」

「待てよ」蔓田が言った。「黒薔薇様を殺してから花弁の部屋に行ったのかもしれない」

 その言葉を聞き、花弁は一層顔を青くした。卒倒する寸前のようにも見える。

「ちょっと待ってください」御子柴が叫ぶ。「黒薔薇様を殺してから花弁さんに会うなんておかしいですよ。それに床を見てください。大量の血で溢れています。壁にも吹き飛んだであろう血痕が残っている。それならば犯人は大量の血を浴びているはずなんです。僕を見てください。確かに汚らしい格好はしていますが、どこにも血痕はありません。それはつまり、僕が犯人ではないということを意味しているんです」

「た、確かに血痕はありませんね。と、というよりもここにいる誰もが血を浴びてはいない」

 棘丸が言った。花弁と同じで青い顔を浮かべている。

「棘丸。貴様は黙っていろ。貴様の所為でもあるんだぞ」

 蔓田はそう言うと、今度は棘丸のところまで行き、太った体を存分に奮い棘丸の首元を掴んだ。そして勢いよく左右に振る。対する棘丸は力なくゆらゆらと揺れながら、

「ぼ、僕の所為ってどういうことですか?」

「簡単だ。貴様が館のトビラを開けっ放しにしたからこんなことになったかもしれないんぞ。もしかしたら就寝中に夢遊病が発生し、黒薔薇様は外に出た。その時何かで怪我をしたのかもしれない」

 と、言い放つと、蔓田は乱雑に棘丸を投げた。その反動で棘丸は床に転んだ。乾いた「ドスン」という音が鳴り響き、再び室内は沈黙する。そんな中、今度は花弁が口を開いた。

「で、でも、黒薔薇様が外で怪我をされたのなら血の痕が残るはずですよね。館の床にはそんな痕がありませんよ」

 花弁の言うことは的を射ている。

 館の床に血痕はなく、綺麗なままだ。仮に黒薔薇が外に出て、怪我をしたとなると、床に血痕が付くのは当たり前である。それがないとなると、黒薔薇が外で首に傷を負ったという可能性はなくなるだろう。

「黒薔薇はこの部屋で死んだのよ」

 今まで黙っていた白薔薇がゆっくりと口を開く。

「こ、この部屋で死んだってどういうことですか?」

 と、棘丸が腫れ物に触るかのように尋ねると、屈み込んでいた白薔薇が立ち上がり、

「棘丸。黒薔薇は寝るとき、この部屋の鍵を閉めているのかしら?」

「は、はい。就寝中は鍵を閉めています。以前、夢遊病で外をうろついているとき、ひ、膝を怪我されたことがありましたから、それを警戒して部屋の鍵を閉めることにしたんです」

「部屋の鍵はいくつあるの?」

「く、黒薔薇様が一つと、先ほど白薔薇様に渡したものを合わせて二つです」

「黒薔薇が鍵を閉めて寝たのなら犯人はどうやってこの部屋に入ったのかしら? 最後に黒薔薇に会ったのは誰?」

 蔓田、棘丸、花弁の三人はお互いの顔を見合わせた。食事が終わったのが午後七時過ぎ、その後、コーヒーを飲み、そこで村長が白薔薇を連れてやって来た。問題なのはその後のことである。

「確か」御子柴が思い出すように言った。「白薔薇様が来た時、五人でリビングに向かいましたよね。そこで少しだけ話をした後に、僕と白薔薇様は二階の部屋に向かった。その時、ここに残された方たちは何をされていたんですか?」

 その言葉を聞き、花弁が目を細めながら答えた。

「ええと、残ったのはあたしと蔓田さん、それに棘丸さんと黒薔薇様です。黒薔薇様は白薔薇様が突然やって来たことに怒っているようでした。その後直ぐに自室に引っ込まれました。リビングにはあたし、蔓田さん、棘丸さんが残ったんです。あたしは……、そうだ。白薔薇様にコーヒーを頼まれていたので、その準備をして、白薔薇様の部屋にお持ちしました」

「それは間違いないわね」白薔薇が言った。「あたしと御子柴の分のコーヒーを持って花弁は部屋に現れた。じゃあその時、蔓田と棘丸は何をしていたの? リビングにいたのかしら?」

