長声一笛
二 長声一笛
東海道線、中央線、関西線が交差する名古屋駅に発着する電車と全く違う色調の列車がホームに停車すると、仕事帰りの通勤客や若者たちで混雑するホームに好奇の視線が集中した。
大型機関車が客車を牽いていること自体が異様である。ほとんどの車両が画一的な電車に統一されている現在、わざわざ客車を牽く列車など日本中探しても何本運行されているだろう。
貨車と欧風客車を従えている様は極めて異様ではある。昨今の列車にこんな異形は考えられるだろうか。巨大なトランクを備えた瀟洒な客車。それも数がしれた客車である。乗客に割り当てられたのはわずか三輌。最後尾の一輌は共用サロンである。僅かに残った豪華列車でさえ、これほど少ない人数のために運行されることはないのである。が、一方で、遠い国への旅立ちを連想させずにはおかない。
事の次第はともかくとして、長距離列車を見ると旅立ちへの憧れをさそう。それが夜を徹して走るのならなおさら強い憧れをさそう。仕事帰りに出会ったのなら、なおさら現実からの逃避を夢見るのかもしれない。
車内に仕切られた居室は生憎到着ホームに面しておらず、対向ホームからしか車内を窺い知ることはできないが、丹念に見て歩けばドアを開け放した居室もあるわけで、豪華なソファーにくつろぐ乗客を垣間見ることもできよう。
ことに最後尾の車両はゆったりした座席が並ぶサロンであり、一番後ろの一角は展望席になっている。幾日も待たずとも盆休みである。せっかくのまとまった休暇をつかってどこかへ行きたいと願う者も多いのではあるまいか。立ち止まって眺めたり、列車を指差して話し合う姿がそこかしこでみられるのは、単に珍しいばかりではあるまい。
一号車と四号車では、買い物で列車を離れた客が無事に戻るよう車掌が目を配っている。
ホームのスピーカーからは、誰も乗車できないことを告げる注意放送がしきりとアナウンスされていた。
その間にも新幹線が東に西に発車してゆき、在来線ホームでも通勤電車の発着が続いている。
が、一歩車内に入れば、喧騒が外の世界に思えるから不思議である。忙しい世間から切り離された空間のような、ゆったりとした時の流れが、この列車の中ではすでに息づき始めている。
「あと三分で発車いたします。お買い物でホームに出られたお客様、皆さんお揃いでしょうか。もう一度お確かめください。車掌が車外に出ております、お戻りでない方がおられましたら車掌にお知らせください。あと三分で発車です」
発車のベルが鳴り止まぬ中乗降口が閉じられ、ドアの表示灯がすべて消えた。
「下り××列車、運転士さん、車掌です」
『運転士です』
「××列車、発車」
次の瞬間、ホーっとため息の音をさせてブレーキが緩み、はるか前方でやけに長い汽笛が鳴った。
夜行列車がほぼ全廃されてしまい、ほとんどの列車が電車に置き換えられた今、特急といえどもかつての優等列車のような風格は消え失せ、汽笛とともに発車する習慣がなくなってしまった。いささか懐古的かもしれないが、優等列車に乗務する運転士なりの想いがこもった長声一笛である。
長く尾を引く汽笛を追いかけるように、列車が一歩を踏み出した。
通勤電車が混み合う時間帯であり、先行車に頭を抑えられるのは臨時列車の宿命である。速度そのものは通勤電車のほうが格段に速いのだが、どうしても停車するので先がつかえてしまう。自動車のように気軽にひょいと追い越しができないのが鉄道の宿命である。それでも次々に駅を通過して約一時間。米原はまだ夕暮れであった。
ここで運転士が交代し、関西圏に歩を進めることになるのだが、ありがたいことに、この先は複々線になっている区間が長い。夜行列車の味わいが感じられるのはここからである。
交代した運転士と車掌が無線で短い挨拶を交わし、助役と、一仕事終えた運転士の見送りを受けて新たな旅路が始まった。とはいっても所詮臨時列車。通常ダイヤの隙間を縫うのだから速度が上がらない。並走する緩行線を通勤電車が軽快に追い抜いてゆく。
なにも競争するわけではない。急いだところで、時間調整のための長時間停車が待っている。
歌舞伎役者が練り歩くように、ゆっくりした道中こそが贅沢なのである。
熱田駅での集合時刻から約二時間半がすぎ、客室にじっとしていることに飽きてきたのか、座席車ですごす乗客が増えてきている。余人を交えず寛ぐことができるのが個室の長所ならば、見知らぬ乗客同士が話に花を咲かせることができるのは、開放的な座席車でなければ得られない楽しみの一つである。
ましてや、僅か十六組しか乗客がいないのだから余計に親近感がわくのも当然で、あちこちの席で見知らぬ客同士の談笑が始まっていた。
