龍神池
毎日毎日、真っ白い空間の中で、全身を通して響くように聞こえる声…
『助けて…私を助けて…』
また今夜もあの夢…
『誰だ…どこにいるんだ…俺はどうすればいいんだ』
夢を見始めて一ヶ月。
声は、初めて達彦の問掛けにに応えた。
『あと3日で満月…それを過ぎたら、私は二度と戻れない…私を龍神池に連れて行って…』
『満月の夜に龍神池だな?君は今どこにいるんだ!』
『私は…あなたのすぐ傍にいる…』
『すぐ傍?どう云う事だ!すぐ傍ってどこだよ!?』
『あなたの枕元…私はそこにいる…お願い…私を龍神池に…』
目が覚めた時、達彦は物凄く疲れていた。
そして、夢の声の云う通り、枕元を見てみた。
でも、そこにいるのは、川で拾った金魚だけ。
達彦は、無意識に金魚に話し掛けた。
『あれは、お前か?』
金魚は、そんな達彦など目に入らないように、水槽の中を優雅に泳いでいる。
あの夢から解放されるなら、やってみよう…
達彦は、満月の夜に龍神池へ行く為の準備をした。
まず、バイトを休めるように、バイト仲間に代わって貰った。
次に、何があってもいいように、テントやランプ等のキャンプの用意もした。
準備が整い、あとはどうすればいいのか考えていた出発前夜、達彦はまた夢を見たが、それはいつもとは違う夢だった。
大きな池の前に立つ達彦の手には、金魚の入った水槽。
そのまま池の中に入ると、池は思ったより浅く、膝まで水に入った所で、水槽から金魚を池にそっと放ち、水の流れに従って、池に流れ出た金魚は、月に向かって真っ直ぐに泳いで消えた。
光の架け橋で金魚を吸い込んだ月は、ゆっくりと池に沈み、後に残ったのは静かな暗闇だけ。
『…!!』
突然目が覚めた達彦は、虚ろな目で、じっと金魚を見た。
『夢の通りにしろって事か?』
金魚は相変わらず、達彦が与えた餌を食べながら、ヒラヒラと泳いでいる。
『何だか判らないけど、夢の通りにするからな…』
達彦は、夜になる前に出発しようと、まだ昼間の暖かい内に家を出た。
念の為、水槽を空のクーラーボックスに入れて助手席にしっかり固定し、暖まってしまわないように、エアコンの風向きを調節した。
途中で休憩を取りながら、何時間か車を走らせ、やっと龍神池に着いたのは日が沈み始めた頃。
『早すぎたか…』
達彦は池の畔に車を停め、すぐ横にテントを張った。
日が沈み行く龍神池は、水面がキラキラと黄金色に輝き、その名の通り、龍神が現れそうな神秘的な景色を作り出している。
達彦は、その美しさに心を奪われ、思わず車からカメラを出して写真を撮った。
この写真を引き伸ばして額に入れたら、素敵なポートレートになる。
達彦は何度も何度も、角度を変えては、写真を撮り続けた。
日が沈み、真っ暗になったのを見計らって焚き火をし、ランプを灯して、夢と同じ状況になるのを待った。
途中のドライブインで買ったもので食事を済ませ、もうひとつのクーラーボックスに用意しておいた水を飲んで一息ついていると、月が龍神池の真上に来ている。
そろそろかな…
達彦はズボンを太股まで捲り、水槽を持って、池に向かった。
気が付くと、水面にはうっすらと靄がかかっている。
達彦は恐る恐る、水に入って行った。
『さよならだ…帰るべきところに、帰りたいんだろ?』
達彦はゆっくり、水槽を水に沈めた。
『お前が、ここがいいって云ったんだからな…多分』
水槽の口が水に浸ると、金魚は待っていたように、池へと泳ぎ出した。
空になった水槽を手に、達彦が『さよなら』と呟いた瞬間、池の真ん中から、一筋の光が空に向かって伸びて行き、それはまるで、月に向かって手を伸ばしているようだった。
何が起こっているのか理解出来ぬまま、達彦は慌てて池から出た。
目を凝らしていると、光の筋を辿るように、金魚が水面から現れ、光の中を泳いでいる。
そして、またあの声…
『ありがとう…』
その言葉と共に、光の筋にいた金魚から、一層強い光が放たれ、その眩しさで達彦が目を背けると、次の瞬間には、目の前に見覚えのない和服の娘がいた。
『ありがとう…あなたのお陰で、私は自由になれた…』
『君は…誰なんだ…』
『私は…この池に身を投げてから千年の間、ずっと魚の姿で漂っていました…』
『千年も!?』
達彦は、その年月の長さにびっくりした。
『仕方がないのです…この池に身を投げて死んだ者は、龍神様の怒りに触れてしまう…この池は、そう云う場所なのです』
達彦は、背中がゾクッとした。
龍神池の伝説なんて知らないけれど、今目の前にいるのは幽霊だ。
『怖がらないで…私は何もしない』
彼女は、青ざめている達彦に優しく微笑んだ。
『ありがとう…あなたのお陰で、私はやっと、行くべき場所へ行かれます』
達彦は、彼女を取り囲む光が弱まっているのに気付き、思わず『あ…』と声をあげた。
『これを…あなたに…』
薄らいで行く彼女の手が、何か光るものを差し出した。
『これは、龍神池で死んだ者の魂に埋め込まれる、龍神様の鱗です。』
達彦が手に取ると、信じられない程キラキラとした鱗だった。
真っ白なそれは、月の光を浴びて、何色にも輝いている。
『私からのお礼です。私たちにとってそれは、魂をこの世に繋ぎ留める足枷のようなもの。でも、生きている人にとっては、大切なお守りになってくれるはず…』
『…ありがとう』
達彦がお礼を云うと、彼女は微笑んで消えて行った。
彼女が消えた後、残ったものは、龍神の鱗と、何事もなかったように漂う静けさ。
達彦は茫然としたままテントに入り、これも夢の続きかもしれないと考えたまま、いつの間にか眠ってしまった。