9.「どうせ目の保養に選ぶならもっと豊満な身体つきのにしろ!」
「病人が一一〇番に電話して連絡先間違えたと気付いちゃったときみたいな顔してるよ、閃ちゃん」
旋風塾に通っていると、一日一回は炭酸飲料のキャップを開ける音が聞こえる。今日は耳元でシュパ、と爽快な音が聞こえた。
「見て見て、涼くんが買ってきてくれたの。ストロベリーコーラ! 苺の甘酸っぱさとコーラの刺激が混ざってもはや甘い爆弾を溶かして飲んでる感じだけど、おいしいよ。飲んでゲップしよう」
ぐぇえ、と人目も憚らずゲップをかます苺。ストロベリーという可愛らしい名前に相応しいのか相応しくないのか判断がつきにくい女性だと思っていたが、今日の苺は一段と有頂天だ。自分の名前が入ったコーラを涼が買ってくれたのが嬉しかったのだろう。
「僕としては単に珍しいと思ったから買ってきただけなんだけど」涼の、人の心を読んだかのようなツッコミに、また閃助は驚いた。しかしそれは涼の勘のよさは光っているのか、それとも自分の思考が単純すぎるだけなのか、まともに考えられる余裕が今はなかった。
「知ってる知ってる? コーラの新しい味がいっぱい出てるんだよ。涼くんがまとめて買ってきてくれて、わたしには苺味、国っちにはアップルコーラ、なっちにはバナナコーラをくれたの。わたしにストロベリーをくれるところがさすが涼くんだよね、わたしを喜ばす術を四十八手わかってるよね!」
「閃助くん、元気なさそうだけど大丈夫? 一応授業始めていいかな?」
「はい、すみません。お願いします」
「あとでグレープコーラあげるから」涼が耳打ちしてきた。
今日の担当講師は、その涼であった。席はD列の一番奥、時刻は午前五時。六時までの一時間、初めての涼の授業を受ける。閃助は通学している身なので、基本は五時からの授業で固定されていた。
涼は苺にやんわりと授業から離れてくれるよう頼んだ。苺は不満の声を上げたが、授業だからと涼が念を押すと、悔しそうに引き下がった。そして玄関前のホワイトボードの隣に立ち、大声で叫ぶ。
「ねー涼くん! 一体いつになったらわたしとデートしてくれるの! 早くしてくんないとわたしもう蒼くんをオカズにオナニーしちゃうからね!」
コーラをしゃかしゃか振るのは苺なりの脅しだろうが、ついに涼は苺を相手にしなくなった。冗談でもやめろ、とE列で国定の授業していた蒼矢の怒声が轟く。
「本当に大丈夫?」まず涼はそう聞いてきた。閃助の顔色が甚く青白いのを留意してのことだろうが、涼の口調は相変わらず平淡だった。かつて彼の声から滲み出ていた1/fゆらぎは錯覚だったのだろうかと思うくらいに。
「学校で何かあったのかい」
「……自分のコミュニケーション力にがっかりしたり、とか」
昨日の泉澄のアドバイスを借りれば、自分の欠点ばかりくよくよ悩む閃助は女々しいの少年かもしれない。
「ああ、何か昨日、泉澄に学校での出来事で相談をしたんだって?」
「どうしてそれを――」
「言ってなかったっけ。僕たち講師三人は、毎朝ミーティングをして、一日の授業成果を報告し合うんだ。泉澄さんから報告を受けたよ、神の信者じゃない女の子がクラスにいて、その子と仲良くなりたいって」
「確かに、その子とも色々進展はあったんですが」実際は進展どころか停滞、いや後退したかもしれないが。「今日はそれよりもっとショッキングな出来事があって。隣のクラスの男子生徒が、追放されたんです」
「知ったんだね、追放の制度を」涼は怖がる素振りは一切見せない。彼も一歩間違えれば、町での情報集めの最中に追放される危険性があるというのに。
「実は、今日はちょうどその話をしようと思ってたから、都合がいい。連行と追放の違いの話」
「連行と追放、ですか」
「うん」涼は、ぼけっとした糸目で閃助を見た。「連行はその名のとおり、身柄を確保されて神の下へ連れていかれること。恐らく、普段神が移住している場所に連れていかれるんだと思う。蒼矢さんも前に言っていたけど、一度の神の前に突き出されたら徹底された洗脳攻撃を受けるハメになるっていうね」
蒼矢も忌々しげな顔でそう話していた。組織の幹部たちが四六時中傍につき、相手が完全に神の思想に染まるまでしつこくマインドコントロールしてくると。
「でも、あんな命令が出されたぐらいだから、今連行されたら神が直々にマインドコントロールを仕掛けてくるかもね。正直、その方が手っ取り早いだろうし」
「では、追放というのは」
