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車掌の自慢

 三 車掌の自慢


「お待たせしました。次の停車が大阪ですから、新大阪までお付き合いさせていただきます」

 車掌室から戻ってきた車掌は帽子を脱いでいて、楽な気持ちでいることを表している。


「どうです? 喉がかわいたでしょう?」

 島原が差し出したビールに車掌が顔を曇らせた。


「申し訳ありません、酒は好きなのですが、勤務中なのでお気持ちだけいただきます」

「これならどうです? 夏に熱いコーヒーは不似合いですか?」

『こっとい』がカップを差し出した。


「ありがとうございます。コーヒーにも目がないほうなので遠慮なくごちそうになります」


「ところで、さっき鉄道は省エネだと言っておられましたが、本当なんですか?」

 肥後が意地悪そうに尋ねた。


「そうですね、たとえばこの列車を牽いている機関車なんですが、千二百tの貨車を時速百㎞で牽く能力があります。それに、一%の登り勾配に停まった状態から牽くこともできます」

 車掌はコーヒーカップを押し戴くと、簡易テーブルに載せてミルクを溶かした。


「千二百tといえば十tトラック百二十台分の荷物ですが、この列車と同じ八百キロの距離を運ぶのに、トラックならどれだけの燃料を燃やすのでしょうか? 燃費が五キロだと仮定して、一台当たり百六十リットル、百二十台分だと一万九千二百リットル、つまりドラム缶九十六本分も必要です」

 車掌は、ことさらゆっくりと皆を見回すと、ドラム缶九十六本に力をこめた。


「車掌さん、それはないでしょう。私の車なんか総重量二トンなのに普段の燃費が六ですよ、満載したトラックの燃費がそんなに良いわけないでしょう」

 島原が憮然とした顔をしている。


「おっしゃる通り、本当はその倍の燃料が必要かもしれませんね。でも、仮にさっき言った燃料ですんだとしましょう。ドラム缶九十六本というと大型タンクローリーにでも納まりきれない量ですね。トレーラータイプまでは必要ないけれど、およそドラム缶二十本分足りません。これだけの燃料を発電に使ったらどれだけの電気が得られるか、機関車がどれだけの電気を使うか、そこが問題です」

 三人ともその量に実感がわかないのか、曖昧な笑みを浮かべるだけである。


「この機関車の定格出力は三千五百kwです。架線に流れている電圧が千五百Vですから、最大二千三百アンペアの電流が必要です。ただ、自動車もそうですが、一番力が必要なのは発進の時だけで、走りだせば僅かな力しか必要としませんね。ですから、速度がついたら惰性で走ります。この惰性というのは、速度と重量とが深く関係していることを学校で学ばれたでしょう。貨物千二百tと機関車の自重百tの運動エネルギーですよ、電気を停めても簡単に速度は落ちません」


「そりゃあ当たり前ですよ。トラックが急に止まれないのと同じでしょう?」

 島原が新しいビールの缶を取り出し、プシュッといわせて、溢れてきた泡を慌てて口で受けた。


「自動車の場合はどうでしょうね。一定の速度で走っている時でもアクセルを保持していないといけませんね。ブレーキの効きが悪くなったり、ハンドルが重くなって危険ですから走行中にエンジンを停めることはできません。たとえギアをニュートラルにしてエンジン負荷を最低にしたところで、アイドリングを続けるための燃料が必要です」

 車掌は一口コーヒーを飲み、三人の顔色を窺った。ここまでのことは納得した様子なので先を続けることにした。


「二千㏄のエンジンで十分間のアイドリングをすると、二百㏄の燃料が必要だそうですね。つまり、早足で歩くくらいの速度で走り続けているのと同じだけの燃料を空費しているのです。機関車も、電気機器からの熱を逃がすためにファンを回したり、圧縮空気を作るためにいくらか電気を使いますが微々たるもので、ほとんど無視できるような消費量です。ところで、何故アクセルを保持しなければ速度が保てないかご存知ですか?」

