旅じたく
一 旅じたく
ミーン ミン ミン ミン ミーン
しきりと蝉が鳴いている。一匹ならかまわない、が、二匹同時に鳴かれると騒音である。なにも蝉に教えてもらうまでもなく十分に暑い。それが団子になって鳴き狂っているのだから腹立たしくなるほどである。
しかしそれは、残り短い命を精一杯燃焼させる雄叫びであり、悲鳴でもあるのだから我慢するしかないだろう。
夕方小前とはいっても、三十五度を下らぬ気温のせいか街を歩く人の姿は疎らで、西のビルの上には、今日は残業とでもいいたげに、太陽が矢のような日差しを放っている。
ありもしない水溜りに惑わされたのか、卵を産もうと逃げ水を追うトンボがひきもきらず、突然消える水溜まりに右往左往する光景が妙に絵になっている。
すぐ近くには熱田神宮の森があり、ビジネス街や商店街よりは格段に凌ぎやすいはずである。が、それにしても暑くてしかたない。
住宅街を東西に分断するかのように鉄道が通っていて、ここ熱田駅にはかなり広い空間が広がっている。
まだ古い駅舎だった頃は、四畳半ほどの鳥篭がホールの真ん中にあって、色とりどりのセキセイインコが利用客の心を癒してくれていたが、駅舎の建て替えにともない撤去されてしまった。
新築された駅舎は、どこにでもある階上駅になり、汚れがないというだけで特に個性のない無機質なものに変貌している。
他の駅との違いといえば、小荷物の受け付けが生き残っていることぐらいか。しかし、貨車への積み込みも貨物列車の編成作業も廃止になってしまっているので、トラック便へのがる中継ぎにすぎない。
蒸気機関車が行ったり来たりして貨物列車を編成していたことを知る者は、すでに少数派になってしまったようだ。
その熱田駅の荷扱いホームが今日は久々に活躍の場を与えられていた。
十六台の自家用車が熱田駅荷扱いホームに集まってきた。集合時刻にはずいぶん余裕があるのだが、係員としては遅刻者がいないことを一様に安堵していた。
ホームに急拵えされた受付で予約表との照合をすませた乗客達は、すでにホームに据えられたパレットに乗り上げて車を降りた。
とたんに汗が噴出してくる。
「うわぁ、たまらん」
乗客は、今夜の食べ物を抱えてそそくさと列車に乗り込んでいった。
乗用車の運転手は、一人残って外部点検である。
係員とともに傷の有無を確かめ、点検簿に署名をするまでは運転手が立ち会わねばならない。
それさえすめば、車はラッシングベルトで固定され、大型フォークリフトがパレットごと列車前部に繋がれた貨車に積み込んでしまう。
その間の係員がキビキビしていること。早く作業をすませて、涼しい詰め所で休憩したいからだろう。
隣の留置線には近郊電車がパンタグラフを降ろして休んでいるので、一般客の利用する旅客ホームから様子を窺い知ることはできない。駅の一番奥に見慣れない機関車があることに気付くのは、自分の乗った電車が駅を出外れる一時だけだし、留置してある電車が邪魔になってその後ろはまったく見えはしない。
濃い青に塗られた大型機関車が板塀の隙間から様子を伺っているような印象である。
その機関車の運転台では、何度も時刻表を確認する運転士の声が響いていた。
『車両搭載完了』
運転台の無線機が積み込み完了を告げた。
時計は、発車五十分前を指している。
「用を足しておくか」
何度も運転時刻の確認をおこなった運転手は、逆転器とブレーキのレバーを抜き取ると機関車を降りた。
「便所に行ってきます」
作業を見守る助役に告げて事務室に向かう。
缶コーラで喉を潤しながらタバコを一本灰にして、念のために用を足しても十分しか過ぎていない。
それから十分。すっかり汗がひいてサラサラになった体をもたれていたパイプ椅子からおこした。
「この待ち時間が嫌だな」
誰に言うでもなく呟いてホームに戻り、しばらく助役と立ち話をして運転台に戻った。
再び機器類の点検を済ませた頃に無線が乗車終了を告げた。
出発後は、終点までの間は原則として駅に停車しても客扱いをしないので、発車までの時間を利用して買い物に出た乗客が全員戻った様子に安心する。
「発車、二分前」
時計と出発信号を交互に見ていた運転士が声を発した。
