題名の無い曲
静かな住宅街の中の洋館が、純の家だ。
玄関で純たち三人を迎えてくれたのは、藤井という年配の家政婦さんだった。
藤井さんには、土日以外の家事をお願いしている。
四月からは、藤井さんは午後に来て、純が学校から帰って来るまで居てくれることになっていた。
純は初対面だったが、伯母の京子はすでに幾度か会っていて、純の面倒を含め、家事の一切を事細かに頼んであった。
皆で車に積んである荷物を家の中に運び込む。
純は抱えて持って来たバイオリンを、母が使っていたグランドピアノのある部屋に運んだ。
これから純が使うのは、幼いころに使っていた二階の自分の部屋ではなく、母親が音楽教室をしていた一階にある三つの部屋だ。
玄関を入ってすぐの右手の部屋はベッドを置いて寝室に。
その隣の部屋には小さ目のグランドピアノが置いてある。
一番東の部屋は、音楽教室に来た生徒たちの練習部屋だった。アップライトピアノが一台置いてあり、純のために新たに勉強机が置いてある。部屋の東側には生徒たちが外との出入りに使っていたドアが付いていた。
三つの部屋には、先週運んだ荷物が封をしたまま積んであった。
純と京子でベッドルームのクローゼットに衣類などを片付け、貴久は勉強部屋で本を片付けている。
荷物を運び始めたとき、ベッドルームに入ろうとした貴久を、京子が止めた。
「ここは、男の子が入ってはいけない部屋よ」
純も貴久も、京子の言葉に顔を見合わせた、
「純ちゃんも気をつけなさいね。もう子供じゃないんだから。ここに男の子を入れてはいけませんよ。従兄とは言っても貴久もね」
「あ、はい・・・」
純は戸惑いつつ返事をする。
「貴久、あなたも気を付けるのよ」
京子は貴久に釘をさした、
「ん、そうだね」
と、いいつつ貴久も戸惑いを隠せなかった。
そんなやりとりがあって、貴久は他の部屋に追いやられたのだった。
「貴兄さん。勉強道具の段ボールは、そのままにしておいてね。あとで自分で片付けるから」
「じゃ、机の前に置いておくよ」
手持ち無沙汰になった貴久は、隣の部屋のグランドピアノを弾き始めた。
純が聞いたことのない曲。
「貴兄さん。それ、なんていう曲?」
「忘れた」
「誰の曲?」
「忘れた」
貴久の投げやりな答えに、純は質問をやめた。
「家ではピアノなんて滅多に弾かないくせにね」
京子が洋服をクローゼットに掛けながら、曖昧に笑った。
貴久は何度も繰り返してその曲を弾きながら、純の問いに心の中では答えていた。
『作ったのは俺。純に弾いて欲しい曲・・・。曲名は迷い過ぎて・・・付いて無い・・・』
貴久は、純がこちらを見ていないのを確かめ、深くため息をついた。
そんな様子に気付かない純は、
「貴兄さんも、音楽教室をやめなければ良かったのに」
ちょっと口をとがらせて言う。
「無理よ。貴久は純ちゃんと違って優秀じゃないから、お教室も続けながら受験勉強も頑張るなんてできなかったもの」
「そうかなぁ」
純は貴久のピアノを弾く姿が好きだ。上手ではないけれど、何かに一生懸命な貴久の目が、純には好ましいものに見える。
「俺には無理。それにピアノよりギターの方が好きだし」
貴久は、西山高校で軽音楽部に入っている。今はアコースティックギターに夢中だ。
「あ、そう言えば、翔君も憲人も渡も、みんな貴兄さんに会いたがっていたよ」
「なんだよ、いつもメッセージ、やりとりしてるのに。何を今さら」
加賀美翔は貴久の親友で菊川学園高校の生徒で四月からは二年生。
辺見憲人と清水渡は芦屋中学の三年生だ。
全員、純とは同じ音楽教室の仲間で、同じ時間にピアノのレッスンを受けている。
憲人はバイオリンの時間も一緒だ。
貴久も中学三年になるまでは、その音楽教室に通っていた。
「今度、うちに呼んでらっしゃい。純ちゃんの入学のお祝いをしましょうよ」
京子は、にぎやかなことが好きだから、嬉しそうだ。
「あいつらが来ると、煩そうだな」
そう、口では言うけれど、貴久もまんざらではなさそうな顔だ。
その様子を横目にとらえて、純は微笑んだ。
「この次のレッスンに行ったら、話してみます」
「必ずよ、忘れないでね」
「はい」
荷物がほぼ片付いたところで、京子と貴久は帰ることになった。
京子は藤井に「くれぐれもよろしく」と、念を押して車に乗り込んだ。
車に乗るまぎわ、貴久は振り返って純を見つめる。
「なに?」
純が問う。
「いや、何でもない・・・。何かあったらすぐに連絡しろよ。メッセージでも電話でも何でもいいから」
「うん」
「じゃ、学校で、な・・・」
「うん」
純が小さく手を振る。
車のエンジン音が響く。
貴久は一瞬、純が泣くのじゃないかと恐れを抱いた。しかし、思い過ごしだったようで、平然と車を見送っているようだった。
車が視界から消えると、純は藤井をその場においたまま、玄関に駆け戻る。
グランドピアノの部屋に入って、戸を後ろ手で閉める。
ケースの中からバイオリンを出すと、楽譜をひろげた。
心を無にして、練習曲を弾く。
それでも、音が止む一瞬の隙を、寂しさが襲う。
その空虚さが恐ろしく、立て続けにピアノに向かった。
思いつくままに楽譜を広げて曲を弾くうち、やっと心が落ち着いて来る。
本来の自分の家に帰って来て、唯一嬉しいことは、気兼ねせずに楽器を弾けることなのかもしれない。
純はそう思って、自分で自分を慰めるしかなかった。
目の前の楽譜を閉じると、さっき貴久が弾いていた曲を思い返し、右手だけで音を拾った。
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