 次に答えたのは棘丸である。彼は床に腰を下ろしたまま、声を出した。

「ぼ、僕はリビングの片づけをしていました。だから黒薔薇様には会っていません」

「じゃあ蔓田は何をしていたの?」

 問われた蔓田は不満そうな顔をしたものの直ぐに答えた。

「私は黒薔薇様の部屋に寝る前のホットミルクをお持ちしました」

 その言葉に白薔薇の目がくわっと見開かれる。

「それは何時頃?」

「確か、七時半くらいだったと思いますが」

 現在の時刻は午後十時。蔓田の言葉が正しければ七時半には黒薔薇は生きていたことになる。

「その後、黒薔薇に会った人物はいないというわけね。それで棘丸が外に出たのは何時頃なの?」

 棘丸はゆっくりと立ち上がり言った。

「九時過ぎです。大体二十分くらい散歩しました。散歩の途中で館の鍵を閉めて来るのを忘れたと気づいたんです」

「それで散歩を切り上げ、黒薔薇の部屋に行ったらこうなっていたというわけか」

「そ、そうです。で、でも誰がこんな酷いことをしたんでしょうか」

 涙ながらに語る棘丸。目の前には変わり果てた黒薔薇の姿がある。遺体という圧倒的な現実を見せ付けられ、五人は再び黙り込んだ。黒薔薇の部屋には時計があり、秒針の音だけが虚しく聞えている。

「鍵は二つしかない。そして、これだけの血があるというのに、誰も返り血を浴びていない。これは不可解ね」

 と、白薔薇が言った。

 その言葉を聞いた花弁がオドオドしながら言葉を継ぐ。

「棘丸さんが見たという影の仕業でしょうか? 夜に山の中をうろついているっていうのはかなり怪しいと思いますけど」

 日も暮れた夜、山の中を歩き回る影。明らかに怪しい。何の目的で山に来たのだろうか? 黒薔薇に恨みがある人物で殺しにやって来たのかもしれない。御子柴がそう考えていると、蔓田が声を出した。

「だが、棘丸の言うことが間違っているということもある。第一、外はもう真っ暗だ。カンテラの明かりだけじゃ木の影を人影だって間違える可能性はある。棘丸は館の鍵を閉め忘れるほどの愚か者だ。何かの影を人影だと間違えたっておかしくはない」

 すると、棘丸は直ぐに反論する。

「ち、違いますよ。確かに僕は人影を見たんです。間違いありません。木の影は不気味ですが、動くことはないです。で、でも、僕の見た人影はしっかりと動いていたんですから」

 必死に言う棘丸であったが、蔓田はそれを信じようとしない。

「仮にその影をXとすると、Xはどうやって黒薔薇様の部屋に入ったんでしょうか? だって鍵が掛かっていたわけでしょ」

 と、御子柴が言う。

 Xは鍵の開いていた館の中に入り、蔓田や花弁に見つからないように黒薔薇の部屋へ行き、何らかの方法で鍵を開け、中に進入し、室内で眠っていた黒薔薇を殺害した?

 これはかなり難易度の高いことだと思えた。白薔薇は戦々恐々とベッドの方を覗き込んだ。黒いシーツに黒い布団であるため、よく分からないが、血が吹き飛んでいるのを発見したようである。そして、探偵のように顎に手を当て話し始めた。

「ベッドの方まで血が吹き飛んでいるわね。床も凄いし、壁にも血液が付着している。Xは黒薔薇を部屋の中央まで立たせ、そこで首を切ったことになる。かなり不可解ね。頚動脈を切れば血が吹き飛ぶことくらい想像出来そうなものだけど」

「とにかく」御子柴が言った。「Xは返り血を浴びている可能性が高いということですよね。棘丸さんが見た影は、もしかしたら黒薔薇様を殺害した後に逃げようとしていたXなのかもしれませんよ」

「ちょっと待てよ」次に言ったのは蔓田だ。「仮にXという奴がいたとしよう。でも、そいつはどうして黒薔薇様を殺害しようと思ったんだよ? 村人で黒薔薇様のことを憎んでいる奴はいないだろう。皆、黒薔薇様を崇拝している。黒薔薇様を命がけで守ろうとすることはしても、殺そうとはしないはずだ」

 蔓田の言葉に棘丸も花弁も無言で頷く。しかし、白薔薇だけは違った。

「そんなことは分からないわ」白薔薇は静かに声を出した。「村人の中にだって黒薔薇を恨んでいる人間はいるはずよ。こんな悠々自適に暮らしていて、殆ど働いていない。なのに生活は裕福。日々働いている村人たちからすればありえない生活よね。自分たちが汗水流して働いているのに、黒薔薇は働いていないのだから。そんな境遇に嫌気が差していた村人がいたっておかしくはないわよ」