次いで遮断機レバーを入れて架線電圧を確認し、逆転器レバーを前進位置に入れた。
自動列車停止装置の警報音が鳴り出したのを止めて座り直す。
前方の出発現示が赤から青に変わったことを確認して、
「出発進行!」
白い手袋の指先が信号を指した。
電源投入のおかげで冷房装置が働きだし、これまで蒸し風呂のようだった暑さがグングン薄れてゆく。
背後の機器室から排熱のための送風機が騒々しい音をたてているのだろうが、扉に遮られて運転室には低い唸り声のようにしか伝わってこない。
『下り××列車、運転士さん、車掌です』
「運転士です」
『××列車、発車』
「発車―、出発進行」
車掌の発車合図と同時に左手が自弁と呼ばれているブレーキ弁を開放し、右手は出発信号の青を指した。そのまま運転時刻表に目をやり出発時刻を指で押さえて確認し、運転席の時計と照合する。
「はい二十八分、二十八分、定時―」
ブレーキが十分に開放される寸前にノッチを入れる。
列車が動き始めて再びブレーキを開放した。
「後部オーライ!」
ホームが途切れた頃を見計らって窓の外に頭を突き出し、編成が間違いなく連なってくることを確認する。
「ポイント通過、制限四十五」
駅構内を出外れる頃には、青と灰色に塗り分けられた機関車に牽かれる、白を基調とした六両の貨車と、貨車の塗色の見本になった四両の欧風客車が姿を現した。
「本線、第二閉塞進行。制限六十。金山通過!」
本来なら二十六両のコンテナ編成を難なく索引する機関車にとって、自重を含めても三百㌧ほどの編成なので遊び半分のような仕事である。
いつものコンテナ列車と違い、これだけ重量が軽いと制限速度への加速がとても速く、ダイヤ通りの運転は約束されたようなものである。が、臨時列車の哀しさで、定期列車に邪魔をされて速度をあげる機会はない。それどころか、時間調整のために途中で長時間の停車を余儀なくされる。
ノッチを戻して惰性で走っている状態で運転士は時刻表に指を走らせ、名古屋駅での停車を確認した。
「名古屋六番停車。停止目標十」
右側に並行する緩行線や、そのむこうの私鉄線を通勤電車が追い抜いて行くのを尻目に悠然と歩を進める様は、ボテ振りや荷車をよけながら日本橋をめざす旅人のようでもある。奇異な目で見られ、邪魔者扱いされながらも、日常を離れることへの憧憬や羨望を集め、長旅に備えてゆっくり慎重に足を運ぶ姿に重なっているように思える。
親も、そのまた親も経験していないことなのに、なぜか運転士には昔の旅人の気持ちに触れたような感覚がした。
「制限四十五」
名古屋駅の構内に進入を開始する。
名古屋駅六番線へのポイントを渡った数瞬後、ベルに続いてキンコンキンコンと警報音が鳴りだした。
「制動、ヨーイ」
すでに機関車はホームを右にして人並みをかきわけている。
「制動!」
ブレーキを入れて戻し、入れて戻しを繰り返して乗客に不快感を与えないように配慮して停止位置にピタリと止まった。
「定時!」
時計を一瞥して満足そうに言った。
立ち上がって鳴り続ける警報音を解除し、静かになった運転席に座り直すと時刻表の確認を始めた。
「お待たせ致しております。この列車は十八時二十八分発のカートレインです。発車まであと一時間お待ち願います」
永年の習慣だろうか、車掌は一旦マイクを離して間をとった。
「この列車は、次の名古屋を出ますと新山口まで旅客扱いを致しません。もし食事や飲み物のご用意のないお客様がおられましたら、この時間を利用してお買い求めいただくと便利です。次の名古屋で売店をご利用いただく時間を十分間とりますが、あらかじめご用意いただきますようお願いします。尚、十八時十分にはご乗車いただきますようお願いします。発車までもうしばらくお待ちいただきます」
食事や飲み物の用意を忘れるほどウカレタ乗客のために案内放送を繰り返して、車両の積み込み作業を確認に行くことにした。
今日の予定では新山口で下車するのが三グループ、車両三台となっていて、残りはすべて終点、東小倉までの乗車となっていることから、十号車に新山口までの車両を積み込んであることを確認して扉に封印をすした。
同様に、終点までの車両についても搭載位置をメモして封印してゆく。
