高校生活の始まり
入学式の朝、純は音楽教室の友人の加賀美翔から貰ったスーツを着た。
翔が中学の時のピアノの発表会で着たものだった。
濃いグレーの地に、細い赤いストライプの入った生地で出来たタイトなスーツは、男の子の物とは思えないほどオシャレだ。
パンツの丈も袖丈も、ちょうど良いように翔の母親が直してくれた。
翔の母親は洋服の店を四軒持っていて、その影響もあって彼の私服はどれも素敵だ。
翔の父親はレストランをいくつも経営している。入学式が終わったら、そのうちの一番カジュアルな店で、純の入学祝いの食事会をすることになっていた。
純は入学式よりも食事会のほうを楽しみにしている。集まるのは、純と貴久と音楽教室の友人たちだけだったから。
伯母の京子は、『金松家で』と言っていたのだが、京子に迷惑を掛けないようにと、父の勝が店を予約してくれていた。
昨日の夜、貴久から純にメッセージが届いていた。
『入学式の後の部活説明会に自分も出る。楽しみにしていろ』
と、命令口調の文。
貴久は軽音楽部だから、何か演奏でもするのかもしれないと純は思って、了解を意味するスタンプだけ送り返した。
純は大きなリュックを背負って、自宅の最寄りの須川駅から電車に乗り、西山高校の最寄りの西山駅で降りる。
それらしい親子が何組も西山高校の方へ向かって歩いている。
一人きりなのは、純ぐらいだ。
昨日の朝までは、父の勝も入学式に来るわけだった。しかし、午後になってどうしても外せない仕事が出来て、来ることが出来なかった。
「入学するのは私だから・・・。それに貴兄さんもいるんだから・・・」
心細さを押し隠して、純は自分に言い聞かせた。
校門の前で写真を撮る親子もいる。
純はスマホをポケットから出すと、門に掛かる高校名だけ写真に収めた。
案内役の先生に誘導されて、クラス分けを掲示板で確認した。
純は3組だった。
保護者はそのまま入学式の会場へ。新入生は教室へと向かう。
純と同じ中学からは、五人が入学しているはず。女子は純だけで、他の四人は男の子だ。
三組には、その四人の名前は無かった。少しほっとする。中学時代の嫌な出来事を、高校では知られたくなかったから。
純が一年三組の教室に入るとすぐに、担任の先生が入って来た。
「一年三組担当の加藤だ。名前を呼ぶから、順番に席に着きなさい」
男子生徒から名前が呼ばれ、窓際から順に席に着いた。
女子の番になる、女子は四十人のクラスの中、十二人だ。
西山高校はもともとは男子校だったから、今でも女子は二割ほどしかいない。
女子も名前が呼ばれて、席に着いていく。
「住吉純」
純の名前が呼ばれ、返事をした瞬間、教室の中にどよめきが起きた。
純は、すぐにそのどよめきの理由に気が付いた。
同じようなことを何度も経験していたから。
『スーツを着た天然パーマの男の子・・・だと思ったら・・・女だった』
加藤先生まで、まじまじと純の顔を見ている、しかも出席簿と純の顔を見比べている。
純は知らなかったが、加藤先生は単に純の男の子みたいな外見に驚いたわけではない。
『住吉純』という生徒が、入学試験の成績が抜群だったにも関わらず、意外にも引っ込み思案に見えたので、驚いていたのだ。
先生が気を取り直して次の生徒を呼ぶと、ざわめきは収まった。
「自己紹介をしてもらう。名前と出身校と、何か自分をアピールしなさい」
席順どおりに自己紹介が始まる。
笑いをとるようなコメントをする子たちもいる。
純はこういう場面が何より苦手だ。
純の順番が来ると皆、他の生徒の時よりも興味深そうにこちらを見つめる。
ドキドキしながら立ち上がり、強張った表情で、
「住吉純です。福山中学から来ました」
気の利いたコメントどころか、それだけを言って座るのが精一杯だった。
また、教室がざわざわする。
「次の人、早く」
加藤先生はうながしながら、自分の直観通りの生徒だと確信した。
全員の自己紹介を終え、入学式の会場の体育館へ向かった。
入学式の退屈な時間が流れる。
退屈すぎて、ひそひそ話しが出始めたころ、やっと式が終わった。
そのまま、生徒会主催の部活説明会に入る。
純は貴久が出てくるのだけが楽しみだった。
『高校には色んな部活があるんだなぁ』
と、思うくらいだ。
部活に入るつもりは全くなかった。
中学時代、純は吹奏楽部にいた。
入部して楽器を決めるとき、彼女はコントラバスを選んだ。