「追放は、簡単に言えば神への反逆者と見なされた人が、組織を脱退させられること」
閃助の背中に冷や汗が伝った。
「追放されたら、何処へ行くんですか」
「わからない」
一番最悪の答えだった。
「追放された者の末路は、僕たちもまだ調査中だ。と言っても追放された人ってのは信者の中に紛れていたにも関わらず、実は神に信仰心を抱いていなかった人だ。つまり」
自分の読みは当たっていた、と閃助は確信した。
「もし君が信者のフリをしていることが周囲にバレたら、君は追放される」
己も信者だと一度断言してしまった時点で、万が一の事態に陥った際は、閃助に連行の道はない。あとは追放しかない。信者であるないを口にしておらず勝手に周囲から仲間だと思われている香梨なら、連行で済む可能性はあるだろう。だが、連行されたらされたで、神の洗脳にかかるまできっと死ぬほどの苦しみが待っている(蒼矢談)。ミルグラムの実験よろしく、四五〇ボルトの電気ショックを他人に与えてしまうくらいには服従的に精神改造されてしまうのかもしれない。
閃助は今日、学校の生徒指導室で、面従腹背を演じていたと判明した男子生徒が、拷問を受けていると思しき事態を突き止めた。そのことを涼に相談してみると、涼は「なるほど、それが追放された人の末路か」と頷いた。
「何であろうと神の手にかかれば、人権無視は当たり前なんだね。神じゃなくてあれはもはや、独裁者だ」
「しかも松木くんを拷問していたと思われるのは、生徒指導の先生だけじゃなく、僕のクラスメートもなんです。本人がそう話していたのと、彼の身体から鉄臭さが臭っていたので間違いないと思います」
「先生だけじゃなく、高校生にまで拷問させてるのか。非道だね」
「神に任命されたからって言ってました。確かにそのクラスメートはラグビー部のエースで、腕力は相当あります。彼が神に近づいたのか、神の目に彼の姿が留まったのかはわかりませんが、彼は嬉々として松木くんに暴力を振るっていたみたいで……」
また吐き気がぶり返してきたが、唾を飲み込んで耐える。まさかあの筋原が、と思うと、未だに信じられなかった。快活で、豪快で、ちょっとガキ大将的な我がままを見せるときもあるけど、基本的には相手の気持ちを重んじる優しい奴だった。しかし彼も変わってしまった。神崎はいない、筋原も信用出来ない。もはや学校生活における希望は、香梨の存在だけだ。と言っても、その彼女にも失礼を働いてしまって嫌われたかもしれない。学校のことを考えるだけで胃痛が閃助を苦しめた。
だが同時に今日の松木の追放事件から、新たな真相が見えたのも大きな収穫だ。
しつこく記すが、やはり松木は信者ではなく、周囲に同調して信者のフリをしていただけだったのだ。自分や香梨以外にも、そういった人間はどうやらちらほら存在するらしいと知って、多少安堵はした。ただ、松木が受けた拷問は音声だけで察するにしても相当手痛い、いや手痛いなんて表現で済まされないほど酷烈なものと予想出来る。
「あれは虐待どころか――あまり口にしたくありませんが、殺しにかかっていた気がします」
「信者たちがそこまで堕ちるとはね」涼も自前のノートを持っており、ペンをノートに滑らせている。「でも、拷問を受けたあとのさらなる先の末路は、一体どうなるんだろうね」
「やっぱり、殺される……とか」あまりに非現実だとはわかっていても、閃助にはもうその可能性しか思いつかなかった。まるで映画や小説の世界だ。ノンフィクションでこんな世界、聞いたことも見たことも想像したこともない。『光溢れる日』以前の平和な日常は、もう戻ってこないのだろうか。閃助の目に涙が溜まり始めた。
「いや、殺されはしないと思う」涼は断言した。「信者のフリをしていたとは言え、その人たちにはまたマインドコントロールをして神に従わせればいいだけだ。むざむざ住民を減らし続けていたら、信者になる可能性がある人間も一緒に減らすことになる。恐らく、瀕死状態にしておいて、神の元へ連れて行かれるのではないかな」
別に涼の主張が歯切れの悪いものだった訳ではない。だが、やはり美羽の言うとおり、ここの講師たちは真実を隠している風な気がした。本当に神は、自分の駒を一つも無駄にしたくない貪欲な性格なのだろうか。神は平気で人々を自分の駒だと言い張ってしまう奴だ。自分が現れる以前の新緑町が、本当の新緑町の姿ではないなどと豪語してしまう奴だ。神に従わない者を残らずすべて、自分の下へ連れて来いと命じるような強引な奴だ。
