我が家に衣服を
七 我が家に衣服を
「どうです、気分をかえて自宅でできることを考えませんか」
会社員である島原にとって、税に関することはすべて未知であり難解なことだったので、嬉野の演説が終わってほっとしていた。あのまま続けられたら何も考えられなくなりそうで、誰も話を続けないのを潮に話題を身近なことに引き戻そうとした。
「私ね、自宅のベランダに朝顔を植えてるんですよ。あれね、蔓が天井まで延びて葉が茂るから日陰になるんですよ。花が咲くのもいいんですけど、風で葉が揺れて、木漏れ日がきれいでね。葉の間を通る風が少し涼しく感じられるから気に入ってます。サラサラという葉擦れの音もいいですよ。ただし、洗濯物が干しにくいといって女房が文句言いますけどね、洗濯物の目隠しになってるんですよね」
肥後が口火をきった。
「肥後さんは朝顔ですか。うちはキュウリです。どっちかっていうと、花を楽しむより腹に入れたいのでね。それに、自分が育てた野菜はおいしいですよ。農薬なんか使わないし、正体不明の肥料も使いませんから安心です。あれも蔓を伸ばしますから朝顔と同じように葉が日陰をつくってくれます。花なんか、黄色の小さい花の方が控えめで好きですね」
「うちは屋上にカボチャを這わしてますよ。あれは同じ蔓性でも横に広がるから屋上を覆ってくれるんですよ。葉っぱと土の二段重ねだから直射日光をずいぶん遮ってくれて涼しいですよ。スイカをためしたけど失敗しましてね、来年は地這いキュウリを植えるつもりです」
「関サバさん結婚してるの? なんか所帯じみてるね。『こっとい』さんはカボチャですか。
どこの役所だったか忘れたけど、外壁いっぱいにゴーヤーを植えているところがありましたね。獲れたのは来庁者に配っているそうですよ」
響が楽しそうにまぜかえす。
「どれも壁面緑化ですね。そんなので涼しくなるのですか?」
島原は何も植えていないことを白状してしまった。
「そりゃあ山の中のような涼しさは無理ですけど、いくらかは涼しく感じますよ」
響が答えた。
「そうか、いくらかでも温度を下げられれば電気を節約できて、葉っぱが多いほど二酸化炭素をたくさん吸収してくれて、おまけに食べられるということですね」
「温度を下げるということなら、外壁をいつも濡らしておけば気化熱が奪われていいんじゃないかな」
河童は、電気自動車を作った経験から物理的に対処しようとしているのだろうか。
「でも、そんなことをすると湿気がムンムンしませんか?」
「そうですね。暑いのは嫌だけど、湿気はもっと嫌ですよね。だったら水の量を減らせばいいですよ。ポトンポトン垂らす程度でいいんです。水で外壁を冷やすのではなくて、水が蒸発する気化熱を利用して冷やす方が、奪う熱量は段違いですから」
島原の疑問にも明快に答える。
「いいかもしれませんね。要するに、外壁に打ち水という発想ですね。恥ずかしいから言えなかったのだけど……」
島原がポリポリと頭を掻きながら誰にともなく呟いた。
「朝のね、出勤前に風呂に水を張るのが私の役目なんです」
「あれいいでしょ?追い炊きが必要ない日もありますよね、僕もやっているんです。お前もやった方がいいんじゃないか? ガス代がうんと違うぞ」
河童が関サバにすすめている。
「ところで、どうして恥ずかしいのですか?」
「なぜ私が係になったのかがね、……もう忘れてください」
「……いきさつはどうあれ、合理的なことですよ。島原さんの考えですか?」
「女房。……罰だって」
「そうか……。ま、いろいろあるんだろうね。ここは島原さんを気遣うということで」
肥後の一声がきいた。
「私はね、いや、やっぱりやめときます」
『こっとい』が何か言いかけようとして止めた。
「何ですよ、途中でやめたら気味が悪いでしょ。どんなことでもいいじゃないですか」
「でも、ちょっと荒唐無稽だから笑われるだけですよ」
