彼岸花7
7 元井日和
私は二年四組の扉の前に立って深呼吸をした。扉に手をかける。ゆっくりと扉を開くと、一番奥の後ろから二番目に、一人の男子生徒が座っていた。その場でじっとしていると、彼が顔を上げ、私たちの視線はぶつかった。張り込んでいた私が、この私が気が付かなかったのだから、きっと誰からも気づかれない日々だったのだろう。相手は心底驚いた顔をした。そして、何かまずいものでも見たかのように、さっと顔を逸らした。私は教室に踏み込んだ。一歩一歩確実に彼に近づいていく。私は、火我元功の机の前に立った。
「こんにちは、火我元さん。」
火我元は顔を上げなかった。クラスに残っていた数人の生徒は、まるで存在しないかのように誰も私の言葉に反応しなかった。実際に、彼らには今、彼に話しかけた私さえも存在しないものとして、意識から外されているのだろうか。
「あなたに、話があってきました。」
「誰だ、あんたは。」
火我元が口を開いた。
「二年一組の、元井日和といいます。」
夕日が一気に窓から入り込んできた。火我元をオレンジ色に染め上げる。うつむく顔が、影ができたせいで余計に暗くなった。火我元が何も言わなかったので、早速本題に入ることにする。
「私は、今年結成されたばかりの、意味の分からない同好会に所属しています。少し噂になったんだけれど、知りませんか。」
「知らねえな。」
「花追い同好会です。」
「…。」
「私たちは、あなたが花じゃないかと思っています。」
いくら、どうやって話題に触れようか分からなかったからって、こんなにストレートに切り出さなくてもよかったかもしれない。しかし、言ってしまったものは仕方がない。火我元は、私が考えていることと同じことを口にした。
「ずいぶん正直なのな。花が、危険な奴だったらどうするつもりなんだ。」
「それは肯定?」
「そうは言ってない。」
火我元は、顔を上げた。顔色は、オレンジに照らされていても分かるくらいに悪い。しかし、目だけは異様な光を放っていた。私にはその目が何を意味するのか分からなかった。火我元が何を思い、何を考えているのか分からなかった。
「何を意味の分からないことを言ってるんだ。花って、なんのことだ。俺は何も知らない。」
「じゃあ。」
私はこんなにも対抗心を燃やす人間だっただろうか。私はきっと、花にあてられてテンションがおかしいのだ。
「ここにいる誰かに、話しかけてみなさいよ。それができたら、この非礼を詫びるわ。」
火我元の眉間に皺が寄る。表情がみるみる険しくなっていった。
「あなたは誰にも話しかけられない。話しかけても、気が付いてもらえない。」
火我元は、ついに耐えられなくなったように乱暴に立ち上がった。椅子が大きな音を立てた。しかし、やはりクラスメイト達は見向きもしなかった。
「やめておけ。」
怒りで震える声で、火我元は言った。…いや、彼は怒っているのだろうか?深呼吸を意識しているが、なかなか元の呼吸に戻ることはなかった。
「花追い同好会の、元井さんだっけか。やめておけ。そんな同好会を立ち上げているくらいだ。噂は聞いているだろう。花に関わったらどうなるか。避けられない死が待っているだけだ。花追い同好会とはいっても、所詮は生徒だ。あんたらも、命はおしいだろう。」
火我元は荷物を肩にかけた。帰るようだ。ここで逃がすわけにはいかない。彼はやはり花だった。
「もう俺に構うな。関わるな。」
火我元が私の横を通り過ぎ、扉に向かった。
「待って。」
「来るなよ。」
私が何か言う前に、火我元は私にくぎを刺した。
「絶対についてくるなよ。…外は危ない。事故も多い。」
私は違和感を覚えた。彼は私が言ったことに怒っているはず。私が、火我元が一番気にしているであろうところを、容赦なくえぐったから。しかし、彼の先ほどの言葉からは、その怒りが感じられなかったのだ。それどころか、彼は私の身を案じている。なぜ?彼にとって、私なんてどうでもいいはずなのに。私は赤の他人なのに。
火我元が振り返った。
「俺は、ヒガンバナ。俺の傍に、もう近づくな。…頼む。」
そう言うと、火我元は扉を開けた。
出たところで、タツと司に出くわしたらしい。火我元は先日のことを覚えていたのか、司に
「すまん。」
というと、そのまま帰ってしまった。司も、さすがのタツも、火我元の後は追わなかった。
「花は悪じゃない。」
私の得た結論は、たったのこれだけだった。しかし、私にとっては大きな一つの結論だった。花は、生徒に悪影響を及ぼす。宙に浮いたような安定しない不確かな情報は、劇的に、故意的に曲げられた、虚偽だった。
火我元の声が、耳に残っていた。最後に隠し切れなかったであろう、悲しい瞳も。
外にいたタツや司も、同じようなことを感じたらしい。私が廊下に出てから、私たちはしばらく何も言わなかった。
「元井。」
タツが私の顔を覗き込む。
「元井、大丈夫か?」
「へ?」
私は、顔に手をやった。タツが本気で心配しているような顔だったからだ。そんなにひどい顔をしているのだろうか、私は。
「どうするんですか、これから。」
司がしびれを切らして催促した。確かにこのままここでいても仕方がない。私たちはいったん部室に戻ることにした。