車内を巡回して乗客の様子を調べ、そのまま最前部の乗降口からホームに降り立った車掌は助役と並んで乗客を待つことにした。
午後六時、集合十分前である。
もう十五年になるだろうか、この列車と同じ列車が盆暮れの多客期に臨時列車として運行されていたことがある。
自家用車を積んで目的地近くまで安全に移動できることと、渋滞の心配をせずにすむことで一定の評価を得ることはできたが、割高な料金を嫌って利用者が漸減し、鉄道の側として利益が見込めなくなったことから廃止になってしまった。
昨今の環境問題への関心が高まるにつれ、鉄道輸送のエネルギー効率が見直され、高速道路の料金割引による渋滞の激化や燃料代の高騰が追い風となって、終点まで眠っていられたり、交通事故を回避できることや、目的地に到着したときに余力を残していられるといった利便性が注目されて再開されることになり、この列車が晴れの一番列車なのである。
車両搭載台数が限定されているので、乗客数も必然的に決まってくる。つまりはこの編成が最大なのだから、それに見合った出力の機関車で索引すべきなのだが、一番列車ということで、二十六両ものコンテナ貨車を引く能力をもつ機関車が用意されている。
客車への電力供給のために、最後尾につながれた展望車の床下でディーゼル発電機が稼動している他には作業の喧騒もなく、行き交う電車の合間に蝉の声がうるさく感じられるだけである。
「遅くなりました」
列車を離れていた乗客が大きく膨らんだ買い物袋をさげて戻ったのを潮に車内に戻り、乗り遅れがないか全ての客室を確認して車掌室に戻った。
「お待たせをしております。今日はカートレイン東小倉行き、ご利用いただきありがとうございます。次の停車駅は名古屋です。名古屋ではお買い物のために十分間停車いたします。名古屋を出ますと新山口まで止まりません。乗務員交代により、駅に停車しましてもドアは開きません。車外に出ることはできませんので、次の名古屋でお買い求め願います。新山口の次は終点、東小倉です。車掌は博多車掌区、四号車に新藤が新山口まで、一号車に山下が終点東小倉までご一緒させていただきます」
長年の経験は簡単に改まるものではない。長距離寝台列車に乗務してきた経験が、無意識にマイクをはずして十分な間をとっている。
「次に、車内のご案内をします。この列車、後寄り一号車は展望座席者です。憩いのひと時、どうぞご自由にご利用ください。尚、座席車は浴衣、下着姿でのご利用はご遠慮させていただきます。二号車から四号車はそれぞれの客室となっております。号車番号は通路上の方に、客室番号はドアに表示してあります。どうかお間違えのないようにお願いします。浴衣、寝具等は寝台の上に用意してあります。ご自由にお使い下さい。……危険物の車内持込はできません。不審な荷物をみかけたら車掌までご連絡願います。又、最近盗難事件が多発しております。席を離れます際には貴重品にくれぐれもご注意願います。ご家族お友達お揃いでしょうか、もう一度お確かめ下さい。発車九分前です」
一通りの案内放送を終えるとホームに降りて前方を注視した。
腕時計をにらみながら、大きく足を開いて立つ姿をいつも誇りに感じていた。
なにしろ自分のみが全行程を通じて運転業務に携わるのだから。
発車二分前、乗客が車外に出ていないことを確認して車掌室に戻り、窓から身をのりだして助役を注視した。
異常なしを示す青旗を見てドアを閉じ、扉灯が消えたことを確認して無線機に声をかけた。
「下り××列車、運転士さん、車掌です」
『運転士です』
「××列車、発車」
小さな揺れと共に列車が動き出した。窓から身をのりだしたまま前方と後方に異常がないことを確かめているうちに助役とすれ違う。車掌は、挙手の挨拶を交わして窓を閉じた。
「お待たせをいたしました。カートレイン東小倉行き、ご利用いただきありがとうございます。熱田駅を定刻に発車いたしました。次は名古屋です。売店をご利用のお客様、三号車の前側と四号車の後ろ側出入り口が便利です。お出口右側です」
簡単な案内放送をしてマイクを戻した。
列車は暁をめざして走り始め、明朝九時までの序章が幕を閉じた。