「よけいに聞きたいですね、さっきからの話でかなり免疫ができたから大丈夫ですよ。途中で止められると困りますよ。逆に、奇抜さ加減を採点してあげますから」
『こっとい』と島原が押し問答をして、旅の恥はかき捨てとでも思ったのか『こっとい』が語り始めた。
「なら言います、だけど笑っちゃだめですよ。そもそも二酸化炭素の削減が叫ばれているのは、地球規模での温暖化を防ぐ意味からきているんですよね。二酸化炭素がビニールハウスの役目をするから熱を発散できないのですね?それで二酸化炭素を出さないような取り組みを模索している。ここまで間違っていませんね? 要は出費を抑える、節約するのと同じことだと思うんです。大変なことになると騒ぐ割には消極的ですね。じゃあ積極的な方法ってなに?ということになりますが、二酸化炭素を強制的に減らす以上の方法はないと思います。つまり、出さないか使うかのどちらかに尽きると思うんです。出さない取り組みなら今日だっていろんな知恵を聞かせてもらいましたし、もっとたくさんの取り組みがなされているのでしょう。でも、人が生きるためには出さないという選択肢は絶対にありえませんね。息をしているのですから、全く火を使わないにしたって二酸化炭素をこしらえているのです。ちょっと極端でしたね。では、使うというのはどうでしょう? これができないのですね。というのは、二酸化炭素が物質として安定しすぎているから融通がきかないせいです。それなら、炭素と酸素に分離できればいいんだけれど、残念ながらそれもできない、ついでにいえば、他の物質と化合することもできないそうですね? そこで考えたのですが、だったら、気体としての二酸化炭素を固体にしたらどうなりますかね」
「固めてどうするんです?」
「固体というのは言葉の綾ですよ。ドライアイスにしたらどうなります?」
「そんなの、融けたら元に戻ってしまいますよ。それにすぐ融ける」
「だからね、ドライアイスをたくさん作って極地に埋めるんですよ。ドライアイスは氷点下七八度だそうです。いくら極地が寒くたって、ドライアイスより熱いのだから最終的には蒸発してしまいます。でも、解けきるまでに周りを冷やしてくれるんだし、夏の日本のように暑い地域よりゆっくりと融けると思いませんか? 解けるのに時間がかかるほど周りを冷やすでしょ? シベリアの永久凍土が融けているというニュースが何年か前にありましたね。そこに埋めるというのはどうです? 土って保温効果がありますよね。ツンドラを凍らせたり、北極海を凍らせることができませんかね」
「だけど、すぐに融けるでしょう」
「そこなんですよ。確かに融けるだろうけど、膨大な量を一箇所に埋めたら少なくとも中心部は融けないかもしれない。氷室というのをご存知ですか?地中に氷をたくさん貯蔵していますね。北海道では雪の山を作っておいて、夏になっても中心部は残るそうじゃありませんか。それと同じような仕組みで、規模を大きくすれば蒸発するのは僅かになりませんかね。うまくいけば外国の削減分も処理できるかもしれないし、勿論有料で、商売として取り組めば原材料を輸入する経費をかけずに外貨を稼ぐことができますよ」
「中国やアメリカの約束手形を信用できますか?」
嬉野が横から水をさした。
「そうか……、踏み倒しも考えられるし、誰かが処理してるとなれば、削減しようという意識すらなくすかもしれませんね」
「冗談じゃない、頬かむりするだけですよ」
響が確信をもって断言した。
「せっかくの議論に水を差すようで申し訳ないのですが、石油製品の使用を抑制することが大切なことは理解できますけど、石油製品というのは油だけじゃないんですね。原油から最初に精製するのは揮発性の高いガソリンやシンナーなどで、その残り滓から軽質油を、次に重質油を、というように精製するんですね。だから、たとえばすべてのディーゼルエンジンが廃止されてしまうと、軽油や重油が溢れてしまう。プラスチックも同じですね。プラスチック類は、原油からガソリンや軽油などをとった残り滓からできているんですよ。たとえば、プラスチックの再利用が徹底されたら、油をとった残り滓が溢れかえることになります。それに、その残り滓も商品なんですね。残り滓の値段分だけ油の値段が上がるのは仕方ないとして、その残り滓をどう処分すればいいんですかね?」