引っかかる。しかし閃助は口出しが出来なかった。自分はとことん臆病な人間だ――前からずっと。
それに最近思うことがある。閃助は自分の中から、何か大事な要素が欠けている気がしてならないのだ。自宅で見た女性ものの靴、香梨の着用していた女子用制服――あれらから、異様なまでの興奮を覚えたのは間違いない。様々な憶測が混沌として、頭は混乱していた。何処から考え、何から危惧すればいいのか、わからなくなり、閃助はその後十分間、黙ったままだった。涼も無理に話しかけず、二人して沈黙していると、隣のE列の仕切り板から蒼矢が不機嫌そうな顔を出した。
「議論をサボるな、何のための塾だと思っている」
「ただの隠れ家で、暇つぶしに情報交換をしているだけの場所、だろ?」
蒼矢が授業を受け持っていた国定が、へらっと笑う。蒼矢の視線は瞬時に国定に向かう。
「蒼矢先生も言ってたじゃん、ここの実態はただの隠れ基地だって。学習塾と言っても、この町の情報なんて簡単に底をついちまった。情報集め担当の先生たちの力不足のせいでね」
「国定、言葉を慎め。戯言を抜かしている時間があるなら、町の状況を打破する策を考える時間にあてろ」
「戯言? 状況打破? 戯言言ってんのはどっちだよ!」
国定の顔から笑みが消えた。閃助と涼もさすがにピリピリした雰囲気を感じ取り、一層口が重くなる。
「美羽が残した言葉は一理あったと思うぜ。立つ鳥跡を濁さずって言うけどさあ、美羽は確実に跡を残して行った。不信感と疑問っていう跡をな。先生、あんたらは何を考えてる? 俺たちに何をさせようとしてる?」
空気が凍りついたのは誰もがわかっていただろう。C列の席でコーラのキャップを開ける音だけが場違いに響く。夏星はいつも通り、A列の隅で会話を聞いているはずだ。
「ま、俺はただ行くあてがないからここに居座ってるだけで、新緑町の現状なんか興味はない。先生たちの思惑にも俺は屈しない。ただ俺は神の方がちょっとばかし怖いだけだ。だからここにいるんだよ、ここの方がまだ安全だしな。それも、外出許可の出てる先生たちと閃助がヘマをしでかすまでの話だけど」
国定は得意の人を嘲るような笑い方を立てた。
外に出て午前七時の朝の青空を見上げる。朝日に目が眩んだ。夜の生活を続けていくうちに、太陽の日差しが日に日に痛く感じる。青空は好きだ。突き抜けるような水色の空を見上げながら通学するだけで心が躍ったものだ。日向ぼっこも好きで、どんなに暑い夏でも毎年体調のいい日は積極的に外出した。暑かろうと寒かろうと、太陽の光を浴びているだけで満ち足りた気分になり、失われた父と母の腕に抱かれているような心地よさがあった。もうすぐ梅雨が来る、爽涼な青空とは暫しお別れになるかもしれないと思うと、寂しい。
塾を出た先に、見慣れた人影が立っていた。香梨だった。
「香梨ちゃん」
名を呼ぶと、ガソリンスタンドの前に立っていた香梨がこちらを見た。制服姿のままだ。思わず、彼女のスカートに目がいってしまう自分が憎たらしかった。そんな閃助の内情など露知らず、彼女はこちらへ歩み寄りながら、物珍しそうに旋風塾の外観を眺める。
「案外しょぼいプレハブ小屋だね」
「聞き捨てならんな、しょぼいなどと」
何処で聞いていたのか、蒼矢が突如勢いよくドアを開けて出てくる。香梨は現れた蒼矢に「また会いましたね」と軽く会釈する。確か香梨は何度か旋風塾への入会を誘われていると言っていた。蒼矢とも顔見知りなのだ。
「用件があるなら、手短に頼む。十秒以内で三十文字以内にまとめろ」
「私は貴方ではなく閃助くんに用があるので帰ってもらって結構です」
「三十九字だぞ、明らかな字数オーバーだ! ふざけているのか!」
「文章に表せばきっかり三十文字ですが」
いちいち口うるさい蒼矢と張り合える、さすが香梨といったところか。
「香梨ちゃん、僕に用って何?」
「これから一緒に来てもらいたいところがあるんだけど、いい? 急ぎで」
「何処?」
「駅前の東口方面にある、キャロットって店あるの知ってる? 若者向けの洋服店」
知っている。主に女性用の服が評判の店だが、男性用の服やジーンズも豊富に揃っている店だ。都会向けの安いTシャツやカジュアルなデザインの服がメインで、値段も高校生が手出し出来ないほど高くない。五年前に一号店が出来たが、今や人気を誇りチェーン店として続々と全国に店舗を展開しているらしい。新緑町東口店のキャロットは店自体が大きく商品も多いため、この近辺に住む高校生なら大体が知っているはずだ。