 車掌が言葉を切って三人に発言を促した。


「そりゃあ、あれでしょう。道路の勾配とか、他の車との位置関係でしょう。信号が多いのも困りものですよ」


「でもね肥後さん、高速道路みたいに信号がない道路や起伏がない道路でもアクセル踏まなきゃ停まってしまいますよ。私はカーブが鉄道にくらべてきついのが原因だと思うな」

 島原が異論を唱えた。


「私の体験ですがね、少しでも燃費を良くしようと考えてタイヤの空気圧を高くしてみたんですよ。そうしたら、乗り心地は悪くなったのですが燃費が良くなりました。鉄道の車輪は鉄ですからタイヤより効率が良いのかもしれませんね」

『こっとい』も首を傾げながら自分の体験を述べた。


「そうですね、皆さんのおっしゃるように道路の勾配や信号が一番の原因でしょうね。道がまっすぐでないのも速度を落とす原因です。タイヤの空気圧を高くして好結果が得られたそうですが、その時に空走距離が延びなかったですか?」

 車掌は『こっとい』に空走距離のことを訊ねてみた。


「そうなんですよ。アクセルから足を離してもどんどん進むので愉快でしたよ。空気圧が下がると、接着剤の上を走っているように感じましたね」


「接着剤というのはおもしろいたとえですね。おっしゃるように車輪の剛性は重要な要素です。自動車も鉄の車輪ならもっと転がるでしょうね。しかし、その反面乗り心地は最悪でしょうね。それに、曲がることができなくなってしまいます。滑ってしまうのですよ。鉄道では線路から外れることができなくなっているから曲がれるのですが、自動車には線路がありません。だから自力で曲がることができるように、弾力性のあるゴムタイヤになっているのです。ゴムタイヤと鉄の車輪をくらべると極端に違うことがありまして、それは路面と車輪との摩擦抵抗なんです」


「摩擦抵抗がなくなったら動かないし、停まれないことになりますよ」

 肥後がスルメを持った手で車掌を制した。自動車の性能を云々する時、とかく忘れがちなのがタイヤのグリップ力なのである。


「そうですね。車を走らせるのも停めるのも、全部合わせても葉書四枚分程度しかない接地面の作用なんですが、少しでも加速性能を向上するためにはタイヤの接地面が路面に粘着する方が都合がいいので、タイヤの接地面は柔らかくなっています。土の路面だと砂粒がボールベアリングのような働きをしてしまうので、コンクリートへ、アスファルトへと路面が改良されました。アスファルトの方が柔らかいし表面が凸凹していますので、硬いタイヤを使用しても摩擦を確保できるから殆どの道路舗装はアスファルト路面です。コンクリート舗装は、重さには強いのですが滑り易いし、水はけが悪いので敬遠されていますね。それに工事の手間もかかります。そして最近のアスファルト舗装なんですが、路面に溜まる雨を逃がすために隙間の多い舗装が増えています。これには走行音を小さくする効果があってそれなりに有効なんです。ところで、路面に隙間が多いということは、荒い紙やすりのような状態ということですね。紙やすりの上で消しゴムを動かしたら手ごたえがありますよね。その摩擦抵抗があるから車が走るのですが、あくまで抵抗ですから、抵抗以上の力、つまり無駄な力をかけ続けなければすぐに動けなくなってしまいます。ここのところがみそなんです。鉄道はどうかというと、車輪も軌道も鉄製で表面は滑らかになっています。ツルツルしていますので停止状態から動き出すのには向いていませんが、一旦動いたらなかなか停まりません。それに、鉄道車両はとても重いですから、簡単に停まれないほどの運動エネルギーを蓄えているので益々空走距離が延びるというわけです。ですから、速度さえ問題なければ惰性で走るのです。そうそう、忘れるところでしたが、長い下り坂ではにエンジンブレーキを使いますね、実は機関車にもそれと同じ仕組みがあるのです」