皆が答えを出しかねているのをみて嬉野が続ける。
「政府は太陽光発電を普及させようとしているようですが、全世帯の一割でも二割でも太陽光発電に切り替えたとしたら電力会社の経営はどうなりますか? それも、ソーラーパネルの性能が向上して、発電量が消費量を上回るようにでもなったら、電力会社は電力購入代金が重荷になりませんか?」
「そうなると、購入単価の切り下げと、電力料金の値上げですか。待てよ、購入代金の分はちゃっかり電力料金に上乗せしていますよ」
島原が嬉野に反論する。
「それもあるけど、従業員を養えなくなるかもしれません。その影響を考えたくないです」
「そこなんですね、単純に答えを導くことができないんですよ。結局は、現状維持しか選択肢がないということですか?波力発電や潮汐発電が可能になると楽しみにしていたんですよ、なんといっても無限エネルギーですから。下水処理場の排出口で水力発電ができるとかもしれないし、水道管の中に発電機を組み込むことだってできると思っていたのに。風力発電のように低周波騒音で付近住民を苦しめる心配から開放されるかもしれない」
『こっとい』が嘆く。
「そうですね、確かにそれぞれの課題を解決する方法はあると思います。しかし、以外なところまで影響が及ぶのですね、それを回避するところまで考えないと根本的な解決に結びつかないのではないでしょうか」
「できることを追求するのではいけませんか?
その都度対策を講じるのではだめですか?」
肥後がなおも言い募る
「想定外の影響なら止むを得ないでしょうが
、目の前の問題を無視するわけにはいかないでしょう」
嬉野が残念そうに言う。
「とすると、今までの話は不毛な議論だったということですか。
だとすれば、結局は成り行き任せしか選択肢がないと」
「そうじゃありませんよ。今までの話の中に大切なことがいっぱい詰まっています。ドライアイスを除いては、全部が個人で実行できることです。ですから積極的に実行すべきなんですが、視野を広げると企業の存続に影響がでかねない。ということで、省エネ問題への取り組みを行政が積極的に後押しすることは考えられないということです」
「それなら、やっぱり何もしなくても良いと?」
河童が尋ねた。
「そんなことは言いませんよ。省エネの取り組みは最終的に家計の出費を抑えることになりますからどしどし実行すべきです。私が面白いと感じたのはドライアイスです。
あの提案を無条件に賛成するわけではありません。
しかし、再利用という視点が面白いと思います」
「どういうことです?」
「たとえば、食品を冷凍する時にどんな方法で低温をつくりだしているのかどなたかご存知ですか?」
「……」
「実は私も知りません。
単なる想像ですが、強力な冷却機で冷やしているのだと思います。要は、冷媒を圧縮した後で急に減圧してやると熱を奪う性質を利用しているんですね。その冷媒というのが」
「フロンですね」
「そうです。オゾン層を破壊するというフロンです。もっとも、今使われているのはオゾン層を破壊しない性質のフロンらしいですが、一時期、フロンの代替に二酸化炭素を使ったことがあったようです。冷却効率が悪かったのでしょう、あっさり姿を消してしまいました。それで思いついたのですが……」
「どんなことです?」
「ドライアイスみたいに現実離れしてますよ」
「言わなきゃ笑えないですよ」
「そうですね、笑いを提供しますか」
「もったいつけないで」
「製鉄所や製鋼所で冷却に使ったらどうかなと思いましてね」
「どうして冷却する必要があるんですか?」