「く、黒薔薇様は働いていないわけではありませんよ」

 反論したのは花弁だ。表情は恐々としているが、声はしっかりとしたものだった。

「どうしてそんなことが言えるの? 何か証拠でもあるのかしら」と、白薔薇。それを受けて花弁が、

「あ、あたしたちは村人の手伝いをします。それでお金を頂いていません。ボランティアっていうやつです。ですから、村人に恨みを買われる筋合いはありませんよ」

「さぁどうかしらね。手伝いをしてるといっても見返りに何かもらうわけでしょ。米とか野菜とか。村人たちからすればいい迷惑よね」

「そ、そんな迷惑だなんて、誰も思っていませんよ。皆、笑顔です。黒薔薇様のことを崇拝しているから作物を分けてくれるんですよ」

「その言葉が真実だとしたら村人が犯人である可能性は低いということね。となると次に怪しいのは……」

 白薔薇が話している途中、蔓田がそれを遮り、声を上げる。

「白薔薇様。犯人は決まっていますよ。御子柴です。というよりも、もうこいつしかいないでしょう。こいつは旅人と体のいいことを言っていますが、実が筋金入りの泥棒なんですよ。旅の先々で盗みを働いて生活している。でなければ、今時働きもせずに旅だけで生計を立てるなんて不可能ですから」

 完全に泥棒扱いされた御子柴は「ふぅ」と嘆息する。泥棒と言われたことも悔しいが、殺人鬼扱いされたことはもっと御子柴の心を傷つけた。そんな非人道的なことをする人間と見られていたことが、何よりもショックだったのである。

「誰が犯人か? ということで議論するのは止めませんか?」

 御子柴が言った。

 その言葉に、白薔薇、蔓田、棘丸、花弁の四人の視線が一斉に御子柴に注がれる。

「あなた何を言ってるの?」白薔薇が言った。「犯人を捜さないでどうするのよ。黒薔薇は何者かに殺されたかもしれないのよ。それを見過ごすつもり」

「違いますよ。白薔薇様は警察官ですが、一人で捜査は難しいでしょう。それに僕らは捜査に関しては素人です。しかるべきところに連絡しましょう。つまり、警察を呼ぶということです。捜査のプロに連絡するのが一番だと思いますが」

 御子柴の提案はあっさりと受理されることになる。蔓田が館の電話から警察に連絡することになった。他の四人はリビングへ移り、座り込んだ。時刻は午後十時を回っている。しばらくすると、蔓田がリビングにやって来た。

「県警の刑事が来るのは明日の朝一番になるそうです。その間、黒薔薇様の部屋には入らず、何も動かしてはならないということです。それとこの後、付近の警官がやって来ます」

 すると、白薔薇がハッと顔をあげ、

「明日になるですって。全く県警の刑事は何をしてるのよ。こんな緊急事態なのに」

「既に十時を回っていますし。ここから県警のある場所まではかなり距離があります。明日の朝になるのは仕方ないでしょう」

 蔓田と白薔薇がやり取りしていると、白薔薇は話を切り上げ、キッチンの方へ向かった。そして、インスタントコーヒーに瓶を取り出し、人数分のコーヒーを淹れ始めた。慌てて花弁が「自分がやります」と言ったが、白薔薇は手でそれを遮り、自分でコーヒーを淹れ、それをリビングまで運んだ。一同はとりあえずコーヒーを飲むことになった。白薔薇はコーヒーカップを御子柴に渡した。

「しかし困ったことになったもんだ」

 コーヒーを啜りながら、蔓田が言った。

 花弁が暗い顔をさらに歪めながら、蔓田の言葉に反応する。

「困ったことですか?」

「そうだ。我々の主である黒薔薇様が亡くなったんだぞ。私たちはこれからどうなるんだ」

「た、確かにそうですけど、今はそのことよりも黒薔薇様を殺した犯人を見つけることのほうが大事ですよ」

「犯人? そんなものは決まっている。御子柴だ。何度も言うがこいつしかありえないだろう。刑事は明日の朝やって来ると言っている。私たちの使命は明日の朝まで御子柴を監視するということだ。この旅人、どさくさに紛れて逃げ出すかもしれないからな」