子供たちは編成の一番後ろにあたる一号車の展望席で去り行く景色に魅せられていたが、常に道路と並走するわけではなく、山の狭間や工場の裏が続けば飽きてもくる。ましてやすっかり闇に包まれてしまっては、追いすがる通勤電車や通り過ぎる駅くらいしか目立つものはないのである。踏み切りの赤い点滅を数えていた子供たちは、退屈を持て余したような顔で部屋に戻っていった。
窓に乗客の顔が映っている。遠くにチラチラ見え隠れする自動車のライトが右左に流れ、夜汽車の風情が色濃くなってきた。
終点まで残り約十一時間、旅は始まったばかりである。
「そうですか、おたくも九州ですか。で? どちらまで? いやあ、こっちのことを先に言うのが礼儀ですよね。私は長崎の実家に墓参りで帰省するんです。島原なんですが、どうでしょう、話をするにしても名前がなくては不便ですが、かといって知り合ったばかりです。私のことは島原とでも呼んでいただけますか?」
五十年配の赤ら顔の男である。地が赤いのか、ビールに酔って赤いのかはともかく、中肉の気さくそうな人物である。
「じゃあそうさせていただきましょうか。私は熊本へ帰省しますので、……何がいいかな。そうだ、肥後とでも呼んでください」
肥後と名乗ったのは少し若い。厄年をすぎたばかりだろうか。ビールを飲んでいるのに顔色が変わっていない。若さのせいか、少し早口である。ぱっと見ただけで、柔道でもやっていそうなずんぐりした猪首の汗かきである。
「肥後さんですか、これはまた強そうな名前ですね。……正国という刀鍛冶がいたような記憶が……、あれは肥後の人じゃなかったですかね」
「胴太貫をご存知ですか?」
「いやいや、ただの聞きかじりですよ」
「胴太貫を知っているなんて、珍しいですよ。肥後からそんなものを連想してもらえるとはね、少し嬉しいです。だって、いつだって熊本といえば阿蘇が定番ですから」
「それはこっちも同じですよ。長崎にしても島原にしても似たような反応ばかりで、もっと違うものがあるんですがね、なかなかわかってもらえません。どこもいっしょですか?」
「そうですね、とびきり有名なものしか見ない知らないのが世間ですね。そういう私なんか何も知らないので、いつも恥をかくばかりだ、おかげで面の皮が厚くなりました」
「ところで、いつもはどうやって帰省されているんです? 列車ですか? 飛行機ですか?それとも車ですか? 熊本までだと時間がかかるでしょう?」
「普段は車で移動しています。家族四人の交通費が肩にズッシリきますし、むこうでは交通手段に困りますのでね。でもね、一昨年のことでしたか、道路が空いていたので調子よく走っていたら、カメラでパチリですよ。岡山県内の山陽道でした。出廷しろといわれても、遠距離だから裁判になんて出られませんよ、出廷しないということは起訴事実を全面的に認めたことになるそうですね。もっとも反論する証拠なんてないんだから、どっちにしても有罪確実ですよ。罰金がくるわ行政処分がくるわでひどい目に遭いました。今年はどうしようか考えていたらこの列車のことを知りましてね、割高だけど片道だけでも利用しようかと。帰りの予定は決めていないので、うまく空いていれば往復利用することになるかもしれません」
「肥後さんも高速でやられましたか。私は二十年くらい前なんですが、中国道で大きな赤旗振られました、同じ岡山県ですよ。混雑した名神ですら百キロ制限でしたよ。それに制限を守っている方が少なかった。そんな混雑した名神からガラガラに空いた中国道に入ったらどうなります? 通行量が減ってくれば自然に速度が……、ねぇ。百十キロで走っていて停められたのだから、私としては何で十キロオーバーで止める? そう思っていたのですが、なんと制限速度は八十キロとかで、結局三万円の罰金でした。幸いなことに無違反が何年も続いていたので免停猶予という行政処分になりましたがね、ありゃあ詐欺と同じですよ。あんなことなら高速道路の価値がないですよ」
二人してビールを飲みながら話しているのを、通路を隔てた一人座席の男がニコニコしながら聞いている。
「楽しそうな話なのでつい聞かせてもらいました。私も混ぜてもらえるとありがたいのですが。申し遅れました。私は山口県まで行きます。よければ、そうですね……、『こっとい』と呼んでください」
「『こっとい』さんですか、どんな意味があるのです?」
『こっとい』と名乗る男に二人が好奇の目をむけた。
「ははは、珍しい名前でしょ? 漢字で書くと特牛なんです。特別の特に牛です。どれほど特別な牛でしょうね。しかも、特牛と書いて見せても、百人のうち百人が『こっとい』とは読めないんです。私は萩に帰省するから、松陰でも長門でもいいんですが、珍しい名前を披露しようと思いまして」