「だって、一辺が一mくらいの鉄の塊を半分以下の厚さにしなけりゃ材料として使えないんです。どうやって薄くするかというと、うどんの生地を延ばすのと同じ原理です。
鉄というのは案外軟らかいのですが、無理に力を加えると割れてしまうんですね。それに機械も壊れてしまう。だから熱を加えて、より軟らかくしないと薄くできないんです」
「どれくらいの熱なんです?」
「一個三十六tくらいの鉄の塊をね、全体にまんべんなく八百度以上にするんです」
「それだけの熱があったら普通の家庭で何日使えますかね?」
「何ヶ月でしょう。へたすりゃ年単位かもしれません」
「すさまじいのですね」
「最終的にその熱はどうなるのです?」
「水で冷やしています」
「そこに二酸化炭素を噴射できないかということですか?」
「そうなんです。熱を奪う性質からすれば、水より油の方が優れているんですが、燃えるのでね。それに、飛び散ったら滑って危ない。ただね、水の方がはるかに安い。これ、日本人の欠点だと思います。水が豊富な国だから使い放題に考えるんですよ」
「燃やせないんですかね、二酸化炭素」
「いっそ、高熱の炉に入れたらどうでしょうか、案外炭素だけが残ったりして」
「それと、大規模なビルの空調にドライアイスを利用するのもいいかもしれません。実現しやすいでしょうね」
「地下に保冷庫をつくって、ドライアイスを詰め込む。
保冷庫の中には熱交換器を設けて、そこで取り出した冷気をさらに熱交換器で循環器に伝える。保冷庫の能力と循環パイプの断熱しだいで可能ですね」
肥後が遠くを見るように視線をさまよわせている。
「冷気を熱に返還することはできますか?」
島原が肥後に尋ねた。
「可能じゃないですか?
だって光を電気に換られるんですよ。きっと可能です」
河童が自信ありげに鼻の穴を広げている。
その様子を見ていた響が薄笑いをうかべた。
「いや、残念残念」
茶化したような響の態度を嬉野がとがめる。
「何が残念なんだよ。みな真面目に話してるんじゃないか。意見があるならはっきり言えよ」
「なにを興奮してるんだよ、まったく年寄りになっても融通がきかないんだから。今までの話な、どれもこれも実行してみたい内容なんだよ。だけど哀しいことに資金力がない。俺が大金持ちだったら早速試してみようと思うよ。だけど金がない。だから残念だって言っているんだよ」
「やっぱり昔の生活に戻るべきかな? 生ごみは土に返して、窓を大きく開けて、土がむき出しの場所を広くして、冬には重ね着をして」
『こっとい』がコーヒーカップを手の中でクルクル回している。
「皆さん、これから帰省されるのですから、都会にないものを見てきましょうよ」
島原が新しいビールに手を伸ばしながら皆の顔を順番に見回した。
「名古屋に戻ってから報告会ですか? それはいいけど、そのくらいにしませんか?明日酒気帯び運転で検挙されたら困りますよ。代わりの運転手がいればいいけど、いなかったら名古屋に戻れない」
肥後の一言で気付いた島原が、バツの悪そうな顔で手を引いた。
「そうですね、皆さんどうです? せっかく知り合えたのですからそういうのも」
響がにこにこして言葉を切った。
「あり、ですね。こんな大先輩と話ができる機会なんかないですよ。
電話してくれたら行きますよ絶対、な、河童」
「さて、そろそろ解散しましょうか。楽しい話をたっぷりさせてもらいましたから、明日のために眠ることにしましょう。せっかく安全に駅まで運んでもらうんだから、その後で事故にあわないようにしないとね」
「少し早いですが、明日は徳山を過ぎたあたりで放送させていただきます。皆さんは東小倉までご乗車されるのですから、また明日お話される時間はたっぷりありますよ」
「日の出は何時でしょうね」
「日の出は五時頃ですので、広島を発車して三十分くらいですね。ぎりぎり瀬戸内だと思います」
「暁をめざしているのですね、この列車」
「あたりまえですよ。太陽をめざしたら眩しくてかなわない。明け初めた空がいいんです」