 電気機関車にエンジンブレーキがあると、車掌が得意そうに言った。


「そんなものがあるのですか?」

 島原が身を乗り出した。どんな仕組みなのか島原は知らない。それどころか、島原は事務用品販売しかしたことがなく、運転免許を取るにも構造を覚えるのに苦労したのである。


「回生ブレーキですね」

『こっとい』がニヤニヤして車掌を窺った。


「よくご存知ですね。発電ブレーキともいいますが、モーターを発電機として働かせることでブレーキの役目をさせます。磁石の間においたコイルに電流を流せばモーターですし、磁石の間においたコイルを回転させれば電気を発生させることができます。つまり、モーターも発電機も同じ物なんですね。だから、通常のブレーキによって運動エネルギーを熱に変えてしまうよりも、モーターで電気を発生させて、その電気を架線に戻すことで電気を節約できるようになってきました。それに、継続的にブレーキをかけ続けると焼けてしまって、咄嗟のブレーキが利かなくなってしまいますしね」

 とても得意げな車掌である。


「だから鉄道のほうが効率的なんですか。確かにエンジンブレーキをかけたって、エネルギーを燃料に変えることはできませんよね。……まてよ、そういう仕組みはハイブリッド車なら備えていますよ」


「島原さん、それだけではないような気配ですよ。『こっとい』さんも車掌さんも涼しい顔してますもん」

 なるほどと相槌をうった島原を肥後が突いて、怪訝そうに車掌と『こっとい』を指差した。


「そんな意地悪じゃないですよ。ハイブリッド車については後で話しましょうよ。機関車については今車掌さんが教えてくれましたが、それ以外の面はどうかなと思っただけです。たとえば人の面ではどうかと思いましてね。そっちの方面ではどうなんです? それよりも、わからないことがありましてね、確か下り方の先頭が一号車のはずなのに、どうしてこの列車は逆なんです?」

『こっとい』は、またしてもコーヒーを一口飲んで、塩豆を口に入れた。


「いや、まいったな。確かにご指摘の通りなんですが、臨時列車であり、貨車と客車の混成列車でもあり、それに途中での切り離しやらお客様の眺望やらを考えて今回の編成になったのでしょう。そうなると、最後尾を一号車にした方がお客様にわかりやいということでしょうね。だから特例ですよ。上りは展望車が先頭になり、やはり一号車となります。かなり詳しいようですが、鉄道がお好きなんですね」

 意表をつく質問だったようで、車掌は『こっとい』のことを穏やかに見つめた。

「いえ、ただ乗るのが好きなだけです」


「さて、人の面ですか? まったく詳しくないという前提でお願いしますよ。皆さんは鉄道を維持、運行するのにどんな人が携わっているかご存知ですか? 運転士はおおむね二時間交代ですから、この列車の場合六名の運転士が必要です。車掌は私と新藤の二人。他にどんな人がかかわっていると思いますか?」


「駅員さんに、それと保線の人達と車両整備の人達でしょ?」

 島原が鼻の穴を広げて答える。


「お詳しい、その通りです。車両整備を忘れないあたり立派な愛好家といえますよ。あと、運行状況を監視している人もいますし、ダイヤを考える人や物品販売を担当する人もいます。鉄道で頻繁に交替するのは運転士ですが、全区間を通せば一人で運転していることになりますね。保線や整備は列車が増えても人数の変更はありません。ですから、たくさんの列車を運行すれるほど人件費が少なくなります。でも、トラックだと百二十人の運転手が必要です。ところで、貨物列車は五本や十本ではないですから、トラックに置き換えれば六百人、千二百人の運転手が必要です。トラックが増えれば人件費は比例して増えるばかりです。だから価格競争がおきて、無理な運転がおきて、事故に結びつくわけです。深夜のトラック輸送の半分が鉄道輸送に置き換えられたら、いったいどれくらいの燃料が節約できるかわかりませんよ。実際に自動車部品専用の列車や、宅配業者専用の列車が運転されていることからも鉄道輸送の有効性が見直されているのですからね」