「特牛と書いて『こっとい』ですか……。そんなの誰だって読めませんよ。どんな由来があるのか興味がわきますね。熊本にそういう地名があったかなぁ」
「島原はキリスト教にまつわるような地名が残っているけど、そこまで特殊な地名は、……ないですよ」
「それでは失礼して」
自らを『こっとい』と名乗る男は椅子を通路に向けた。八割方の白髪頭で細身。どちらかといえばゆっくり話すほうで、穏やかな笑みを浮かべている。座席に備え付けのテーブルには大きなカップになみなみとコーヒーが注がれていた。
「そんなことをせずにこちらに来ればいいのに」
島原が隣の席をすすめるのを
「でも、せっかくだからゆったりしましょうよ」
やんわりと制して、
「さっきの制限速度の話ですがね、名神と東名は高速道路なんですよ。第二名神もそうですね。しかしそれ以外は、中国道も山陽道も自動車専用道路。制限速度が基本的に八十キロに抑えられているそうですよ。道路の設計速度が違うらしいのですが、私のような素人にはどこがどう違うのか理解できません」
制限速度についての謎解きをした。
「そんな区分があるのですか、自動車専用道路ね。そうすると、知多半島道路が八十キロなのも、東名阪が八十キロなのも、どっちも高速道路ではないということですか。九州道はどっちなんでしょうね。そうか、島原さんは九州道から長崎道に分かれるんですね。いったいどうなんでしょう」
「制限は八十と考えるのが無難でしょうね。なるべく九十くらいで流すほうが燃料を喰わないし、疲れないからいいんじゃないですか?」
『こっとい』がなだめるように言った。
「……そうですよね、この列車に乗るのに大金を払っているんだから、少しでも燃費を良くしなけりゃ大損だ」
三人のうちで一番若い肥後が現実問題に話を戻した。
「うちの車が一ℓの燃料で十キロ走れるとすると、大雑把に名古屋から小倉まで八百キロとして、燃料が八〇ℓ。単価が百六十円だったら燃料代は一万二千八百円ですか。通行料が通常料金で一万四千五百円、罰金を三万円毟り取られたとすると合計五万七千三百円。残った一万五千円が今日のホテル代ということですね」
島原がちゃっかり経費をはじいている。
「罰金を予算計上しているのが悲しいところですが、そんなことでしょうね。でも、こうして手足を伸ばして楽をさせてもらえるし、渋滞や便所の心配をしなくてすみますから、案外お得かもしれませんね」
肥後がビールを片手に笑った。
「そうですね、島原さんや肥後さんのようにお酒を飲むこともできますし、一番違うのはこういう知り合いができることだと思います。同じように道路を走っていてもね、たとえ同じ休憩所で休んだって、車で移動している限り赤の他人と話す機会なんかありませんよ。そんな暇があったら眠るか、少しでも先へ進むかしたいですから」
『こっとい』がカップを傾けた。
ギラギラ照りつける昼間の残滓が朧に呑み込まれ、南の空に蠍座がうねっているのがくっきり見えている。街の光にかき消されて見えない暗い星が姿を現すにつれて、星座を判別できなくなってきた。夜空の光景だけからでも大きな街から遠のいたことが知れる。
「お寛ぎのところおそれいります。何か不都合や困りごとはありませんか?」
クリーム色のスーツ姿の車掌が車内巡回に現れた。
「車掌さんか、不都合なことはないよ。もっと料金が安ければ最高なんだけどね」
肥後が軽口を叩いた。
「料金については御理解いただくしかありませんが、渋滞はありませんし、急病にも対応できますし、事故にあうことも違反で検挙されることもありません。のんびりお酒を飲んでいただくこともできます。それに、今日ご乗車いただいた皆さんは炭酸ガスの排出削減にとても貢献されているんですよ」
車掌の口から意外な話題がとびだしたので三人ともキョトンとしている。
「炭酸ガスって、テレビで騒いでいるあれですか?」
肥後が思わず聞き返した。
「はい、あの二酸化炭素です。油を燃やして走る自動車と、油を燃やして作った電気で走る鉄道を比べると、途中に発電という手間がかかる鉄道の方が不利だと思われがちですが、なかなかどうして。鉄道輸送ははるかに省エネなんです。ですから、皆さんは省エネに貢献しているということです」
「車掌さん、どうです? ここでその話を詳しく聞かせてもらえませんか? どうせ他の客が乗り込む予定はないのだし、せっかくの機会だからそういう話を教えてくださいよ」
『こっとい』が島原や肥後の表情を伺いながら申し出た。
「そうですね……、では、展望室の様子を先に確認して、同僚に連絡しますので五分ほどお待ちいただけますか」
車掌はそう言って展望室に向かい、三人の間を通り過ぎて車掌室に姿を消した。