龍神
達彦の目が覚めたのは、白々と夜が明け始める頃だった。
目を擦り、大きな溜め息をつくと、昨夜目にしたものをぼんやりと思い出した。
あれは…夢?
達彦が水槽を探すと、テントの隅に、空っぽのまますっかり乾いてしまっている水槽が転がっている。
枕元には、500円玉位の真っ白い鱗。
夢じゃなかったんだ…
兎も角、頭を少しスッキリさせよう…
達彦は、池の水で顔を洗おうと、テントの外に出た。
まだ少し暗いが、朝の冷たい空気が気持ちいい。
静かな水音を響かせている池の水の、刺すような冷たさも、寝起きの顔には心地好かった。
何度も何度も顔を洗い、やっと目が覚めてスッキリしていた時、いつの間にか達彦の目の前に、水面に映る白い陰があった。
恐る恐る顔を上げると、そこには見た事のない生き物が、じっとこちらを見ていた。
龍!?…本物!?
今まで幾度となく龍は見て来た。
でもそれは、架空の生き物と云う設定で描かれた絵でしかない。
それが今、目の前にいる。
『うわぁぁぁ!!』
達彦が悲鳴をあげて逃げ出した時、頭の中で声がした。
『待て!』
その声が聞こえた途端、達彦は動けなくなってしまった。
それでも、何とか体に力を入れてゆっくり振り向くと、純白の龍は、真っ直ぐに達彦を見ている。
口を少し開け、獲物を捕えるように凝視されて、達彦は震え上がった。
食われる!!
背筋がゾクッとした達彦は、息を飲んで目だけで周りを見渡した。
何か武器になりそうなもの…
キャンプの時にいつも持っているサバイバルナイフ…
必要なかったからまだテントの鞄の中だ…
いろいろ考えを巡らせている達彦の頭で、また声が聞こえた。
『恐れるな…私は何もしない…お前を傷つけたりはしないから、もっと私の所へ来い…』
龍神…
達彦の頭に、その二文字が浮かんだ。
この池には、古くから池を護る龍神がいると、聞いた事がある。
そう云えば昨夜も…あの彼女が『龍神様』と云っていた…
ただの伝説じゃなかったのか…
達彦は、ビクビクしながら龍に近付いた。
歩くたびに音を立てる、足元のゴツゴツした石と、恐怖で荒くなっている自分の呼吸だけが、静けさの中で響いている。
『そう怖がるな…私は龍神だ…お前を食べたりはしない』
やっぱり…
達彦は改めて、大きな龍神の姿に驚き、再び息を飲んで立ち止まった。
『お前は、あの娘の魂を解き放った…』
龍神を前にした達彦の体から、完全に力が抜けてしまい、声を出す事も出来ない。
『聞け…若者よ…』
龍神は微動だにせず、不気味なまでに静かで、ただ、純白の体が水面に反射して、キラキラと光っている。
綺麗だと、達彦は妙な冷静さで素直に思った。
『あの娘には、将来を約束した想い人があった。
だが娘の両親がそれを許さず、娘を別の男の元に嫁がせようとしていた。
どうしてもそれを受け入れる事が出来なかった娘は、祝言の前夜《私の魂を、あの方の元へお導き下さい》と云いながら、自ら私の中に身を投じ、娘の死を知った娘の想い人も、悲しみに暮れてここで己の首を斬った。
もしもあの男が、娘と同じように私の中に身を投げていれば、私には二人を繋いでおく事も出来たのだが…』
そんな事が…
達彦は娘に同情した。
娘も、その恋人も、愛する人と一緒にいたくてした事が、二人の魂を却って離してしまったなんて…
『娘の気持ちは、私にも判らないでもない…だが、自ら命を絶つのは、どんな理由があろうと、決して許される事ではない…人を殺めた罪人同様、重罪として罰を与えねばならぬ。
だからあのような姿にして、数え切れない時を越え、さ迷う運命を与えた…
娘が、自分のした事を心から悔やみ、許しを乞うまで…』
達彦は胸が痛くなった。
達彦が中学生の頃、あの娘のように、自分の手で人生を終わらせた友人がいた。
仲が良かった訳ではないから、何故そんな事になったのかは判らないが、突然の事に驚き、大きなショックを受けたのを覚えている。
あいつも…きっと今頃、どこかで罰を受けてるのだろうか…
無意識に涙が頬を伝い、ふと気付くと、心なしか、龍神の目が優しくなっているような気がした。
『若者よ…お前の記憶にも…あるようだな』
龍神には、達彦の心が見えているようだ。
『友と娘が心配か?』
『…はい』