「キャロットに行くの? 今から?」
「あそこの閉店時間は九時。だから今から行けば二時間見られるし、ちょうどいいでしょ」
「買い物に付き合ってもらいたいの?」
「違う」香梨はかぶりを振った。「貴方に関して、どうしても確かめたいことがある」
「僕に関して……?」
まったく意味がわからない。ファッションと自分に何か重要な結びつきがあるとは思えなかった。話を聞いていた蒼矢は怪訝そうにしており、「お前、何を企んでいる」と香梨に凄んだ。
香梨は暫し考え込んだが、やがて口を開いた。「顔見知りとはいえ、親しくない人に私から言っていいのかな」
「何を」
「昼休みのこと」
ぐっ、と閃助は息を詰まらせる。恐らく、香梨の制服をなめ回すように見てしまったのと、スカートが可愛いだのと不用意な発言をしてしまった件だろう。香梨は閃助の母がろくろく自宅にいないのを知っている。だから塾の講師に、閃助の問題行為を直訴しに来たのかもしれない。閃助は咄嗟に「夜中はごめん!」と香梨に頭を下げていた。
「私は別に謝罪してほしい訳じゃない。ただ、どうしても貴方の塾講師に、この話をしておきたいだけ」
「おい閃助、お前学校で何かやらかしたんじゃないだろうな」と蒼矢は閃助を睨む。「まあ、緊急事態なら致し方ない、俺の時間を割いて聞いてやるから話してみろ」
泉澄がせっかく彼女との関係を構築するためのアドバイスしてくれたのに。今や香梨の無表情が怖い。蒼矢が「早く話せ」と急き立ててくると余計に胸が圧迫される。
「やっぱり私が話そうか?」蒼矢の苛立ちを気にしてか、香梨は冷静に訊ねてきた。閃助は彼女の優しさに甘えてしまおうと思った。
「香梨ちゃん、ごめん、バトンタッチ……」
口にした途端、蒼矢の形相がますます険しくなった。何処かで受けたことのある視線だ。はっとした閃助は、自らの不甲斐なさを思い知った。悪気がなかったとはいえ、昼食時に不躾な行為をしたのは閃助の方だ。なのに、被害者である少女に事を語らせるなど――「男の風上にも置けないわね」誰の声かわからないが、そんな言葉が降って湧いてきた。母の言葉だろうか?
香梨は、閃助の億弱な態度には眉一つ動かさず、蒼矢に向き直った。「昼間、閃助くんと屋上でご飯食べたんですけど、そのときに随分と私の身体を見られた気がして」
閃助が顔面蒼白になる。「そんなつもりは……なかったんだ」
「――はん、閃助。お前は女に対しては無頓着かと思っていたが、とんだ勘違いだったようだ」
蒼矢は一度目を伏せ、そして開眼しながら怒鳴った。「戯けが! どうせ目の保養に選ぶならもっと豊満な身体つきのにしろ! お前はこいつで満足なのか? こいつの身体を見るのに一体何分時間をかけた?」漫画なら蒼矢の周りに集中線が入っていただろう。
「蒼矢先生、失礼です! 女性の前!」
「エロ談義なら女のいない場所でして下さい」何で男の人ってこういう話になるとみんな戦士の顔になるのかな、と香梨はぼそっと呟いた。
「ていうかあれは違うんです! 香梨ちゃんの身体を見てたとかじゃなくて」
「そう、閃助くんが見ていたのは私の寸胴体型じゃない」
香梨は己のスカートを軽く抓んで見せた。「私の服装、だよね。閃助くん」
「え?」
思わず素っ頓狂な声が上がってしまう。肯定も出来なければ、否定も出来なかった。場の空気は再びシリアスに戻った。
あのとき、自分は香梨の何を見て昂ぶってしまったのか? 頭を抱えて、よく思い出してみる。脳裏に焼きついているのは、確かに香梨の華奢な身体のラインそのものや、胸とか太ももなどの特定した肉体の箇所より、スカートや胸元のリボンなど制服の部分の方をかなり留意していたかもしれない。
「貴方は私のスカートやリボンを可愛いと言った。あと、太もも出せるのいいね、みたいなニュアンスの褒め言葉も」
血の気が失せるほど恥ずかしい。だが、その通りだ。
「確かに女子生徒の制服が可愛いと思ったのは本当だ……」
「おい閃助、お前まさか」いち早く勘付いたのは蒼矢だ。
香梨はしゃちこばった蒼矢を見る。混乱する閃助に、さらなる混乱を招く台詞を香梨は淡々と吐いた。
「寝不足でクマの酷いお兄さん。一気に規模の大きな話になりますが、閃助くんの秘密をここで明らかに出来れば――彼は神に対抗する最大の戦力になり得ると思います。まあ私はそんなの関係なく私は個人的に閃助くんの秘密を調べたいだけなので、わざわざ貴方の貴重な時間を犠牲にしたくなければ来なくてもいいでしょうけど」