「そ、そんな」御子柴がすかさず抗議する。「僕は逃げ出しません。それに何度も言いますけど犯人じゃありませんよ」

「どうだかな。人を殺した奴があっさりと『自分は犯人です』と言うわけがないだろ。とにかくお前は廊下で寝ることは許さん。私と棘丸の部屋で行き、そこで我々の監視を受ける。一切の反論は認めないからな」

「それは構いませんけど」

 しばらくすると、交番の警官が数名やって来た。青白い死人のような顔をしている。それはそうだろう。こんな田舎の村では事件が起きることさえ稀なはずだ。どうやら白薔薇の上司と同僚のようで、白薔薇は何やら話をしていた。

 警官たちは現場に向かったが、とてもではないが自分たちでは対応出来ないと判断し、今後一切現場に入ることを禁じた。そして、全員に屋敷の外に出ないようにと指示を出した。結局は県警の刑事たちが来るまで何も出来ないということになる。警官たちは泊り込みで現場に残ることになったようだ。

 御子柴は蔓田と棘丸の部屋で監視されることになった。二人の部屋はベッドが二台あり、壁に書棚がぽつねんとある小ぢんまりとした部屋だった。クローゼットもあり、そこには二人の衣類が入っているようだったが、御子柴は詳しく見ることはせず、ただ黙って入り口のトビラの前に立ち尽くした。

「ベッドが二台しかありませんけど、僕はどうしたら良いんですか?」

 と、御子柴が尋ねると、蔓田はニヤッと口角を上げ、床を指差した。

「決まってるだろ。床だよ。なぁに、布団を一枚渡してやる。それで暖を取ると良い」

 廊下の床で寝るのも、部屋の床で眠るのも大して変わりはない。それに監視の中では眠ることは難しいだろう。御子柴はフッと嘆息した後、蔓田から薄いタオルケットを受け取り、床に座り込んだ。棘丸だけが申し訳なさそうに御子柴を見つめている。

「明日、お前は警察に捕まる。覚悟しておけよ」

 蔓田がそう言い、ベッドの上に座り御子柴を睨みつけた。

 床は固い。それに山の中だから夜は寒かった。寝付けない御子柴は座ったまま、強引に目を閉じて何やら考え事をしていた。一時間、二時間と時間は経っていく。いつの間にか蔓田と棘丸は眠っていた。微かな寝息が聞えて来る。黒薔薇が死んだというのに、どうして眠れるのだろう。

 黒薔薇は首元を切られていた。恐らく鋭い刃物で真っ直ぐに。日本刀でも使ったのだろうか。否、そんな物騒なものはこの館にはないし、村人だって持っているか不明だ。さらに言えば、こんな夜に日本刀を持ってうろうろしていたら誰か気づくだろう。

 棘丸は山の中を散歩中、人影を見ているのだ。その時、その人物が武器を持っていたら気づきそうなものだが、そのことは言っていなかった。つまり、Xは手ぶらで来ていた可能性がある。否、それはないか。素手であのような傷を与えることは不可能だ。絶対に何か道具を使ったはずなのだ。となると、Xは凶器をどこかに捨てたか隠したということになる。

 ここは山の中にある館だ。凶器の捨て場所ならばいくらでもある。山の中に捨てるなり、埋めるなりすれば簡単に見つけ出すことは難しい。棘丸が見たXも凶器をどこかに捨てる最中だったのかもしれない。

 村人に崇拝されている黒薔薇。そんな彼女を誰かが殺そうと考えるのだろうか? このことも謎である。花弁が言うとおり、村人たちが皆黒薔薇を崇拝しているなら、黒薔薇を殺害しようとは思わないだろう。だが、白薔薇が言ったように、黒薔薇の悠々自適な生活を憎み、恨んでいる人間がいるという可能性も捨てきれない。

 いずれにしても、このままでは不味い。蔓田は完全に自分を犯人扱いしているし、棘丸や花弁だっていつ蔓田側に回るか分からない。何だがとんでもない事件に巻き込まれてしまったなと御子柴は脂汗を掻いた。

 今まで長いこと旅をして来たが、こんな事件に巡り合ったのは初めてである。統計的には殺人事件に遭遇する可能性は一%くらいなのだという。仮にこの事件が殺人事件だとすると、そんな低確率の籤を引いてしまった自分の運のなさに、御子柴はほとほと嫌気が差していた。