 ちょうど大きな駅を通過してしばらくであった。小さな駅を通過して間もなく、ゴーっと響きが大きくなった。トンネルに入ったようである。


「大津トンネルのようですね、これを抜ければ京都です。これからお休み前の放送をしてきますので、中座させていただきます。もし差し支えなければ、お話のお仲間を増やすよう付け加えましょうか? せっかくの機会ですので、有意義にすごしていただければと思いますが」


「それはいい。私たちだけではわからないことを聞けるかもしれませんから、いいんじゃないですか?」

 肥後は若いだけあって、そういうことには積極的なようである。

「楽しいですよ、こういう話。私は賛成だな」

 島原も二つ返事で賛成した。

「そういうことです。ここはひとつ本職の呼び込みをかけてください」

『こっとい』も楽しげである。たしかにどんな人が現れるかわからないが、そうもよかろうと考えていた。

「呼び込みですか? 責任重大ですね」

 車掌は、残ったコーヒーを一息に飲んで立ち上がった。


「是非お願いしますよ。肥後さんも『こっとい』さんも賛成していますから」

 島原が嬉しそうに答えるのを聞いて車掌が怪訝な表情をみせた。


「あのう、ちょっとお訊ねしてよろしいでしょうか? 皆さんのお名前なんですが……」


「ややや、車掌さん、私たちの呼び名で怪しい気配を感じたのですか? 本名を名乗りあうほどの仲ではないけれど、便宜上名前がないと具合が悪いので、私は長崎に帰省するから島原と。肥後さんは熊本へ帰省するからで、『こっとい』さんは山口に帰省するからそう呼び合うことに、芸名ですよ」

 島原の説明に車掌は破顔した。


「それは愉快な呼び名を思いつかれましたね。特に、『こっとい』というのは山陰本線の特牛でしょう? マニアじゃなければ意味がわからないでしょうね。それでは、これから私もそう呼ばせていただくことにして、早速放送してきます」



 外からの光が途絶えたので、殊更明るく感じる車内の光景が鏡のように映っている。トンネルの壁面に設置された灯りが時折ツツーっと流れるだけが目先の変化であり、規則的にレールの継ぎ目を刻む音が絶え間なく響いている。

「私には経験がないから想像するだけなんですが、宇宙旅行というのはこんなものなんでしょうね」

『こっとい』が天井をぼんやりみつめて呟いた。


「ご案内をします。このトンネルを抜けますと、まもなく京都を通過します。午後九時をすぎました。すでにお休みのお客様もいらっしゃいますので、二三のご案内をして、本日の放送でのご案内を終了させていただきます」

 ゆっくり、言葉を区切って。車掌が長年かけて身につけた話し方である。駆け出しの頃のような、車内を巡回するたびに案内が聞き取れないと苦情を言われることは皆無である。車掌がアナウンスを途中で区切るのは、習性といえるだろう。


「次は大阪に停車いたします。乗務員交代とダイヤ調整のために十分間停車いたします。尚、停車しましても扉は開きません。神戸をすぎてしばらくしますと、進行方向左手に明石海峡大橋が見えてまいります。夜空にライトアップされた巨大な吊り橋をお楽しみください。……明朝は、少し早目ですが、徳山付近から放送を始めさせていただきます。急なご用がありましたら、車掌が一号車と四号車に詰めております。ご遠慮なくお申し付けください。……二つ目のご案内です。ただいま一号車で、省エネに関する勉強会をされているお客様方がおられます。興味のあるお客様がいらっしゃいましたら、一号車までお越しください。それではごゆっくりお休みください」

 天井のスピーカーから車掌の落ち着いた柔らかな声が聞こえた。


 やがてトンネルから表に出たのか、車内に渦巻いていた走行音が急に静かになり、家々の灯りやネオンサインが車窓を彩るようになった。列車が徐々に減速しているのがわかる。


 ダン、ダン、ダン、ダン、ダン、ダン、ダダン・・・ダダン、ダダン・・・


 鴨川の鉄橋を渡ると右に左に街の灯りが溢れ、目前に京都駅が、不夜城のように光を纏っている。


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