『生き歳生ける者は全て、命と云う輝きを与えられている…この世で生きる以上、命の炎が尽きるまで、どんな人生であっても生き抜かねばならん…それが、お前たちの責任でもあり、使命なのだ』
生きる事が使命…
達彦は生まれて初めて、その重大さに気付いたような気がした。
死にたいと、思った事がないとは言い切れない。
その勇気がなかっただけで、ズルズルと生きているだけだと思っていた。
自分は命を軽く見過ぎている…
あいつもきっと、そうだったに違いない…
死ぬのは、それ程難しい事ではないのだろう。
でも、それは許されない。生きる価値がないなどと、思ってはいけないんだ。
それを決めるのは、少なくとも自分達ではないのだから。
『生かす事が生きる事…生きる事が生かす事…お前の友は今、あの娘が100年かかって漸く気付いた事に気付き始め、そして深く後悔している…許されるのは、時間の問題だろう』
『許されるんですか?』
『勘違いするな…全ての者が許される訳ではない…後悔だけで許すほど、神は甘くない…』
後悔だけでは許されない…
達彦は、《ごめんで済んだら警察はいらない》と云う言葉を思い出した。
『じゃあ…あの彼女は?』
『あの娘か…あの娘は、今までずっと後悔し、死ぬ以上の苦しみを味わって来た…お前に出会うまで。
お前には娘の声が聞こえた…そして、誰にも出来なかった事をした。
娘の魂を解放し、2つの魂をひとつにした。
お前は良い人間だ…目も心も美しい…これを受け取れ』
龍神は、達彦に顔を近付けた。
目の前に迫る龍神の大きな口…
やっぱり食われる…
達彦は思わず肩をすくめ、両目を固く閉じた。
『若者よ…いつもそれを身に着けているがいい…』
達彦がゆっくり目を開けると、いつの間にか、首に龍神を象ったネックレスがかかっていた。
蛇のようにうねるしなやかな銀色の龍の体は、今にも動き出しそうだ。
『それがある限り、私はお前の傍にいる…よいか…決して失くすではないぞ…』
『龍神様…』
唖然としている達彦を、龍神は首をもたげて面白そうに見ている。
『私が怖いか?』
『…はい…少し』
『お前を食べはしない…だが私は、命を慈しみ、その輝きを美しいと思えるお前の澄んだ目が気に入った。若者よ、娘から受け取った私の鱗とその首飾りが、お前を守り、導く…決して手放すでない…判ったな?』
『…はい』
『…忘れるな…私はいつも、お前を見ている』
『あの…龍神様…』
『何だ…』
『あの彼女は…』
『心配するでない…娘は千年の苦しみから解放され、その罪を許された。娘の想い人もな…。
今頃、二人は千年振りに再会しただろう…あの二人は、もう離れない…例え生まれ変わってもな…』
『そうか…よかった…』
『さぁ、若者よ…私はそろそろ杜に戻る…このままここにいたら、人間の目に触れてしまうからな…』
龍神はゆっくりと後ろを向き、水の中へと消えて行った。
達彦は呆然とその姿を見送り、ぼんやりとしたまま家に戻った。
帰ってからもまだ夢の中にいるような気分だったが、スベスベとした龍神の鱗と、首にかかったネックレス、そして何より、空になった水槽が、全て現実だった事を物語っている。
龍神…
本当にいたのか…
ベッドに横たわり、達彦は考えていた。
自分は、もしかしたら、物凄い事を経験したのではないだろうか…
でも、きっと誰に云っても信じない…
自分自身でさえ、まだ夢なのか現実なのか判らない…
【信じる事を恐れるな…若者よ】
頭の中で龍神の声が響き、達彦は飛び上がった。
【私は伝説の存在…それでいい…お前が信じていれば、私はいつもここにいる】
『生きるって…何ですか?信じるって…何ですか?』
達彦は、ポツリと龍神に聞いた。
【生きる事は苦しむ事…だが、その苦しみを明日の己に繋げれば、苦しむ事さえ喜びになる…明日を信じる為に、お前たちは今を苦しみ、苦しみを乗り越える為に、お前たちは信じる…】
龍神の言葉は判りにくいと、達彦は思っていた。
池で話した時もそうだった。
龍神の云っている事は判らなくもないが、理解までに時間がかかる。
【若者よ…今は何も判らなくていい…私は未来のお前に話している】
そんなもんか?とも思ったが、龍神はそれっきり黙ってしまったから、それ以上は何も聞けなかった。