 夜は更ける。夜の闇に目が慣れてきた。うとうととしていたため、少しは寝たのかもしれない。時計を見ると、午前四時半を過ぎている。蔓田と棘丸はすっかり眠っているようで、起きる気配がない。御子柴は静かに立ち上がり、部屋を出て行こうとした。トイレにも行きたいし、汗を掻いたので水も飲みたい。

 なるべく音を立てないように、静かに部屋の外に出る。「キィ」という甲高い蝶番の音が聞えたが、蔓田も棘丸も気づかないようであった。廊下を歩き、階段を下りる。そんな中ふと脳裏をある考えが過ぎった。

 今なら逃げられる。ボストンバックを白薔薇の部屋に置き忘れたが、それはどうにでもなる。特に大事なものが入っているわけではないし、なければないで良い。だが、ここで逃げ出したら自分は完全に犯人扱いされて、最悪指名手配されるかもしれない。それだけは御免だ。指名手配をされた旅人なんてなるもんじゃない。少なくとも逃げ出すのは駄目だ。

 警察だって馬鹿じゃない。殺人事件が起きればきっと犯人を見つけ出してくれるはずだ。今時の捜査は科学捜査だから、どんな微細な証拠だって見逃さず、犯人にまで捜査の網は届くだろう。しかし、Xとは誰なのだろうか? やはり村人か? 何度も同じことを考える御子柴は、トイレで用を済ませた後、リビングへ向かった。

 リビングは電気がついており、泊り込みの警官がぼんやりと座っていた。カーテンが真っ黒であるから暗く感じる。午前四時半とは思えない暗さだ。なるべく音を立てないように静かに部屋に入ると、警官の一人が御子柴に気づき、シッと人差し指を口元に当てた。すると何やら声が聞えて来ることに気づいた。

 御子柴は耳を澄ませ、声の出所を探した。

「どうして……」

 すすり泣くような声だ。声質は完全に女性のものである。声はリビングの隣の方から聞えて来る。リビングの隣といえば黒薔薇の部屋だ。誰かが黒薔薇の部屋にいるのだろうか? 考えられるのは白薔薇か花弁のどちらかであろうが、こんな時間に何をしているのか?

「しばらく一人にさせてやれ」

 と、警官は言った。全体的に顔が疲れて見える。

 御子柴は水を飲む事も忘れ、リビングから出て行った。どうしても泣き声が気になるのである。

 意を決し、御子柴はリビングを出て黒薔薇の部屋に向かった。僅かにトビラが開いている。御子柴は部屋のトビラに近づき、そっと中を覗いた。

 室内は薄暗いが、カンテラの明かりがぼんやりと輝いている。やはり誰かいるのは間違いない。そっと耳を澄ませて中の様子を窺う。

「どうして……こんなことに……」

 声の正体は白薔薇であった。白薔薇が黒薔薇の遺体の前に立ち、遺体に向かって声をかけているのである。姉妹なんだから当然の行為か。妹が亡くなって悲しくない姉なんていないだろう。白薔薇も早過ぎる黒薔薇の死を悲観しているのだ。御子柴や三人の執事やメイド達の前では威勢を張っていた白薔薇であったが、やはり本心では悲しんでいるのだろう。

 警察には部屋を荒らさないようにと言われていたが、上司や同僚の警官が白薔薇の気持ちを汲み、特別に中に入れたのだろう。

言われたとおり、このまま一人させてやろう。そう考え、御子柴が蔓田の部屋に戻ろうとしたとき、誤って床を踏む音を立ててしまった。たちまち緊張感のある空気が流れ、室内にいる白薔薇がハッと我に返った。

「誰?」

 白薔薇はドアの方に振り返り言った。御子柴はこのままやり過ごせないと判断し、ゆっくりと顔を出した。

「す、すいません。声が聞えたものですから覗いてしまいました」

 御子柴の言葉を聞き、白薔薇は目元に浮かび上がった涙を拭き取った。

「御子柴、あなただったの。それにしてもこんな時間に何の用かしら? まさか逃げ出すつもりだったわけ?」

「そんなことありませんよ。逃げ出したらそれこそ自分が犯人であると認めてしまうわけじゃないですか。僕は犯人じゃありませんから逃げ出しませんよ」

「場所を移しましょうか。リビングへ行きましょう」

 白薔薇はそう提案すると、スタスタと御子柴の脇を抜け、リビングの方へ向かって行った。その後に御子柴も続く。

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