他にも同じくコントラバスを選んだ女の子がいた。
しかし、人員枠が一人しかない。
試しに弾いたとき、楽器は違っていても、幼い時から弦楽器に触れていた純が有利だった。
加えて、楽譜が読めると言うことで、純がコントラバスに決まってしまった。
そこから、部活での『揉め事』が始まった。
人数の少ない楽器だから、一年生ではほとんど出られないはずのコンクールや発表会などにも出られるし、上級生のコントラバスより純の方が上手いから、先生も目を掛けてくれる。
そんなことが続いて、部活内で悪目立ちしてしまった。
嫌味を言われたり楽器の運搬などでの協力が得られないなど、純にとって部活が苦しいものになっていった。
『だから、もう部活はこりごり・・・中学の時のことは思い出したくない。高校ではそんな目にあいたくない』
純は、部活紹介をぼんやり見ていた。
気が付けば、軽音楽部の番になっていた。
四人の男子生徒が出てくる。そのうちの一人が貴久だ。
他の三人が部活説明をしているのに、貴久は押し黙ったままだ。
純を探して切れ長の目だけが動いている。
そんな貴久の目を、純はじっと見つめた。
貴久の目と純の目がパッと合わさる。純が微笑みを見せると貴久もほっとした顔になって、純から目を離した。
貴久は演奏どころか、何も話さないまま壇上から去って行く。
「何が『部活説明会に出るから、楽しみにしていろ』っだったんだろう・・・」
昨夜のメッセージを思い出し、純は下を向いてこっそり笑った。
部活説明会が終わって教室に戻ると、教室には教科書や配布物が届いていた。
皆で持参したバッグなどに配布された物をまとめていると、純のそばに加藤先生が近づいて来た。
また、周囲の注目を集めてしまう。
「家の人に渡しなさい。入学式で配布された保護者用に書類だ」
純の名が書いてあるA4サイズの封筒を渡された。
三組で保護者が来ていなかったのは純だけだったようだ。
純は、入学当日に先生に顔と名前を覚えられてしまったことに、少なからずショックを感じていた。
明日からの予定の説明があったあと、下校ということになった。
他の生徒の視線を避けるかのように、純は急いで教室を出る。
貴久と待ち合わせをしている正門前に向かった。
貴久はすでに門の前に立っていた。
「なんだ、髪、切ったのか・・・」
純がそばに着くなり、不満そうな言葉を口にした。
「うん、だって髪が長いと天然パーマが目立つから・・・」
彼女の一番のコンプレックスは、男の子に見えることではなく、父親似のくるくるの巻き毛だ。
『サラサラのストレートだったら、ロングヘアにするのに』
と、何かにつけてため息をついていた。
「短いとまた男に間違えられるぞ」
「うん、今日も男に間違えられた」
「ハハハ・・・。翔の服なんか着てるから、余計に間違えられるんだ」
貴久の大笑いが周囲の注目を集め、純は恥ずかしくて歩みを速めた。
「だって、この服、とっても気に入ってるんだもん」
純が口を尖らせる。貴久はそんな純の唇の赤い色にドキリとさせられ、咄嗟に彼女の背中からリュックを奪う。
「貸せ。持ってやるよ」
「重いよ。ありがと」
そう言う純の微笑みは・・・『男なんかに見えない』
貴久の心は切ない何かでいっぱいになる。
二人並んで西山駅に向かう。
「どう?高校生になった気分は?」
「まだ実感ないよ。でも、制服が無いから嬉しい。スカート穿かなくていいし」
純が晴れ晴れした顔をする。
西山駅の前のバス停からバスに乗って、翔の父親の経営するレストランを目指した。
二人掛けの席が空いていたので、並んで座った。
「やっぱり部活には入らないつもり?」
純の顔色をうかがう。
「うん、帰宅部」
「軽音楽部に入らないか?」
「貴兄さんと同じ部?」
「うん、楽しいぞ」
純は首を横に振った。
「私、部活はいい。それに、けっこう家のことが大変。藤井さんがほとんどやってくれるけど、土日は来ないから。部活って土日もあるでしょ?」
「うん、まあな」
「バイオリンとピアノで精一杯。部活はもういい」
「そっか・・・」
貴久は、部活をしない理由が本当は別にあることを知っているから、それきり、その話題には触れなかった。一つ屋根の下では暮らせなくなったから、せめて部活だけでも一緒に過ごしたかったけれど、無理強いは出来ない。
バスはレストランに一番近いバス停に着いた。